中国旅行記 愛我南昌(下)(02〜03.江西省) 本文へジャンプ


朋友(2002年12月30日 月)


今朝はトラブルで始まった。まずはトイレが流れなくなった。
あれ?詰まったかな。掃除道具でスポスポ吸い出そうとしたら、パコッとゴム部分が割れてしまう。あちゃー。
「ああ、やったな。これはビル全体が詰まってるからだめだよ」
総経理が言った。なんでも、ここの住人たちはトイレを便利なゴミ箱ぐらいに思っているらしい。紙はもとより、お茶葉、ミカンの皮、下着、ビニールまで何でも流してしまう。そのため、ビル全体の下水管がやられてしまうようだ。汲み取り業者が来て下水槽を浚うと、あるわあるわ、よくこんなモノが入ったなあ、と感心するぐらいゴミの山ができるという。

 私がここへ来たとき、「トイレに紙を流せますか?」と聞いた。中国では下水管が細いため、紙はトイレ内の紙屑入れに捨てるという話があるからだ。その時の総経理の答えは、「ああ、トイレ?何でも流せるよ」というものだった。何でも、という辺りが不思議だったが、こういうことだったか。

 トイレといえば、中国ではドアなしの「ニーハオトイレ」がつとに有名だ。しかし、南昌の急速な経済発展は、地方都市からも「ニーハオトイレ」を追放してしまったのか?私が2週間滞在したあいだ、外事弁公室、大学、公園から街の公衆トイレに至るまで、昔の不潔でお互いが顔を見合わせるようなトイレを見ることは一度もなかった。もちろん、5角の清掃費を払う場所もあるが、そうでなくても大抵は掃除が行き届いて清潔。八一大道や中山路にある最新式トイレは、なんと微生物分解型エコトイレや完全滅菌型を謳っているくらいである。中国風情がまた1つ消えたといえよう。

 さて、次にはテレビのBSが映らなくなった。昨晩は何も特別な操作はしていなかったはずなのに、今朝はビデオしか使えないのだ。
「おかしいなあ。NHKが入らずに、なぜか中国の地元テレビが映るぞ。どうなってるんだ」
中国製ワイドテレビ、見かけは立派だがきまぐれを起こしたか。
さらに飲料水機も壊れた。中国のどこでも見かける大きなポリタンクの飲料水機は、冷水、熱湯の2つの蛇口があり、いつでも清潔な飲み水や熱湯が得られる便利モノ。街では、リアカーの後ろにポリタンクを満載して、住宅や事務所などへ配達する様子もよく見かける。
今朝は、お茶を淹れようとして熱湯を出したら、水が漏れだして止まらなくなったのだ。どうも機械の底が割れているらしく、しかたなくポリタンクを外しておいた。

 家政婦のおばちゃんに、トイレが詰まったこと、機械類の修理を呼ぶことを頼んで総経理は出勤していった。お互いの言葉が分からないのに、なんとなく用件が通じてしまうからすごいことだ。
私も外事弁公室に出向くため宿舎を出た。今日の予定は何も聞いていないが、まだ南昌市内には師範大学や旅遊学校といった日本語を教える学校がある。授業の用意をして11路バスに乗り込んだ。

 いつもの席に座り、カレンダーを抱えていると、ぼろぼろの身なりの爺さんが私と向かい合わせに座った。近くにいると、プンと匂ってきそうだ。
彼が私の足元に置いた大きな竹籠がコツコツとズボンのすそをつつく。何だろう?ふと見れば、それは鶏を満載した籠だった。おいおい、これ売りに行くのか?いかに現代化への道を進む南昌とはいえ、自転車のハンドルにアヒルを十何羽かくくりつけた光景などは、中国の庶民生活を感じさせるが、私は満員のバスの中、足元を鶏につつかれながら中心部へ向かったのだった。



 「早上好」すっかり顔パスになった外事弁公室の警備詰所を抜けて、ビル5階の亜洲東欧処へ行く。
顧健紅さんの話では、今日は特に予定もなく、胡志揚さんについて過ごしてくれという。その胡さんが席を外しているので、私は椅子に座って待った。
事務所には20歳くらいの女の子の先客がいた。夏雲さんがつきっきりで書類の書き方を指導している。履歴書や何枚もの申請書類が机に重ねられ、「日本・・・日本・・・」と会話の端々に混じるから、きっと日本へ働きに行く人なのだろう。
研修生への応募動機として、「日本の進んだ技術を学んで、中国の発展に活かしたい・・・」と夏さんに言われたとおりの文章を書いている。

 ふと、顔を上げた夏さんと目が合った。
「この人は日本人。岐阜で中日交流活動をしているんですよ」
へえ、と振り返った女の子は、春節明けの2月から岐阜へ行く研修生だという。
「あなたが岐阜へ来ることを歓迎しますよ」
夏さんに「来じゃなくて去でしょ」と訂正される。あ、まだ中国だったか。
「あなたが岐阜へ行くことを歓迎します。岐阜は景色もきれいなところ、春になれば桜も見られますよ」
市政府へ行って身分証明書類を取るため席を立った研修生に声をかけた。「祝身体健康、工作順利」仕事がうまくいくといいね。
「謝謝、再見」研修生は去っていった。

 入れ替わりに胡志揚さんがやってきた。
「ハイ、青木さん、さっそく行きましょう」
胡さんは無口ながら、話すときは短く機関銃のようにバババッとしゃべるので、詳しい内容まで聞き取りにくい。それに通訳者でもある顧さんと夏さんが「私の学習のため」に、わざと中国語でしか会話しないのと違い、胡さんは中国語しか話せないのだ。
「はい、今行きます」適当に会話しながら、今日は何をするのか推測するしかないなあ。

 外事弁公室に迎えのバスが来るらしいので、警備詰所に入り、ストーブにあたらせてもらう。
「日本朋友」胡さんが紹介した。おっちゃんは「知ってる」めんどくさそうに答える。することなしに新聞を読んで待ち、ようやく迎えが来た。
胡さんに連れられてマイクロバスに乗り込む。車内は日に焼けた浅黒い農民たちで満員だった。この人たちも日本へ行くのだという。江西省の吉安市と撫州市から、茨城県へ派遣される農業研修生で、道理で若い人ばかりのはずだ。

 バスが向かった先は江西医学院、先週の火曜日に授業をした大学だった。
木立に囲まれた教学楼の建ち並ぶ構内を抜けて、教員住宅地区の一画にある「医学院社会人教育中心」の前でバスを下りる。
聞けば、この農業研修生たちは省都の南昌で2ヶ月間の日本語速習教育を受けるという。さらに上海にある研修生教育施設でも日本についての知識を学び、語学能力認定試験をパスした後、4月になってようやく日本へ出発できるらしい。

 社教中心の老師に引率されて、大きな荷物を抱えた若い農民たちは教室へ入っていった。大学での教育や生活についてオリエンテーションを受けるのだろう。その間、胡さんと私は老師弁公室で待たせてもらった。
学校の職員室なのに、なぜかカラオケ機械があり、カラオケのビデオ映像が流れている。仕事中に歌っているのだろうか?老師たちは、
「退屈でしょう?私たちの練習しているダンスを見ませんか」
カラオケをダンスBGMに設定して、自慢の踊りを見せてくれた。何だろう、フラメンコか、民族舞踊か、そんな踊りが何曲も披露される。狭い職員室でなく、ドアを開け放して廊下でやっているので、通りかかった学生たちがその様子を笑って見ている。


 「さあ、食事に行きましょう」
胡さんと一緒にバスに戻る。田舎から研修生を連れてきた市政府外弁の担当者も乗り込んで、6人で省外弁の隣にある餐館「匯和食家」へ行き、個室で昼食会が開かれた。いつもの如く自己紹介から、江西省の私に対するご好意への感謝、などを述べる。
撫州市といえば、南昌大学の許さんの故郷、臨川がある都市だと聞いていた。
「私が南昌で出会った朋友は臨川出身でしたよ」
撫州市外事弁公室の万剣さんも喜んで、南豊ミカンが有名だし、歴史もあるし、などと話す。

 一方の吉安市は私と多少の縁がある都市。私の住んでいる町は、吉安と交流を行っていたのだ。
2000年の町訪中団は吉安、南昌、廬山を周り、その際、顧健紅さんや王雨森さんにお世話になっていた。今日、私がお会いした吉安市外事弁公室の羅仁生さんも、写真で見た気の良さそうな特徴ある顔が記憶に残っている。
「私の町の訪中団も2000年にお邪魔しています」
私の出身地を聞いて向こうも驚いたらしい。
「そうですか、それでは飲んで、飲んで、乾杯しましょう・・・」
昼間から白酒を一気して、口直しにビールを飲みつつ、
「ところで、あなたの町は01年、02年と訪中団を送ってこないし、友好姉妹都市の話もうやむやなままですね。どうしたの?」
ぎくっ、それは聞かれたくなかった。

 そもそも私と中国のつながりも、私の町が温泉開発にあたって東洋医学を導入しよう、と訪中団を派遣したことに始まる。
毎年1回づつ、数年に渡って延べ70人近い町民が江西省を訪問し、そのうちに吉安市という定期交流相手もできて順調に進んでいるかに思われた。町長も友好関係の締結に意欲的だったのが、ここへ来て市町村合併を前に急にトーンダウンしてしまったのである。
すでに友好姉妹都市を結んでいるアメリカ・フロリダ州の都市が、中学生のホームステイやAET派遣など教育交流を中心にしているのに対し、中国側の希望が労働力輸出と投資の促進であったことも、町内に少なからぬ警戒心を起こしていた。
それに、肝心の温泉計画自体が二転三転して、すっかり東洋医学の話は霞んでしまったのだ。

 「現在、政府機構改革の一環として、3千ある市町村を1千にまとめる市町村合併が進んでいます。私の町も市制へ移行しますが、対外関係でいえば旧町村ごとに友好姉妹都市があって調整に苦心しています。韓国、カナダ、アメリカ国内ではアラスカとフロリダがあるのです。北端と南端ですね。新市が従来通りの交流活動を維持できるか分からない状況では、吉安市との正式な関係も難しいですね。でも、中国との関係は非常に重要ですし、知己も多く住んでいます。みなさんが岐阜を訪問して下されば、きっと過去の訪中団員が集まって歓迎することでしょう」

 ああ、打ち解けて話が弾んだけれど、昼間から赤い顔になってしまった。
省外事弁公室で酔い覚ましする、という胡さんや市外弁の人たちと一旦分かれて、私は昼の散歩をしよう。
中国の役所は2時間半も昼休みがあるから、昼食で飲んでも午後の職務に差し支えがないのかなあ。まあ、普段から飲んでる訳ではないだろうけど。例え会議や出張で外食したとしても、勤務日に酒なんてとんでもない日本の私は、酔い覚ましに八一公園をぐるぐる回った。

 2時半になって亜州東欧処に戻った。まだ赤ら顔で吉安市の羅さんがおり、大きな声で夏さんとしゃべっている。
暇そうにしている私に、胡さんが写真を取りだして見せた。つい先週の日本出張の写真で、友好省県の岡山県と東京都、今度、農業研修生を派遣する茨城県を視察して回ってきたのだという。まだ日本へ行ったことがない羅さんが見せてくれと言い、瀬戸内海の写真を見て、日本はやはり景色がきれいだ、などと感心している。

 「列車チケットはここでよかった?」
外事弁公室のチケット調達部署の係員が1月2日に上海へ帰るための列車切符を持ってきた。
王雨森さんが手配しておいてくれたものだ。312元。南昌駅や国際旅行社まで行く暇がない私にとってすごくありがたい。

 午後は何もしないまま4時になった。今日は南昌大学の学生に、学食へ連れていってもらうのだった。
「約束があるので、お先に失礼します」
外事弁公室を辞して11路バスで大学正門まで行く。しばらく待っていると章華峰君と許紅男さんがやってきた。
「どう、昨日はゆっくり休めた?」
「はい、ずっと寝てましたよ」
「学生食堂では1日何回食事するの?」聞くと、昼と晩は学食で食べ、朝は包子や油条で済ませるという。
「よく飽きないね」感心する私に、食堂は5つもあって、メニューも多いから飽きないよと語る。彼らの一番お気に入りのところへ入った。
巨大な食堂ホールの中央に、バイキング形式で料理の入った保温プレートが並んでいる。
卵とトマトの炒め物とか目移りしてしまうのは、さすが食の中国だ。学生証をかざすと金額がピッと表示されるのは財経大学と同じで、進んでるなあ。
「学生証で食費を精算するので、ああ、今月は食べ過ぎたって分かりますよ」
じゃあ、その翌月はがまんしたりするの?
窪みのあるトレイに好きなおかずを選んで取り、テーブルにつく。章君が南瓜餅と小籠包、スープを持ってきてくれた。
「これは中国のおやつです」と出された南瓜餅はほんのり甘くて美味しい小吃。
「小籠包が冷めちゃいますよ」ありがとう。でも、そんなに食べられないよ。

 すっかりご馳走になって学生食堂を出た。
「青木さん、南昌大学を案内しましょう」
3人で広大な大学構内を歩く。彼らは自分たちの学校を南大と呼ぶ。
「確か北京大学は北大だったよね。南京大学は?」
それも南大だという。じゃあ、南開大学も南寧大学(あるのか?)もみんな南大?
「はい、中国は南大が多いですね」
どんどん暮れてゆく中で、テニスコートにも、バスケットコートにもスポーツをする学生の姿が見える。学生宿舎が建ち並ぶエリアにはもうもうと湯気を上げる開水房があって、大きな魔法瓶を手にした学生が集まっていた。南昌でよく見かける魔法瓶、一昔前の花柄模様は姿を消して、緑色のプラスチックカバーがついた現代的なデザインが主流になっている。

 「南昌大学は古いので、あまり快適じゃないです」
レンガ造りの学生寮を見上げて許さんが言った。近いうちに移転するんでしょう?
「はい、でも歴史のある大学が郊外へ移転するのは残念ですね」
やがて、スーパーや書店、銀行が集まったエリアへ。大学内に市場があると聞いたけど。
「いいえ、今は超市に変わりました」じゃあ、超市だったら買い物は1斤1斤で買わないの?
「はい、1個1個で買います。1斤は分かりにくいですよ」

えー、若いとはいえ、田舎の中国人が単位売りは面倒なんて言うとは意外だった。想像以上の早さで社会が変化していってるのだろうか。もともと江西大学と江西工業大学が合併して南昌大学になったので、もとの江大が北キャンパス、工大が南キャンパスとして残っている。
北から南まで、大学構内を貫く街路樹の通りを歩きながら、3人でいろいろな話をした。
「私は学生のとき、試験があるから嫌だと思っていたけど、社会人になったら、学生時代はよかったなあって考えるよ」
「あはは、そうなんですか」
「私たちは朋友だから、君たちが日本へ留学したときには力になるよ。次に会うときは日本語で話しあえるといいね」
「はい、一生懸命勉強します」

 南キャンパスから上海路の謝家村バス停へ出た。
「あれ、ここは南昌百貨店?」道沿いのデパートを見て許さんが驚いた。おばさんの家の近くで、小さい頃はよく遊びに来たのだという。
「青木さんは上海路のどこですか?」うん?辛家奄、航空工業学院の近くだけど。
「辛家奄?そこが親戚の家です」
よく聞けば、北京華聯超市のすぐ近所なんだとか。私の宿舎の隣みたいなものだ。
「私は南大に入学したけど、おばさん家がそんなに近いなんて気づきませんでした。今度、遊びに行ってきます」
世間は狭いなあ。

 「謝謝イ尓們対我的熱情。新年快楽、祝身体健康、学習進歩」
本当に次は日本語で話せるといいね。私も次には、もっと上達した中国語で話したいなあ。11路バスがやってきて、私が乗り込むと、彼らはバスが動き出すまでずっと手を振って見送ってくれた。ありがとう朋友們。

 宿舎に帰ると、修理されたテレビを前に、総経理が帰国準備に追われていた。明日は朝6時には空港へ行かなくてはならないという。
「私はどうすればいいですか?」
「部屋は自由に使っていいよ。ただし、社員は留守だと思ってるから、不要に電気をパカパカしないように。不審がられるからね」
明日には家政婦のおばちゃんが点検にやってくるので、私は荷物を部屋に置いて旅行中、ということにした。敵を騙すときはまず味方からだ。


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友城処(2002年12月31日 火)


今日は大晦日。
帰国する総経理は、朝4時頃から準備をしている。まだ真っ暗な中で運転手が迎えに現れて、日本へ向け帰っていった。
「本当にいい体験ができました。総経理のご親切のおかげです。気を付けてお帰り下さい」
「何も気を使わなくていいよ。戸締まりは任せたから、厳重にね」

 さあ、私は今日から3日間は、この宿舎にいないことになっている。それらしく準備しなくては。荷物をまとめ、おばちゃん宛の手紙を書いた。
「お世話になりました。私が旅に出る間、荷物を置かせて下さい。2日に荷物を取りに来て、日本に帰ります」
スーツに着替えて、いつもの通り授業の用意を整え、おばちゃんに会わないよう早い時間に宿舎を出た。

 今日の朝食は街角の包子屋。屋台は規制されたのか、現在の南昌ではめったに目にすることはなく、代わりにちょっとした小吃屋が朝早くから美味しそうな湯気を街のあちこちで上げている。これらは、中山路よりも、ちょっとした路地や辛家奄のような住宅地でよく見かけるものだ。
そして24時間営業のインターネットカフェ。宿舎の周囲500mくらいの範囲でさえ「網巴」は10軒以上あるだろう。驚くべき網巴密度である。スモークガラス越しに覗き込むと、コンピューターゲームに夢中になっている若者でいっぱいだ。工業団地の中にも「夢幻網巴」が営業していた。

 包子とペットボトルのお茶を買う。出勤バスの中で朝食を食う人たちは、ビニール袋に入った豆乳を袋の口から器用に吸っているが、私は先日のように失敗したくないので「緑茶・微糖」でがまんする。見た目は日本の緑茶と変わらないのに、砂糖入りなのが残念。
ついでに言えば、私が南昌の変化を実感したモノに、急速に普及してしまった自動販売機がある。今や街のどこにも日本と同じ形のジュース販売機を見ることができる。値段が高めなので利用しなかったけど、中国に訪れた大量消費社会を象徴しているかのような光景だった。





 明日は元旦、八一大道から中山路にかけての商店は、新年向けの準備に追われている。以前は華やかなムードのかけらもなかった年末だが、現在ではクリスマス商戦、元旦商戦、そして春節へ、と商店にとってはほくほくするような書き入れ時になったのだろう。
春節には及ばないまでも、なかなか情緒のある大晦日の街を抜けて、外事弁公室へ到着した。

 今日は中国の役所にとって年度末の日。
人事異動が発表され、机を持って役所内を引っ越す日だという。
日本でも3月31日から4月1日はてんてこ舞いするが、亜洲東欧処も人事異動がなかったとはいえ、そわそわした雰囲気が漂っていた。もっとも、顧さんや夏さんは日本語通訳という専門職なので異動することはないだろうけど。
各部署では重要な会議があるとかで、今日の私の予定は友好城市処の塗安波さんについて江西師範大学へ行くことだった。

 友好城市処のドアをノックする。ここは2人だけの部署ながら、責任者の塗さんは自分専用の部屋を構えている。
「やあ、いらっしゃい。よく来たね」私より3つ上の若い責任者はにこにこしながら迎えてくれた。
「私は訪日団であなたの町へ行ったよ。すごくきれいな風景だったね」
机から写真を取り出す。見慣れた山あいの町をバックに役場の幹部たちが写っていた。訪日団は小学校で歓迎の発表会を見たという。
「日本の子どもの音楽表演は素晴らしかったよ。設備の整った教育環境があってうらやましいね」
どうやら2時間程度の滞在だったらしく、道理で毎年のように訪日団を接待した私が知らないはずだ。
「次回はぜひ温泉に泊まって下さい。私は必ず熱烈歓迎しますから」

 次のアルバムには、私の町の訪中団と南昌の街で撮った写真が並んでいる。
「報告書も送ってもらったよ。私は日本語が読めないのが残念だけど」
漢方薬市場や温泉保養所の様子などが書かれた江西省視察報告書の後半部分、私の知ってる人ばかりが寄せた旅の感想文は、中国は遅れてる、不潔だ、とか料理が口に合わない、とか言いたい放題。あー、読んでいて冷や汗が出た。こんなモノ、よく中国へ送ったなあ。
「この人たちは元気ですか?」名刺の束と写真を見せながら聞かれた。
「みんな元気です。当時の団長はもう退職しています」

 私の名刺を眺めてあっと声をあげた塗さんは、勢いこんで言った。
「青木さんはイエシャンですか」
イエシャン?家郷、家郷、と繰り返すので、ようやく分かった。私の住所、野上のことだ。
「はい、野上ですけど何か?」
「タオユエンさんがいるでしょう?」
ああ、私の近所の人だ。中国留学経験があるので、1999年訪中の団員として参加していたのだ。
「私の1つ下で、小、中学校は一緒でしたよ」
「そうか、彼女は元気か?最近結婚したんだって?」あれ?この人はもしかして気になっていたのか。
「私はあまり会う機会がありません。まだ独身だと思いましたが」
いや、こんど結婚するって手紙が来たぞ。はあ、と溜息をつく様子を見ておかしくなった。近所で知らないことを、なんで中国の人が知ってるんだ。

 塗さんは先日の日本出張は行かなかったのですか?
「うん、私はベトナム出張だったからね」
次のアルバムには、ハノイで開かれた江西省物産展の写真があった。
「へえ、日本は今、ベトナム旅行や雑貨がブームですよ。ベトナムの陶磁器も有名ですね」
景徳鎮の並んだ写真を見ながら言うと、塗さんは「不好」一言で切り捨てた。
「中国製に比べて造りが雑だね。遅れてるよ」
うーむ、まるで中国製品を評する日本人のような口振りである。
「でも、ドイモイ政策で経済発展しつつあるでしょう。ちょっと前の中国と似ていませんか?」
確かに、今のベトナムは改革開放が本格化した1980年代の中国によく似ている、と塗さんは語った。

 「それに比べて・・・」言葉が続いた。「朝鮮はだめだね」
おお、北と同盟関係にある中国人から断言されると思わなかった。
「あんな状態では発展するはずがない」
はて、中国にも文化大革命の苦い経験があるのではなかったか?私はちょっと考えて、
「南昌は大変化しましたね。改革開放で人民の力量は年々高くなります。ベトナムも人民の力量が高くなっています。私は首領だけが強い国よりも人民の力量が高まっていく国の方が幸せだと思いますね」

 「現代化で伝統色は薄れるでしょうが、私は日本や中国、韓国の生活が似てくるのは相互理解にとっていいことだと思います。全く生活スタイルの違う世界の人より、近い世界の方が、相手の文化や考え方に共感できるでしょうから。欧州だって、生活水準が平均化されて情報が行き渡った現代では、EU統合にまで至りましたよね」

 なんだか小難しい話で意気投合してしまった私たちは、時間がきたので江西師範大学へ向かうことにした。塗さんは師範大学卒。今日は母校や恩師を紹介できて嬉しいと意気込んでいる。
外弁の駐車場へ行くと公用車らしくない赤いフォードがあり、なんと塗さんはマイカー持ちの中国人なのであった。
「いい車だろう?中古だけどね」
マイカー規制の厳しい上海と違って、南昌では自動車取得がまだ容易なんだとか。そういえば、財経大学へ向かう開発区の国道脇には、日本でも見たことがないくらい巨大なトヨタのショールームが建設中だった。
「南昌も2、3年すれば毎日大渋滞が起こり、10年後は地下鉄ができるだろうよ」
平安夜の晩、総経理が予言したのを思い出す。

 南昌市の中心部近く、北京路に面した江西師範大学へ塗さんのフォードで入っていった。
構内を歩く学生に接触しかけてヒヤッとしながら「国際交流処」に到着、処長の李行亮老師に迎えていただく。授業前の打ち合わせかと思いきや、「こちらへどうぞ」と案内されたのは、応接室での処長さんとの会談。どうやら私を学生との交流ではなく、大学視察に連れてきたらしい。
「日本から友好活動で訪昌している青木さんです。中国語を話せ、見識もあります」
塗さんが私を紹介すると、李老師はうなずいて、
「今日は日本語老師がいないので、中国語だけで話しましょう」
えー、単なる雑談ではない雰囲気にすごく緊張する。

 テーブルの上に日中両国の小旗がセットされた席で、本格的な会談が始まった。師範大学側は私を個人じゃなく、岐阜日中協会の代表として遇している。この立場は今回の滞在中、たいへん便利ではあったけど、1人きりで逃げ場がないのも困った状況だ。
「江西師範大学は改革開放で世界へはばたく人材を養成するため、国際文化交流に力を入れています」
李老師は日本語学科の充実のため、日本の大学との連携を図りたいと言った。師範大学の学生を日本へ留学させ、日本の学生を師範大学で留学受け入れするという。現在、この大学にも日本人の教員、留学生はいない。
「両国学生が互相学習を行う環境を目指しています。日本の大学への働きかけを日中協会にお願いしたい」

 韓国で沸騰する中国ブームの影響もあってか、江西師範大学でも韓国人留学生の数は多いそうだ。まだ中韓関係の歴史が浅いため、ハングル学習は行われていないが、南昌をはじめ中国各地で韓国の経済的、文化的影響が強まると日本の地位も安泰とはいかないのではないか。
「現在、日本でも学生、社会人を問わず、中国に目を向け、中国語学習に取り組む人が増えています。中国への留学生も多いですが、まだまだ日本人の関心は北京、上海に止まっているようです。私も微力ですが、発展しつつある南昌の様子を日本で伝えましょう」





 「学内を案内しましょう」
会談が終わり、李老師に従って大学構内を歩く。雑談をしながら、気になっていたことを聞いた。
「市内に教育学院がありますが、師範大学との違いは何ですか?」
教育学院は現職教員の教育機関、師範大学は小、初中、高中教員の養成の他、最近では一般就職する卒業生も多いという。
「先日、師範大学の学生が北京の英語スピーチコンテストで2位を取ったそうですね」
私は新聞で読んだ記事を李老師に話した。北京大学、清華大学といった超有名大学を退けて、江西省の田舎大学生が準優勝したとあって、江西省の地元紙は英雄的な扱いをしていたのだ。
「ええ。よくご存じでしたね!我が校を挙げて応援していた学生です。特にアメリカ人教師が熱心に指導し、本人も努力を惜しみませんでした。驚くべきは英才教育とは縁のない普通の学生だったのですよ」

 大学側は、私が師範大学の栄誉を知っていたことにすっかり気をよくして、構内にある大学招待所のレストラン「園中園」で昼食会を開いてくれた。国際交流処の老師たち、塗さんと共に円卓を囲む。今までの大学は女性老師が多かったが、ここで初めて男性老師ばかりの席に座った。
「塗君は優秀な学生だったよ・・・」恩師である李老師が語りはじめ、白酒やビールが入ると、なぜか話題は別の方向へ。
「青木さん、中国女人をどう思いますか?」
「中国男人いわくリーハイらしいですね。でも、日本の女人もリーハイですよ」
ほお、一同が感慨深げに声をあげた。「中国では、日本女人は優しいイメージがあって羨望の的ですよ」
「日本では、中国男性は女性に優しいイメージがありますけどね」
「そう、中国の男はつらいが、国を越えて女性はリーハイだ。今日は男だけで乾杯しましょう」
李老師は楽しそうに笑った。しかし、大学の先生が昼間からこんな話で盛り上がるかなあ。

 食事を終えて、老師たちの好意にお礼を述べ師範大学をあとにした。飲酒していない塗さんのフォードで北京路へ出る。
「青木さん、時間があるから南昌を案内しましょう。滕王閣は行きましたか?」
私は主要な観光ポイントは回ったことを話し、まだ行ってない「縄金塔」を見たい、と頼んだ。
「ほお、縄金塔ですか?私も初めてだが、場所は分かります。行きましょう」

 「塗さんはマイカー通勤ですか?」
何気なく聞くと、アパートは徒歩2分だという。職場は駐車場代わりなのだ。
「じゃあ、いつ運転するんですか?」
塗さんいわく、南昌市内は車も人も自転車も多くてたいへんリーハイなので、あまり車に乗らないとか。今日は久々のドライブで楽しい、と語る。
「私は日本で毎日マイカー通勤ですが、中国では怖くて運転できないですよ」

バスやタクシー、外弁サンタナなど、プロの運転なら、まだ安心して乗っていられるが、素人ドライバーの助手席は、はっきり言って怖かった。目の前の道路を、思うがまま縦横無尽に歩行者や自転車が横断し、車の行く手をふさぐ。
「塗さん、中国の運転免許はどうやって取るのですか?」
「ああ、南昌郊外の駕車学校へ通ったよ」
その自動車学校では、練習コース上に障害物がうようよしてたりするんだろうか?



 南昌の数少ない観光ポイント「縄金塔」は、上海の豫園かいわいを思わせる庶民的なエリアにあった。
塗さんも駐車場がどこか分からない。路上駐車を交通警官に咎められてUターンを試みた瞬間、ガガガー、電柱に思いっきり擦ってしまった。
「アイヨー」焦ってフォードをバックさせ、次は自転車と接触してしまう。激しく怒鳴り込むおっさんを見ながら、私はちょっと後悔した。
さすがに緊張の面もちで駐車場に入った塗さんがボディーを覗き込む。見ればフォードのバンパーがボコボコ。もともと傷だらけだったようだ。
「没問題。分からないよ」えー、自慢の愛車じゃなかったの?

 縄金塔は市中心部の南にある、市内きっての古い七重の塔。火災や水害を鎮める願いを込めて唐代に建てられ、清代に再建された。
最近観光開発が進み、中国伝統建築のお土産屋やレストランが並ぶ「縄金塔老街」ができたり、廃寺だった千仏寺の修復も行われている。
高さ60mの塔最上階へ急な階段を上ると、はるかに南昌市内を一望することができた。久しぶりに晴れ渡った空の下には、八一公園周辺の高層ビル、通勤バスから見上げる高級マンション群、ツインタワーの南昌駅ビルも見える。足元には、中国らしい昔ながらのレンガ住宅が広がっていた。





 その後、フォードで海辺を思わせるカン江沿いをドライブし、南昌市内をぐるっと回って外事弁公室に帰った。
「青木さん、明日は元旦で休日です。どこかへ遊びに行きますか?」
私は王雨森さんに頼んで、江西省の名山のひとつ「龍虎山」へ1日旅行に連れていってもらう予定だった。
「龍虎山ですか。そこもいいけど、残念だなあ。私の故郷、ポーヤン湖へ案内したかったよ。きれいなところだよ」
塗さんの実家は、南昌から北へ100キロ、中国最大を誇るポーヤン湖の畔にあるのだという。
「今は候鳥の季節ですよ。先日もドイツ人を連れて丹頂鶴の観察に行ってきました。次はぜひ私の実家へ遊びに来て下さいよ」

 5時半になって仕事が終わると、友城処に王雨森さんがやってきた。今日の夕食は王さんと友城処が私を招いてくれるらしい。
南昌市中心部の「民間瓦罐(火畏)湯館」はスープで有名な、塗さんお勧めのレストラン。王雨森さん、塗安波さん、友城処の女性スタッフ、江西医学院の劉老師、サンタナの運転手というメンバーが集まった。
「私たちは王さん直属の部下だからね。みんな今の仕事に引き上げてもらったんだ。我らがボスのために乾杯」
「王さんが来日すると、日本人はもとより在日江西人もみんな歓迎にやってきます。やはり王さんの人徳を慕って集まるんですね」
外事弁公室の日本関係部門、日本の江西省関係者はみんな王さんと強い関係で結びついている。私たちは王さんを囲んで何度も乾杯した。



 やがて、中国恒例、1対1の乾杯合戦へ移っていく。今まで白酒勝負の相手は総経理と王さんくらい、南昌ビールも強くないので、私は酒に酔うことがなかった。でも、今日の女性スタッフは手強い。劉老師、塗さん、と潰れていく中で、クイッ、クイッと杯を空けていく。
「青木さんの健康を祝して、乾杯」
クイッと空けてグラスの底を見せたら、肝心の相手が飲んでいない。
「それはルール違反だよ」「お願い、私の分も飲んで」
えー、仕方ないなあ。塗さんが、「やっぱり中国女人はリーハイでしょう?」と言って笑っている。
おかげで大晦日の晩は酔いつぶれてしまった。せっかくBSで紅白歌合戦見ようと思っていたのに。


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龍虎山の旅(2003年1月1日 水)


2003年の元旦を、私は中国・南昌で迎えた。
総経理も帰国してしまった宿舎には私1人だけ。しかし、今朝は8時に外事弁公室まで行って王雨森さんと合流することになっている。あんまりのんびりしていられないのだ。まだちょっと酔いが残った頭を抱えてシャワーを浴び、外出する準備を整えた。

 新年を祝するかのように、空は快晴、空気もぴりぴりした冷たさは消えて春のようだ。
バスを利用すると間に合わず、タクシーで直行すると早すぎる時間に、私は途中の人民広場までタクシーで行き、元旦の街を歩いてみることにした。八一起義記念塔が見下ろす広場には、大きなバルーンアーチができて、南昌観光特色物産展のテントがいくつも並んでいる。
百貨大楼にも、北京路の省政府ビルにも、真っ赤な「祝元旦」の幟が垂れ下がって、春節に及ばずながら華やかな雰囲気がある。



 早朝の八一公園にはいつに増して多くの市民が繰り出していた。太極拳やダンスの集団はもとより、老年ブラスバンドのお爺さん、お婆さんたちがバトンを先頭に行進練習をしている。正月らしい賑やかさに満足しながら、サンタナの運転手さんが待つ外事弁公室に到着した。
やがて、王雨森さん夫妻、王さんの友人で外弁の外郭団体事務長の劉さんがやってきた。
「新年好!」
正式には2月1日の春節なんだろうけど、明けましておめでとうございます。






 「いい旅行日よりになりましたね」
今日は王さんが特別に江西省の名山、龍虎山の1日観光へ私を連れていってくれるのだ。写真が趣味だという事務長の劉さんは大きなカメラを提げ、王さんも日本で買ったばかりのビデオカメラを持参していた。
朝8時、私たち5人を乗せたサンタナは南昌の市街地を抜け、カン江に架かる南昌大橋を渡って高速道路を東に走った。

 「この高速道路は、12月28日に開通したばかり。私も初めて通ります」
王さんが言うとおり、南昌から浙江省を抜けて上海まで続く高速道路はまだ新しく、たまに通る大型トラックを除けば交通量もほとんどない。ハイウェイの様子はどこの国でも大差ないし、まして中国は漢字の標識なので一瞬日本と見分けがつかないが、「上海900km」なんていう標識の距離感がいかにも大陸らしい。
龍虎山は南昌から200キロ、時間にして2時間半である。私は走っても走っても何の変化もない田園風景に飽きて、車の中で寝ていた。

 目が覚めると、サンタナは田舎道を走っていた。
元旦で「日柄がいい」せいか、朝のうちから結婚式の赤い飾りをつけた車によく出会う。
空は晴れているが、もう周囲に見えているはずの山々は靄に包まれていて姿を現していない。南昌と比べて、発展から取り残されたような農村集落を通り過ぎ、数軒のお土産屋や食堂が集まった広場へ到着した。そこが龍虎山風景区の入場ゲートだった。

 江西省の東部、鷹潭市の「龍虎山」は、福建省の世界遺産「武夷山」と背中合わせの位置にある景勝地。道教発祥の地、天師府と上清宮がある聖地として有名であり、芦渓河の川下りではそびえ立つ99峰もの奇峰岩峰を望むことができる。その光景は「桂林ではないが、桂林に似る」と称されているらしい。知られざる観光スポットだが、中国語のガイドブックで写真を目にしたときから気になっていた。

 駐車場にサンタナと運転手さんを残し、入場料100元を払ってもらってゲートから船着き場へ。
夏場は大にぎわいの川下りも冬はシーズンオフらしく、観光客が揃うまで30分ほど待たされる。しかし、そのうちに川面を包んだ霧がぐんぐん晴れてゆき、目の前に特徴のある岩山が現れてきた。上流から下ってきたボートに乗り込み、再びボートは上流へ向かってゆく。



 黄土色の泥流が流れる大河カン江と異なり、緑の山々に囲まれた芦渓河は深碧色の清流が印象的だ。
そそり立つ岩峰が近づいて、ボートは最初のポイント「崖棺遺跡」に接岸した。河岸の仏教寺院前に、オーバーハングした岩峰の頂上からロープが垂れ下がっている。「崖棺遺跡」は辺りの絶壁に開いた無数の洞穴内にある古代墓。約3000年前、春秋戦国時代のものらしいが、切り立った断崖絶壁へどのように棺桶を吊り上げたのか、どんな民族が住んでいたのか、いまだに謎の多い遺跡だという。
ロープに結んだ棺桶は、観光客向けに行う吊棺桶のデモンストレーション用だ。

 遺跡を離れたボートは、その形から「仙桃岩」「天女散花」などの名前が付けられた岩峰の間を上ってゆく。
すれ違った漁師の舟の舳先には数羽の鵜が止まり、なんと鵜飼漁をしているのだった。私は岐阜に住んでいながら、鵜飼いを見たのは初めて。
紐で繋がれるでもなく、自由に河に潜って魚を捕る様子にボートから歓声があがる。鵜は私たちの近くまで泳いでくるが、別に観光客向けではない、素朴な渓流の漁法だった。

 今度は観光客相手の商売舟が近づいてきた。筏に湯気を上げる蒸籠を乗せ、粽子と茶で煮た茹で卵を売るために寄ってくる。
「粽子1塊、茶蛋1塊」の掛け声に、ボートの客から「高すぎる」との反応。筏の小吃売りおばちゃんは「板栗入り粽子はここでしか食べられない」と売り込んでいる。結局、2、3人の客が名物の板栗粽子を買い、筏はするすると離れていった。
シーズンオフのせいだろうか、観光地にしては割にあっさりしているなあ。








 さすが「小桂林、小離江」というだけあって、次々に現れる岩峰の群は目を飽きさせない。
目もくらむ高さに橋が架かり、下界と山頂の寺院を結んでいる。仙人城と呼ばれる山頂寺院からは、元旦を祝う爆竹の音が響いていた。
やがて、ボートは河岸の「許家無蚊村」へ接岸する。舟が唯一の交通手段の小さな村。昔、えらい坊さんが蚊を根絶させた伝説があるという。
「青木さん、カメラをしまって下さい」と言われ、カバンに収めて上陸した。メインストリートを行くと、小さな広場に「伝統結婚表演」の看板があり、花嫁化粧した小姐と駕籠、数人の若者が待ちかまえていた。1人60元、駕籠に担がれて広場を回る趣向らしいが、なかなか勧誘は激しい。
「60元と言ってますが、100元出すまで籠から降ろしてもらえませんよ。写真を撮ってもお金を請求してきます」

 結婚表演の勧誘を振り切り、ちゃちな民俗博物館と数件のお土産屋を覗くと、許家村には何もない。
河岸の大きな木の下で、小さなおもちゃ屋台が店開きし、子どもから大人まで集まっている様子は素朴な山の村という感じだ。冬場は静かだけど、春〜秋は観光収入で潤うのだろう。森の中には、あたりのたたずまいに似つかわしくない立派なキャンプ場が見えていた。

 ボートは折り返し、下流に向かって戻りはじめた。水量の多い夏には上清鎮の街まで遡れるが、今の季節は渇水期にあたり途中までらしい。
船着き場の手前、「仙女岩」が観光ボートの終点。そこから絶壁に囲まれた遊歩道をゲートまで歩いて帰った。なんでも、途中にある岩が竜虎山きっての名所らしいのだが、まあ、考えることは中国人も同じだね、といった自然の造形があり、子宝の神様を祀るお宮が設けられている。








 ゲートを出たところにあるレストランで円卓を囲んだ。
道路をはさんだ広場では100人ほどの宴会が賑やかに開かれている。赤い飾りが載った乗用車が待機していて結婚式だと分かった。あたりに商業施設など見あたらない農村地帯なので、レストランのある龍虎山で披露宴を開いたのだろう。
「一体、新郎新婦はどの人ですか?」
王さんが見るに、男はみんな似たような格好ながら背広の胸に花を付けた人が新郎、真紅のワンピースを着た人が新娘のようだ。
「中国では新郎側の宴会と新娘側の宴会を連続で行うと聞きました」
と言ったら、どうも1日で連続するのでなく、新婦側宴会は3日の里帰りの際に家族や友人たちが開くのが一般的らしい。

 川下りのあとは、サンタナに乗って上清宮の初詣へ出かけた。
のどかな農村の背景に奇妙な岩峰がにょきにょき突き出ている風景は、「桂林だと言われたら、そう思い込んでしまう」という話もうなずける。絶景の地だが、なぜ日本で無名なのだろう?ここからほど近い三清山は「黄山だと言われたら・・・」という景勝地だという。
うーむ、素晴らしい場所だけに、超有名観光地の亜流みたいな宣伝文句は残念だなあ。

 しかし、道教聖地、上清宮は他にひけをとらない本物。道教の創始者、張道陵が修行を積んで神殿を開いた場所である。
広い境内は赤、青、緑といった原色で彩られた神殿が並び、樹齢数百年の樟樹が生い茂って神秘的な雰囲気が漂っている。昔、キョンシーの映画で見た黒づくめの道士が境内を掃き清め、神像の脇では道士見習いの子どもが日本の神楽にも似た笛子や琴を奏でている。





 「おみくじを引いてみましょう」
王さんに中国式のおみくじを伝授してもらった。まず、賽銭を投げ、三拝して番号の書かれた筮竹を取る。次に神様へのお伺いをたてる。耳形の木片を2つ投げて、裏表「陰陽」になればOKだという。同じ向き「陰陰」「陽陽」なら、筮竹を取り直して再度お伺いをたてるのである。OKだった筮竹の番号を道士に伝えると、その番号のおみくじを渡してくれる。
王さんは「上吉」、私は「中吉」だった。おみくじの内容は日本のそれに似て、願いは叶う生活に苦労しない、とか訴訟悪し、などとある。

 私たちは、サンタナに戻り200キロ離れた南昌市に向かった。
「私は明日、外弁のマスコミ懇親会があります。そこで今晩、青木さんの送別会を開きましょう」
王雨森さんの提案で、そのまま南昌市福州路にある人気レストラン「福膳坊」に入る。店には事務長劉さんの奥さん、サンタナ運転手の奥さん、南昌服部公司の運転手夫妻も集まった。快晴に恵まれた龍虎山の思い出を語りあいながら、残り1日になった南昌生活にも思いを馳せる。



 明日、外事弁公室は年度始めの会議などがあるらしい。私はどうしたらよいだろう。
「明日、3時に荷物を持って外弁に来て下さい。駅までは外弁で送ります」
王さんを除いた亜洲東欧処の皆さんが送別会を用意しているという。服部公司の運転手さんが宿舎まで迎えに来ることを約束してくれた。今晩も上海路へ送ってもらいながら、これで宿舎にいるのがバレバレだなあ、と思った。


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さよなら南昌(2003年1月2日 木)


1人になった宿舎で目が覚めた。長いようでアッという間の2週間だったが、南昌での生活も今日が最終日だと思うと、ちょっと感慨深い。
私の予定は、2時半に会社の運転手さんに迎えに来てもらい外弁へ向かうこと。午前中の自由時間は少しでも南昌の街を歩き回りたかった。

 9時頃に宿舎を出て、11路内線バスで人民広場へ行く。
一般的に中国の路線バスが語られるとき、不便、汚い、秩序のない乗り物だと言われることが多い。私もそういうモノだろうと思っていた。しかし、現在の南昌市内に網の目のように張り巡らされたバス網は、まずまず快適な交通手段になっている。
ほとんどの車両が新型のワンマンバスになり、プラスチック椅子の並んだ清潔な車内、次の停留所を知らせるアナウンスもある。それ以上に変わったのは、乗客のマナーだろう。市中心部では混雑するが、話に聞く「他人を押しのけて乗り降りし、もみくちゃボロボロになる」光景はない。
たとえラッシュ時であっても、老人がいればごく自然にサッと席を譲る様子など、以前の唯我独尊の中国人はどこに?という感じだ。

 それでも中国らしさを垣間見ることはできる。日本でも、混雑時には子どもを膝の上に載せるだろうが、ここではいい大人がそれをやるのである。2人分の席に3人、4人が座っていることは珍しくない。まあ、すごく密着したカップルとか、女の子グループの場合がほとんどだけど。
あと、ラッシュの車内での食事。包子とビニール袋の豆乳で立ったまま器用に朝食を済ませている。
そして、いただけない光景は、もう一つの中国名物「カー、ペッ」どこでも吐き出される痰だ。ゴミも目立たず、生活の余裕と共に飛躍的に向上した人々のマナーではあるが、これだけは街中、バス車内を問わずなくなっていなかった。








 人民広場でバスを下りる。いままで街歩きは八一大道の西側、ダウンタウンばかりだったので、今日は東側を歩いてみよう。
北から南京路、福州路、北京路という順に東西に走る街路が平行している。街路樹が陰をおとす北京路には白亜の省政府ビルがあり、その周辺には省政府御用達の景徳鎮陶磁器や高級茶の専門店がずらりと並ぶ。中国伝統建築を模した専門店街を過ぎると、今度は自転車とバイクの販売・修理店が続いていく。

 公園路に折れて、南昌市最大の人民公園へ。雑貨屋や小吃屋の並ぶ庶民的な公園路の周辺に、市内中心部のアパート街が広がる。
住宅街道路の入口は大きな鉄格子戸で閉ざされ、小さな扉を使って住人が出入りしているのは防犯のためだろうか。飲料水のタンクなどを積んだ配達リアカーが来るたび、管理人が主要道路に通じる格子戸を開け閉めしていた。

 人民公園は、南昌動物園に隣り合わせる33ヘクタールの広大な公園。百花洲のある八一公園は無料だけど、こちらは2元の入場料が必要だ。
緑に包まれた園内には、バードパークや湖に浮かぶ中国建築、巨大な仮山などがあるが、どんより曇った空から、時折ぱらぱらっと雨が落ちてくる天気では人影もまばら。公園を横断して、大型レストラン街である福州路へ出た。八一大道を渡ると、勝利路歩行街までまっすぐの道だ。








 もうすっかり馴染みの場所になった勝利路歩行街は、元旦の飾りがそのまま残されている。赤い中国灯籠のバルーンが上がり、特設ステージも設けられて華やかな雰囲気があった。元旦商戦の歩行者天国で特に目立つのが、「マンション」「自動車」「携帯電話」の3つ。
いくつかの不動産会社が競い合う特設テントに入ると、高級マンションや郊外住宅のジオラマが展示され、景品の当たるゲームに黒山の人だかりができている。不動産広告を手にした人々をマンション見学に案内するバスも近くに待機しているのだ。

 自動車はトヨタとフォルクスワーゲンが屋外展示場を設け、やはり大勢の市民が興味深そうに車を覗き込んでいる。携帯電話「CDMA」のPRステージでは、降りしきる雨の中、ダンスチームや歌手の表演が休むことなく続いていた。ここが中国の地方都市であることを忘れさせる光景だ。
南昌滞在の最終日に、経済発展の象徴を見たような気がした。






 7路バスで人民広場へ戻った。
お土産選びは八一起義記念塔の下に広がる「南昌観光特色物産展」のテントで見てみよう。
江西省内だけでなく、吉林省、内蒙古などの食品や衣料品、名産品が売られている。私はいくつも出展されたブースを周りながら、江西省銘菓のおこし「凍米糖」と、やはり江西省で有名な緑茶を買い込んだ。空港で日本並み値段のチョコレートや烏龍茶を買うよりはるかに安い。20ほど買って、全部で150元もかからなかった。

 さて、街の写真も撮ったし、お土産も買った。お腹が空いてきたので、近くの自助餐に入って昼食にする。
1元1枚のチップを買い、バイキング形式で並べられた料理を選んでチップと交換する仕組み。小籠包と餃子、野菜炒め、スープを取っても10元でお釣りが来る。日本円150円以下で食べきれないくらいだ。

 時計はもう1時、そろそろ宿舎に戻らないと。タクシーを拾って上海路へ帰った。
「辛家奄、上海路と解放路の十字路」
車を走らせながら運転手が聞いてくる。「あんた外省人だね。どこから来た?」
「いいや、外国人だよ」
ふーん、運転手は1人納得して言った。「そうか、新加坡人だな」まあ、そんなところかな。
すっかり偽シンガポーリアンになった私を乗せて、タクシーは辛家奄に走っていった。

 お土産をまとめ、スーツケースを閉じる。時間通りに会社の運転手さんが迎えに来てくれた。宿舎の鍵をお礼の手紙に包んでリビングに置き、玄関が完全にロックされたか確認してお世話になった宿舎をあとにした。
外事弁公室に到着して、駐車場に止まっていた外弁のバンへ荷物を積み替えると、会社の運転手さんともお別れである。
「最後までお世話になりっぱなしでした。ありがとうございました」

 5階の亜洲東欧処は新年度だけあって忙しそうだった。
私の顔を見た胡志揚さんは、「私と一緒に来て下さい」と言って駐車場のバンに案内する。そのまま車に乗せられて向かった先は江西医学院。
「青木さん、最後の授業です。先日の農業研修生たちに話して下さい」
えー、私はもう帰るばかりにしていたのに、急な話だなあ。まだ時間も十分あるし、まあ、最後まで交流ができるからいいか。私は承知して医学院の社会教育中心へ入っていった。

 「えー、日本から来た青木さんが、日本農業の状況について話してくれます」
教室の中では40人ほどの農業青年たちが興味津々の面もちで私を見ている。突然、農業の状況について話せ、なんて言われても困るけど、
「私は農業の専門家ではありませんが、思いつくままにお話しましょう」

 「皆さんは茨城県へ派遣されるようですね。日本最大の農業地帯は大きな北海道ですが、面積が小さな千葉県、茨城県も農業生産高では上位を占めます。それは、大都市圏に近く、商業的な先進農業が盛んだからです。小さな国土の日本では、施設園芸など集約的で単位生産量の多い農業が行われます。日本人が中国の農村を見ると、まだまだ粗放的で単位生産量が低く感じるのです。進んだ農業方法を学んできて下さい」

 「日本では、稲作農業が主流です。食糧供給と農民の生活安定のため、政府が農業を管理してきました。国は、農民から米を高く買い、都市部へ安く売る、その差額を国費で補填するのです。しかし、農産物の自由化でそのシステムも崩れ、商業作物も安い外国産に押されています。無農薬など安全で安心できる産品を地元で食べる『地産地消』が日本農業の生き残る道だと言われています」

 質問などありますか?
「その農協という組織について説明して下さい」
「えーと、農業協同組合、中国語だと農業合作社でしょうか。農林水産省の管理のもと、農民が加入して農業指導、機械の共同化、金融、流通なども行い、米の生産と供出、流通を担っていました。企業の参入禁止など零細農家の保護に大きな力を持っていましたが、農業自由化が進んでいる現在の状況は厳しいですね」

 「中国と日本の生活習慣の違いを教えて下さい」
えー、弱ったなあ。私は中国人の生活習慣を知らないし、まして中国語で細かいニュアンスを説明できない。そこへ助け船の夏雲さんがやってきた。よかった、やっと通訳が現れた。
「日本人は時間、数量にシビアです。農業に例えれば、最適な時期に最適な量の水や農薬を与えることで、最大の収穫を得るのです。少しくらいいいだろう、アバウトでもいいだろう、は禁物です」
「日本人は静かな環境を好みます。大音量の音楽やテレビ、騒ぎ声は周囲の人を不快にさせます」
「会社は家族みたいな存在。同僚との意志疎通や共同作業を大切にします。『私だけ』は嫌われます」

 夏さんはさすがプロの通訳。私が日本人と対比して「なのに中国人は・・・」と言う部分をうまく言い直したり、削ったりして中国語にしている。
私は最後に、「日本は中国と習慣が違います。慣れない生活に寂しい思いをすることもあるでしょう。でも、理解のある日本人もたくさんいます。皆さんも日本人を理解して、お互いよい隣人になれることを願っています」
あー、最後の授業が一番緊張した。

 「あんな授業でよかったですか?」
私の中国語を聞いた胡さん、日本語を通訳してくれた夏さんも、
「ええ、とても良かったです。研修生も喜んだでしょう」と言ってくれた。
ふう、これで私の南昌でのつとめは終わった。スーツケースを積んだ外弁のバンには、江西医学院の西村老師と、岡山商科大学の胡勇彬老師も合流して、夕食が用意されたレストラン「新東方酒楼」へ走って行った。




 「私の南昌滞在に対し、皆さんの親切と援助をいただいたこと、一生忘れません」
「いいえ、青木さんこそ大学の授業お疲れさまでした」
亜洲東欧処の王立強処長、顧健紅さん、夏雲さん、胡志揚さんが私にねぎらいの言葉をかけてくれた。私は、南昌での2週間を懐かしく思い出しながら、ここでのエピソードを語った。
「青木さん、南昌の何が良かった?」胡志揚さんが私に尋ねる。
「そうですね。南昌の辛い食べ物も好きですし、老師や学生たちも親切でした。ああ、南昌のジェも・・・」
なに?ジェ?胡さんが吹き出した。
「あ、あの街。街道です。南昌の街が好きと言ったんです」姐じゃないですよ。

 「あー、びっくりした。南昌の姐だなんて」
胡さんの言葉に一座がお腹を抱えて大爆笑した。「あー、不好意思。恥ずかしいよー」
「江西料理は美味しかったですか?」
はい、どこで食べても美味しかったです。レストランも、学生食堂も、外弁食堂も。
「外弁食堂へも行ったの?」王立強さんが感心して言った。
「夏雲さんに連れていってもらいました。でも、夏さん、今度は真的男朋友を連れていって下さいね」
「何?本当の彼氏って?」
夏雲さんが、私が日本から来た男朋友だと騒がれた話をして、また大爆笑が起こった。

 「青木さんはいろいろ経験したんですね」
西村老師と日本人同士でお話した。岡山商科大学を通して南昌へ派遣されている日本人教師だが、本職ではなく退職された高校社会科の先生だという。3ヶ月のあいだ、周囲が中国語のみの世界で奮闘されている。
「私はなかなか中国の生活に慣れなくて。若い人は順応性があっていいですね」
はあ、今日なんてシンガポール人だと思われました。
「西村先生、南昌の生活では、日本との習慣の違いを感じますか?」
例えば、と西村老師は言った。
「今日のような宴席では、年功序列や地位で席順をすごく気にしますね」
最高齢の西村老師は一番上座、私は日本人同士隣り合わせた方が会話に便利だと思っても、若年者なので円卓越しに話をすることになる

「江西省では、4月に訪日団を岐阜へ派遣します。次は岐阜で会いましょう」
「はい、そのときは熱烈歓迎します。ありがとうございました。謝謝大家、再見」
お世話になった外弁の人々に見送られて南昌駅へ向かった。外弁のバンには見送りの夏さんと、江西医学院で下りる西村老師も乗っている。駅に到着し、上海行きK288列車の改札が始まると、夏さんは入場券を買って列車のコンパートメントまで荷物を持って来てくれた。
「じゃあ、私はこれで」
「ご面倒おかけしました。私もホームまで行きます」
南昌駅のホームで夏雲さんに感謝の意を伝え、私はコンパートメントに戻った。さよなら、南昌。


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帰国の日


K288列車は一晩かけて南昌から上海へ走り抜けた。
地図によれば、龍虎山へ旅行したルート上を辿っていたはずだが、ぐっすり眠っていた私は気づくはずもなかった。朝8時、今では懐かしささえ感じる上海駅のホームに列車は静かに滑り込む。私が上海から南昌へ向かって2週間もたたないが、随分と昔のことのようにも思えてくる。

 上海駅の改札口を出ようとすると、駅員がスーツケースを指して、「荷物料金を払え」と言う。えー、南昌駅では必要なかったのに。
どうやら大きな荷物を持っている乗客を見つけては、精算窓口へ行くように指示しているようだ。しかたなく、精算窓口の前に置かれた重量計に荷物を載せ、少なからぬ金額を払うことになった。
改札出口の脇にある手荷物預け所へスーツケースと2つの手持ちカバンを預け、引き替え票をもらって地下鉄駅へ向かう。

 私は日本をでる前、上海人の友人と会う話をしていた。しかし、いよいよ南昌から電話すると、
「えー、私は仕事で蘇州にいます。青木さん、蘇州に来ませんか?」
なんだ、1月3日って約束していたのに。蘇州まで行く余裕もない私は、2時の飛行機まで空いた自由時間を上海散歩で過ごすことにした。

 まずは地下鉄1号線で人民広場駅に出て、2号線に乗り換え浦東へ行く。
ちょうど朝のラッシュ時間だけあって、地下鉄は驚異的な混み方、駅構内通路にもとんでもない人波が流れている。
浦東の玄関、陸家嘴駅の地上には東方明珠塔がそびえ立つが、その足元では、バスから地下鉄駅に向かって通勤客が全力ダッシュする光景が広がっていた。2台、3台と客を満載したバスが到着する度、吐き出された乗客の群が我先に駆け抜けてゆくのである。
現代化されたとはいえ、いかに南昌の生活が牧歌的だったか、思い知ったような気がした。



 まだ観光客の姿がない浜江プロムナードから上海外灘を眺め、前から気になっていた「観光隧道」を利用して外灘に渡る。黄浦江の両岸を結ぶ観光地下鉄は、スキー場のゴンドラのような車両だった。ただ川を潜るだけでは能がないと考えたのか、地下鉄トンネルはレーザー光線が飛び交い、光の帯がグルグル渦巻いてばかばかしくも楽しい。
ただ、あまり人気がなさそうな原因は片道30元という、これまた人をばかにした料金設定のためか。

 観光隧道から地上に出ると、そこは3年ぶりの外灘。空が白く霞んでいるので、対岸の浦東超高層ビル群はぼんやりとしか見えないが、天気はまずまず悪くない。だだっ広いけど人がいない浦東と違って、外灘プロムナードは朝からたくさんの観光客で賑わっている。
欧米人や日本人グループとすれ違うたび、ほとんど漢民族100%だった南昌が思い出されて感慨深かった。

 和平飯店の脇を通って南京東路歩行街へ行った。一角に見つけたのは「天津狗不理包子」、日本の肉まんに最も近い大ぶりの包子だ。
私は南昌大学の学生街にあった天津包子を思い出し、懐かしくなって朝食兼昼食として2つ買って食べた。いかに有名といえ、1ヶ1元は高くないか?3角か5角で売っていた南昌の包子と比べて、上海の物価の高さを1人嘆く。

 さて、南京東路をうろうろしても面白くないから、開店時間がきた上海書城へ向かおう。
途中の沙市小吃街で、屋台のお土産屋から小さな中国結を買った。おばちゃんが1ヶ5元だというのを、ねばって10ヶ35元に負けてもらう。今回の中国滞在中、値切りで買った唯一のモノだ。もともと買い物自体をそんなにしてないのと、昨日の「南昌観光特色物産展」では安い代わりに、「価格交渉不可」の札が架かっていて値切れなかった。
こうして、お土産屋の価格交渉をするのも、観光旅行気分になってなんだか楽しいなあ。

 福州路の中程にある上海書城へやってきた。
あとの予定は帰国するだけ、重さを気にせずに本を買い込もう。目を付けておいた旅行ガイドブックのコーナーへ行って10冊ほど買い込んだ。
その中でも、山東地図出版社から出た「中国特色遊」はバラエティーに富んだ抜群の面白さ。立ち読みしながら、思わず「えっ?」と絶句するほど。なんせ、北京・三里屯、上海・衝山路の酒巴案内、といったテーマから、チョモランマ登攀ルートなんてテーマを1冊でカバーしている。
ヒマラヤ雪山の注意事項として、「雪崩に襲われたら、泳ぐ格好でもがくこと。不幸にも雪中に閉じこめられたら、自救努力せよ」と書いてある。はたして、この本を頼りにヒマラヤへ行く観光客はいるのか。



 時間は10時半、そろそろ浦東国際空港へ行かなければ。
私はタクシーで上海駅まで戻って荷物を受け取り、ゴロゴロとスーツケースを転がして空港5路バス乗り場へ行く。私は荷物を分散して抱えながらバス停へ向かう100〜200mの道のりが一番きつかった。
上海太平洋百貨の脇から空港バスで1時間、浦東の摩天楼群が後方へ過ぎ去り、ひたすらに広がった住宅団地を高速道路が貫いて行く。そのとなりには開通を待つ上海リニアモーターカーの高架橋が平行している。行く手に巨大な空港ビルが見えてきた。
私の中国滞在もあと少しの時間がのこるだけだ。

 浦東空港でチェックインと安全検査、出国審査を終え、出発ゲートで飛行機に向かうバスを待つ。
手元に残った250元は、呆れるほど物価が高い空港免税店でお土産を買ったら足が出てしまった。まあ、私は入国時に両替した3万円だけで中国滞在を済ませたことになる。奢られっぱなしだったからなあ。
定刻通り西北航空機は名古屋の空へ向け飛び立っていった。私の南昌生活体験はこうして終わった。


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