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今こそ中国論之六

 これは、2009年から2010年にかけて、インターネット市民新聞「JANJAN」に、ペンネーム青木岳陽として発表した文章です。


いまこそ中国論(18)台湾、多層社会を旅する(1)

 温暖な気候と穏やかな人々、日本語で昔を懐かしそうに語るお年寄りや、日本の流行文化が大好きな若者たち、台湾は日本人旅行者にとって不思議な懐かしさを感じさせる、親しみやすい場所で、アジアきっての親日国として知られています。

 

 その一方で、台湾は九州ほどの大きさでありながら、日本とは比べ物にならないほど多層・多文化の島でもあります。中国大陸、日本列島、アメリカの周縁に位置することで、常に移住者の波に洗われ、オランダ、鄭成功、清朝、日本、中華民国という外来征服者なのか、同胞なのかも曖昧な勢力に支配され、それらを融合してきました。

 

 フィリピン、マレーにつながる原住民が暮らし、清朝の圧制を逃れて台湾海峡を渡った福建系・客家系の漢族「本省人」が日本統治時代を過ごし、毛沢東の中国共産党に追われた中国国民党が「外省人」として戦後の台湾を支配しました。

 征服者による悲惨な弾圧もあり、周縁にあるがために理不尽な歴史を積み重ねてきた台湾を、李登輝元総統は司馬遼太郎との対談のなかで「台湾人の悲哀」と呼んでいます。

今回は、筆者の旅行体験のうちから、単なる「親日国家」だけでは括れない、台湾の多面性をご紹介したいと思います。

 

1.花蓮 小さな街の多言語世界

 台湾の東海岸に位置する中都市・花蓮は、世界有数の大理石の峡谷である太魯閣峡谷の玄関口として知られています。日本アルプスよりも高い台湾中央山脈が、そのまま海へ落ち込む急峻な地形に阻まれ、長らく道路や鉄道が通じない陸の孤島でした。花蓮県や台東県のある台湾東海岸には、今でも阿美族などの原住民が多く暮らしています。

 

 清朝末期、日本を開国させるためにやってきた米国のペリー提督は、台湾北部・鶏籠(現在の基隆)に上陸して炭鉱調査を行いましたが、南北戦争後、米国アモイ領事のル・ジャンドル少将も台湾東海岸に目をつけ、清朝が事実上放置していることから、米国政府に台湾侵攻と領有を建言しました。国内の戦後処理に忙しい米国が領有をためらうと、ル・ジャンドル少将はお雇い外国人として招かれた日本政府に台湾の重要性を説き、明治7年(1871)の台湾征伐には外交顧問として、外征指南や清朝政府との交渉に当たりました。

 必死に帝国主義列強の後を追った明治の大日本帝国が、伝統的な日本領域から対外進出を始めた第一歩、日清戦争の勝利で清朝から得た海外植民地・台湾の領有は、ル・ジャンドルの進言に始まります。

 

 筆者が台湾を訪ねたのは、2001年の911同時多発テロ直後でした。

 花蓮の空港、厳重に警戒された国内線のタラップを降りると、台北とは空気が違うことに気づきます。空気が新鮮で濃いのです。照りつける南国の太陽も、目の前にそびえる中央山脈も、椰子の並木も、緑が濃くて鮮やかな原色で見えます。

 まぶしそうに紺碧の空を見上げると、耳をつんざく轟音とともにF16が飛び去っていきました。飛行場の対面には銀色の戦闘機群と、草山に偽装された掩蔽壕が続きます。タクシーに乗り、ホテル名を告げる声を遮るようにF16編隊が低空で飛来します。

「空軍もアフガン問題で緊張しているの?」

運転手に聞くと

「アフガンは関係ない。問題なのは中国だ」

東海岸ののどかな都市、花蓮にさえ中台の緊張が見え隠れしていたとは。

 

 ホテルで太魯閣峡谷観光のタクシーをチャーターしたら、運転手さんは康さんという日本語世代の方でした。太魯閣の浸食された谷間には無数の滝が落ち、白く光る大理石の岩壁が迫ります。黒部峡谷よりスケールが大きいでしょう。

 何より驚くのは、険しい峡谷に自動車道路を開拓し、3000m近い峠を越えて台湾の東西を結んだ人の力です。中国大陸を逃れて台湾にやってきた国民党軍兵士たちの雇用対策として行われた東西横貫公路の難工事は、多数の犠牲者を出して完成しました。

兵士たちの慰霊廟が峡谷の入り口近くにあります。

 

 帰りの車中、康さんにお話を伺いました。小学校まで日本語教育を受けた世代、戦争中は米軍の空襲が激しく、竹林に防空壕を掘って生活したといいます。戦後、台湾の中国復帰で国語が北京語になると勉強をやり直さなければなりませんでした。でも、康家は鄭成功か清朝時代に福建省から移民した漢族の子孫、生活の言葉は昔から台湾語(福建省南部のミンナン語と同じ)なのです。

 

 台湾で「国語」と呼ばれる北京語と、「本省人」と呼ばれる台湾漢族でも多数派の河洛人が話す方言の台湾語は全く違い、お互い外国語のようだといいます。また、本省人でも西海岸の新竹県や屏東県には客家語を話す客家人が住み、彼らは中国大陸各地や世界中に分散して「アジアのユダヤ人」と呼ばれています。台湾のこの世代の人たちはバイリンガルならぬトリリンガルなのです。

 

 車窓には草山に林立する白い十字架が見えます。花蓮の原住民、阿美族の墓地です。花蓮の市街には仏教寺院や大きな仏教大学がありましたが、かつて、宣教師が医療や教育をもたらしたことから、原住民にはキリスト教徒が多いといいます。ホテルのフロント、漢族顔のマネージャー以外は東南アジア系の従業員でした。彼らが阿美族なのでしょう。台湾の原住民十族のうち最大人口を持つのが阿美族です。花蓮は原住民の多い町なのです。

 小さな島である台湾の、更に小さな花蓮に何層にも重なって存在する多言語世界。台湾で育った人たちの言語感覚は一体どうなっているのでしょう。興味をそそられます。

 

2.中村輝夫を知っていますか

 台湾の原住民出身の旧日本軍兵士で、中村輝夫という方がありました。太平洋戦争中、日本軍は、南方のジャングル戦に詳しい台湾原住民を募集し、高砂義勇隊を組織します。中村氏も兵士となってインドネシア・モロタイ島に赴きましたが、1945年の敗戦を知らず、そのまま30年間ものジャングル生活を続けました。

 

 旧日本兵として発見、保護され、故郷の台湾へ戻ったのは1974年でした。台湾は中華民国になり、彼も蒋介石総統から李光輝という中国名をもらいます。しかし、彼の本名は中村輝夫でも、李光輝でもなく、原住民の名前スニヨンなのでした。

戦後、夫が戦地から戻らなかったので、彼の奥さんは再婚し、再婚相手との子どもには、彼から見て孫までありました。しかし、再婚の夫は身を引いて、彼は山の集落で再び奥さんと静かに生活したといいます。

 

 ジャングル戦で勇猛な日本兵として活躍した原住民ですが、日清戦争後に日本軍が台湾に進駐すると、平地に暮らす漢族の「台湾民主国」などの抗日組織が壊滅した後々まで、山地を舞台に日本軍の支配に抵抗しました。日本軍は帰順した原住民を使って対立部族の首狩りをさせるなど、「原住民を使って原住民を制する」方法を取りました。

 台湾総督府は原住民が暮らす山地を「蕃地」として平地から隔離し、警察官が行政を仕切るエリアとして管理(理蕃政策)しましたが、1930年、模範的な原住民集落とみられた南投県霧社で、タイヤル族による抗日蜂起「霧社事件」が発生し、日本人140人が殺害されました。日本軍は、飛行機や催涙ガスなどを動員した鎮圧作戦を行い、タイヤル族700人余りが死亡しました。

 

 台湾総督府は差別的な理蕃政策を改めるとともに、積極的な皇民化政策により原住民を取り込んでいきます。天皇に忠誠を尽くした原住民は、日本人と同じ顕彰を受けたため、前記の中村輝夫ことスニヨンのように、日本軍の高砂義勇隊に志願して太平洋戦争の南方戦線に送られた原住民が数多くありました。

 一方、戦後に故郷へ復員すると、中華民国政府から敵軍協力者と呼ばれて冷たい扱いを受け、元日本兵として苦しい人生を送った人も少なくありません。

 

3.高雄 穏やかな台湾人

 台湾の人には「寧静」というイメージがあります。

 台湾第二の都市・高雄の郊外に蓮池潭風景区があります。観光地として有名な湖ですが、ここは神様のテーマパークとして人気なのです。湖畔には大小の仏教、道教の寺廟から孔子廟まであらゆる神様が軒を連ね、中には湖まで突きだして、七重塔や龍や巨大な神像がいくつも造られています。

 寺廟はいかにも中華風な派手さで参拝客を集め、大きな神木の下には露店の茶芸館が出て老人たちの憩いの場になっています。日本人が聖地と聞いて考える厳かさはありませんが、霊験あらたかにしてあやしくて濃い、キッチュな雰囲気に満ちています。

 

 湖畔を巡る途中、筆者はベンチで休憩しました。隣には90を越えた白髭のお爺さんが行儀良くちょこんと座り、おじさんが熱心に写真を撮っています。立派なカメラからするとプロのようです。興味深そうに見ている筆者に、カメラマンは土地の言葉で話しかけてきました。

 筆者が北京語で「分からない」と言うと、お爺さんの写真を取り出して見せながら北京語で話し直します。おじさんが言い直した北京語だって半分も分からないですが、どうやら外国人と気づかないようです。いや、もしかしたらどうでもいいのかも。

 

 それはいい写真でした。淡い光の中で緑を背景にほほ笑むお爺さんの姿。筆者はきっとお爺さんの遺影を撮っているのだと思いました。「きれいな写真ですね。本当にきれい」と言うと、お爺さんとカメラマンはうれしそうに頷きます。神様の湖は台湾の人の心の拠り所なのでしょう。

 

 高雄に限らず台湾では道を探すのに苦労しません。誰に聞いても親切に教えてくれる上に、バス停を一緒に探してくれる人、バスの行き先を知っている通行人を探して連れてきてくれる人までいます。恐縮すると「何でもない」と笑顔が返ってきます。市バスでも学生や若い人がごく自然に老人に席を譲っている姿がありました。人々のゆとりか、国民性か、教育なのでしょうか。

 

 台湾最大級の夜市である六合夜市。台北と違って道路が広いせいか、たくさんの人であふれていても、南国らしく人も街もどこかゆったりした雰囲気が漂います。今度は筆者が人に道を聞かれました。親切にしたいけど、

「対不起、外地人なので分かりません」

お互い笑って別れましたが、台湾では親切を受けるのも自然な習慣なのかなあ。

 

 

いまこそ中国論(19)台湾、多層社会を旅する(2)


4.台北 展望台から歴史を眺める

 台湾をぐるりと回って台北に戻ってきました。

 2004年に101階建509mの完成当時としては世界一高い高層ビル「台北101」がオープンしましたが、筆者が訪ねたときには、台北駅前にある新光摩天楼が台北唯一の高層ビルでした。

 

 市中心部にそびえるだけに、新光摩天楼からの眺めはみごと。すぐ目の下には、首都の玄関にふさわしい巨大な台北駅があり、駅をとりまくように車の列が続いて行きます。この島には、小さな国土とは釣り合いがとれないようなスケールの大きな建造物が多く見られます。

 台湾の基本的な形は日本統治時代に形成され、地方の古い駅舎や官公庁の洋風建築など、今では生きた文化財にまでなっていますが、巨大建造物はといえば、大陸から逃れてきた蒋介石の国民党政権が、中国と対立しながら意地になって造り上げたものでしょう。中華文明を代表する、という威信を建築にかけた訳です。

 

 北方面にひときわ目立つのは、国民党が威信をかけて作った、きんきらの中国宮殿ホテル圓山大飯店。夜は屋根全体が電飾で光ります。あのあたりはもう市のはずれになりますが、距離を無視した存在感はさすがです。

 

 南方向は官庁街の無機的なビルの眺め。東京駅にも似た赤煉瓦造りの総統府の尖塔から、中華風の楼閣が建つ東門をはさんで威圧的な雰囲気の国民党本部ビルまで、まっすぐに旧介寿路(蒋介石の長寿を祝うの意味)が伸びています。

 その向こうにはあきれるほど広大な敷地を持つ中正紀念堂の巨大な建造物。かつて、大陸を追われた蒋介石、経国父子が強権を振るった国民政府時代、このあたりは台湾の本省人にとってどんなに抑圧的な場所だったのでしょう。

 

 民進党の陳水扁総統が誕生すると、介寿路は台湾原住民の名を取って凱達格蘭大道に改名されました。南の足元に広がる二二八和平公園も、中国復帰直後に起こった国民党による台湾人弾圧事件を忘れないための名前です。

 

 1945年、祖国に復帰した台湾にやってきた中華民国を、多くの人たちが熱狂して迎えました。しかし、ぼろぼろの軍装で上陸した祖国の軍隊を見て不審を抱きます。国民党官僚とその軍隊は、中国大陸でやっていた通り粗野に振る舞い、治安の悪化や行政腐敗が台湾省の人間「本省人」の反発を招きました。

 1947年2月28日、国民党官憲の暴力に抗議した本省人が蜂起すると、台湾行政長官の陳儀は蒋介石に援軍を求め、本省人には対話の姿勢を見せつつ時間稼ぎを行って、大陸から国民政府軍が到着すると、徹底的な武力弾圧を加えて2万8千人の市民を虐殺しました。1949年に蒋介石の国民政府が台北に移転した後は、40年に渡って戒厳令が敷かれ、二二八事件は口外するのもタブーとされました。

 

 国民政府は、日本人から「二級市民」だと差別されてきた台湾の本省人を、同じく日本統治下にいた「二級の中国人」として差別し、国民大会や立法院の議員を大陸で選出されたまま改選されない「万年国会」とし、基幹産業を国営企業や国民党企業で独占して、政治や産業から排除します。

 本省人は国営化から外れた軽工業から身を起こして、コンピュータ産業などで台湾輸出産業の基礎を築き、本省人に開放されていた地方議会選挙を通じて国民党を追い詰めました。その結果が、1988年の台湾民主化と李登輝政権の誕生でした。

 

台湾人が概ね「親日的」とされるのも、「犬が去って、豚が来た」(日本人はうるさいが役には立った、大陸人は食って寝ているだけ)という外省人への反発から、相対的に日本を立てているのだ、という指摘があります。日本人は台湾人の歓待に喜ぶだけでなく、もっと謙虚に、この島の苦難の歴史を感じることが必要かもしれません。

 

 さて、台北駅の「捷運」MRT駅に隣接した地下街から散歩を始めます。台北地下街は、新しいアジアの都市らしく整備されていて明るく快適です。書店、薬局、カフェ、さまざまな店が並び、捷運ギャラリーと名付けられた美術作品の展示もあちこちで行われています。地上に出るとヒルトンホテル、豪華な玄関先に掲げられた「防空壕」の文字や、防空警報の表示が、台湾が準戦時体制にあることを思い出させます。

 

 この裏に、○○博士補習班、英・数学集中補習、といった看板の群がひときわ目を引く通りが伸びています。台湾の予備校集中エリア、南陽街です。壁やガラスを埋め尽くして台湾大学物理系某君、といった合格者の名前が張り出され、街を行く若者(予備校生?)の顔つきも真剣です。活気はありますが、ちょっと大変そうです。

 

 台北駅南かいわいは、清朝時代の台北城内にあたります。(城壁に囲まれた都市だった)その時代の名残なのか、通りごとに同じ業種の専門店が集中しています。予備校街の西には、電機街、カメラ街、そのひとつ、総統府へ続く重慶南路は書店街です。大小さまざまな書店が軒を連ね、美術書、地図、古典などの専門書店や文房具店、印章店、書道用の紙や墨、筆を扱う商店も多く見られます。どの書店にも熱心に本を読む客の姿があり、台湾の文化度の高さが伺えます。

 

 二二八和平公園から、八車線道路の凱達格蘭大道に出て、西にそびえるのは、赤煉瓦のルネッサンス洋式建築、中華民国総統府。青い屋根瓦、白い窓枠、赤い壁面に椰子並木が映えます。総統府前の広い広場には兵士が警備に立ち、政治の中枢にある緊張感を感じさせます。

東京駅に似た外観は、日本統治時代に総督府として造られたからでしょう。中央には60mの尖塔が目立つ美しい建築も、日本統治時代、国民政府時代、と台湾の人たちの上にそびえる外来者支配の象徴だったのです。

 

5.中正紀念堂 中華民国とは何か

 台北へ来るたびに見ていますが、中正紀念堂の衛兵交代式をまた見たいと思いました。中正紀念堂は朝9時に開門するので、時間に合わせて脇門へ急ぎます。紀念堂の階段を駆け上がると、警備の兵士と軍の帽子を被ったお爺さんたちが三々五々立っているだけ。他に観光客はいません。蒋介石像を収めた紀念堂の巨大な入り口も、頑丈な鉄扉に閉ざされています。

「見学に来たのか?」

兵士に言われ、そうです、と答えると「下がってなさい」と一言。

 

 すると、9時の時報とともに、スピーカーから中華民国の国歌が流れ出しました。警備の兵士はもちろん、お爺さんたちも脱帽して直立不動の姿勢、広場の市民たちも微動だにしません。高く掲げられた青天白日満地紅旗が風にはためくのを見ながら、筆者も直立不動のまま国歌を聴きました。

 

 その間に鉄扉が静かに開いてゆき、堂内には行進、整列する衛兵儀式が行われています。国歌が終わり、街の騒音が聞こえてきました。お爺さんは帽子を被り直し、蒋介石像に敬礼して去っていきます。きっと国民党軍の兵士として大陸から渡ってきた外省人でしょう。どんな思いで紀念堂にやってくるでしょうか。

 かつて蒋介石が叫ぶ大陸反攻のスローガンに帰郷の望みを託し、国民党の強固な支持基盤であった彼らも、決して恵まれた支配階層ではありませんでした。老兵たちは家族を大陸に残して生き別れ、台湾で孤独な老後を過ごしている人が多いと聞きます。

 

 中正紀念堂は蒋介石の偉業を讃える巨大なモニュメントですが、抗日戦争があったとはいえ国民政府は政治を誤ったとしか思えず、民心を失って共産党に台湾へ追われた後は、台湾人を抑圧して強権政治を敷いてきた人物です。

 ホールを下に降りると、蒋介石の生涯を伝える展示室があり、再現された執務室や公用車、世界各国から贈られた記念品などが展示されています。しかし、写真や油絵、パネルで示された蒋介石の功績、国民革命の歴史は、当然というか、都合の悪いことは何も展示されていません。

 

 蒋介石が、国民党「党国体制」という擬似共産国家の独裁体制を敷いたことも、毛沢東に破れて台湾へ逃げ込んだことも、40年近くも続いた戒厳令と白色テロで本省人を抑圧してきたことも、ここでは無視されているようです。それは、形は違えども、大陸の各地にある共産党を讃えた革命博物館とよく似た雰囲気なのが印象的でした。

 

 広場では兵士の一団が軍楽隊の演奏のもとで軍事パレードの練習を繰り返していました。台湾、いや中華民国の国慶節は10月10日、1911年の辛亥革命で清朝が倒れた日です。暦も同年を民国元年とする民国暦で、だから2001年は民国90年。新聞の日付も食品の賞味期限も皆90年なのです。

 

 彼らは国慶節の軍事パレード練習のために、この広場に集合したのでしょう。突然の雷とともに大粒の雨が降り出しました。行進の練習は一時中断されて、兵士たちが国立戯劇院の庇の下に駆けてきます。

 筆者も見物の市民も、兵士たちと同じスペースで雨宿りです。近くで見る兵士の腕には中華民国陸軍儀仗隊のマークが誇らしげで、晴れの舞台に選ばれるだけあって、背も揃って高く、体格も立派です。いかつい表情は訓練の厳しさを伺わせます。戯劇院の広い庇の下では軍楽隊の演奏が始まり、銃を使ったバトン練習が再開されました。

 

 小雨になった広場を大門に向かって歩き出します。戯劇院の1階にあるスペースでは兵士たちがふざけあっていました。顔つきもあどけなく、バトントワリングする銃の回し方もぎこちないから新兵なのでしょう。彼らもいつか軍事パレードに出るようなエリートになるのでしょうか。

 

 中国との統一、台湾としての独立の間で揺れる台湾。平和な光景の影に中国との緊張も垣間見られる島、台湾。徴兵制のある台湾で、若い兵士たちは何を考えているのでしょう。

 

6.故宮博物院 正統性の拠りどころ

 台北観光名所の輝く第一位は何といっても故宮博物院。その広さといい、収蔵品といい、歴史といい、世界三大博物館に数えられているのも頷けます。中国4千年の歴史文物が詰まった博物館を、じっくり見ようとすれば1日では足りないし、展示品に圧倒されて疲れてしまいます。

 

 ここには、閑にあかせて造らせたとしか思えない、職人技術の限界に挑戦した作品がこれでもか、という量と細工の細かさで迫ってきます。豆粒ほどの石が彫刻されて、中に人や山水が造られているものや、ヒスイを彫って作った白菜や豚の角煮などなど。まあ、感心はするけれど、湯水のように金をつぎ込む意外に何の意味があったのでしょう。

 

 筆者は何度か訪れるたびに、目は細かい細工を見つめすぎて疲れ、油濃くボリュームのある中華料理にやられたように心もぐったりしてしまいます。きっと、筆者の庶民的な感覚では、あれを全部見て「眼福、眼福」と言う素質がないのでしょう。消化不良を起こしてしまうらしいのです。筆者には皇帝や貴族のような手間のかかる生活はできません。

 

 故宮博物院の文物は、もともと清朝皇帝の私物です。辛亥革命後もしばらく北京の紫禁城は皇族たちの生活の場でしたが、中華民国政府によって接収されてからは、故宮(主のいない宮殿)として博物館化されました。日中戦争が拡大すると、政府は故宮からの芸術品の疎開を決定、重要な文物は中国奥地に分散して隠されます。戦後、集積された品々は、再び内戦の激化に伴って流転の運命を辿ります。

 

 蒋介石は、国民政府の中国支配の正統性を示す証拠として、芸術品の台湾移送を決行。避難を求める人々より芸術品を優先して軍艦で台湾へ運び込みました。李登輝総統の代になって、台北政権は中国を代表している、という虚構を捨てましたが、かつて故宮博物院の芸術品が中華民国の拠り所だった時代があったのです。

 

 故宮博物院の近くに、中華民国の国民革命忠烈祠が鎮座しています。

ここは1911年の辛亥革命以降、国民革命、日中戦争、中国共産党との内戦で亡くなった兵士を祀る国立の廟所で、近代中国の戦争が打ち続いた歴史を象徴する場所です。いまでも衛兵が守りを固め、蒸し暑さの中にも張り詰めた緊張感が漂っています。

故宮博物院と併せて見学すると、激動の中国史、台湾史を感じることができます。

 

7.淡水 スペインとオランダに翻弄された黎明期

 淡水は台北の北郊外にある古い港町。台湾のベニスともいわれる雰囲気のよい場所です。

 台北の中心から「捷運」MRTに乗ります。市の北部で地上に出た電車は、中華風の宮殿のようなきんきらの圓山ホテルを仰ぎ見て郊外へ走ります。ごちゃごちゃした街並みが、やがて丘の上に建ち並ぶ高級マンション群に変わり、一面の緑の山並みと淡水河に広がるマングローブ林の眺めになるころ、終点の淡水駅に到着します。

 淡水駅は赤煉瓦造りの洋館をイメージしたきれいな建物。この街の名所が紅毛城という、スペインが築いたヨーロッパ風の城郭であるため、駅もヨーロッパ風を意識しています。このあたりも観光の街らしさが伺われます。

 

 さて、その紅毛城。港町らしくアップダウンの激しい街並みをタクシーで行くと、町はずれの丘の上に建つ赤い城が見えてきました。坂道の下で車を降り、入場券を買って山を登ります。むんむんと蒸し暑い中、太陽に照らされながら坂道を行くのは、ちょっと骨が折れますが、苦労は丘からの眺望で吹き飛んでしまうでしょう。

 目の下に、川幅いっぱいに滔々と流れる淡水河。その先には広がるのは台湾海峡です。河をはさんで尖った観音山がそびえ、その麓とこちらを行き来するフェリーがゆっくり進んでいきます。

 海から吹き付ける風に一瞬引いた汗が、紅毛城内に入るとまた吹き出してきます。16世紀の古い城だけに、冷房なんてついていません。狭くて暗い牢屋など目にすると、ああ、こんな所に入れられたくないなあ、としみじみ思ってしまいます。

 

 台湾は、かつて熱帯伝染病の恐れから中国王朝の支配が及ばず、原住民だけが住んでいた島。16世紀、ここを植民地にしようと進出したスペインが、島の入り口にあたる淡水河の河口に目を付けて拠点を置きました。同じ頃、台南に進出していたオランダが台湾の支配権を奪い取り、オランダも明朝家臣の鄭成功に破れて台湾を去って行きます。こうして、台湾への漢民族移住が本格的に始まるのです。

 

 紅毛城の隣にもヨーロッパ風の建築物が並んでいます。こちらは旧英国領事館だった建物。今でこそひなびた漁港ですが、淡水河が土砂の堆積で浅くなり基隆に主役の座を奪われるまでは、台湾の玄関として列強諸国が争奪戦を繰り返し、対外貿易で繁栄した港だったのです。

 

 紅毛城、旧英国領事館、キリスト教会の尖塔がそびえるカトリックの淡江大学が集まる丘は、淡水きっての景勝地。暑い中でも、結婚写真の野外撮影がそこら中で行われています。撮影のたびにポーズを変え、メイクを直し、大変そうだが気合いが入っています。これも現代の台湾らしい光景でしょう。

 

8.九分 日本統治時代の街並み

 九分(分はイに分)は台北郊外の観光地として人気の場所です。

 台湾北部の港湾都市・基隆郊外の山の上に、日本統治時代に開発された金鉱山の街が往時の姿のまま残されています。九分とは、「九世帯の村」という意味のようですが、日本統治時代に金鉱が発見されると、ゴールドラッシュが起きて、小上海と呼ばれるまでに発展しました。

 ところが、戦後、金鉱脈の枯渇によって人々から忘れられた存在になり、その後、台湾の終戦直後から国民政府移転までの動乱、国民政府によって語ることもタブーとされた台湾人への弾圧事件「二二八事件」を描いた映画「非情城市」の舞台になったことで、再び観光地として脚光を浴びたのです。

 

 一面の草山の斜面に、長い階段、堅崎路が伸びています。九分の街はこの階段に沿って斜面に広がり、車の入る道は、水平状に造られて階段と交差しています。日本統治時代の建築ながら、当時はモダンであっただろう赤や緑に色塗られた洋館、中国趣味を取り入れた酒楼や茶芸館が建ち並び、中国情緒とも、日本情緒ともまた異なる不思議な味わいのある街が印象的です。

 

 階段の上から海を眺めれば、足元には台湾北部の入り組んだ海岸線が続き、遠くに基隆港の港湾クレーンがかすみます。はるかに東シナ海が丸みを帯びて広がっています。ふだんは台北近郊きっての観光地として、すれちがうのも難しいほど混み合うところです。

 

 今日の観光客は筆者以外には誰もいませんでした。たくさん並んだ土産店や茶芸館も半分は閉まり、残りも開店休業。静まりきった街には、映画にも出てきた非情城市の茶芸館のベランダで寝そべる猫の姿しかありません。

 まるで映画「千と千尋の神隠し」の街のようだ、と思いましたが、きっと、いつもの賑わいの中では、かつての繁栄はしのべても、「千と千尋の・・・」の不思議な感覚は思い至らなかったでしょう。人のいない九分から海を眺める。なかなか貴重な機会でした。





 
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