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今こそ中国論之四

 これは、2009年から2010年にかけて、インターネット市民新聞「JANJAN」に、ペンネーム青木岳陽として発表した文章です。


いまこそ中国論(10)朝鮮半島1945〜1950(1)

1.はじめに

 今年は日韓併合100年ですが、朝鮮戦争60年という節目の年でもあります。日本帝国主義の植民地支配を35年もの間忍び、ようやく解放されたと思いきや米ソの冷戦に巻き込まれて南北に分断され、冷戦がとっくに終わった現在も対立を続ける。地政学的に微妙な位置にあるとはいえ、韓国と北朝鮮はなんて重い運命を背負わされるのでしょう。

 

 しかし、筆者は先日来、朝鮮半島のことを調べていて、ふと、朝鮮半島の分断は必然ではなかったのではないか、と思うようになりました。逃れられない運命のように語られる東西冷戦にしても、当初は米ソ両国とも朝鮮半島を闘争の場にすることに消極的で、朝鮮国内には左右両派を超えて信頼される指導者もいました。ことによれば、南北は分断されず、日本との間にも「竹島・独島」問題や在日韓国・朝鮮人問題さえ起きず、平和的な関係が築かれる可能性があったのです。

 

 しかし、米国から帰国した李承晩と、ソ連から帰国した金日成という特異な性格の2人の指導者が、何度となく試みられた左右・南北勢力の合作をつぶします。1950年の朝鮮戦争直前まで南北協商は多くの人々によって模索されており、両巨頭が朝鮮民族のために腹を割って話し合い、明治維新の勝海舟と西郷隆盛のように、立場を捨てて統一を維持していれば、あるいは国家分裂がきわどく避けられたかもしれません。

 

 問題は、李承晩も金日成も、独立活動を海外に頼ってきたので、バックにある米ソ両国の意向に沿わないと権力を維持できない傀儡構造だったことでしょう。

こうして、李承晩と金日成が繰り広げる権力闘争と、東西冷戦下の米ソ覇権争いがシンクロし、さらには米ソ両国の思惑を超えて暴走を始めます。米国は好戦的すぎる李承晩を疎んじ、ソ連は開戦にはやる金日成を諌めますが、結局、朝鮮戦争を契機に南北対立は泥沼化してしまいました。

あまり触れられることのない朝鮮戦争直前の朝鮮半島を振り返りたいと思います。

 

2.呂運亨と朝鮮建国準備会

 1945年8月10日、本国からポツダム宣言受諾の通報が京城(ソウル)の朝鮮総督府にもたらされます。前日には北端の朝ソ国境を破ってソ連軍が朝鮮半島北部に侵攻中であり、朝鮮半島全体がソ連軍の手に落ちる日も近いと思われました。

そこで、朝鮮総督府政務総監・遠藤柳作はソ連軍による占領よりも早く、ポツダム宣言で独立回復が約束されている朝鮮人に主権を渡そうと考えました。遠藤は独立派の重鎮であった呂運亨と会談して、朝鮮在住日本人の安全を朝鮮建国準備会(建準)に託します。

 

 社会主義者として知られた呂運亨は1919年の三一独立運動をきっかけに上海の大韓民国臨時政府に参加、1930年に日本当局により逮捕、投獄されたのちは、朝鮮中央日報社長を務めながら密かに朝鮮建国準備会を組織しており、左右両派から信頼の厚い人物でした。

日本人に対しても、終戦直前に「日韓相扶け、相和する天機」だと語り、朝鮮独立のために戦後日本との提携が必要だと考えていました。

 

 総督府の要請に対し、呂運亨は政治犯の釈放や、朝鮮人の独立活動への不干渉を条件に受け入れます。「光復」の8月15日に発足した建準はスムーズに権力委譲を受け、建国青年治安隊を発足させました。建準は朝鮮人の広範な支持を受け、治安維持の呼びかけにも応じたので、終戦直後の南朝鮮では、日本人に対する危害は十数件にすぎませんでした。

 

 一方、日本の植民地支配の間に、朝鮮国内の保守派は日本側に取り込まれ、社会主義者など左派は徹底的な弾圧を受けたので、1万6千人もの政治犯の釈放を受けて発足した建準は必然的に左派中心の組織になりました。これに反発する右派や親日派は、南朝鮮に上陸する米軍に期待することになります。

 

3.連合国の思惑と海外独立勢力

 一方、連合国は日本の戦後処理についての構想は練っていましたが、朝鮮半島については何も決まっていませんでした。中華民国は朝鮮の即時独立を主張します。ソ連は国境付近の安定のため朝鮮北部の占領を考えます。米国はフィリピン統治の経験から、自治・統治能力を欠くアジア人の後見、訓練期間が必要だと主張します。英国はアジア植民地独立運動への波及を恐れます。大国の思惑で朝鮮半島の独立回復は時期尚早とされました。

 

 しかし、米英中ソ四カ国による20〜30年間の信託統治を実施する以外に、具体的な統治方法も決まりませんでした。ちなみに、北緯38度線は米ソ両軍による日本軍の武装解除線として設定され、当初は国境線でも何でもありません。

 

 朝鮮の主要独立勢力は海外に逃れて活動していました。右派の代表は中国重慶の国民政府と行動を共にする大韓民国臨時政府(臨政)、左派の代表は中国共産党やソ連軍に編入されていた満州国境のパルチザンです。

そして、臨政の保守独立派重鎮でありながら、上海での独立運動時代に米国政府に対して朝鮮の米国委任統治を請願して、臨政から追い出され、米国でロビー活動を続けた李承晩がいました。

これら海外の独立勢力は、突然の日本降伏によって解放がもたらされたので、すぐには帰国できませんでした。

 

4.朝鮮人民共和国の挫折

 1945年9月8日に米軍が仁川に上陸します。米軍は朝鮮総督府との談合で発足した建準について、日本の手先だと疑いました。そこで、建準は米軍と交渉する政府を樹立するため、9月6日、朝鮮人民共和国の建国を宣言し、閣僚リストを公開します。

左右両勢力のバランスを取った挙国一致政権とするため、海外勢力の李承晩を主席とし、人民委員に金日成まで含んだ政府閣僚でしたが、実際は海外勢力には連絡が取れませんでした。

 

 なお、朝鮮人民共和国には、朝鮮共産党の朴憲永(のち北朝鮮副首相)などが参加していますが、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)と直接的な関係はありません。

 

 米軍のホッジ中将は朝鮮人民共和国の独立を直ちに却下し、米軍政庁を設立しました。日本政府は米軍に、朝鮮の治安を共産主義者が乱していると証言し、朝鮮人英語通訳の多くも反共主義者でした。それらの情報を鵜呑みにした米軍政庁は、青年治安隊を解散させて、警察機構を復活させるなど、日本統治時代に逆行するような政策を取りました。

 

 さらに、建準の参加者には日本に弾圧された左派人士が多いため、日本統治下で経済活動を担っていた全羅道の湖南財閥など保守派人士は、韓民党を結成して建準に対抗しました。

一方、海外勢力も臨政人士や李承晩が次々帰国して、日本統治下にいた建準よりも自分たちこそ正統な朝鮮政府だと各々主張を始めます。このとき、南朝鮮の政治勢力は、米軍政庁、臨政、李承晩と韓民党、建準がありました。

李承晩は極端な日本嫌いですが、米国亡命時代のロビー活動で米軍に信頼され、あえて親日派の韓民党と組むことで、朝鮮国内での支持基盤を得ようとします。

 

 

いまこそ中国論(11)朝鮮半島1945〜1950(2)


 

5.四カ国信託統治構想と米ソ共同委員会

 さて、当時の38度線以北では、ソ連軍占領下で人民委員会が設立されるなど、親ソ化が進んでいましたが、ソ連も朝鮮半島を分断した社会主義国作りまでは考えていませんでした。1945年12月、モスクワでの連合国外相会議では、朝鮮半島の米英中ソ四カ国信託統治を確認しますが、結局、当面は米ソ共同委員会による二カ国統治にされます。

 

 南朝鮮では臨政指導者の金九が信託統治反対と即時独立を求める全国ストライキを訴えますが、米軍に中止命令を出されました。米軍政庁の支持を失い、金九の影響力は大きく後退します。

一方、米軍政庁と組んだ李承晩と韓民党も、反信託統治を愛国独立であると訴え、信託統治賛成派を「ソ連の手先」と攻撃したため、ソ連は、米国が反信託統治派を支援していると疑い、米ソ両国間に不信が生じました。

 

 米ソ共同委員会は、信託統治に賛成する朝鮮人政治団体を独立準備政府に参加させるべく協議しますが、米国が右派勢力、ソ連が左派勢力を支持して1946年5月には決裂しました。米国は右派による南朝鮮だけの単独政権樹立か、共産党を排除したうえで、左右合作による南北統一の親米政権樹立か選択を迫られました。

 

6.左右合作の挫折

 1946年2月、米軍政庁は建準など左派を除外して、臨政派と李承晩派による右派中心の民主議院を開設します。除外された旧建準の人民党、共産党など左派は、民主主義民族戦線(民戦)を結成しました。

 

 この左右対立が国家分裂につながることを危惧した中道派は、信託統治問題を棚上げした南北統一臨時政府の樹立をめざします。

米ソ共同委員会が決裂した1946年5月から、米軍政庁の仲介により左右合作委員会が開催されますが、急速な社会主義化、親日派の処罰や右派勢力の排除を求める民戦と、信託統治問題や親日派処罰問題を後回しして臨時政府樹立を急ぐ右派の意見は対立し、左右だけでなく、左派も急進派と穏健派に分裂します。

米軍政庁は、一方で左右合作を進めながら、一方で右派単独政権を視野に入れた行動を取り、10月に南朝鮮で選挙を実施して右派中心の南朝鮮過渡立法議院を開設しました。

 

7.混乱する南朝鮮経済と社会

 当時の朝鮮社会は、米軍政庁が実施した経済自由化政策の失敗と、日本から大量の帰国者が流入したため、光復の1945年8月に比べ、1947年2月には物価が300倍に跳ね上がる驚異的なインフレに見舞われていました。失業者は100万人を超え、食糧難や社会不安が広がります。

米軍政庁は46年に配給と米の供出制度を復活させたものの、日本統治時代の警察を使って取り締まりに当たったので、国民に不満が募りました。

 

 1946年9月と10月には南朝鮮全体に拡大したゼネストに対し、米軍は容赦ない弾圧を加え、蜂起した左派や市民に数千人の死者を出しました。米軍政庁の失政は明らかになり、指名手配された左派の朴憲永は11月に南朝鮮労働党(南労党)を結成して38度線の北へ逃れ、南労党は地下に潜って反米活動を開始します。

 

8.第二回米ソ共同委員会と呂運亨暗殺

 米ソ両国は1947年5月に第二回米ソ共同委員会を開き、朝鮮を国連管理下に置いた独立準備政府の発足や、米ソ両軍の撤退について協議しました。

米国は米英中ソ四カ国の管理下で南北が別々に選挙を行い、南北の人口比に応じて統一政府を構成する案を示しますがソ連は拒否、あくまで米ソ二カ国による管理下での南北統一選挙の実施、南朝鮮で反信託統治を主張する右派団体の排除を主張して、米ソ共同委員会は決裂しました。

 

 米ソ両国の決裂に伴って、李承晩が率いる南朝鮮の反信託統治運動は大きくなり、米軍の弾圧で壊滅した左派に代わって右派が伸長する中で、左右両派や米ソの仲介に奔走してきた呂運亨が7月に李承晩派の手により暗殺されてしまいました。

 

9.国連臨時朝鮮委員会と南北分断の決定

 1947年9月、米国は朝鮮問題を国連に提訴して、国連に臨時朝鮮委員会が設けられます。ソ連は当然反対し、その他の国も米国の独善的な朝鮮問題解決案に疑問を持ちますが、1948年3月の南北分離選挙実施は少数差で可決され、国連調査団が南北朝鮮に派遣されました。

 

 しかし、北朝鮮人民委員会は、自分たちも北朝鮮単独政権作りを進める一方で、南北別々の選挙が分断を固定化するとして、国連調査団の38度線以北への立ち入りを拒否します。一方の李承晩も自分の不人気を自覚しているのか、金日成と相打つ南北統一選挙を頑なに拒否して、南朝鮮だけの選挙実施と単独政権樹立を主張します。

 

 結局、国連調査は北朝鮮の協力が得られないまま終了し、国連では48年5月に南朝鮮単独で選挙を実施して正当政府とするように決議されました。こうして、国際的に朝鮮半島の南北分断が決定します。

 

10.相次ぐ武装蜂起と南北協商の挫折

 当事者の朝鮮では、南北分断に反対する運動が各地で広がります。朝鮮南端の済州島は、左派優勢でありながら46年秋の反米活動に加わらない穏健な地方でした。

47年3月1日、10万人(島民の1/3)が参加した三一独立運動記念式典が、南朝鮮単独選挙反対デモに変わると、米軍政庁は、済州島に警察部隊や右翼団体を送り込んで島民に弾圧を加えます。右翼団体は、北朝鮮から逃げてきた西北青年団が中心でした。

 

 穏健だったゆえに看過されてきた済州島の左派・南労党は、48年4月に単独選挙反対ゲリラ闘争を開始して、島内の警察署や行政機関を攻撃し、選挙当日にも各地で投票所を襲撃しました。米軍政庁も済州島での選挙失敗を認め、選挙区結果は無効にされます。 

米軍政庁は、済州島に国防警備隊(のちに韓国軍)を大量投入して徹底的な弾圧を行いました。成立したばかりの韓国政府は11月に全島に戒厳令を敷き、政府軍による焦土化作戦を実施して49年5月までに、3万人(島民の1/8)に及ぶ島民を虐殺しました。

 

 一方、済州島へ出動を命じられた韓国軍部隊も動揺し、士官、兵士に左派系が多い第14連隊は反乱を起こして麗水、順天一帯を占拠します。反乱鎮圧の後も残党は智異山に移動して、朝鮮戦争後までパルチザン活動を展開しました。

 

 ソウルでは、単独選挙に反対して平和的に南北統一を実現しようと、南北協商が提案され、右派の金九も合流して左右合作が再び試みられます。

南朝鮮の主要団体は48年4月に38度線を越えて北朝鮮の平壌に集まり、金日成と会談、南北協商の結果を「56団体共同声明」として発表し、南朝鮮の単独選挙を認めませんでした。

 

いまこそ中国論(12)朝鮮半島1945〜1950(3)


11.南朝鮮単独選挙と李承晩政権の発足

 1948年5月、全有権者の8割が参加した南朝鮮単独選挙は、投票率90%で成功したと国連が発表します。

実際には、警察、右翼の恫喝によって強制的に市民を動員して行われたもので、参加した政党も李承晩派、韓民党など、右派のうち南朝鮮単独独立を主張する者だけでした。右派でも、金九など南北協商派は選挙の無効を主張します。

 

 6月、国連は南朝鮮制憲国会を承認し、大韓民国の国号や、大統領制の憲法、朝鮮全土を領土範囲とすると決議し、国会で李承晩を初代大統領に選出します。

 

 李承晩は当時すでに70歳、帰国時には独立の老闘士だと歓迎されましたが、実は米国政府に朝鮮委任統治を請願して、上海時代に臨政から除名されています。韓国内に支持基盤を持たず、左右両派からの信頼もないので、心ならずも親日派の地主や財閥と結び、米国の後押しを受けていました。

しかし、李承晩は議院内閣制度を主張する親日派・韓民党とも対立し、その勢力を徹底的に排除して、独裁的な大統領権限の強化に努めました。

 

12.大混乱に陥る大韓民国

 1948年8月15日、ソウルで大韓民国が成立し、ホッジ中将の米軍政庁は廃止されました。しかし、支持基盤のない李承晩政権は安定せず、10月には単独選挙から続く済州島鎮圧への出動を拒否した韓国軍が反乱を起こして麗水・順天を占拠する事態に発展します。

李承晩は、鎮圧部隊を派遣して1万人以上の反乱兵を殺害する一方、韓国軍内の8千人を超える左派将兵の粛清を実施しました。のちの軍事政権大統領・朴正煕も共産党員容疑で左遷されています。

 

 12月には共産主義者弾圧のため、日本統治時代の治安維持法を範とする国家保安法を施行します。政府転覆のための結社集会を禁止し、北朝鮮を「反国家団体」として一切の接触を禁止しました。北朝鮮支持者はもちろん、反李承晩、反米活動も厳しく処罰され、1949年だけで同法違反により12万人の市民が検挙されました。

1949年6月、南北協商派の重鎮・金九が暗殺され、李承晩最大のライバルが消えました。

 

 李承晩政権は、10月に133の政党・団体に解散命令を出し、同年末までに逮捕者48万人、うち投獄者15万人、さらに刑死・獄死が9万人というすさまじい弾圧を行いました。さらに、これら検挙者とその家族を国民保導連盟として組織し、反共思想教育を行いました。

保導連盟員には食料の優先配給があったので参加者が多く、警察や地方役所の点数稼ぎで勝手に登録された市民もありましたが、1950年6月に朝鮮戦争が勃発すると、北朝鮮に呼応する危険があるとされて韓国軍や警察の虐殺対象になり、20万人以上が殺害されました。

北朝鮮占領下でも保導連盟員は転向者として虐殺され、南北両軍から迫害を受けました。日本からの帰国者の中には、迫害を逃れて再び日本へ戻る者も少なくありませんでした。

 

 李承晩自身は反共主義者であると共に、強烈な反日主義者でしたが、支持基盤を日本統治時代からの警察や地主、財閥といった親日派に頼る弱みがありました。

国会で反民族行為処罰法が可決され、親日派の調査・処罰が行われると、李承晩は調査委員会が親共派であるとして、5月、国会内に警察を踏み込ませ、金若水副議長など国会議員を検挙・投獄します。一方、親日派地主を解体する農地改革法は、全体の38%が実施されたのみでした。

 

 韓国経済も崩壊していました。1948年3月、朝鮮半島で水力発電所の多くが存在する北朝鮮からの敵対的いやがらせで電力供給が停止され、産業が大混乱します。1949年の歳出の6割が赤字、物価は米軍政時代の2倍に達する一方で、工業生産額は日本統治時代のわずか18%に落ち込んでいました。

 

13.暴走する李承晩と米国の動揺

 1948年12月、ソ連軍が北朝鮮から撤退すると、米国は韓国政府と米韓軍事協定を結んで、1949年6月に少数の軍事顧問団を残して米軍を韓国から撤退させます。

 

 韓国軍は日本軍将兵経験者と、第二次大戦中に米軍の特殊訓練を受けた独立軍(実戦経験はない)が中心で、指揮・訓練系統や兵器系統に旧日本軍と米軍仕様がばらばらに混じっていました。

 

 さらに、李承晩大統領が「北進統一」を主張して北朝鮮との軍事対決を煽るため、米国は好戦的な韓国政府を警戒して、韓国軍に軽火器を供与しただけでした。

また、李承晩の日本憎悪は徹底していました。日本に軍事報復すると唱え、連合国軍総司令部に対馬割譲を要求してマッカーサー元帥から疎まれます。朝鮮戦争開戦後に釜山付近に追い込まれた際には、韓国軍が日本の福岡付近を占領して亡命政府を作ることを企図し、日本首相・吉田茂から拒否されました。すると、戦時下の日本海に一方的な李承晩ラインを設けて竹島を占拠し、日本漁船を攻撃します。

 

 朝鮮戦争直前の1950年5月、第二回総選挙で李承晩派は惨敗し、北朝鮮との平和統一を図る南北協商派が圧勝しました。国会でも孤立した李承晩は、より一層強烈な北進統一論を主張、38度線沿いで南北両軍の小競り合いが頻発して、一触即発状態になりました。

 

 一方、北朝鮮の金日成は、虎視眈々と南進統一の機会を伺っていました。

米国は50年1月、前年の中華人民共和国成立を受けてアチソン国務長官が極東防衛線を唱えますが、日本列島とフィリピンが含まれても韓国防衛には言及されません。米国は李承晩政権の暴走に手を焼いており、中国革命の波及を恐れながらも対韓国政策が動揺していました。金日成は朝鮮半島情勢に米国は介入しないと判断しました。

 

 

いまこそ中国論(13)朝鮮半島1945〜1950(4)


14.ソ連軍の北朝鮮占領

 さて、北朝鮮はどんな状況だったのでしょうか。1945年8月9日に朝ソ国境を破って侵攻したソ連軍は、8月13日に清津を占領した時点で日本が敗戦します。そののち、8月21日、ソ連軍が日本海側の咸興に進駐すると、咸鏡南道の日本人知事から行政権を接取して、朝鮮人民委員会に委譲する占領政策を取りました。

これは咸興方式と呼ばれ、9月までにソ連軍が進駐した北緯38度線以北の地域で適用されました。

 

 一方、8月15日にソウルで成立した建国準備会は、平安南道など北朝鮮各地でも自治組織を立ち上げ、曹晩植を代表に立てていました。

ソ連は9月20日に北朝鮮の占領方針を発表し、無理なソビエト化はせず、広範な人民代表によるブルジョワ民主主義政権を樹立する、としましたが、一方で、ソ連軍進駐地域に成立した建準を人民委員会と合作させ、ソ連人顧問を置きます。

 

15.金日成の誕生

 9月19日、元山港に金成柱が到着しました。金成柱は父親に付いて満州に移民したのち、1933年から満州の東北抗日連軍に参加して頭角を現したパルチザン指導者です。中国共産党に所属したあと、関東軍の攻撃を逃れて1941年にソ連領へ脱出、ソ連極東軍の高麗人部隊を率いる部隊長になり、訓練を受けていました。

ソ連領沿海州には日本統治を嫌って逃げ込む朝鮮人が多く居住して、高麗人と呼ばれましたが、1930年代から高麗人を日本のスパイだと疑ったスターリンにより、中央アジアなどに民族ごと追放されていました。

第二次大戦が終盤になると、スターリンは高麗人を武装させて朝鮮を解放する構想を練り、実戦に間に合わなかったものの、ソ連極東軍に高麗人部隊を創設しました。これら海外勢力の朝鮮人は満州派と呼ばれて、ソ連軍占領行政を支えていきます。

 

 10月、キリスト教民族主義者・曹晩植が委員長を務める北朝鮮五道行政局が成立します。一方、ソ連は金成柱を北朝鮮指導者にすることを考え、伝説的な抗日英雄の名を取って金日成に改名させた上で、10月の平壌市民大会に引っ張り出します。

市民は「朝鮮王朝の将軍が日本に抵抗して満州で活躍した」という英雄伝説から、白髪の老将軍を想像していましたが、実際に現れた金日成が33歳の若者だったので動揺しました。しかし、演説の巧みさは市民の疑惑を熱狂に変え、金成柱改め金日成は北朝鮮の実権を握ります。

 

16.北朝鮮における南北平和統一の挫折

 ソ連占領下の北朝鮮でも、実は南北平和統一をめざす動きがありました。1945年11月、チスチャコフ将軍の非共産政権樹立声明を受けた曹晩植は、朝鮮民主党を結党して、金日成に合作を申し入れます。共産主義者の金日成も合意し、朝鮮独立、南北統一、民主主義の確立を掲げる民主党には30万人の党員が集まりました。

 

 しかし、同月、新義州でソ連占領軍の横暴に抗議する学生デモに警察が発砲、23人が死亡、700人以上が負傷する事件が発生します。金日成はデモを反共・親日反動分子の仕業とし、キリスト教徒の多い平安道に不満を残します。

 

 12月、金日成は朝鮮共産党北朝鮮分局の第一書記に就任し、まず北朝鮮を改革して民主基地とし、のちに全朝鮮を解放するという「民主基地」論を唱えます。

曹晩植は、民主基地論が朝鮮の分断を固定するとして反対し、先に南北統一政府を作り、その後改革を行うよう主張しました。また、曹晩植は、12月のモスクワ四カ国外相会談で決まった米英中ソ四カ国による信託統治に反対運動を唱えたため、行政局委員長を辞職させられたうえ、ソ連当局によって軟禁されます。

金日成は、曹晩植を「民主主義の敵」と弾劾し、朝鮮民主党は朝鮮共産党北朝鮮分局に吸収合併されました。

 

17.金日成政権の確立

 1946年2月に五道行政局は北朝鮮臨時人民委員会と改称し、金日成政権が成立します。臨時人民委員会は3月から地主の土地を全て没収して農民に分配する土地改革を実施し、8月には重要産業国有化を実施、急速な社会主義化を行って親日派を一掃しました。

 

 金日成は、ソウルに党中央を置く朝鮮共産党の支部であった北朝鮮分局を、北朝鮮共産党に改称して独立させます。さらに「民主基地」への組織一本化と称して国内政党、諸団体を糾合して北朝鮮労働党を発足させました。こうして、南北分断の固定化が進むと同時に、南朝鮮の左派運動を北朝鮮が指導するという北の優位性が確立しました。

 

 1948年の済州島事件や麗水順天反乱事件は、南朝鮮の共産革命が近いことを思わせました。北朝鮮は地下に潜った南労党を指導して、南朝鮮各地の農村や中小都市で韓国軍や警察に対するゲリラ戦やテロ活動を展開します。

 

 一方の北朝鮮国内の建設では、金日成の唱える「やれるときに一気にやって印象を残す」遊撃隊方式の改革が熱狂的な支持を受けて、経済的に困窮する南朝鮮に対して、北朝鮮では農業生産、工業生産ともに急上昇します。

抵抗者は弾圧されるか、38度線を越えて南へ逃げたので、政治的な反対者もなくなりました。しかし、国家建設のスタートがうまく行き過ぎたことは、金日成に対する個人崇拝の風潮を生み、金日成もだんだん自信過剰になっていきました。

 

18.南北協商の挫折と北朝鮮の単独政権化

 1947年8月、金日成はモスクワ協定の米英中ソ四カ国朝鮮信託統治に賛成して、独立準備政府の樹立を提唱します。また、南北分断を固定するものとして、米国主導の国連が進める南北朝鮮分離選挙を非難、48年1月に国連朝鮮臨時委員会が派遣した調査団が38度線以北に立ち入ることを拒否します。

 

 しかし、金日成は、あくまで朝鮮全体を代表する統一政府樹立と外国軍隊の撤退を主張しながら、一方で47年11月から朝鮮民主主義人民共和国憲法制定会議、48年2月に抗日パルチザンを中心に朝鮮人民軍を創設するなど、北朝鮮の単独政権化を進めていきました。

 

 48年4月に南朝鮮から左右超党派の南北協商代表が平壌を訪問し、金日成と会談した成果を「56団体共同声明」として発表します。しかし、続く第二回南北協商では、南朝鮮の右派重鎮・金九らが金日成による北朝鮮単独政権作りを非難し、参加を拒否したので、南北協商は挫折しました。

 

19.朝鮮民主主義人民共和国の成立

 1948年8月、北朝鮮全土で選挙が実施され、韓国に近い海州でも南朝鮮人民代表者大会が開催されて、朝鮮最高人民会議議員が選出されました。9月9日、首都をソウル(平壌は暫定首都)とし、朝鮮全土を領土に主張する朝鮮民主主義人民共和国が成立しました。

 

 金日成は首相、副首相には南出身の南労党・朴憲永が就任し、その実態は北の海外勢力出身者と南の国内左派による連立政権でした。

一方、主要ポストは海外勢力が占めました。党・政府はソ連の後ろ盾を持つソ連派と、中国共産党と行動を共にしてきた延安派が握り、抗日パルチザン出身の満州派は朝鮮人民軍幹部を握ります。金日成は支持基盤や思惑がばらばらな各勢力の上で、バランスを取りながら権力を維持します。

 

 金日成が絶対的な権力を握ったのは、1950年の朝鮮戦争で北朝鮮指導部が大打撃を受けてからでした。朝鮮人民軍は、南朝鮮人民から解放軍として歓迎されるどころか、予想以上の反撃を受けます。金日成は、南朝鮮解放の失敗は南労党をはじめ左派勢力の怠慢にあるとして、日本の朝鮮統治と戦ってきた国内左派を粛清し、独裁者になっていきます。

 

20.朝鮮人民軍の強大化

 ソ連軍は48年12月に北朝鮮から撤退しますが、戦車などの重火器や軍事顧問団を朝鮮人民軍に残していきます。また、49年2月に金日成と朴憲永が訪ソして結ばれた朝ソ経済文化協力協定による借款と共に、秘密軍事協定が結ばれ、ソ連極東軍から高麗人部隊の6個歩兵師団、3個機械化部隊、航空機150機が秘密裏に供与されました。

 

 当時、中国では国共内戦が激化しており、当初は満州で劣勢に立たされていた人民解放軍を金日成が支援して、中朝国境沿いに基地や避難場所を提供していたので、中国共産党は北朝鮮に恩義を感じていました。

ようやく中国全土の解放が視野に入った49年3月、北朝鮮と中国共産党との間に秘密軍事協定が結ばれ、中華人民共和国建国前には人民解放軍の中国朝鮮族兵士5万人が朝鮮人民軍に引き渡されます。編入された中国系兵士は全兵力の1/3にも及び、中国との強い一体感を持っていました。

 

21.そして開戦

 1949年5月、中国の国共内戦はクライマックスを迎え、中華民国の首都・南京が人民解放軍の手に落ちます。金日成は南京陥落を契機に、共産勢力による朝鮮全土の解放を考えはじめました。

8月、金日成はソ連に対して武力統一を打診しますが、冷戦初期の東欧諸国囲い込みに忙しいスターリンは極東の戦争に巻き込まれることを嫌って反対します。

 

 1949年10月、中華人民共和国が成立し、米国は50年1月にアチソン国務長官が極東防衛線を唱えますが、日本列島とフィリピンが含まれても韓国防衛には言及されません。米国は李承晩政権の暴走に手を焼いており、中国革命の波及を警戒しつつも対韓国政策が動揺していました。金日成は、極東防衛線から韓国が外されていることに注目し、朝鮮半島情勢に米国は介入しないと判断しました。

 

 50年4月、再び訪ソした金日成と朴憲永はスターリンから、毛沢東の承諾を条件に開戦を認めてもらいました。翌月に訪問した中国側では、建国直後の混乱期に朝鮮戦争に巻き込まれることを嫌う意見が主流でしたが、毛沢東の一存で開戦支持を取り付けました。

 

 1950年6月25日は日曜日、大韓民国軍首脳は前日夜のパーティから酔いが覚めておらず、対北朝鮮最前線に展開する韓国軍部隊も米国式に休暇を取っていました。そこへ、突然の朝鮮人民軍の砲撃が始まり、最新鋭の戦車部隊が攻め込みます。

米国から対戦車兵器を供与されていない韓国軍は各地で防衛線を破られて総崩れになり、李承晩政権はほうほうの体でソウルを脱出します。慌てた防衛司令部は、首都ソウルに韓国軍主力部隊や避難民を残したまま漢江の橋を落としたので、孤立した韓国軍はそのまま捕虜になりました。

開戦から3日後、ソウルは陥落し、朝鮮人民軍は怒涛の如く朝鮮半島を南下しました。3年間続く朝鮮戦争の始まりです。



 
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