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今こそ中国論之五

 これは、2009年から2010年にかけて、インターネット市民新聞「JANJAN」に、ペンネーム青木岳陽として発表した文章です。


いまこそ中国論(14)中国の国境問題(1)

1.南沙諸島

 南シナ海に浮かぶ小さな環礁や岩礁からなり、南沙諸島、西沙諸島、東沙諸島に分かれています。中国は全島の領有権を主張していますが、島々によりベトナム、フィリピン、ブルネイ、マレーシア、台湾といった周辺国による実効支配や、領有権の主張があって入り乱れています。東アジアのシーレーン上に位置することや、海底油田の存在があるためどの国も譲らず、解決が難しい海域です。

 

この島々は第二次大戦中には日本が領有していました。1940年に日本が援蒋ルートを絶つため、ナチスドイツ占領下のフランス・ヴィシー政権に強要した仏印進駐の際に、フランス領インドシナ付属諸島を組み込んだものです。

1945年の敗戦で日本が放棄したのち、フランスに返還されるのが常識でしょうが、ベトナム民主共和国の成立やインドシナ戦争のどたばたで、フランスもベトミンも手を出せません。

 

そのとき手を出したのが、1946年にアジアの旧植民地国でいち早く独立したフィリピンでした。しかし、当時はそれほど価値のある島だとは思われず、その後、南ベトナムやマレーシア、中国、台湾がばらばらに空いた島々を占領していった結果が現在の状況です。

 

1992年にフィリピンに基地を置いていた米海軍・空軍が撤収すると、パワーバランスの空白を狙った中国海軍が同国支配地の島を占拠する事件もありました。

 

ちなみに、中国は対グアム牽制の原潜ルート上に位置する太平洋上の沖ノ鳥島について、「島ではなく岩」であり、日本に領有権はない旨の主張を行っています。一方、南沙諸島では岩の上に無理やり人工構造物を作って「島」であるとしており、いかに国益に関して主張が一致していないかが分かります。

 

2.江心坡

 現在ミャンマー領カチン州の主要部を成している山岳地帯で、イラワジ川上流のメーカ川とマリカ川に挟まれた南北300km、東西100kmもの広大な地域です。

19世紀に英国がビルマ全土を植民地化すると、中国西南部の雲南辺境地帯が英国の脅威にさらされました。1890年、英国と清朝が国境確定を行い、中心都市の南坎を英国の永久租借地とした際にもこの地域は未定界とされ、その後も境界問題がくすぶりました。

 

中国側は、江心坡には伝統的にビルマ王朝の支配力が及ばず、カチン族の首長たちが雲南の漢人土司に年貢を納めてきたことを理由に中国領を主張しますが、英国は1913年と27年に軍事行動を起こして同地を占領しました。中華民国は在雲南英国領事に抗議し、抗日戦争中も英国の同地区占領を認めませんでした。

 

1949年に中国人民解放軍が雲南省に攻め込むと、李彌将軍率いる国民党軍はビルマ国境を越えて避難しました。さらに、前年に英国から独立したばかりのビルマ政府に対し、広大な国境地帯を中華民国に割譲するよう迫ります。1950年代には、国民党軍は米国の支援を受けながら、山岳地帯を根拠地に活発な反共ゲリラ活動を続けました。国民党軍は、戦費獲得のために麻薬ビジネスを手がけ、アヘンアーミーとして悪名を馳せました。

 

成立したばかりの中華人民共和国もビルマ連邦も、国境地帯に国民党軍と少数民族勢力が手を結んだ独立国が出現するのを恐れ、懸案であった国境問題の解決を急ぎました。

その結果、1960年の中緬辺界条約により中国側が江心坡と南坎をビルマに割譲し、両国軍の共同作戦により国民党軍の根拠地が破壊されます。

 

それでも国民党軍はしぶとく生き残り、タイ・ビルマ国境地帯に根拠地を構えてタイの反共政策に協力します。

魔境「黄金の三角地帯」と恐れられたタイ・ビルマ・ラオス国境地帯では、国民党兵士から麻薬王になったクンサ(張奇夫)などが出現し、ベトナム戦争時には世界のアヘン生産の8割を数えたというアヘン王国を築きますが、中台両岸の対立が緩和した1980年代、残留兵士の台湾復員や、タイへの帰化が行われました。

 

3.アルナチャルプラデシュ

 インド北東部にあるヒマラヤ山麓の地方で、現在はアルナチャルプラデシュ州と呼ばれています。もともと伝統的にチベットの一部であるため中国が領有権を主張しており、日本の地図でも国境未定の係争地として扱われています。

 

清朝末期、英国とロシアの勢力圏争いが激しくなると、英国は英領インド北方に広がるチベット高原にロシアの影響力が及ぶのを恐れ、1890年と93年に清朝との間でチベットに関する条約を結んで清朝の宗主権を確認しました。ラサのダライラマ政府が頭越しに結ばれた条約の履行を拒否すると、1903年、英国軍はチベットを侵略してラサを占領、ダライラマ13世は北京に亡命しました。

 

英国は清朝に無断でチベットに関する保護条約を押し付け、1年後にラサ占領を解きました。こうした事態に1905年、四川総督趙爾豊は西蔵遠征軍を起し、1910年にはラサを占領して直接統治を敷いたため、ダライラマ13世は英領インドへ亡命しました。翌年、辛亥革命で清朝が倒れると、清朝軍はラサから追放されました。

 

ダライラマ政府は「文殊皇帝」がいなくなったことを理由に、モンゴルと共に中国からの独立を宣言しますが、その頃には英国とロシアの国益はヨーロッパにおけるドイツ帝国封じ込めで一致しており、英露協商においてチベットは英国の勢力圏と取り決められました。そこで英国は、中国の領土保全を理由としてチベット独立に反対し、その地位を決めるため、中華民国、チベット、英国によるシムラ会議を開きました。そこではチベットは中国領土である一方で、ダライラマ政権が完全な内政自治権を持つことが決められます。

 

しかし、チベットの範囲について両者の意見が紛糾しました。ダライラマ政権はカム(四川省)、アムド(青海省)も含めたチベット高原全体を主張しますが、中華民国はダライラマの施政権が及ぶエリア(現在のチベット自治区)のみがチベット地方であると主張して、会議を一方的に退席しました。

 

英国はお得意の二枚舌外交を使って漁夫の利を得ます。ダライラマ政権の主張に組みしてカム、アムドを含む広大な範囲をチベット領だと認める代わりに、ヒマラヤ山脈の稜線にマクマホンラインを引き、チベット族が居住し、伝統的、文化的にもチベット領土であったヒマラヤ山脈南麓のアルナチャル地方を割譲させて英領インドに併合しました。

 

中華民国はダライラマ政権が英国に領土を売り渡したと非難し、マクマホンラインを国境だと認めませんでした。一方の英国は、第二次大戦中に中立を志向したダライラマ政権に不満を抱き、1950年に中国人民解放軍がラサを占領した際にも、チベット支援を打ち出しませんでした。

 

アルナチャル地方は、1962年の中印国境紛争では領有権を巡って戦争になり、その大部分を中国人民解放軍が占領しました。その後、中国軍は一方的に撤退しましたが、中国政府は現在までマクマホンラインを国境と認めていません。

 

いまこそ中国論(15)中国の国境問題(2)


1.珍宝島

 中国東北部とロシア沿海州の国境を流れるウスリー江には、たくさんの中洲があって、長年両国が領有権を巡って争ってきました。

 

 清朝が最盛期を誇った頃、満州族と同じようにモンゴル帝国の「タタールのくびき」を脱して勢力を拡大しつつあったロシア帝国は、シビル汗国を破ってウラル山脈を越え、コサック軍団を尖兵として無人に近いシベリアの荒野を東へ、東へと領土拡大を進めました。1686年、ロシアと清朝は激突し、軍事的に優勢な清朝がロシアを退けて国境画定と貿易を定めたネルチンスク条約を結びます。

これは中国歴代王朝が初めて他国と対等な立場で結んだ国際条約でしたが、伝統的な華夷秩序を奉じる清朝政府はこれを対等なものと考えませんでした。ここに清朝が西洋諸国につけこまれる原因がありました。

 

 清朝末期、国力が疲弊しアヘン戦争や太平天国の乱でボロボロになったのを見て、ロシアは清朝による満州族の保護政策によって漢族農民の移住が禁止され、人口希薄地帯だった中国東北部に対し侵略行為を始めます。

 

 ロシアは1858年、オホーツク海へ通じる国際航路として通行権を認められていた黒龍江(アムール川)へ蒸気船団を送って威嚇すると、アイグン条約を結ばせて黒龍江北岸の土地を併合しました。また、第二次アヘン戦争(アロー戦争)で英仏連合と清朝の講和を仲介する見返りとして、1860年北京条約で黒龍江の支流・ウスリー江以東の沿海州を併合、広大な外満州を奪ってしまいます。

 

 外満州に住む清国人は、引き続き清国の管理下(江東六十四屯)に置かれていましたが、1900年に義和団事件が起き、暴徒がロシア領に押し寄せると、ロシア軍が数万人に及ぶ外満州居住清国人を全員殺害して黒龍江に流しました。清国人が消えた土地は、中国風の地名をロシア風に改名するなどして、ロシア本土化が図られます。

さらに東清鉄道建設を認めさせ、遼東半島を租借して軍港を建設するなど、満州侵略を強めるロシアに対して日本では対露警戒論が噴出し、1905年の日露戦争につながりました。

 

 さて、黒龍江に限らず、国境を接する国際河川は慣例で河川両岸からの中間点が国境線とされ、国際航路として船舶の通行権が保証されます。しかし、ウスリー江は中洲が入り乱れて境界がはっきりしませんでした。

ソ連は1945年の満州侵攻の際にこれらの中洲を占領し、満州からの撤退後も、新中国成立後も中国に返還しませんでした。

 

 中華人民共和国成立後の中ソの蜜月は短く、1960年代には両国は激しく対立します。国境問題に不満を募らせていた毛沢東は、文化大革命中の1969年にウスリー江の珍宝島などに人民解放軍を上陸させてソ連軍と戦闘になりました。

共産国同士の戦争は世界を驚かせましたが、両国は核兵器保有国でもあり、毛沢東は軍需工場の疎開や核シェルター建設を行うなど、真剣にソ連との核戦争を考えるまでに追い込まれました。

 

 毛沢東死後も散発的な軍事衝突があった中ソ国境問題は、1989年ソ連のゴルバチョフ大統領訪中によって解決に動き出し、1994年にウスリー江両岸からの中間点を国境とし、中国側の中洲を返還することで合意しました。

 

2.延辺朝鮮族自治州

 中国東北部と北朝鮮の国境地帯、吉林省延辺朝鮮族自治州は、人口の4割を朝鮮族が占める中国としては異色の地方です。中朝両国ともに辺境であったので、管理の手が及ばず、両国から隠れて住み着いた人々によって民族雑居地ができていました。

 

 もともと、伝統的な中華世界とは延辺からはるか離れた万里長城の内側を指し、その外側は遊牧民族が暮らす野蛮な土地とされていました。しかし、17世紀、ヌルハチが満州族を統一して清朝を建て、その子ホンタイジが山海関を破って中国内地へ攻め込むと、あっという間に漢族の明朝を滅ぼしてしまいました。

 

 こうして長城の内外がひとつになったものの、中国では幾多の征服王朝が中華文明に感化され、漢族に飲み込まれた歴史を持ちます。そこで清朝は、支配者の満州族が圧倒的多数の漢族に埋没しないよう、故地である東北への漢族移住を禁止し、中でも民族発祥の聖地・長白山周辺には一般人の立ち入りを許しませんでした。

 

 こうして人口希薄になってしまった東北に、19世紀にロシア、20世紀には日本が進出してきます。1860年にはアヘン戦争、アロー戦争のどさくさにまぎれてロシアに広大な外満州(沿海州:ウラジオストックとはロシア語で「東方を征服せよ」という意味)を奪われ、中国は日本海への出口を失いました。同年、清朝政府がようやく東北移住と開拓の奨励に踏み切ると、なだれを打って漢族が流れ込んで東北の最大民族となりました。

 

 さて、禁地だった長白山周辺の延辺地方(韓国では間島地域)には、李朝朝鮮や清朝の圧制を逃れて住み着く人がおり、朝鮮族と漢族が混住する雑居地域になっていました。

両国は「トゥーメン江を国境にする」と決めますが、ここで問題が発生しました。長白山には「豆満江(図們江)」と「土門江」という2つの川があって、どちらも「トゥーメン江」だったからです。(トゥーメンとは満州語で「源流」の意味)

両国の国境論争は続き、結局、韓国併合を狙っていた日本が、併合前年の1910年、清朝に取り入って「日清協定」を結んで中朝国境を中国に有利な「豆満江」にすると同意しました。

 

 こうして中国領になった延辺には、日本の植民地支配に抵抗する朝鮮人が逃げ込み、抗日ゲリラ活動を展開しました。さらに日本によって朝鮮人開拓団が大勢送り込まれたため、中国領でありながら朝鮮族が多数派を占めるようになりました。

 

 しかし、豆満江を国境と決めたのは日本と中国であって、当事者の韓国ではないため、当然ながら韓国は納得していません。北朝鮮は中国の意に逆らえないので国境問題は存在しませんが、韓国によって朝鮮半島が統一された日には、朝鮮族の多いこの辺りはちょっと複雑になってきます。

中韓両国が日本との間に抱える竹島や尖閣諸島といった無人島の争いと違って、200万人もの人が暮らす土地、しかも韓国人にとっても民族発祥の聖地である長白山(韓国では白頭山)を擁する地方だからです。

 

 中国政府は先手を打って「東北工程」なる歴史研究プロジェクトを発足させています。そもそも中国東北部で興亡を繰り返した高句麗や渤海といった民族的に朝鮮系統の国々も全て中国の地方政権であり、韓国さえ中国の一部である、と言っているわけです。

対する韓国には間島返還要求の動きもあります。北朝鮮情勢も含めて、目が離せない地域です。

 

3.沖縄

 沖縄県の属する南西諸島は、現在は日本領ですが、かつては琉球王国であり、伝統的に中国の冊封体制に入っていました。江戸時代前期、薩摩藩が琉球征伐を行って間接支配下に置き、以降は清朝と薩摩藩の両属地とされました。

 

 明治維新後、琉球王国から日本の琉球藩とされた同地の帰属をめぐって日清両国はもめ、明治4年(1871)日清修好条規でも未定のままでした。日本政府は、琉球帰属問題を明らかにするために、同年、台湾に漂着して殺された石垣島住民に対して清朝の謝罪を求めます。

清朝政府が台湾は「蛮地」であって原住民の起こした事件は管轄外だと回答すると、日本軍は台湾出兵を行って原住民を「征伐」しました。慌てた清朝は、台湾を自国領だと認めさせるため、やむなく日本政府への補償金の支払いに応じました。

 

 この事件を契機に、欧米列強諸国は日本の琉球領有を承認しました。

明治12年、「琉球処分」により沖縄県が設置されると、清朝政府外務大臣・李鴻章は日本に抗議します。困った日本政府は、石垣島・宮古島など先島諸島を清国に割譲すると持ちかけますが、李鴻章は「沖縄本島は独立、奄美群島は日本領、先島諸島は清国領」の琉球三分割を主張して譲らず、結局、清国は琉球帰属権を未承認のまま、日清戦争で台湾を日本に割譲したため、うやむやになってしまいました。

 

いまこそ中国論(16)モンゴル史

 
 チンギスハーンが建国したモンゴル帝国が崩壊すると、中国を支配していた元朝は漢民族の明朝に圧迫されてモンゴル高原に逃れ、北元を名乗って明朝と対立しました。

もともと蒙古族をはじめとする遊牧民族は氏族のゆるやかな連合体であり、卓越した指導者が出現すれば結集して大勢力になるが、普段は氏族同士の争いが絶えません。

蒙古族もチャハル部やモンゴル高原の中央部を占めるハルハ部、西方のオイラト部などに分裂しました。

 

 北元王家でチンギスハーン直系のチャハル部は、リンダンハーンの下にモンゴル東部から南部、満州などに勢力を拡大してモンゴル帝国の再興を図ります。

1636年、チャハル部は満州族の後金と対決して破れ、「元朝伝国璽」を後金ホンタイジに献上してその支配下に入りました。ホンタイジはモンゴル皇帝を継承する者として、国号を清に改めます。このとき清朝の版図に入ったチャハル部が現在の内蒙古になります。

 

 その後、清朝は、李自成率いる農民反乱で明朝が自壊した隙を突いて山海関を破り、中国内地に攻め入って旧明朝領土を手中に収めました。こうして、満州と中国本土、内蒙古がひとつの国になりました。

 

 一方、西方のモンゴル系オイラト部は東トルキスタンやチベットを支配して大勢力になり、モンゴル高原のハルハ部を攻めます。清朝の朝貢・冊封体制に入っていたハルハ部は救援を求め、1696年、康煕帝はモンゴル高原に親征してオイラト部を撃退し、ハルハ部は清朝皇帝の支配下に属しました。これを外蒙古といいます。

 

 次に、チベットのダライラマ政権が、オイラト部から出たジュンガル部に攻められると、救援要請を受けた雍正帝はジュンガル部を撃退してチベットを清朝の配下に収めます。さらに、乾隆帝は東トルキスタンでウイグル族を支配して世界史最後の遊牧帝国を築いたモンゴル系ジュンガル部を滅ぼすと、新疆省を設置して直轄領としました。

 

 こうして、清朝皇帝は、中国本土と満州、モンゴル、チベットのそれぞれの皇帝を兼ねる存在になりました。雍正帝が記した「大義覚迷録」によれば、中華とは「華」と「夷」から成る一種の連邦制であり、その統治にふさわしい徳があれば異民族による中華世界の支配も正当化されるといいます。

 

 一方、清朝が最盛期を誇った頃、満州族と同じようにモンゴル帝国の「タタールのくびき」を脱して勢力を拡大しつつあったロシア帝国は、シビル汗国を破ってウラル山脈を越え、コサック軍団を尖兵として無人に近いシベリアの荒野を東へ、東へと領土拡大を進めていました。

 

 1689年、ロシアと清朝は激突し、軍事的に優勢な清朝がロシアを退けて国境画定と貿易を定めたネルチンスク条約を結びます。これは中国歴代王朝が初めて他国と対等な立場で結んだ国際条約でしたが、伝統的な華夷秩序を奉じる清朝政府はこれを対等なものと考えず、のちに清朝が西洋諸国につけこまれる原因がありました。

 

 清朝末期、国力が疲弊しアヘン戦争や太平天国の乱でボロボロになったのを見て、ロシアは手薄な中国北方に対して侵略行為を始めました。中国北方は、清朝による満族、蒙古族の保護政策によって漢族農民の移住が禁止され、人口希薄地帯だったからです。ロシアは1858年黒龍江へ蒸気船団を送って威嚇すると、アイグン条約を結ばせて黒龍江北岸を併合しました。

 

 また、第二次アヘン戦争(アロー戦争)で英仏連合と清朝の講和を仲介する見返りとして、1860年北京条約で沿海州を併合、広大な外満州を奪いました。外満州に住む清国人は引き続き清国の管理下(江東六十四屯)に置かれましたが、1900年義和団事件が起き、暴徒がロシア領に押しかけると、ロシア軍は領内の清国人を全員殺害して黒龍江に流しました。

 

 さらに清朝にシベリア鉄道のバイパス路線として東清鉄道建設を認めさせ、遼東半島租借など満州への侵略を強めるロシアに対して日本では対露警戒論が噴出します。当時、トルコやアフガンにおいてロシアの南下を封じ込めるべく、ロシアと争っていた英国と日英同盟を結んでの1905年の日露戦争につながりました。

 

 しかし日露戦争で日本が勝利した頃には、ヨーロッパ情勢は変わりつつありました。東欧やアジア、アフリカの植民地争いで台頭著しい新興ドイツ帝国を封じ込めるため、英露両国が手を結び(英露協商)、その結果、日露両国の関係も急速に改善されます。1911年の日露協商では、ロシアの勢力圏を外蒙古とし、満州と内蒙古は日本の勢力圏とされます。

 

 一方で列強にやられっぱなしの清朝も満州や蒙古へのロシア進出に危機感を抱き、1860年以降に漢族の移住と開拓を奨励したため、瞬く間に満州や内蒙古は漢族農民が多数派を占めるに至りました。1907年には清朝直轄地であった満州に東三省が設置され、山海関以西と同じ内地扱いとされました。

 

 1911年辛亥革命で清朝が倒れると、漢族の移民政策に不満を抱く蒙古諸氏族は文殊皇帝の不在を理由に、中華民国には服属せずロシアの支援を得て独立を図りました。

ボグドハーン率いる蒙古軍はモンゴル統一をかけて一時的に内蒙古まで支配下に収めたものの、日露両国による勢力圏取り決めに配慮したロシアの介入により、内蒙古から撤退させられました。

さらに英露協商ではモンゴルはロシア勢力圏、チベットは英国勢力圏という取り決めがされていたので、ロシアは中国の領土保全を理由に外蒙古の独立に反対し、その地位について決める中華民国、モンゴル、ロシアによるキャフタ会議が開かれます。

そこではモンゴルは中国領土である一方、外蒙古は完全な内政自治権を持ち、漢族農民が多い内蒙古は中国内地に組み入れることで合意されました。

 

 1917年ロシア革命によってロシアの影響力が低下すると、中国の北京政府は外蒙古に軍を進めて自治を取り上げました。ボグドハーンはシベリアを根拠地とするウンゲルン将軍に頼り、ロシア白軍が外蒙古から中国軍を追い出してボグドハーン政権を復活させます。

しかし、ウンゲルンは外蒙古を対赤軍戦争の根拠地として物資の挑発を厳しく行ったため、今度は革命勢力がソビエト赤軍を引き込みました。

1921年外蒙古を占領したソビエト赤軍はボグドハーンを首班とする立憲君主制度を敷き、1924年ハーンが急死すると世界で二番目の社会主義国としました。当時、中国の領土保全を保障する九カ国条約がありましたが、ソ連は加盟国ではなく、国際連盟の制約を受けずに行動します。

 連ソ容共政策を取る国民党はソ連の侵略行為を非難しませんでしたが、国共内戦が始まると一転これを非難し、抗日戦争でソ連の支援を受けると、また外蒙古支配を黙認しました。

 

 内蒙古では、チンギスハーン直系のチャハル部王族である徳王が内外蒙古統一のために汎蒙古主義を掲げて活動し、内蒙古人民革命党は社会主義国・外蒙古への併合を求めて活動しますが、肝心の外蒙古政府は漢族が多数派を占める内蒙古との統一に難色を示しました。

次に徳王は国民政府に高度な自治を求めたものの、蒋介石によって内蒙古をいくつもの省に分割統治されました。そこで、徳王は次に日本政府と関東軍に接近します。

 

 満州国を建国した関東軍は徳王を担いで内蒙古の傀儡国家化を図り、1936年に蒙古連合自治政府を樹立します。しかし、中国分割による少数民族の独立は日本による中国侵略のイメージを強めるため、日本はあえて独立を認めず、いくつか設立された傀儡政府の自治区に留まりました。さらに1945年には日本が敗戦を迎え、徳王の夢は潰えました。

 

 外蒙古はソ連が1945年のヤルタ会議でモンゴル独立を中国に要求し、国民政府は1946年モンゴル人民共和国の独立を承認しました。するとソ連は外蒙古の一部であったトゥバ地方を自国領に併合しました。

 

 内蒙古連合自治政府は、日本に変わってソ連の支援を受けるため、内蒙古人民共和国に改称します。しかし、ソ連も外蒙古に続いて内蒙古まで分割すると、中国侵略のイメージを強めるとして支援しませんでした。

徳王は、最後に国民政府側につき、再び蒙古自治政府を旗揚げしますが、中国人民解放軍に敗れ外蒙古に逃亡して逮捕されました。

 

 1949年中華人民共和国の成立により内蒙古自治区が発足しました。

1949年に成立した中華人民共和国はソ連の衛星国・モンゴル人民共和国を承認しました。一方、台湾へ落ち延びた国民政府はソ連との協定を破棄してモンゴルの独立とソ連によるトゥバ地方併合を取り消し、名目上の中華民国の外蒙古地区に格下げしています。

 

 

いまこそ中国論(18)チベット史


 モンゴル帝国以来、遊牧民族である蒙古族の宗教はチベット仏教に変わり、厚い信仰を得ていました。

 

 明朝末期の混乱で、蒙古や西蔵に対する明朝の宗主権が弱まると、1642年、チベット高原北方のアムド地方にいたモンゴル系オイラト部のグシハンは、ラサに攻め入りダライラマ5世から「護教王」の称号を得てチベットハーンと称します。

さらに全諸侯を平定してチベット高原中央部をダライラマ5世に寄進しました。ここにダライラマが宗教と政治の権力を握る政教一致のダライラマ政権(カンデンポタン政権)が誕生します。これは、統一前イタリアにあったローマ教皇領のような存在だといえます。

 

 広大なチベット高原において、ダライラマを保護下に置き、カム・アムド地方を直轄支配するオイラト系グシハン王朝は4代続きますが、保護下のダライラマ後継者問題で内紛し、1717年にはモンゴル系ジュンガル部の侵攻を招きました。

 

 清朝の康熙帝はチベット救援のため出兵して、ジュンガル部を追い出します。一方で、中国とチベットの境界地方では、所属を巡ってチベット諸侯と清朝地方官の争いが絶えませんでした。

1724年、雍正帝は西蔵遠征を行ってグシハン王族を滅亡させ、チベットを分割しました。これ以降、旧グシハン領であるカム・アムド地方を青海省、四川、甘粛、雲南各省に分割して中国内地に組み込まれ、チベット高原中央部だけが清朝皇帝を「文殊皇帝」と擁くダライラマ政権とされました。

 

 清朝末期、英国とロシアの勢力圏争いが激しくなると、英国は英領インド北方に広がるチベット高原にロシアの影響力が及ぶのを恐れ、1890年と93年に清朝との間でチベットに関する条約を結んで清朝の宗主権を確認しました。

 

 ダライラマ政府が頭ごなしに結ばれた条約の履行を拒否すると、1903年、英国軍はヒマラヤを越えてラサを占領、ダライラマ13世は北京に亡命しました。英国はチベットを保護領とする条約を清朝に断りなく結び、1年後に占領を解きました。

 

 こうした事態に1905年、四川総督趙爾豊は西蔵遠征軍を起し、1910年にはラサを占領して直接統治を敷いたため、ダライラマ13世は英領インドへ亡命します。翌年、辛亥革命で清朝が倒れると、清朝軍はラサから追放されました。

 

 ダライラマ政府は文殊皇帝の不在を理由に、蒙古と共に中国からの独立を宣言しました。しかし、英国とロシアの国益は欧州におけるドイツ帝国封じ込めで一致しており、英露協商においてチベットは英国の勢力圏、蒙古はロシアの勢力圏と取り決められました。

 

 英国は、中国の領土保全を理由として西蔵独立に反対し、その地位を決める中華民国、ダライラマ政府、英国によるシムラ会議が開かれました。そこではチベットは中国領土であり、ダライラマ政権は完全な内政自治権を持つことが決められます。

しかし、チベットの範囲について、ダライラマ政権は雍正帝の西蔵分割以前のグシハン領、すなわちカム、アムド地方も含めてチベット領であると主張したのに対し、中国はダライラマの施政権が及ぶチベット高原中央部のみがチベット地方であると主張して、会議を一方的に退席しました。

 

 英国はダライラマ政権の主張どおりカム、アムドを含めてチベット領と認める代わりに、ヒマラヤ山脈の稜線にマクマホンラインを引き、その山麓を英領インドに割譲させました。

ヒマラヤの山麓にあるアルナチャル地方は、伝統的にチベット族が居住するチベット領土だったので、中華民国は、ダライラマ政府が領土を売り渡したと非難しました。

 

 そのため、1950年代の中印国境紛争では領有権を巡って戦争になり、一時はその大部分を人民解放軍が占領しました。その後、中国軍は撤退したが中国政府は現在までマクマホンラインを国境と認めておらず、日本の地図でも国境未確定地域となっています。

 

 一方、シムラ会議を退席した中華民国では内紛が絶えませんでした。国民政府はカム地方に西康省を建省しますが実質的な支配権はなく、チベット情勢については放置されました。

1930年代、蒋介石国民政府軍の包囲網に圧迫された中国紅軍が江西省から延安に向けて長征を行った際には、カム地方に中国共産党主導のチベット人民共和国が建設されましたが、地元民の支持を得られなかったのか、紅軍が去ると同時に消滅しています。

 

 その後、日中戦争が激化すると、チベット領内では英領インドと中国を結ぶ援蒋ルートや通信施設の建設が行われました。一方で中立政策を取るダライラマ政権が協力的でなかったため連合国側の不興を買い、これが戦後のチベット独立問題に影響を与えました。

1940年、ダライラマ14世の即位式に、国民政府は軍部隊を伴った蒙蔵委員会代表団をラサに派遣し、式典終了後もラサに留まって蒙蔵委員会駐蔵弁事処を開設します。

 

 1950年、中華人民共和国はチベット東部のカム地方に人民解放軍を侵攻させ、主要都市昌都を占領しました。ダライラマ政権は、北京に軍司令官のアポアワンジクメを派遣して中国共産党との交渉に当らせますが、中国は偽造したダライラマの印璽を使い、ジクメに「チベット和平解放協定」への調印を迫りました。

 

 同協定では、チベットの範囲をダライラマ政権のあるチベット高原中央部のみとする一方、チベット地方政府による内政の自治権や宗教の自由が保証されました。しかし中国政府によって和平協定は次第に骨抜きにされ、チベット族の間には不満が高まっていきます。

 

 1955年、四川省のチベット族居住地で反中暴動が発生、中国共産党地方政府を追い出してカム地方を制圧するに至りました。中国人民解放軍が反撃に出るとCIAの支援を受けたカムのゲリラ組織はチベット地方に逃げ込み、暴動は全チベットに広がります。中国共産党中央はダライラマに暴動鎮圧を要求しました。

 

 その共産党がダライラマを観劇に招待しますが、ダライラマ拉致の兆候とみたチベット族によってラサ暴動が発生、ダライラマ14世はインドに逃亡して亡命政府を樹立しました。チベット独立派は、ネパール王国ムスタン地区に本拠地を置いてCIAや台湾の国民政府の支援を受けつつゲリラ戦を行いますが、1970年の米中国交正常化により終結しました。

 

 1960年、全チベットを制圧した中国政府は、地方政府を解散してチベット自治区を発足させました。

現在、インドに亡命政府を作っているダライラマ14世は、中国憲法の範囲内の自治を受け入れ、独立を求めないと表明していますが、「チベットの範囲がどこまでか」という問題で折り合いがついていません。




 
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