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今こそ中国論之一

 これは、2009年から2010年にかけて、インターネット市民新聞「JANJAN」に、ペンネーム青木岳陽として発表した文章です。


いまこそ中国論(1)はじめに

 

 アメリカ、ヨーロッパ、そして日本と、世界を覆うグローバル不況のなかで、ひとり気を吐く中国経済の好調さを前に、このJANJANにおける対中国観も両極分解しつつあると感じます。

 一方では、共産党独裁体制下の少数民族問題や国内経済格差による社会のひずみなど、常に「危うさ」を指摘されつつも、磐石さを誇る中国の政治、経済の安定感を見て、少し前の米英ネオコンによる「自由と民主主義の押し売り」に反発を感じていた人たちには、強力な統制下にあっても経済的繁栄を続ける「中国モデル」をもてはやし、我が国領海への強引な割り込みや、アフリカ諸国への人道や人命を軽視してまでの資源外交、武器輸出に目をつぶってでも中国に媚びて経済的利益を得られればそれでよし、とする見方があるかと思えば、他方で世界における中国の復権をかつての朝貢・冊封体制に重ねて、東アジア共同体議論やアセアンとのFTA締結を中国による世界覇権への強烈な国家意思と見て、警鐘を鳴らす人もいます。

  
 そして現代の中国自身にアヘン戦争以来の屈辱の歴史は近代中国が欧米型の「国民国家」を持たなかったことが原因であるとの想いが強いために、グローバル経済化したアジアの国際関係において内政干渉や主権侵害に対して非常にナーバスになる一方で、なにかと「国家」を過度に前面に押し出し、無用の摩擦と警戒感を生む傾向があります。

 
 しかし、欧州市民革命により誕生した国民国家というシステムは、確かに植民地獲得戦争に国力を動員し、ナショナリズムを昂揚して戦争の世紀を作りましたが、現代の世界においては、国の役割は戦争よりも国民福祉の面に大きく傾いていますし、何より市民革命が生んだ人類普遍の価値である「自由・平等・民主主義」による、個々の人間の権利と福祉の実現について中国政府がどこまで理解できているか疑問です。

 
 昨年、我が国は政権交代しましたが、鳩山民主党政権が掲げる「東アジア友愛外交」の行方は未だはっきり見えてきません。こんな過渡期だからこそ、民間レベルの意見交換ができるメディア・JANJANにおいて活発な中国論・アジア論を期待していますが、先日のリニューアル以降は「ご意見欄」を開放する論者が少なくなって残念に思っていました。そこで、中国に対する単なる諸手を挙げての賛美や感情的反発に終わらない、歴史的背景を踏まえたクレバーな議論ができる場として、中国論を何回か投稿したいと思います。ただし、筆者の独断と偏見で論じておりますので、予めご了承ください。

 

 

いまこそ中国論(2)「豊かな中国の復権」


前述したアヘン戦争以来、20世紀半ばまで一世紀にわたって欧米日列強に蹂躙され続けた近代中国の屈辱の歴史というイメージ、改革開放までの貧しい人民服の中国イメージが強いせいか、19世紀前半の世界経済において、GDPの世界総計に占める中国(清朝)の割合が約28%(ちなみに英領インドは約16%、同時期の覇権国たる英国のGDPはわずか約5%)もあったと聞くと意外な感じがします。現在の覇権国米国が世界経済に占めているGDPの割合が約20%であることを考えれば、実に19世紀における中国は現在の米国以上の経済超大国でした。

 今になって、我が国が米国に次ぐ世界第2位の経済大国の地位を中国に奪われると、悲愴な面持ちで語る人がありますが、現在の中国の経済発展は列強の侵略、内戦と対外戦争、さらに文化大革命期の誤った経済政策によって失われた中国本来の豊かさと実力を取り戻す過程なのでしょう。そうした意味において、中国やインドの復権は、かつて帝国主義や共産主義下で辛酸を舐めた時代を克服したものとして喜ぶべきものであり、世界に向かって巨大市場が開かれることは、我が国にとって歓迎すべきことです。「中国は豊かだった」という事実を知らずに中国経済の将来を予測することはできません。

 「清国の富強、日本の貧乏」とは、日清戦争まで議論の余地がない事実でした。その証拠に、明治4年(1871)の日清修好条規から、同18年(1885)の日清両国を朝鮮の共同宗主国とした天津条約まで、日清両国間の国際条約は漢文を用いており、条約の内容は平等であっても、日本側にとっては不利な条件であったといえます。事実、日清戦争直前には、条文の解釈を巡って両国で異論が生じました。

 当時のアジアにおいて、最新鋭の鋼鉄艦を2隻も有していたのは清朝海軍のほかになく、翌年(1886)日本を威圧しようと同艦隊が長崎を訪問した際に起きた清国水兵乱闘事件では、日本側が腫れ物に触るような対応を取ったことを考えても、中国に対する我が国政府・国民の見方が現在と全く異なっていたことが分かります。

 同事件をきっかけとして、日本政府、国民に清朝との対決が不可避であるとの認識が高まった結果、日本は窮乏財政の中で血の滲むような建艦運動を行い、軍拡を進めます。明治27年(1894)の日清戦争について、日清両国の軍事力がほぼ同等に達したのを図って日本から意図的な開戦を仕掛けたのだ、と陸奥宗光が記しています。

 清朝側はといえば、西太后が海軍費用をイ和園造営に流用してしまい、百年の悔いを残すことになります。清朝の失敗は基本的国力や軍事力の弱さではなく、政府の無能や、外交力のなさ、近代国家、軍隊の運営の不慣れに起因するものでした。清朝が弱小日本に負け、見るべき軍事力も財政力もなくなったとき、欧米帝国主義列強は好機を逃さず中国に群がって、わずか数年のうちに中国分割を行い、大帝国から半植民地に転落させました。

 一方、清朝が日清戦争で敗戦し、それに続く1898年「戊戌変法」が西太后のクーデターで失敗した後でさえ、短期間に1万人を超える清国留学生が日本に学び、中国革命運動の拠点としましたが、それだけの私費留学生が来日できる民間の経済力がまだ中国にあったともいえます。当時の日本では考えられない豊かさです。

 現在の我が国では、こうした「豊かな中国」像はイメージしにくいものです。それは、日本人にとって歴史上長らく文化的な豊かさに憧れ、一方で畏怖してきた中国が、日清戦争から日中戦争までの日本一人勝ちの時代に「遅れたアジア」として蔑視する存在になり、戦後も我が国が先んじて経済成長を遂げたために、その見方がなかなか変わらず、また、変えたくもないという「日本至上主義」的な観念があるからでしょうか?

 勿論そういう方もあるでしょうが、筆者はJANJAN論壇にもまま見られる「絶対善である貧しいアジア・被害者のアジア」に同情して、「絶対悪である日本」を討つ正義の味方の私・・・といった、いわゆる「進歩的知識人型」の歴史観にも問題があると思います。筆者が影響を受けた高校時代の世界史や、現在も親交がある左翼詩人の方がそうですが、視点を「かわいそうなアジア」に固定するあまり現代中国やアジアが見えない、最初に述べた中国の民族問題や社会問題を前にして思考停止することになりかねません。

 1945年の敗戦、そして現在に至るまでの歴史の徹底検証を欠いた「かわいそうなアジア」への感情的な思い入れは、経済的に日本が抜きん出ていた時代の日本至上主義の裏返し、一種の優越感にも感じられるため、筆者は同意できません。




 
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