中国旅行記 愛我南昌(中)(02〜03.江西省) 本文へジャンプ


平安夜(2002年12月24日 火)


さて、今日こそは外事弁公室かな。朝6時に目が覚めてそう思った。
果たして総経理たちと朝食を囲んでいると、顧健紅さんからの電話で
「昨日は付き添えなくて申し訳ありませんでした。今日は9時に迎えにあがります」という。
その言葉通り、9時に外事弁公室の車で顧さんがやってきた。
「お久しぶりです。今回はお世話になります。忙しいのに無理を頼んでごめんなさい」
私は、外弁もたいへんな職場だから、という総経理の言葉を思い出し、顧さんに対して申し訳ない気持ちになった。
「没関係、没関係、さあ行きましょう」

 南昌の街へ向かうサンタナの中で、久しぶりに対面する顧健紅さんと話が弾んだ。
「青木さん、雑技団公演以来ですね。お元気でしたか?」
私とは2001年に江西省雑技団の岐阜県公演をお手伝いして以来の付き合いがあった。
「ところで、財経大学はどうでしたか?」
私は感謝しながら「朱老師にお世話になりました。とても熱心な学生たちで、互相学習ができました」と言うと、
顧さんは「それはよかったですね。今日は江西医学院で午前の授業です」えっ今日も授業があるの?

 そのままサンタナは市内中心部、八一大道に面した江西医学院に入っていった。
古い大学らしくレンガ造りの教学楼の前では、私を待っていた日本語老師がさっそく教室へ案内してくれる。
「ちょっと待って下さい。顧さん、今日の予定はどうなっていますか?」
「はい、この授業が終わったら、自分で外事弁公室まで来て下さい」分かりました。

 2回目の授業に入る。
今日の学生たちは学習歴3年で、ある程度の日本語が話せるらしかった。
この大学には岡山県から派遣された教員もおり、大抵の学生が岡山商科大学へ留学するという。中でも3〜4人は流暢な日本語を話す。
「私たちは延吉出身です。知ってますか?」
ああ、北朝鮮との国境にある街。「今、日本では延吉の名はとても有名ですよ」
朝鮮族の学生たちは、中学、高校から英語ではなく日本語を学んでいるという。歴史的な事情と地理的な近さが要因のようだが、こんなに日本語が一般的だったなんて知らなかった。

「何か、日本のことで聞きたいことはありますか?」学生たちの質問は結婚の話題に集中した。
「結婚式の様子を教えて下さい」えーと、日本の結婚式はね・・・だいたい費用が300万円ほどかかります。
「ええー、300万円?そんなの結婚できない」とざわめく学生たち。
いや、大丈夫です。それは招待者からお祝いを頂くから。お祝い相場としては、3万、5万。出席しない同僚や友人は3千円から。「分離できない」奇数がいいとされています。
ところで、中国では人気のある新婚旅行先はどこなの?「海南島!」「上海」「香港」なるほどね。中国のハワイと称される常夏の島、海南島がダントツで人気を誇るようだ。

 そろそろ次の話題にいこうよ。「日本でナカタは人気がありますか?」
ああ、サッカーの中田ね。中田や小野や、海外で活躍する選手は、国内の試合より大きく報道されますよ。サッカー選手も野球選手も、いつか海外へ進出することを夢見ていますね。中国でも足球はとても人気があるんでしょう?
「中国のスポーツで一番人気ですよ。でも国際的には弱いです」ワールドカップに出場したんじゃないの?
「まだまだだめ。少林サッカーなら勝てるかも」なるほどね。

 昨日は緊張してて写真を忘れてしまった。
今日こそ授業の様子を撮ってもらおう。私は担当老師に頼んで学生たちと一緒に記念写真を撮った。
「ありがとう、いい思い出になりました。皆さんが日本へ留学したときは連絡を下さい。必ず歓迎しますよ」
こうして2日目の授業も無事終わった。明日はまた江西財経大学の授業がある。行き当たりばったりでもあった2回の授業を反省して、いいネタを考えておきたいなあ。




 江西医学院の教学楼を出ると、外事弁公室のサンタナと運転手さんが外で待っていた。
ああ、よかった。私は、さっき外弁へのお土産を車の中に置いたままで、少し心配していたのだ。私を乗せた車はそのまま蘇圃路に向かい、市の中心部、八一公園に面した外事弁公室ビルに到着した。運転手さんから荷物を受け取り、事務所の場所を教えてもらって車を下りる。

 エレベーターで5階へ行き、廊下に出たプレートを確かめながら歩いていく。
一番奥の部屋に亜洲東欧処があった。
「青木さん、お疲れさま」ドアをノックして入室すると、今朝会ったばかりの顧健紅さんが迎えてくれた。さっそく、お土産の春慶塗りとカレンダーの束を抱えて王立強さんと王雨森さんを訪ねる。
「外事弁公室の皆さんには大変お世話になります。私は大学で老師や学生たちに親切にしていただいて感激しています」
「歓迎、歓迎。大学側も青木さんの来校を喜んでいます。毎年南昌で交流活動を行えば、3年もすれば中国語はずっと上達するでしょう」

 亜洲東欧処は、王立強さんの処長室、副処長の顧健紅さん、処員の夏雲さん、胡志揚さんがいる事務室から成っている。日本で一般的なオープンスペースの事務所と違い、部門ごとに独立した部屋で仕事をするようだ。
夏雲さんたちは日本・岐阜出張から今日帰ってくるので、私は空いた机を使ってもいいと言われたが、さて、何をしていよう。転がっていた新聞を読み、顧さんと話しているうちに12時になった。

 事務室のドアが開いて、外弁副主任の王雨森さんが顔を出した。
私を職員食堂に連れていってくれるという。日曜日の工場食堂に続く第2弾だ。
地下1階、もうもうと湯気があがる厨房の脇をぬけると、薄いビニールを被った円卓が並ぶいかにも中国らしい食堂があった。おばちゃんがトレイにご飯とおかずを盛りつけ、スープは大きな食缶から自由に取る方式、昼休みはおばちゃんの前に行列ができるほどの大入りだ。

 昼食は、王さんと同じ外弁で働く奥さんも入って3人で円卓を囲んだ。
周りの席は驚くほど早食いで、食堂は15分もしないうちにガラガラに。王さん夫婦も立ち上がって「家へ来て休みませんか」と言う。えー、昼休みに家に帰るのか。時間はあるのかなあ?
聞けば、ここの昼休みは2時間半もあるのだった。さらに、王さんが向かうのはセカンドハウス。
職場の近くに、昼休みをすごすためだけに借りた部屋なのだという。なんて贅沢な。

 「仕事は2時半からですか?アッという間に退庁時間ですね」
どうやら、中国の官公庁は7時間労働。朝8時〜12時と2時半〜5時半が勤務時間になっている。昼休みが長いので自宅へ帰る人も多いし、街へ出たり、昼寝やトランプ、インターネットで時間をつぶす人もいるようだ。少しでも時間を確保したいから、みんな慌てて昼食をかき込むのだろう。
王さんと通りに出ると、南昌の街は人が溢れて平日の昼間とは思えない。学校帰りの小学生は、午前授業なのか、学校も休み時間が長いのか。

 外弁から徒歩5分の近所に王さんのアパートがあった。
ドアを開けるとフローリング床、ここでも靴をスリッパに替える。やはり中国でも土足禁止が増えているのだろうか?この家はもともと息子さんが住んでいたが、現在は日本へ留学中なので昼に使っているだけらしい。
「寒いでしょう」王さんが温風ヒーターをつけ、お茶とみかんを出してくれた。あとは1時間もののテレビドラマを終わりまで見ても、まだ休み時間が残っているのだ。
外へ買物に出ていた奥さんが戻って、ようやく腰を上げ職場に向かう。
うらやましいけど、私なら午後からの仕事が嫌になってしまいそうだ。



 「今夜はクリスマスイブだから、お祝いをしましょう」
夕食に招待された。
外弁の歓迎会は職員が揃った明日にして、今晩は王雨森さんが個人的に招いてくれるという。
「福田総経理と吉田さんも誘いましたよ」
仕事が5時半に終わったらすぐ出よう、と言って王さんはエレベーターの向こうに去って行く。
さて、午後からは明日の授業でしゃべるネタ繰りをしよう。私は顧さんに頼んで江西省の省況紹介や観光案内のパンフレットをもらい、日本紹介の本と合わせて眺めながら、中国語で語る内容を考えては、ノートにメモしてすごした。

 5時半きっかり、王さんが私を呼びにきた。外弁の駐車場には、すでに奥さんと王立強さんも待っており、4人を乗せた外弁のサンタナはそのまま街へ走ってゆく。先日から外弁の運転手さんにお世話になっているが、この人は外弁のNo2である王雨森さん専属なのだ。さすが幹部は違うなあ。
やがて、夕方の渋滞が始まった通りを抜けて、車はレストラン街の1角に到着した。
「寒いからしゃぶしゃぶを食べよう」と連れてこられたのは、北京料理では冬の定番、羊のしゃぶしゃぶを出す「北京京一刷羊肉」。

 クリスマスイブだけあって、広い店内はツリーやリースで飾られている。
すっかりお馴染みになった聖誕老人姿の小姐がしゃぶしゃぶ鍋のセットされた円卓に案内すると、卓上のツリーを外し、代わりに客1人1人にサンタ帽子と人形を配っていく。おお、サービスを競っているって感じだなあ。単に景品だけかと思ったら、荷物や上着を置いた椅子の背もたれに、スリ防止用?の椅子カバーを被せるなど、なかなか細かい配慮も行き届いているのだ。

 6時をすぎると、店内は家族連れの客で満席になった。
あちこちで湯気があがって美味しそうな匂いが漂ってくる。私たちもお腹が空いているけど、なかなか総経理たちが現れないので、落花生をつまんでがまんしていた。王さんが携帯で交わす話から、道路が大渋滞で少しも動かない様子が聞いてとれる。
「混んでいるようですね」
「まあ、平安夜だからね。みんな街へ繰り出しているんでしょう」
どうやら、私たちは仕事の直後に出かけたので間髪はまらずにすんだらしい。
結局、へとへとになった総経理たちが現れたのは、通常20分の道のりを1時間近くオーバーしてからだった。

 さあ、食べよう。鍋の下には炎を上げる炭火が入れられた。
極薄に切られて山盛りにされた羊肉を箸でガバッと取って、だしの利いたスープでしゃぶしゃぶする。
羊肉、あまりイメージが湧かないけど、ゴマだれに付ければ臭みもなくていくらでも食べられる。
「王さん、日本人は羊肉をジンギスカンって呼ぶよ」
「へえ、なんで?」
「羊は蒙古に沢山いるからかな」
あとは、肉団子やつみれ、野菜など。ご飯がほしい、だけど今日は最後にうどんを投入するので、がまん、がまん。

 テーブルに、大ぶりのニンニクがごろごろしている。うわあ、塊で置いてあるのか。
これに目がない王立強さんがおもむろに皮を剥き、おいしそうに食べ始めた。
「匂いは大丈夫ですか?」聞けば、酢漬けのニンニクは全然匂わないものらしい。
「試しにどうぞ」私は遠慮して1片だけもらい、王さんを真似てチュッとすする。うーん、確かに独特の臭みは感じられない。甘酸っぱい汁が飛び出して、ちょうどラッキョウに似た食感だ。
「この食感を楽しむんですよ」
これに初挑戦の総経理は、おいしい、おいしい、と次々に平らげていたが、そこはやはり本場のニンニク、翌朝はかなりお腹がつらかったらしい。

 しゃぶしゃぶと白酒ですっかり体も温まったし、まだ時間も早いので、王雨森さんと総経理、私の3人は他の人たちと別れて按摩に行くことにした。
サンタナに乗り込んだはいいが、市中心部の通りは完全に歩行者天国状態。車は詰まって身動きがとれなくなり、その間を大勢の人が通り抜けていく。信号が変わっても交差点に歩行者が押し寄せるので、車列が進まないのである。
いつもの数倍の交通警官が動員されているが、ここまでひどいとまったくお手上げ状態であった。
クリスマスイブの夜、一番大変な思いをしたのは公安だったろう。

 やっとの思いで八一公園近くの「文軒美容世界」へ辿り着いた。
しかし、予約は一杯、1時間半待ちとかで、ロビーには客が溢れている。
まったく、何でこんなに人がいるんだ!と呆れるが、私もそのうちの1人なので文句は言えないな。
タクシーを拾って別のマッサージ店へ向かおうにも、今日に限ってどの車も先客を乗せていてつかまらない。
「別の場所でタクシーを探しましょう」

私たちはきんきらのイルミネーションや、青や赤のライトアップが湖水に反射する通りを歩き始めた。夜の街はさらに多くの人で溢れかえり、人波はどこまでも流れて行く。いい大人たちがサンタ帽子を被り、おもちゃのラッパや風船を手にして嬉しそうに歩いて行く光景は、個人消費に走りはじめた中国の気分を象徴しているかのようだった。

 街はずれに按摩店を見付け、勧められるまま、初めての泰国式按摩というものを体験した。
うーん、私は強い力でゴリゴリ押される中国式按摩の方がよかったかも。それよりも、按摩士まで白衣の上にサンタ衣装を着込んでいること、仕事の終わったサンタたちがロビーに集まり、クリスマスとは全然関係なく麻雀に熱中している様子が面白かった。
按摩が早く済んだ総経理は、言葉が通じないなりに覗き込んで「へぼ麻雀やな」とつぶやいている。

 帰りもタクシーがつかまらず、4星級のグロリアホテルまで延々歩いてタクシーを確保した私たち。王さんを送り届けて、上海路へ帰り始めた。
時間はもう11時をまわっているにも関わらず、街に繰り出した人の数は少しも減る様子を見せない。八一大道に到っては1つの交差点を渡るのに、何度信号が変わったことか。
「数年前は、クリスマスって何?という感じだったのに、この渋滞はすごいですね」
感心して総経理に話しかけると
「いや、あと2、3年もすれば、自動車の普及で毎日が渋滞になるだろうね」
南昌のクリスマスイブは経済成長のエネルギーが爆発していた。


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湯圓の味(2002年12月25日 水)


早朝、窓の外を吹き抜ける風で目が覚めた。
ベランダに通じるドアがバタバタとすごい音をたて、今にも壊れそうな感じである。
まだ暗い中を起き出せば、総経理もリビングへやってきて
「すごい風やなー、俺の部屋はベランダの隣でうるさくて寝れなんだぜ」と言う。
外を覗くと、台風並みの強風にあおられて電線が唸り声を上げ、街路樹もバサバサと波打っている。窓の下には何階から落下したものか、洗濯物がロープに架かったまま地面に散乱していた。

 朝食の用意ができても、少しも部屋が暖かくならなかった。
「暖房機がいかれたな。寒すぎてサーモスタットが動かないんだ」ということらしい。
うーむ、寒いと壊れる暖房機って何の意味があるのか。洒落にならんぞ、ハイアール。
江西財経大学で午前の授業がある私は、食事を終えてそそくさと準備を済ませ、見るからに凍てついた上海路のバス停に飛び出していった。

 昨日までの生暖かさはどこへやら。工場脇に水を噴き上げている水道管もすっかり凍りついて、見事な氷の彫刻と化している。バスの人混みの暖かさにほっとしながら、朱老師との待ち合わせ場所、金陽光超市へ向かった。
さて、埃の舞う強風が吹き荒れる南京西路。自転車に乗ったお爺さんなど、あまりの向かい風に、漕いでいる状態で後ろへ流されているのだ。
時間には少し早いがスカーフを被った朱老師は歩道で待っていた。

 「お待たせしました。ひどい天気ですね」風に負けないように大声で話す。
「青木さんはバスで来たんですか?とにかくタクシーを拾いましょう」
私たちを乗せたタクシーは、カン江に架かる八一大橋を渡って郊外を走る。高速道路と平行する廬山南大道の周辺には南昌市が進める新工業開発区が広がり、あたりの田園地帯はすっかり掘り返されて巨大な工場群が姿を現していた。
市内にある大学も次々に郊外へ移っており、財経大学の近くには数年のうちに南昌大学が移転してくるという。

 財経大学に到着し、朱老師に従って歩いていると、後ろから「おはようございます」声がかかった。
振り向くと、今日の授業を受ける1人の学生が立っていた。あれ?学習歴3ヶ月のクラスと聞いた割には流暢な日本語である。
「私は日本で研修生として仕事をしてました」道理で。しかも、岐阜市に住んでいたなんて、偶然だなあ。
「岐阜市則武って知ってますか?マーサ21の近くの・・・」
うん、環状道路の近くでしょう。それにしても、外国の大学に来て、こんなローカルな話をしようとは思わなかった。
「私は帰国してから、日本語を活かした経済関係の仕事をしたいと思って、財経大学に入学したんです」

 3人で教室に入ったけど、まだ授業に少し早い。
持参してきた風景カレンダーを広げると、たちまち学生たちが私を囲んで集まってきた。朱老師が私を紹介してくれる。「日本から来ました・・・」私も自己紹介すると、中国語を話すのが珍しいのか興味津々な様子で見つめられる。
「これは何?」「これは?」次々に質問が出てくるのは、やはり朱老師の言うとおり積極的なクラスだからなのだろう。やがて時間になり、学生たちが席について授業が始まった。

 「中国語を学ぶ日本人、日本語を学ぶ中国人ともに、同じ漢字文化、単語の共通性からお互いを簡単な外国語だと考えます。でも、学べば学ぶほど日本人には発音が、中国人には文法が難しくて、『笑着入門、哭着出門』だと感じてしまいますね。私は多講多聴が語学上達の早道だと思っています。今日は皆さんと互相学習、互相交流をしたいと思います。よろしくお願いします」

 今日は日本の紹介から。「日本にはいくつの島があるんですか?」と質問があった。
うーん。「中国の別名は九州と言いますね。日本にも八千嶋という別名があるので、主な4島に小島を含めると八千以上はあるんでしょう」
次は、日本の名所について
「北海道はビールと雪祭りが有名です・・・大阪は『食都』『笑都』です。中国の相声に当たる漫才で有名な都市です。その隣、神戸は横浜と並ぶ貿易港で、大きな唐人街があって中国菜館が並びます。ただし、包子が1ヶ300円もしますよ」

 300円の包子の話に驚きの声があがる。中国で包子といえば3角〜5角、日本円で7円もしないから物価の違いが如実に感じられたらしい。
「あ、でも日本人から見ても包子300円は高いですよ。一般的な便利店の包子は100円で最も安い食べ物です」それでも高ーい、との反応が。
「日本包子は中国のものより大きいです。それに肉包子、豆沙包子の他にピザ包子、カレー包子もありますよ。これは中国にはないでしょう?」

 「昨日は平安夜でしたね。私は象山路に行って街の賑やかさに驚きました。以前の中国は、聖誕節って何?正月は春節だけ祝うって感じだったのに、改革開放で大きく変わりました。何だか宗教性のないクリスマスのお祭りムードは日本と似ていますが・・・」

さて、続いては日本の暦の話題。「日本にも農暦はあります。ただし、行事はほとんど新暦になって春節は祝いません」
「おおみそか、は訓読みでいう大三十日の意味で『大年三十』と同じですね。夜にテレビの紅白歌合戦を見ます。中国でも歌手比賽がありますね。初詣でお寺へ行くと除夜の鐘を撞いています。日本でも楓橋夜泊の一節『姑蘇城外寒山寺・・・』が有名なので、わざわざ中国・蘇州まで除夜の鐘を聞きに行く人もいます・・・」

 「桃花節『雛祭り』は女の子のお祭り。男の子は端午節を祝います。鯉魚旗を揚げるのは『登龍門』の故事から、子どもの出世を願う意味です。粽子を食べ、菖蒲を用いる点は中国と同じです・・・」
「七夕に竹飾りをするのは、短冊に書いた願い事を天の川まで届かせる意味です・・・」
「中秋節、中国では、」学生たちから月餅、との声。「はい、日本では『月見団子』看月亮団子を食べます・・・」

 さて、自由な質問タイム。
「青木先生、『菊と刀』によれば、日本人には菊と刀の思想があるといいます。両方の思想が衝突した時、どう対処しますか?」
うーん、いきなり難しいのが来たな。
「確か第2次大戦中にアメリカで作られた対日研究書ですよね。菊は皇室、刀は武士を表現していると思いますが、歴史上、皇室は文化を、武士が政治を代表してきました・・・武士とは・・・うーん、こんな解説しかできませんが、分かりましたか?」
「・・・あまり分かりません」
「ごめんなさい、私もよく分かりません」

 1人の学生が言った。
「青木先生、私は今日の授業のために『対聯』を作ってきました。披露していいですか?」
対聯って門口に貼ってあるめでたい言葉でしょう?ありがとう、ここで発表して下さい。私がホワイトボードに枠を描いた。学生が文字を書き込む。
「青翠家山栄万木」「俊英岐A聯一郎」
なんと、私の名前を詠み込んで作ってある。うわあ、嬉しいなあ。思いがけないプレゼントに大感激した。
「ありがとう、左右の聯の他に、門口の上には言葉があるの?」
「いえ、ないです」
そうか、私はホワイトボードに描いた対聯の上枠に書き込んだ。
「中日友好」

 おおーっ、歓声と拍手が起こった。
やったあ、こんなに中国の学生たちにウケるとは思わなかったから、私はすごく大きな感動と充実感に包まれていた。
「私は皆さんと会えてとても感激しています。これからも私たちの友誼と中日友好が末永く続いていくことを希望します。謝謝大家」
授業が終わった後、集まってきた学生たちと記念写真を撮り、雑談をしてすごす。
「私は午後、空いています。互相学習してくれる人はいますか?」
6〜7人が私を学生食堂へ誘ってくれた。朱老師と分かれ、学生たちに囲まれて教室を出る。





 冷え込んだ空気、外にはちらちらと雪が舞っている。
「下雪了!」嬉しそうに女の子が叫んだ。
「南昌では雪は珍しいの?」と聞くと、彼女たちは3年生ながら初めて雪を見たという。今朝からの寒さはやはり特別だったらしい。でも、たかが雪に跳ねてはしゃぐ様子は大学生に見えないほど無邪気だなあ。
学生たちのお勧め「第4食堂」は昼休みとあって満席。彼女たちは口々に「残念」と言いながら、次に美味しいという「第3食堂」へ案内してくれた。

 ここも空いていないが、学生たちは先客に席を移るよう頼んで、素早くテーブルを確保した。レジから菜単を持ってきて
「青木さん、何が好きですか?」
さっきの授業中、日本人は一般的に薄味で甘い上海菜や広東菜を好むけど、私は辣い江西菜や湖南菜が好きだ、と話した。それで、学生たちは「これは辣いです」「これもすごく辣いです」と辣いモノばかり勧めてくる。
「これ辣くないけどいいですか?」あの、別に辣くなくても大丈夫なんだよ。

 たちまちテーブルの上は料理でいっぱいになった。
ただ、あんなことを言ったばかりに、本当に辣いモノばかり。
「美味しいですか?」私の顔を覗き込まれると、まるで試されているかのようだ。
「これは一番辣いですよ」唐辛子で真っ赤に染まったタレにレンコンの揚げ物が浸かっている。南昌名物の「炸藕」だという。これは、本当に舌がびりびり麻痺してしまうほど。おかげで体はすっかり温まった。
「水餃子も好きだって言ってましたね」あ、もう十分。私が奢るよ。
「青木さん、だめです。私たちがご馳走します」
ありがとう。学生にまで奢ってもらうなんて。



 「青木さん、次はいつ財経大学に来ますか?」
金曜日の夜に映画を見に来ますよ。土日も空いてるから南昌を案内して下さい。
「えー、残念。日曜日にテストがあるから勉強しないと。そうだ、日曜日の夜はクラスのパーティがあります。来てくれますか?」はい、もちろん。
「嬉しい、待っています。それじゃあ私たちは午後の授業があるので、サヨナラ」
ありがとう、星期天見。

 男の子1人と女の子2人は、午後の授業がないので私につきあってくれるという。
「寮に来て下さい。友達を紹介します」
4人で寮へ遊びに行く。通り沿いの学生宿舎は、無骨なコンクリート造りが男子寮、パステルカラーのきれいな建物が女子寮になっている。
「男子寮は汚いでしょ」女の子が笑って言う。
「まあ、どこでも男住まいは同じようなものだね」
でも、WELCOMEと書かれた部屋は意外に小ぎれいに片付いていた。ふとんが畳まれたベッドに感心していると、どうやら定期的に生活検査があって厳しく指導されているらしい。

 「僕は日本のCDを持ってますよ」
見せてもらうと、「東京愛情故事」とか「101次求婚」とか、ドラマの主題歌が並んだCDだった。へえ、こんなのがあるんだ。彼らから日本の歌手やドラマの話を聞いていると、台湾の日本好き「哈日族」が中国にも浸透してきたなあ、という感じがする。
「日本人はみんな漫画を描けるんですか?」まあ、漫画を見る機会が多いから、真似して描く子どもだって多いかもね。



 「次は私たちの寮も見て下さい」
男の子たちと分かれ、女の子に従って行った先は女子寮。入口にコンビニがあり、レジのおばちゃんが管理人として出入りに目を光らせている。
えっいいの?「青木さんは特別ですよ」くすぐったいことを囁かれて7階の部屋へ。
2段ベッドの6人部屋はテレビもあって中国の寮というイメージを裏切る清潔で快適そうな感じ。プライベート空間はベッドと書棚付の机しかないが、ベッドの仕切カーテンで隠れる壁にポスターや家族の写真が貼ってあるのが女の子らしい。

 私を連れてきてくれたのは李小鯤さん。彼女の椅子を借り、お茶をもらって話をする。
一緒に暮らしているのはさっきのクラスの同学たちだ。
「私たちのダンスを見て下さい」部屋でラジカセをかけて3人がダンスを見せてくれた。
「すごい、かっこいい」と誉めると、
「今度のパーティで披露するんです」嬉しそうに言う。李さんが私も来ることを話す。
「私も招待されました。みんなは歓迎してくれますか?」
「はい、もちろん大歓迎です」

 李さんに日本語の教科書を見せてもらう。
まだ自分の名前が言える程度らしいが、教科書にはびっしり書き込みがあって勉強熱心さが伺える。
「糖果って日本語でなんて言うの?」タンゴ?
「私の英語名がキャンディだから、糖果なんです」
ああ、飴だよ。だけど、小糖果と呼ぶときは、飴ちゃんかな。
「あめちゃん?」
あめは珍しく声調のある日本語で、飴と雨は違うよ。でも、なぜ英語名?なぜ糖果?
「英語老師が中国名を呼びにくいので、みんな英語名を持ってます。丸顔の私は小さい頃のあだ名が糖果だったからキャンディなの」

 小糖果はアルバムを見せてくれた。家族の写真、小さい頃、大学生になってからの旅行のスナップがある。
「この軍服の写真は?」
「はい、1年生は軍事教練があります。山登りやキャンプが楽しかったですよ」
中国の大学生は、軍隊で規律訓練や野外訓練があるが、今ではそんなに厳しいものじゃないのだろうか?
小糖果の家郷はどこ?「安徽省です」
ああ、黄山がとても有名ですね。アルバムにも写真があったね。
「私は上海です。写真見て下さい」「私は江西省です」同学たちに囲まれて出身地話や方言話が弾む。安徽語ってどんなの?「○×△@」うーん、分からない。
「上海語は確かノンホーでしたね」

 「日本語でミシミシってどんな意味?」
もしもしじゃないの?電話する時のウェイと同じだよ。
「ううん、そうじゃなくて。映画に出てくる日本人は皆ミシミシって言うよ」
ああ、飯飯かあ。日本兵が話す言葉として「馬鹿野郎」と共に中国に普及してしまった日本語である。戦争の歴史を引きずる、あまり聞いて気持ちよくない言葉のひとつだ。
「それは兵隊日本語でしょう。ご飯をくれって意味だけど、そんな日本人はいないよ」

 違う話題に行かない?
「日本語の歌を教えて下さい」
うん、テレサテンの「時の流れに身を任せ」なんてどう?
「それなら歌詞を持ってます」小糖果の教科書に朱老師から貰ったという歌詞カードが挟んであった。
「漢字の読み方が分からないの」額を寄せ合って漢字に仮名を振り、一緒に歌う。
「如果没有遭見@・・・」「もしもあなたと会えずにいたら・・・」
ああ、このまま学生時代に戻ってしまいたい、くすぐったい気分。

 気が付くともう3時。残念ながら今晩は予定があるので、4時に朱老師と南昌の街へ帰ることにしていた。
「青木さんちょっと待って。今、水餃子を茹でるので食べて行って下さい」
うれしいなあ。同学たちが1階のコンビニで冷凍水餃子を買ってきて、カセットコンロに掛けた鍋で茹でてくれた。「熱いので気を付けて」ありがとう。この団子は何?
「湯圓です。とても美味しいですよ」
白玉のようなツルンとした団子に落花生や胡麻の甘い餡が入っている。口に入れると餡は火傷しそうなほど熱く、女の子たちの部屋で食べた湯圓は、南昌で間違いなく一番温かく、甘く感じられた。

 小糖果に朱老師のいる弁公楼まで送ってもらった。
「今日はありがとう。とても楽しかった。日曜日のパーティを楽しみにしてるよ」
「はい、私から青木さんに電話します。待っててください」





街へ向かうタクシーの車中で私は朱老師から思いがけない話を聞いた。
「江西財経大学では日本語学科の設立を目指しています」はい、知っています。
「準備のため、私は1年間、外語大学で研修する予定です。でも、やはりネイティブの教員は必要だと考えています」
はい。
「青木さん、どうですか?財経大学へ来てみませんか?」
えー、まさかオファーが来るとは思わなかった。
「外語教員の宿舎も完備してますし、病院も、2カ国語教育の幼稚園、小学校もあります。考えてみませんか?」
私は激しく心惹かれたけれど、即答できる問題じゃないなあ。

 外事弁公室で朱老師と分かれた。その晩は亜洲東欧処の方々が私を歓迎会に招待してくれたのだ。
場所は再び「老東方」、王雨森さんが連絡して総経理と吉田さんもやってきた。
個室へ案内され、みんなが揃うまでソファでテレビを見て待っていると、突然明かりが落ちた。
「ブレーカー落ちた?」
しかし、窓の外を覗けば辺り一帯は真っ暗である。これが話に聞く停電か。小姐が燭台に火を灯して運んできた。
「停電したの?南昌中心部では珍しいね」
王立強さんはじめ亜洲東欧処の人たちが、ロウソクの光で案内されて暗い店内に到着、電気が復旧するまで30分をすごして食事が始まった。

 外事弁公室の私に対する配慮にお礼を述べ、南昌の変わり様に驚いた話をした。
「南昌が急に変化したのは、ここ2、3年だね」その要因は何ですか?「トップが変わったことが大きいよ」
なんでも、現在の江西省長は上海市共産党書記出身の人物。中央とのパイプも太く、省長に就任して以来、上海での経験を生かして南昌市現代化に手腕を振るっているのだという。いわゆる上海閥っていう指導者グループに属するのだろうか。

 江西料理はまたもやスッポン、犬。カレー味の犬鍋は前にも食べたのでもう平気だ。臭みもなく、柔らかい肉はくせになる。
そして、なにより赤く茹であがった蟹。「これ!上海蟹ですか?」
「同じモノだけどね」王雨森さんは笑って首を振った。
「江西産の蟹だよ。上海へ輸出して『上海蟹』になると値段が跳ね上がるんだ。外へ出て一生懸命働く江西人と一緒だね」

一座の話題は、やがて江西と日本をつなぐ中継点、上海の様子に移っていく。
総経理たち南昌駐在日本人の楽しみは、帰国の前日に上海で飲んで一足早い日本気分を味わうことだという。
「上海は飲食費が高くないですか?」
「そりゃあ高いよ。でも日本に比べたらまだ安いからね」
日本人が多い上海、どこでも日本語が通じるので気が楽なんだとか。
「上海の新天地はどうですか?」仕事柄、上海にも詳しい王雨森さんが答える。
「コーヒーが1杯100元の店までありますよ」
ひ、ひゃく元?ちょっと信じられない値段だ。外国人向けのエリアは、ぼったくりじゃなくても相当高いものらしい。



 総経理、吉田さんと3人で上海路への帰路についた。
タクシーは八一起義記念塔がライトアップされた革命の象徴、人民広場を通り過ぎて行く。
「これは香港資本が建てる超高層ビルだよ」
かつて、北京・天安門に次ぐ面積を誇った人民広場は、今や半分が工事用フェンスで囲われて超高層ビル「国際貿易中心大廈」を建築中であった。その隣に姿を現した建物は、南昌市最大規模のショッピングセンターでまもなくオープンするという。

 私は南昌でクリスマスに浮かれる人々を見たが、この宗教行事を商売にしてしまう融通性は中国人、日本人に共通だと感じた。しかし、一方で世界には、宗教のためと称してテロや戦争が続く場所もあるのだ。
「宗教やイデオロギーで憎み合う世界より、私はずっと南昌の方が好きですね」
共産党が支配する中国でも、人民広場に見られる如く自由経済が急速に浸透し、政治色を霞ませているかに見える。
「戦争は結局、食べられない場所で起きるからね。経済問題なんだよ・・・」
吉田さんが空襲で名古屋の家を焼け出された戦争中の体験を語って言った。今、中国は経済の豊かさによって不要な憎しみ合いから解放された「幸せな時代」に入っているのだろうか?


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夏さんの彼氏(2002年12月26日 木)


ハイアールの暖房機はどうやら寒さに慣れて動き出した。
しかし相変わらず寒気が中国大陸の上空を覆っているようだ。NHKBSをつけると、長江が凍ったというニュースを流している。南昌から長江までそんなに距離はない。一体どれだけ寒いのか?
総経理も吉田さんも、こんなに冷え込んだ冬は初めてだと驚いていた。日本の大雪も伝えるニュースに、年末の帰国を控えた吉田さんの顔が曇る。外国に単身赴任する人たちは、一刻も早く家族の元へ帰りたいんだろうなあ。

 今日の予定は南昌大学になっていた。その前に外事弁公室へ顔を出してくれ、と言われた私はさっそく準備して宿舎を出る。
「青木君、今晩はどうする?」夕食の予定はない。
「あの、今日は一緒に食べます。おばちゃんに伝えて下さい」
階段を下りて、空気の冷たい外を走り出す。工場ビルから1〜2mもの大きなつららが垂れ下がっている様子が一層寒さを感じさせる。

 さて、11路バスはほぼ満員になったが、運転手の姿がなかった。暖房のない車内も相当に寒い。なかなか発車しないのは、車体脇のフタを開けて運転手がエンジンを点検していたからだ。なんだ、寒いとバスまで調子が悪いのかな。やがて、戻ってきた運転手はキーをかけた。ブルルル・・・
どうもエンジンのかかりが悪いらしい。15分も待っただろうか?アナウンスで
「次のバスに乗り換えるように・・・」と言われた乗客たちは先を争って後ろに待つ別のバスに走った。

 結局、次のバスはすでにぎゅう詰め状態。あきらめてさらに次のバスを待つ。まったく、時間を大幅に無駄にしてしまった。
「料金は払ったよ」と言って乗り込む。
バスは、まだ路上で整備にいそしむ車両を残して、いつもの上海路を南昌市中心部に向け走り始めた。
人民広場で下り、中山路を抜けて百花洲を巡る楽しい通勤コースだ。湖に面した八一公園で、朝から太極拳やダンスを行う元気な老人たちを横目に、30分遅れで外事弁公室ビルへ到着。

 門番のおっちゃんにパスポートと王雨森さんの名刺を示して中へ入り、5階の亜洲東欧処のドアをノックする。
「お早うございます。夕べはありがとうございました。今朝はバスが故障しちゃって・・・」
やっと温かい部屋についてほっとした。顧健紅さんが私に今日の予定を伝えてくれるが、
「南昌大学からまだ連絡がありません。日本語老師は快諾してくれたんですが、大学外事課の許可がないと授業できないので、待って下さい」
とのこと。昨日から電話しているが、国際交流担当者が掴まらないんだとか。

 中国では業務の区切りとなる年度末が12月31日だ。
亜洲東欧処は事業報告会議のための資料作りに追われていた。
「日本出張の報告も書かなくちゃいけないし、1年間の報告もあるし、もう大変」
おっとりした夏雲さんも書類整理にぱたぱた駆け回っている。中国人にしては愛想がいい夏さんだが、動作や言葉がまだ学生っぽい。江西省雑技団の来日公演で団員小朋友を引き連れて走り回っていた人だ。物静かな胡志揚さんは外国の関係機関へ出す年賀状をせっせと書いている。
忙しいとはいえ、私の職場と比べるとのんびりしているなあ。

仕事の邪魔にならないよう座っているが、夏さんのお土産のチョコレートが開けられ、胡さんからお茶を勧められる。コップが空だと、横からスッとお湯を注がれてしまうので「ああ、自分でやります」と断らないと、お茶腹になってしまう。
顧さんは「別用費心なんて言えるまで、青木さんは中国語上達しましたねえ」と笑う。
亜洲東欧処は独立した事務室だが、結構、他の職員の出入りも多くて「誰?」と聞かれるままに、「我叫青木・・・従日本岐阜県来的・・・」と紹介を繰り返すことになった。






 南昌大学から連絡がないままに昼休みになってしまった。
亜洲東欧処では、顧さん、胡さんは家で食事をするという。夏さんが私を外弁食堂へ連れていってくれた。
「青木さん、外弁食堂は初めてですか?」
いいえ、おととい王雨森さんと行きました。2度目です。
「そうですか、あまり美味しくないでしょう」
いいえ、そんなことないですよ。でも、みんな味は二の次といった感じで、食べるのが早いですよね。

 夏さんに食券を出してもらい、おばちゃんから給食の盛られたトレイを受け取って食堂の片隅の席につく。
外弁職員でもない人間がいるので、周りの人たちは珍しそうに私の顔を見ている。
そこへ夏さんがやってきて席を並べたとたん、同僚らしい女性職員たちが円卓に集まってきた。
「ねえ、夏雲、紹介しなさいよ。この人誰?あなたの男朋友?」
ええっ彼氏にされては困るなあ。
「違います。私は日本人です」
私が自己紹介すると、興味深そうに話を聞いていた人が口を開いた。
「夏雲、あなた出張で日本へ行ったよね。とうとう日本から男朋友を連れてきちゃった?」
ひゃー、そう来たか。なんか私が中国へ追っかけてきたみたいだ。
「違います。友好交流で南昌にいるんです」
しかし、夏さんと同僚たちの間で異様に盛り上がってしまった円卓は、すごく早口の中国語が飛び交って聞き取れない。
「私たちは英語専門だから、日本語分からないのよ。でも、南昌で愉快にすごしてね」
ふう、やっと去っていった。

 5階の事務室に戻る。
「夏さんは昼休みどうしてるんですか?」聞けば、家へ帰ってインターネットをしているという。
「へえ、私は中国の人はみんな昼寝すると思ってました」
その時、亜洲東欧処の電話が鳴った。「明日の朝8時、文科楼120教室、張老師。携帯番号は・・・」話の様子から南昌大学に違いない。
「青木さん、待っていた連絡がありました。ここに書きましたよ」メモを渡された。なんだ、今日はもう用事がないのか。
「夏さん、私はこのまま帰ります。再見」

 一旦、荷物を置くために上海路へ帰った私。しかし、まだ時間も早いので、着替えて街へ出直すことにした。
「我回来了」と帰ってきて、家政婦のおばちゃんに「我去」と言って去って行く。
「晩飯は要るか?」と聞かれて「今夜はいます。要、要」と答えて再びバス停へ。
今まで11路バスは外線ばかりだったから、今日は内線に乗ってみる。

 ぽっかり空いた南昌の午後、私はちょっと気になっていた場所があった。
それは、街のあちこちに見かける「茶館」の文字。なかなか大きい店が多く、夜はネオンまで輝いている。
昔から江南の茶どころだった江西省、中でも南昌では茶館文化が華やかで、冠婚葬祭から商売、講談などの芸能まで茶館で行われていたという。革命後に壊滅した茶館も、改革開放の波に乗って次々復活し、今では退職した老人たち、各地からの旅客が立ち寄って日がな1日をすごし、将棋や雑談に興じている場所らしい。

 私は、台湾に見られるような1日を読書やおしゃべりですごす茶芸館を思い出した。なかなか風雅があってよさそうである。
伝統ある南昌の茶芸を体験してみよう、と思って1軒の大きな茶館に入った。玄関は高級レストランかホテルのロビーといった感じ。中国茶に抱く「侘び寂び」といった趣はないようだ。黒服のボーイについて2階に足を踏み入れると、私の足が止まった。えっ何か違う。

 沈み込みそうなソファが囲んだテーブルが、広いフロア一面に置かれ、どこも満席だ。煙草の煙が立ちこめた中で、昼間から男たちが麻雀やトランプに熱中し、柄の悪い大声をあげている。水商売っぽい女を侍らせているお兄さんたちもあり、雰囲気はかなりあやしい。これが酒でなく、お茶だけで盛り上がっているのだから、そこもまた不思議なのではあるが。しかし、想像とちがう茶館の様子に、私はちょっとひるんだ。

 ボーイに案内されて席に座り、菜単を見る。
意外にも茶葉は3元〜と安い。あとはお湯を注ぎ放題で時間をつぶせるので人気なのだが、こんなに周りがうるさくては長居する気にならない。無料で出てくる豆をつまみながら、ガラスコップに入った茶葉にガラスポットの湯を注ぎ、さっきバス停で買った新聞を読んですごした。ボーイがポットのお湯を補充しようとするのを断って店を出る。
あー、緊張した。ああいう場所は苦手だなあ。

 凍てついた街角から美味しそうな湯気がもうもうと立ち上る光景を見かけた。
「肉包ー、肉包子」の呼び声に、道行く人たちも立ち止まっては、蒸籠で蒸されたばかりの包子を5個〜10個とまとめて買って行く。その様子にあまりにも惹かれた私は、おやじに声を掛けた。
「1つ何毛?」「5毛銭」
ポケットの1元玉を出すと、ほかほかの包子をビニル袋に入れてお釣りと一緒に手渡してくれた。ああ、美味しそうだ。座る場所もない繁華街のため、歩き食いすることにしてかぶりついた。

 ところが、一般的な中国包子に比べて大きめの包子は、その中にジューシー以上の肉汁を含んでいた。
かぶりついた途端、あちこちからブワッと汁がもれ、口元からタラタラッと垂れていく。しまった、と思っても食べかけではどうしようもない。なんとか口に押し込んで見てみれば、私のコートは袖口からお腹辺りにかけて、すっかり肉汁まみれになっていた。
すごく美味しかったけどショック。ティッシュやハンカチで拭いても、匂いも濡れた跡も乾かない。
私はみっともなくて上海路へ帰って行くことにした。

 宿舎の洗面器にコートを載せ、洗剤をこすりつけて部分洗いを試みるが、単純にはいかない。どうしてもテラテラと光って嫌だなあ。
上海路には「日式洗衣」というクリーニング屋があったけど、すぐ洗濯できる訳ではないだろうし。明日の南昌大学でもコートなしでは寒すぎるよなあ。少し迷って、私はまた近くのスーパーへ買い物に行くことに決めた。高い肉まん代になったけど仕方ないか。

 北京華聯超市へ出かけた私は、そんなに高くないジャンバーを探した。
スポーツウエア売場で定価100元、まあまあ気に入った商品を見つけ、例の如く、店員の割引カードで80元にしてもらった。日本へ帰ってからも着られるし、ユニクロと似たようなものだと思えばいいだろう。
結局、これが私の南昌行きで(単体としては)一番高い買い物になった。とほほ。

 その晩は家政婦さん自慢の鍋料理。日本にもある電熱鍋(すき焼きや焼きそばが作れる鍋、中国製)に、じゃがいも、れんこん、ねぎ、椎茸、湯葉、豆腐、長芋、豚肉などが入る。練り物はチクワそのものではないけど、中国にも似たような食品があるらしい。
「この人は長芋が好きでね。中国人は食感を楽しむらしいが、私は鍋に長芋はちょっとなあ」
総経理が鍋をつつきながら言った。家政婦さんは日本語が分からないので黙って食べている。
「市原悦子に似てますね。家政婦は見た、の」と言うと、
「この家政婦さんも何だか不思議な人だよ」と総経理。
どこから通ってくるのか知らないが、以前、おばちゃんを雇ったばかりの頃、ふと勤務時間中に宿舎へ帰ったら、男がいたのだという。
「えっ男ですか?」
いや、爺さんなんだ。きっと、家で面倒みてる爺さんを連れてきてたんだよ。かなり怒ったら、それ以来は何もないけれど。

 夕食が終わり、後かたづけと明日の朝食の準備を済ませて家政婦さんは帰っていった。
久しぶりに外食でなかったので、まだ時間も早い。「BSで面白い番組をやってないから、ビデオの続きを見よう」と総経理がテレビのスイッチを入れた。日本の家族にドラマを録画してもらい、それをまとめて持ってくるのだという。
NHKBSしか映らないテレビの横には、中国で売られている日本ドラマのテープをはじめ、十数本が山積みで置かれていた。ビデオが始まると、画面に織田裕二が出てきた。子どもに録画を頼むために、若者向けのドラマに詳しくなったそうだ。

 夜10時、なにも用事がないとき、中国の夜はなんて長いのだろう。
相変わらず響いてくる工場付属ディスコのカラオケ熱唱を聴きながら、私は知らず知らずに眠りに落ちていった。


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忙しい金曜日(2002年12月27日 金)


私が中国に来てから、霧雨やどんよりした曇り空が続いていた。
今朝は久しぶりに太陽の光が窓に差し込んでいる。緯度的には亜熱帯に属する江西省ではあるが、耐えきれない夏の酷暑とは対照的に冬はぐっと冷え込む。聞くところでは、湿度が高いだけに骨身に浸みる寒さなのだという。しかし、数年ぶりの強烈な寒気はカラッと晴れ渡った天気を連れてきた。気温は低くても陽射しはありがたい。

 今日は南昌大学で朝8時から授業がある。
いつもより急いで支度した私は白い息を吐きながらバス停へ飛び出していった。
いつもの11路外線バスで上海路を北へ向かうと、南京東路に突き当たった向こうに、広大な南昌大学のキャンパスが広がっている。国立大学らしい大きな正門は毎日のようにバスの車窓から目にしていた。
大学前で下りると、正門から街路樹の緑豊かな大学路がまっすぐに続き、大勢の学生たちが歩いている。

 私は今日はちょっと緊張していた。
それは、事前の連絡が一片のメモだけで、「AM8:00、文科楼120教室、張桂丹老師、携帯番号・・・」としか分かっていなかったからだ。南昌大学だけなら場所も近いのだが、だだっ広い大学構内でどうやって120教室と張老師を探せばいいのだろう?
いつもは簡単ながら担当老師と打ち合わせて授業に臨んでいただけに、何も知らずにいきなり訪ねていくのは心細くもある。



 余裕を持って20分前に到着し、大学路を歩いていくと文教楼はすぐ見つかった。
念のため近くにいた学生に確かめ、120教室を探して中に入るが、さすがに早くてまだ誰もいない。どうしようなあ。
とにかく、老師の携帯電話に連絡をとろうと、外に出て公衆電話に向かった。だけど、公衆電話はカード専用、小銭が使えないのである。
しかたなく、私は正門まで戻って警備員のお兄ちゃんに老師へ電話してもらうよう頼んだ。しかし、
「・・・この携帯番号、誰も出ないよ」

 やがて時間も迫ってくる。とにかく教室まで行ってみよう。私は警備員に礼を言って文教楼120教室へ入った。
教室内は学生が集まりだしているけど、肝心の張老師の姿はない。
「君たちは日語班?張老師はまだですか?」
学生は「日語班です。老師はまだ来てません」と言う。
教室の脇で待たせてもらい、最後にドアを開けた女の子に聞いた。「張老師はまだですか?」
すると、その学生は「張老師は私です。青木さんですね。外弁から話を聞いています」と言うではないか。ええっこの人が老師なのか。

 張桂丹老師はこの7月に南昌大学を卒業したばかりの若い先生。
流暢な日本語だが留学経験はなく、そのまま母校の教員になった。道理で学生に見えるはずで、日本語学科の学生たちの中へ入ってしまうと、格好も雰囲気も全く見分けがつかない。
「あの張老師、正門の警備員に頼んで電話したのですが、つながらないようで・・・」
張老師は、えっと言って携帯電話を取りだし、
「あ、すみません。外がうるさくて電話に気づきませんでした」
あの、とにかくよろしくお願いします。私が名刺を渡す様子を学生たちが笑って見ている。

 「私が南昌に来たのは1997年、98年に次いで3度目です。私は、最近の中国の発展ぶりについて話を聞いていましたが、実際に目で見て驚きました。以前は夜になると『天は真っ暗、地も真っ暗』でしたが、今では『天は真っ暗、地は紅々』ですね。歩行街や太平洋百貨の賑わいと商品の多さを見ると、南昌人は買い物のために上海へ行く必要はもうないでしょう」

 「皆さんが日本の経済や現代文化に興味を持って日本語を学ぶのと同様に、今の日本では中国の経済発展と現代文化に関心を持って中国語を学ぶ人が多くなりました。私も社会人教育で中国語を学んで、日本に住む中国人、また南昌の人たちと互相交流を図りたいと思っています。私の拙い話が皆さんの日本への興味を深めることになれば幸いです」

 私の仕事について、
「私は公務員です。中国では省の下に県、市、その下に市郷鎮がありますが、日本では県の下に市町村があります。私は村役場、中国で言う郷政府職員。村は郷に相当します。現在、日本では政府機構改革で約3千ある市町村を1千に統合しようとしています。豊かな都市部の所得を、貧しい農村部へ分配する『地方交付税』システムが財政難と政府機関の肥大化、硬直化でうまくいかないからです」

 現在の日本の経済状況について質問される。
「日本は自由主義国家ですが、以前は対外的には自由競争、国内的には政府管理の経済政策がとられてきました。農業や基幹産業は国の保護と統制を受けましたし、会社や銀行は潰れないと信じられていました。しかし、十年以上に渡る不況に経済システムが対応できなくなっています。国際的な経済自由化の影響で、国から守られなくなった会社が沢山倒産しています。大学生も就職先がなくて留学や大学院を選ぶ人もいます」

 日本では奥さんが働かないの?という質問が。
「専業主婦といいます。日本の経済システムがうまく働いていた頃、会社に就職すれば一生の生活を会社が面倒みてくれました。その代わり、社員は会社に忠誠を誓って猛烈に働くのです。夫がよく働くように、奥さんは家事や育児を一手に引き受けていました。しかし、今の日本では会社もいつ倒産するか分かりません。そこで、奥さんも働かないと生活できないようになってきています。また、男女共同参画社会という言葉で、男も女も同じように働き、家事や育児をしよう、と政府が提唱しています」

 さて、そろそろ硬い話題から離れましょう。
「中国の歌を知っていますか?」はい、よく聞きますよ。
「日本では王菲が有名です。私は劉若英が好きです。彼女の『很愛很愛@』は日本のキロロの『長い間』という歌ですが、知ってますか?」
学生たちは、知ってる、と言いながら嬉しそうにうなずいている。
「じゃあ、何か歌って下さい」
ええー、アカペラで歌うのか。じゃあ、下手ですがテレサテンの「我去在乎ni」を。これは日本では「時の流れに身を任せ」といいます。「如果没有遇見@・・・」おおー、学生たちから歓声と拍手をもらった。お粗末様でした。
「次は很愛很愛niをお願いします」
やれやれ、サビだけとはいえ、3曲も披露してしまった。






 授業が終わって、張老師に記念写真をお願いする。
「いいですよ。教室は狭いので、外で撮りましょう」
学生たちとわいわい話しながら、文科楼を出て庭園脇の中国風東屋へ行き、全員で写真を撮った。
「私は今日、明日は空いています。互相学習、互相交流してくれる人はいますか?」
張老師は級長の男の子を呼んで私の願いを伝えた。
「大歓迎します。私たちは次の授業がありますが、午後はクラス親睦会をする予定です。一緒に来ませんか?」
わあ、ありがとう。
「それじゃ正門前に1時に来て下さい。明日もみんなで南昌の街を案内しましょう」



 いまは10時。あと3時間ほどあるが、時間があってないような微妙な空き時間である。
一旦、宿舎に戻って荷物だけ置いてこよう。私は学生たちと分かれて正門を出た。
ところで、海外旅行では小銭の使い道に困るものだが、バスをよく利用する私は零銭を使い切る生活をしていた。ポケットを探ってみれば、10元札だけで1元玉がない。しかたない、零銭に崩さなくては。

私は大学前のパン屋に入った。
「馬得利」マドリードという名のベーカリーは繁華街から住宅街まで、南昌市内では何店舗となく目にするチェーン店である。まあ、昼はパンでいいか。私はサンドイッチとヨーグルトを買って零銭を作った。

 バスで上海路の宿舎に戻り、「回来了」家政婦のおばちゃんに告げる。
昼は食べるのか、と聞かれるが買ってきたからいいや。

私は部屋に荷物を置き、サンドイッチを囓って早い昼食にした。欧米の硬くて味のないモノとは違う、日本の味に近い柔らかいパンはなかなかいける。水っぽいヨーグルトはあと一歩という感じか。
時間があるうちに、忘れないように帰りの飛行機のリコンファームもしなくては。なんせ午後4時までだから、つい電話しそびれてしまっていたのだ。
さあ、せっかく天気もいいんだし、バスで街をぐるっと一回りすればちょうど時間になるだろう。またバス停から11路バスに乗って人民広場へ出た。




人民広場は南昌市のほぼ中央にある広場で、高さ45mの巨大な「八一起義記念塔」がそびえている。
1927年8月1日、共産党影響下の国民革命軍が蒋介石に対して武装蜂起した事件を記念したモニュメントである。晴天を背景に真っ赤な軍旗を象った記念塔を見上げていると、近くにいた人から「写真を撮ってくれないか」と声をかけられた。
見ると、カメラを手にした旅行者のような格好。
おお、珍しい。日本人に全く出会わない南昌ではあるが、「英雄城」の呼び名のとおり中国人観光客にとっては革命聖地として人気があるのだろうか?

 「いいですよ」と写真を撮り、代わりに私も写真を撮ってもらう。
「あなたは旅行者か?仕事で来たのか?」と聞かれて、日本から来た、と答えると、へえ珍しい!といった顔で見られた。それはそうだろうなあ。
お互い「よい旅を」と言って分かれ、私は八一大道の地下通路をくぐって江西省展覧館前で行われている「江西省物産展」のテントへ向かった。江西省各地の緑茶、銘菓、食品から安い衣料品まで取り揃えた物産展では、内蒙古から来たカシミヤ製品の即売会も開かれ、民族衣装を着たモンゴル族の売り子たちがさかんに客寄せの声を上げている。






 さて、そろそろ時間が来たようだ。11路内線バスで南昌大学へ戻ると、正門前に3人の女の子が私を待っていた。
「みんなも来ます。少し待ってて下さい」
4人で話をする。聞けばまだ1年生、大学へ入って3ヶ月だという。
「あなたたちはどこ出身?」1人は天津、1人は江西省萍郷、1人は福建省。
へえ、福建省から来ると、南昌は寒く感じるでしょう?天津はもっと寒いですか?
「私たちの寮はシャオリーベンと呼ばれているんですよ」小日本?
「はい、同じ部屋がみんな日本語学科だから。特にこの子は日本人みたいでしょ?」
うん、天津から来たという学生は見た目の雰囲気が日本人っぽい。

 そのうちに、クラス全員42人が正門前に集まった。ところで、クラス親睦会って何をするの?
「ホワピンです」滑氷?アイススケート場が南昌にあるの?
「はい、大学の近くにあります。一緒に行きましょう」
学生たちに囲まれてわいわい話しながら江大路を歩いて行く。南昌大学はかつて江西大学と称していたので、正門前から伸びる通りは昔の名前のまま。小吃屋や安い雑貨店が軒を連ねる通りはいかにも学生街の雰囲気。「天津第一包子」という店を見つけて、さっきの小日本に話しかける。
「天津があるよ。あれは有名な狗不理包子?」
「いいえ、狗不理じゃなくて別のチェーン店です。おいしいですよ」
その隣は板栗屋、日本でもよく見る甘栗が並んでいる。
「板栗のことを日本では天津甘栗って言うんだよ」

 「青木さん、日本人老板の店を紹介しましょう」
へえ、日本人がやっている店があるの?こっち、こっち、と連れて来られたのは、たこ焼き屋。赤い提灯に書かれた「たこ焼き」「お好み焼き」の文字といい、暖簾といい、確かに日本っぽい感じ。しかし、なぜ南昌にたこ焼きが?学生たちは口々に私のことをおやじに紹介した。
「こんにちは、日本人なんですか?」
おやじは笑って中国人だよと言う。大阪で研修生として働いていたとき、日本小吃の味を覚えて帰り、貯金を元手に開業したらしい。
「えー、なんだあ、老板は日本人じゃなかったの?」
大学前のたこ焼き屋は、日本料理をまだ食べたことのない学生たちの溜まり場だった。

 「滑氷はこっちです」
しかし、学生たちが向かった路地の奥には、どう見てもアイススケート場がありそうな雰囲気はない。
「本当にスケート場があるの?」と聞くと「氷はないです。ハンピンです」
ハンピン?指さされて看板を見ると「旱氷」とある。ははあ、何となく分かってきた。ローラースケート場だったのか。薄暗い倉庫のような旱氷場には、ミラーボールがぐるぐる回り、板張りの床が広がっている。
「私は旱氷初めてなんだけど」と級長に言うと、「没問題、没問題」軽くかわされる。
靴のサイズを聞かれて27cmのローラースケート靴を受け取り、旱氷場へ。

 旱氷場では、さっそく学生たちがすいすい滑り出している。
「どうやるの?」なかなかうまい男の子に聞くと、「体重を移動して、左、右」親切に教えてくれる。なるほどね。私はローラースケートもアイススケートもやったことはないけど、スキーの要領と一緒ならやりやすい。何度もずっこけながら、なんとか滑れるようになってきた。
「私は旱氷が出来ないから、恥ずかしいよ」
「いいえ、青木さん上手じゃないですか」
周囲に巡らされた手摺りに腰掛けて休んでいる学生の横へ行った。
「みんな旱氷へはよく来るの?」
うまい学生は何度も来ているが、クラスの半分以上は2度目、3度目なのだとか。

 だんだんコツがつかめてくると、手をつないだり、何人も繋がってスケートするのも楽しくなってくる。
「青木さん、どうしたらすぐ上手くなるの?」
まだ、恐る恐る歩いている学生に聞かれて、「それ、左、右」と声をかける。さっきまで私が教えてもらっていた言葉だ。
「君たちは若いからいいなあ。私なんて30を越えたから、疲れてしまって」
手摺りで休んで、近くの学生たちと話をした。結局、2時間近くも遊んだことになる。スーツを着替えてくればよかった。





 「ありがとう、とても楽しかったです」
私は6時から江西財経大学で映画を見ることになっていた。そろそろ行かないと。
「青木さん、私たちと夜カラオケに行きませんか?9時だったら映画が終わってからでも間に合いますよ」
学生たちとカラオケに行くのも楽しそうだなあ。ぜひ、お願いします。まだ旱氷に興じている学生たちと夜に会う約束をして分かれた。
休憩しながら話が弾んだ許さんがバス停までお供してくれるという。
「青木さん、夕食はどうしますか?学食へ案内します」
うん、行きたいけど時間がないからね。
「じゃあ、天津包子はどうですか?」
うれしいなあ、ありがとう。さっき見た店で小振りの包子を奢ってもらい、2人で食べながら学生街を歩いて行く。
女の子と肩を並べて肉まんを食べながら歩くなんて、夢みたいなシュチエーションだ。

 「11路ですよね。金陽光は、ええと、4つ目のバス停です。あ、バスが来ましたよ」
ありがとう。それじゃあ9時にね。バスに乗り込んで手を振って分かれる。
そこから朱小紅老師が待つ金陽光超市まではすぐ近くだ。
「青木さん、夕食はどうしますか?」
朱老師はもう食べてきたらしい。私は財経大学で出ると思っていた、と言うと
「時間がありません。私が買ってきましょう」ケンタッキーのハンバーガーを手渡される。
やがて、今日の映画会のために運行される大学のスクールバスがやってきた。なんとか座れたが、ぎゅう詰め満員のバスの中での夕食、練乳を溶いたような熱い牛乳を飲むにはちょっと苦労する。

 バスが財経大学に到着した。
人の波が続々と映画の上映される学生活動中心へ流れていく。
映画「英雄」の大きな手書き看板が掲げられた入り口で、係員に券を切ってもらう。○排○号、と指定された席を探して座ると、朱老師はカバンからミカンや煎餅、チョコレートなどを取りだして私にくれた。
周りの席では、学生たちがヒマワリの種をペチペチ食べては、殻を床に捨てている。
街中はすっかりきれいになったが、まだ人々の意識が変わった訳ではないらしい。

 上映時間が来ても、まだぞろぞろ入ってくる人がおり、映画も始まらない。
結局、15分遅れで講堂に設えたスクリーンに映像が映り、30分以上あとになっても自分の席番号を探す学生グループがうろうろしていた。
「すみません、ここは○排○号ではないですか?」
「それは2階席じゃないの」
「えー、2階だってえ」
うるさいなあ。映画に集中できないじゃないか。

 さすがに、映画が最初の山場を迎えると、館内もシーンと静まり、スクリーンに釘付けになった。
「英雄」は張芸謀の最新映画で、CGや撮影技術を駆使した映像はアメリカでオスカー賞外国語映画部門を受賞するかどうか、騒がれている話題作だ。「グリーンディスティニー」を彷彿とさせる剣劇がシルクロードの遺跡の上で、九塞溝の湖で、桂林で、チャンチャンバラバラ繰り広げられる。
その度に、客席はおおーとどよめき、大きな笑い声が起こり、はらはらしたシーンの後には拍手を惜しまない。うーん、すっかり画面と一体化している感じの楽しみ方だなあ。

 「青木さん、台詞は分かりますか?」朱老師に聞かれた。
中国の映画には、一部テレビもそうだけど、漢字字幕がついている。それで、完璧に聞き取れなくても筋を追うことができる。それに、「ビエカイワンシャオ」と言った下に「別開玩笑」と出るので、音と漢字を同時に確認できて中国語学習にもってこいだ。
突然、スクリーンがぱっと暗くなった。「又停電了!」会場のあちこちから声があがる。
ロビーは明るいから停電ではないらしいが、さて。
「この映画、すごく人気があるので、各地をフィルム持ち回りで上映しています。きっとフィルム後半がまだ街から届かないのでしょう」
そんな上映てあるんだろうか?

 唐突に「10分休憩」とアナウンスが入り、会場がざわつき始めた。こういうとき、電気がつくと同時に携帯電話に一斉に向かうのは、日本と同じか。大声で話し声も聞こえるし、前屈みになって一心不乱にメールを打つ学生も多い。やがて、映画が再開されると、再び画面に集中していく。
しかし、このフィルム後半は、途中でズバン、ズバンと切れてしまうのだ。その都度、会場の電気がついて観客は携帯を取りだし、再び映画が始まり・・・を3回ほども繰り返すはめになった。しかも、調整室のマイクスイッチが入ったままなので、映写技師がべちゃくちゃしゃべる雑談や機械類の音まで、映画の台詞や音楽と同時に聞こえてしまう。
うーむ、場所が大学の講堂ということもあり、只券をいただいた経緯もあるから言わないけど、普通だったら「金返せ!」って感じだぞ。

 さて、映画も終わり、エンドクレジットが流れ出したとたん、客たちは出口に殺到した。
正面出口だけでなく、非常口も開けられて、一斉に館外へ客を吐き出している。ついさっきまであんなに映画と一体化していたのに、ころっと変わるあたりが中国らしい。感慨に浸るも何もあったこっちゃない感じだ。
「中断があって楽しめなかったでしょう」朱老師に言われたが、私は面白かった。
「いいえ、映画の内容も素晴らしかったですし、映画会の様子は中国らしいと思いました」

 帰りのスクールバスまで歩いていくと、そこに外語学院長が待っていた。
学院長と朱老師は私に向き合うと、一つの包みを取りだした。
「青木さん、今回の我学訪問では日本語教室に多大な協力をしていただき、ありがとうございました。学生たちも大学もとても喜んでいます。今後とも末永く交流が続くことを願って、お礼の品を用意しました」
私はびっくりした。今回の大学訪問は、もともと私の個人的な希望から生まれたものだ。私の知り合いの顧健紅さんと朱老師が同学でなかったら、江西財経大学での交流も叶わなかったことだろう。お礼をしなければならないのは、むしろ私の方だ。

 恐縮しつつ丁重にお礼を述べて、大きな包みをいただいた。中身は、江西省で最も有名な景徳鎮の陶磁器だった。わざわざ朱老師が南昌市内の店を回って選んでくれたものだという。ありがとうございます。
「私は微力で何も出来ませんが、財経大学の皆さんと縁ができましたし、今後も何かの形で日本語教室に対して協力できるよう頑張ります」

 スクールバスが金陽光超市に到着し、私は景徳鎮の包みを下げて朱老師と分かれた。
タクシーを拾って南昌大学まで5分ほど。正門から大学構内に伸びる道を真っ直ぐ歩いた文教楼前では、もう学生たちが集まっていた。
「ごめんねえ、ちょっと遅れたかな」
まだ張老師が来ていないので待っているという。やがて、張老師もやってきて、級長の合図で44人がぞろぞろと歩いて行く。
「カラオケはどこにあるの?」周りの学生に聞くと、
「さあ、近くにあるらしいけど、初めてだから分かりません」
44人も一斉に入れるカラオケって一体どんなところだろう。

 大学前の南京東路を張老師、許さん、級長の章華峰君と話をしながら歩いた。
「将来、日本へ留学したい?」みんな留学して日本を体験したい、と言う。
「日本の大学は知ってますか?」
「はい、東京大学へ留学したいです」
「うーん、東京大学って、中国で言う北京大学みたいな存在なんだよ」

日本語クラス1年生の一行は、青山湖畔の公園で、七色の光を放つオブジェや、ライトアップされた噴水をバックに記念写真を撮ったり、寒いのにベンチに掛けて話し込んだり、なかなか前へ進んでいかない。それでも、わいわい言いながら湖岸に沿った遊歩道に入っていく。





 あれ、南昌市内のはずれにあたる青山湖は、私の初南昌で泊まった最高級ホテル「五湖大酒店」が建っているところだ。当時、ホテルの外には、裏寂れたアパート群と草ぼうぼうの公園があるだけだったが、今では洋風一戸建ての高級住宅が並び、公園も流行のウオーターフロント風に、洒落た街灯、ベンチのあるカラータイルの遊歩道が出来てすっかり様相が変わってしまった。
でも、まさか学生たちはホテルのカラオケなんか行くんじゃないだろう?

 私の心配をよそに、ホテルの前を通り過ぎ、日本の高松市が出資した「日中友好会館」前を歩いて、約20分ぐらいかけてカラオケに辿り着いた。
そこは、なかなか雰囲気のあるカラオケバー。
南昌大学の学生行きつけの店を1軒、今日のために貸切にしたようだ。クリスマスの飾りもそのまま残された店内に入ると、クラスの幹事たちがてきぱきと動いて席を割り振り、店の奥からビールの入ったピッチャーやおつまみを運んでくる。安く上げるために、ピーナッツやヒマワリの種は市販の袋を持ち込みしていた。考えているなあ。

 司会のあいさつ、学生たちと同じく老師1年生の張老師、そして私も前に呼ばれてあいさつした後、クラスのカラオケパーティは始まった。
日本の大学生で言うコンパだが、まだ初々しい1年生ばかりだからか、アルコール類に手をつけることもなく、ひっそりとつまみを口に運び、こそこそ話をするだけ。クラスの幹事たちは必死で盛り上げようと、紙に書いてきたプログラムを読み上げて、ゲームやカラオケの司会をしていく。
そうそう、こういう時の幹事って大変なんだ。

 中央のステージでカラオケが何曲か進み、ようやく場も和やかになってきた。
香港の歌を上手な広東語で歌い上げる男の子がいる。やんやの喝采を浴びて戻ってきた彼に「あなたは広東人?」と聞くと、全然違った。香港の歌手が好きで歌のために広東語を覚えたのだという。
カラオケの合間には、中国のゲーム。
といっても、早口言葉「統口令」や古今東西、老師の物真似をして誰かを当てる、とたわいないものだ。恋愛に興味津々の年代に違いないが、テレビドラマの台詞を男の子、女の子に言わせて、それできゃあきゃあ騒いでいるのだから、かわいいなあ。
私が高校生のとき、クラスで学校の1室を借りてやったパーティに雰囲気が似ているけど、今の日本の高校生ではこうはいかないだろう。健全というか、おぼこいといおうか。

 私にカラオケの番が回ってきた。
「じゃあ、テレサテンで」日本語歌詞はないけれど、許さんも中国語で歌ってくれるという。え、デュエットしてくれるの?うれしいなあ。1番を中国語、2番を日本語、最後のサビ部分は日中混合で歌った。テーブルの上にある花や飾りを学生たちが持ってきて歌の途中で捧げてくれる。
何か知らないけど、中国のカラオケも楽しい。

 自分のテーブルに戻って学生たちと話をしながら、ふと日本の早口言葉を思い出した。ノートを取りだしていくつか書きとめ、テーブルで披露する。反応が面白いので、幹事に「日中対抗統口令合戦」を提案した。
各テーブルから出た代表1人1人と対決するが、私は日本のモノ、彼らは中国のモノを出題する。
よーい、始め、「四十是四十・・・」なんの、これぐらい簡単だ。じゃあ、こちらは、「なまむぎなまごめ・・・参りました」「とうきょうときょきょ・・参りました」学習歴なら私の方に利があるからね。
次は、「紅鳳凰粉紅鳳凰・・・ああ、言えない。参りました」結局、私も降参して罰ゲームのビール一気をするはめになった。

 張老師が帰り、私も時計を見ると夜中の1時半を回っている。いけない、うっかりしていた。宿舎のある工業団地の門は2時に閉まるのだ。
私は章君に帰る意を伝えて、店のマスターにタクシーを呼んでくれと頼んだ。ところが、マスターは呼ぶ必要はないと言う。ええっ、どういうこと?詳しく聞くと、カラオケバーの外にタクシーが1台常駐しているのだった。
「ありがとう。今日は楽しかった。明日は本当にいいですか?」章君と許さんはうなずいて
「問題ないです。明日、朝10時に正門前へ来て下さい。行ける人みんなで案内します」

 景徳鎮の包みを抱えてタクシーに乗り込む。何人かの学生たちが店の外で見送ってくれた。
すると、運転手が私に「南昌大学の老師か?」と訪ねてくる。
そうだよ、と答えると、その人は「南昌大学外語学院には娘が在籍してて・・・」などと話し始めた。へえ、それは偶然にも。私はまだ南昌へ来たばかりでよくは知らないんだ、などと適当に話しながら上海路へ急いでもらった。彼の娘はフランス語学科3年生で、現在は留学中なのだという。
「運転手さんも娘のために、夜遅くまで仕事大変だね」
でも、経済発展めざましい中国で外国との接点を持つことは、親の自慢なのだ、と彼は誇らしげに語った。

 結局、宿舎に帰ったのは2時すぎ。幸いにも門は閉まっておらず、私は倒れ込むようにベッドに入った。ああ、長い1日だった


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寝不足市内観光(2002年12月28日 土)


気が付くともう朝だった。
ああ、夕べは2時過ぎだったからなあ。いつも通り6時に起き出して、寒さに震えながらシャワーを浴び、頭を洗う。
「夕べは遅くなりまして、申し訳ありません」
総経理と吉田さんと朝食を囲みながら、夕べの帰りが遅くなったことを詫びた。
「いいよ、俺たちは寝ていて気づかなかったよ。まあ、朝まで帰ってこないと心配するけど」
はあ、私は朝帰りできるようなねぐらを持ってませんから。

 今日は南昌大学の学生たちに街を案内してもらうのだった。
約束の時間は10時、まだ早いから、ちょっとゆっくりしていられる。総経理たちが出勤していった後、1人でテレビを見ていた。家政婦のおばちゃんが来たら、「今夜も私はいません。ご飯はいらない」と伝える。
なんだか私はこのおばちゃんにずっと「不在、不在」ばかり言っている気がするけど、一体どんな居候だと思われているのだろう?

 さて、寝ぼけていた頭もリセットして、南昌大学に向かった。
昨日のピーカン天気から一転して、今日の空はどんよりした雲に覆われている。その分、凍てつくような寒さが幾分和らいだのはありがたい。
正門前で1人待っていると、10分ほど遅れて章華峰君と許紅男さんがやってきた。
章君は四川省出身、許さんは江西省臨川出身、「女の子なのに紅男なんて面白いでしょう」と言っていた人だ。2人とも昨日のローラースケートやカラオケでは、私のすぐ隣であれこれと話をして、私たちはすっかり仲良くなった。

 いかにも寝不足顔の2人に、「昨日はありがとう。私は帰ったら2時だったよ。君たちは何時までいたの?」と聞くと、なんと今朝の7時まで店にいたという。えっ7時?それじゃあほとんど寝ていないじゃない。
「そうです。ベッドで2時間だけ寝ました」
あとの学生たちは?
「はい、全員朝までいましたよ」
なんと、あの狭いカラオケバーで、1クラス42人が椅子に腰掛けてテーブルに突っ伏しながら寝ていたそうだ。なんて無茶な。
「みんな疲れたので、残念ながらお供できません。私たち2人で案内します」
あの、君たちも相当お疲れモードだよ。今日は止めて休んだ方がいいよ。
「大丈夫です。私は元気、元気です」

 それは日本語では「お疲れハイ」または「空元気」というんだよ。まあ、若さというのはいいなあ。私も相当お疲れハイだけど。さて、お疲れハイ3人組は南昌大学バス停から街に向かった。
「青木さん、どこへ行きたいですか?」
うーん、私は市内をほぼ知り尽くしたけど、今日は案内され役に徹しよう。
「まず人民広場へ行きたいよ」
主要路線で満員の11路バスをやめて、北京路経由の5路バスで南昌中心部へ向かった。

 バスの中で話をすると、まだ入学して3ヶ月しかたっていない彼らは、大学周辺からほとんど足を伸ばしていないらしい。章君は1度、南昌市内観光をしたことがある。許さんの故郷は鉄道で2時間ちょっと。週末に帰ることができる距離で、南昌市内にも親戚が住んでいる。小さい頃はよく遊びに来たが、最近の様子はほとんど知らないという。
なんだ、案内してくれる、と言いながら誰も南昌に詳しくないのだった。でもそんなことはどうでもいい、2人の気持ちだけでありがたい。


 昨日も来た「人民広場」へ。
今日は土曜日だけあって、広場にはぽつぽつ人の姿がある。赤い制服に身を包んだおばさんの鼓笛隊が広場でパレードの練習を繰り返していた。
「青木さん、南昌は英雄城と呼ばれています。なぜだか知ってますか?」
1927年の八一南昌蜂起でしょう。朱徳将軍が指揮した蜂起部隊が、国共内戦と日中戦争を経て、今の人民解放軍へと発展したのですね。おお、我ながら中国の優等生的な回答だなあ。
「タンシャオピンは?」
ん?指さされた方を見ると、毛沢東、ケ小平、江沢民の3人が描かれた大きな看板が立っている。
「ケ小平ね。章君と同じ四川省出身だね。黒猫白猫でしょう」

 「黒猫白猫だって!よく知ってますね!」感心されてしまった。
じゃあ、私から質問、「毛沢東のことはどう思ってるの?」
聞くと、若者にとって毛沢東はなかなかイメージできないようだ。建国の父ではあるが、中国の発展を大きく遅らせた大躍進政策、文化大革命も彼が引き起こした。それに対して、改革開放の推進に強力なリーダーシップを発揮したケ小平の方がより指導者として身近に感じるらしい。

 「青木さん、デパートを見てみましょう」
2人に誘われて、「百貨大楼」へ。1997年当時は南昌市最大の百貨店と聞いたが、すべて階段のうえ、商売気のない服務員がカウンター奥に控える、典型的な国営商店だった。さて、現在はどうか。今も国営なのかは知らないが、カウンターは撤廃されて溢れるほどの商品が所狭しと並んでいる。テナントにはケンタッキーが入り、吹き抜けの店内をエスカレーターが上下する、普通のデパートになっていた。
「あのね、私は何も欲しいモノはないよ」
一通り見てから街へ出る。





 繁華街の中山路を抜けて、勝利路歩行街へ。クリスマスの飾りはようやく片づけられ、代わって正月飾りが歩行者天国を埋め尽くしている。
「ここは南昌の街で一番きれいな場所だね。まるで上海の南京東路みたい」
華やかな街を眺めて、ふと気づくと、時間はもう12時近い。どこかで昼食にしようよ。
案内役の2人が選んだのは、歩行街の中程にある自助餐「上海城皇廟明福美食楼」。店の入り口では、店員がすごい早さで小籠包を包んでいる。スープ、麺、さまざまな小吃が店先で作られ、客は最初に現金と交換したチップで欲しいモノを選んでいく仕組みだ。チップが余れば、最後に現金化できる。

 「何がいいですか?」私たちは、小籠包、春雨のような麺、炸藕を運んできて食べた。
「私は中国の小吃が大好きだよ。特に小籠包は美味しいね」私が代金を払うと言うと、
「青木さん、私たちが出しますよ」
悪いねえ、またもや学生に奢ってもらうことになった。ところで、夕べのカラオケ代はいくらだったの?
「250元です」それは1人分?「いいえ、店を貸し切って、カラオケとビール、全部合わせた分ですよ」
44人で、朝まで店にいて250元なの?日本円で3750円だ。ということは、1人6元弱、85円くらい?いくら中国でも安すぎるパーティだなあ。

 どんなに安くても、私が奢ってもらうばかりじゃ申し訳ない。
「それじゃあ、今夜は私が2人にご馳走するよ。日本料理は食べたことはある?」
2人ともまだ日本料理を知らないと言う。
さっき、歩行街の入り口で私たちは、不思議などてら集団を見かけていた。綿入れのちゃんちゃんこを洋服の上に羽織った小姐たちが道行く人々に広告ティッシュを配っている。それこそ、南昌で有名な日本料理店「福岡日本料理」だった。
なんせ、街へ来たことのない学生でさえ、その名を知っているのだ。私も総経理や外事弁公室から話に聞いていた。夕食はそこにしよう。



 歩行街の端まで歩き、南昌最大の観光スポット「滕王閣」への道を交通警官や道行く人に尋ねる。何度か迷ったが、ものの300mほどの距離で、カン江に面してそびえ立つ古代の楼閣「滕王閣」に到着した。
私にとっては2度目、章君も2度目、許さんは初めて来たという。だけど、今日は私は案内され役、一応、初めて来たことにしておいた。
入場券は1人30元。3人分をまとめて購入し、学生たちに渡す。
これぐらいのことは当然しなくちゃ、と思ったのだが、喜んだ許さんは、お土産屋で中国結を買って私にプレゼントしてくれた。わあ、ありがとう。嬉しいなあ。私たちはゲートを通って楼閣の中に入った。

 高さ56m、4層5階建て、極彩色に彩られた楼閣は、唐代に建立され、詩人王勃が詠んだ「滕王閣之序」の文章によって広く世間に名が知れ渡った。そのため、中国三大名楼のひとつにも数えられたが、度重なる戦乱によって破壊と再建を繰り返し、現在の滕王閣は1989年に完成したコンクリート製のものである。全く新しい古代建築物なのだ。まあ、中国にはこの手の再建された名所にいとまがないけれど。

 館内には、王勃をはじめ楼閣の美しさを讃えた文人たちの人物画、江西省の有名な伝説「臨川の夢」のタイル画が展示されている。
「あ、臨川。これは私の故郷です」
許さんが私に教えてくれた。中国ではこの伝説によって許さんの故郷の名が広く知られているのだという。さらに上の階には「滕王閣之序」を記した竹簡が壁一面に並べられていた。江西省を一言で語る場合に用いられる「物華天宝、人傑地霊」という言葉はここが出典になっている。
「これは草書ですね」と言う章君に、読めるの?と聞いてみる。
「いいえ、私は書法に詳しくないので読めません」
そうか、ちょっと安心した。私は中国人はみんな達筆で草書もすらすら読めるのかと思っていたよ。
「今の若い人はそうじゃないですよ」

 滕王閣の最上階、外を眺めるベランダに出る。眼下には南昌の街から、長江の巨大な支流カン江の流れまで雄大な風景が広がっている。
以前よりもずいぶん高層ビルが増え、カン江沿岸には新開発区として上海の浦東にも似た金融関係の超高層ビルが林立している。すっかり眺めが変わってしまったなあ。ここで写真を撮ろうよ。章君が観光客のグループに頼んで3人のスナップを撮ってもらう。
「あの人たちはアルアル人だね」何、アルアル人って?「北京人のことです。何でも語尾がアル化するからね。南方人から見ると特徴的でしょう」
なるほどね。口振りによって出身地がだいたい分かるんだ。





 滕王閣を出て、カン江沿いの遊歩道を江西省博物館へ。
柳並木が続く河岸に来ると対岸ははるかに霞んで、まるで海岸地帯のような感じがする。南昌港とそれに続く運河には大きな船が係留されていた。新開発区に移転、新設された江西省博物館は、革命闘争館、歴史文化館、自然環境館の3つに分かれた近未来的な建築物。

 まずは革命闘争館から見ていく。展示はやはり八一南昌蜂起から、萍郷ゼネスト、秋収蜂起といった江西省での共産党の革命運動、そして国民党に追われて逃げ込んだ井岡山、瑞金での根拠地確立あたりが中心になる。
「政権は銃口から生まれる」という毛沢東の政治信念は南昌から始まったのだ。その意味で江西省は現代史にとって重要な場所である。
まじめな中国の大学生らしく、共産党史を教育された章君が熱心に私に解説してくれた。私は1997年に萍郷の工人運動記念館で、泣きながら革命歌を歌う解説員に驚いた覚えがあるけど、今日はそんな感慨はない。

 次に歴史文化館。1階の中央には、宋代の墓から発掘されたミイラがガラスケースに入って展示されている。
「本物かなあ?」私はミイラの実物を初めて見たが、干からびているものの髪の毛などは妙に生々しくてグロテスクな感じだ。周囲には、ミイラが身につけていた服装や、副葬品が並ぶ。隣の湖南省では馬王堆ミイラが有名だが、江西省にもあったんだ。
あまりのリアルさに詳しく見る気をなくして最後の自然環境館へ向かう。

 さて、その自然環境館。ざっと見て回ったあと、許さんはトイレへ、私と章君は玄関ホールで待っていた。
ところが、彼女は私たち2人が先に行ったと思ったらしい。1人で展示室の奥へ進んで行った。そうとは知らない私たちの耳に、突然、「きゃあ!」と叫ぶ彼女の悲鳴が。

「どうした?」慌てて声のする方へ駆けつけると、そこは「恐竜館」だった。
なかなか精巧に作られた恐竜の実物大模型が暗闇に佇んでいる。
センサーが反応して恐竜にスポットライトが当たると、雷鳴と共に牙を剥いて動き出し、吼える仕組みになっていたのだ。許さんは何も知らずに恐竜館に入り、突然に飛び出してきた恐竜にびっくりして腰を抜かしたのだった。
理由が分かって3人で大笑いしたけれど、私だって1人で放り出されれば、何となく不気味でもある。驚かせてごめんね、許さん。

 展示室の一番奥まで進み、さて戻ろう、と思ったら恐竜館を通らないと帰れない。
許さんは私と章君の手をぎゅうと強く握り締め、目をつぶって恐竜たちの間を小走りで通り抜けた。かわいそうに、よほど怖かったんだなあ。
「許さん、映画のジェラシックパークとかだめでしょう?」
冗談で聞くと、真顔になって「私はああいうのはだめです」と言う。
「上海にユニバーサルスタジオが出来るらしいけど、許さんは行けないだろうね」

 さて、気分直しにちょっと休憩しよう。街へ戻り、今やどこにでもあるケンタッキーでコーラを飲んだ。
「疲れたでしょう?風邪引いた?」2人とも大丈夫、明日の日曜日にゆっくり休養します、と言う。
「青木さんは私たちにとって初めての外国の朋友です。今日は南昌を一緒に観光して、とても新鮮な気分です」
ありがとう。そんなことを言ってもらえると嬉しいよ。それから2時間ほども日本や中国の四方山話に花が咲いたのだった。

 もう夕食時、福岡日本料理へ向かう。中山路にあるビルの2階は広くてきれいな和風レストランになっていた。店員の「イラッシャイマセー」という間延びした日本語はなんとなくおかしいなあ。
2人に「歓迎光臨」って意味だよ、などと言いながら窓際の席へ案内される。物珍しそうに店内を見回していた章君と許さんだが、菜単を見た途端に固まってしまった。刺身盛り合わせや鰻重などに60元、80元、といった金額が並んでいるからだ。
「ちょっと高すぎます。やめましょう」
2人は私に訴えるが、ページをめくっていくと定食類は30元前後らしい。
「日本なら天麩羅定食は500円では食べられないよ。天麩羅にしようか」
お任せします、と言うので、1人32元の定食を頼んだ。

 出てきたモノは、エビや野菜の天麩羅、茶碗蒸し、煮物、サラダ、ご飯と味噌汁。うん、まあまあか。味も、中国だと思えばこんなものか。
総経理はこの店について「わざわざ食べに行く場所じゃない」と言うが、店内は物珍しさからか、結構家族連れやカップルの姿も目立つ。そのとき、ふと日本語の響きが聞こえてきた。なんと、観光客らしい中高年の日本人が7、8人入ってきたのだ。
日本人老板と談笑した一行は、やがてガイドに連れられて奥の間へと消えていった。章君が身を乗り出して言う。
「青木さん、日本人ですよ。あっちへ行って紹介しましょうか?」
あの、いいんだよ。南昌で日本人は珍しいけど、わざわざ話に行くことはないよ。

 それより肝心の初日本料理はどんな感じ?天麩羅は天つゆに浸けて食べてみて。あ、浸けすぎると崩れるよ。
「天麩羅はすごく美味しい。でも、これは『酸』ですね」
酸っぱい?茶碗蒸しが?「はい、酸っぱいです」
じゃあ、味噌汁「醤湯」はどう?「咸」塩辛くない?「いいえ、咸じゃなくて酸ですね」へえ、味噌汁も酸っぱいと感じるの?
「でも、白飯は美味しいです。中国ではこんなご飯はないです」うん、炊き方が違うからね。
「ところで、店員さんの着物の後ろに付いてる袋は何ですか?」
袋?ああ、あれは帯の結び目だよ。妙なところが気になるんだなあ。

※「福岡日本料理」は、2003年春のSARS騒動で閉店しました。
南昌には、中山路の太平洋購物広場に鉄板焼き店、デパートの向かいの地下に日本料理「大阪城」があります。

 2人とも「美味しい、ありがとう」と喜んでくれたから、まあよかったか。「散財させて申し訳ない」さかんに言うので、月曜日の夕食を2人に奢ってもらうことにした。場所は南昌大学の学生食堂、楽しみにしているよ。
「これからどうしますか?」
うん、2人とも寝不足なのに、私に付き合ってくれて疲れたでしょう。今日は早く帰って休もうよ。
私たちは11路内線バスで南昌大学を経由して帰路についた。北キャンパスが広がる正門前で許さんが下り、上海路の途中、南キャンパスのある場所で章君が下りる。
「今日は本当にありがとう。そしてお疲れさま。また明後日にね」

 「おや、珍しく早い時間に帰ってきたね」私の姿を見て総経理が笑う。はい、昨日は遅すぎましたからね。
その後、シャワーを浴びていると、総経理が驚いたように私を呼んだ。
「青木君よ、中国語の電話やで」
慌てて風呂から飛び出し、リビングまで行く。「ウェイ?」電話の相手は、江西財経大学3年生の李小鯤さん、小糖果だった。そうだ、明日のパーティの件で電話をくれるって言ってたんだ。

 「青木さん、私の電話は2回も切られちゃいました」えっ、どういうこと?
「チンムーセンションって言ったら、いきなり切られたんです。それで次に、アオキサンって言うと『等一下、等一下』って・・・」
あはは、総経理が理解する中国語は、「イ尓好」、「謝謝」と「等一下」の3つである。日本人住宅に中国語の電話なんてかかってこないから、きっと「チンムーセンション・・・」と言われて切ってしまったのだろう。「アオキサン」でようやく訳が分かって「ちょっと待って」と慌てて私に繋いだのだ。抱歉、小糖果。

 「明日のクラスパーティは6時からです」
「私は5時半に財経大学へ行きます。李さんは試験を頑張ってね」
「はい、私は正門で待ってます」
うーん、夕方5時か。昼間はまるっと休養時間だな。
「それから、青木さん、私の部屋に本を忘れましたね。持ってきますよ」
ありがとう。小糖果に進呈してもいいけど、せっかくだから、何か違う物をお礼に持っていこう。
「じゃあ、明日。サヨナラ」


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クラスパーティ(2002年12月29日 日)


今日は1日ゆっくりできるはずだったが、朝はいつもより早かった。
南昌服部時装有限公司の社長室長である吉田さんが日本へ帰るからだ。今まで朝ご飯の準備は吉田さんに頼っていたので、その手順を引き継ぐべく、早起きして習うことになった。まだ真っ暗な時間に起きて、帰国準備を終えた吉田さんと厨房へ行く。
広い宿舎の中、私は1週間滞在して初めてがらんとした厨房へ入った。

 ぴゅうう、いきなり風が吹き込んでくる。
思わず窓を閉めようと近づけば、ガス台に近い窓にガラスが入っていないのだ。
「ああ、プロパンガスの元栓が甘くて危険なんだ。だから1年中換気をよくしてるんだよ」
ううっ換気が良すぎるんでは?炊飯器のスイッチを入れ、味噌汁の鍋をコンロに掛ける。屈み込んでガスボンベのバルブをひねると、確かにかすかなガス臭が漂ってきた。
私は、上海の朱実先生のマンション、南昌の王さんのアパートの様子を思い浮かべた。どちらも「安全な」オール電化住宅だったはずだ。
「ガスを使ったら、その度に元栓は締めてね。漏れるから」

 3人で食事を済ませると、会社の運転手さんが迎えに来た。
「1週間の間、お世話になりました。ありがとうございます」
正月を前に久しぶりの帰宅となる吉田さんを乗せ、バンは空港へ走り去っていった。
「さて、青木君は予定はあるかい?」
はい、今日は夕方4時くらいまで休憩しています。
「そうか、午前中に王雨森さんと遊びに行くように待ち合わせしているんだけどなあ」
え、私も連れていって下さい。別に疲れてなんていませんから。
「それじゃあ、運転手も呼んで飯を食いに行こう」

 しかし、王雨森さんはなかなか現れない。NHKBSで1年間の回顧番組、全米ゴルフツアーダイジェストなどを見ているうちに10時。ソファに埋まってだらだら過ごしていると、まず、会社の運転手さんが空港から帰ってきた。やがて、王さんと外弁の運転手さんも宿舎にやってくる。
そのまま5人でテレビを見た。「高尓夫球なんて面白いの?」という中国人運転手に、ゴルフ好きらしい総経理は王さんを介して熱心に神髄を語っている。テレビがグリーン上でパットを決める場面を流し始めると、そんな運転手さんも「ほほう、おう、入った。すごいなあ」などと感嘆している。

 「さあ、11時になるし、飯を食いにいこう。運転手の家族も一緒だよ」
総経理が発案して南昌中心部に近い福州路へ出かけた。場所は人民公園に面した「天府山珍酒店」山珍とは野生のキノコのことらしい。総経理おすすめの店のひとつで、特に冬場に食べるキノコ鍋があっさりしていて美味しいという。
運転手さんに自分の奥さんと王さんの奥さんも迎えに行かせ、一足先に予約した個室へ入る。
「今日はまた雪降りに戻りましたね」
窓の外に舞いだした粉雪を見ながら言うと
「うん、こんな日は鍋に限るね。スープも絶品だし体が温まるぜ」

 運転手さん2人とその奥さん、王さんの奥さんも揃って8人でキノコ鍋を囲んだ。スープが煮立った鍋に、具のキノコや肉、野菜類を別途注文して入れていく仕組み。何十種類ものキノコの名が並んだ菜単を見ると「松茸」の文字も見える。
「おお、松茸って値段としては中クラスなんですね」
中国では松茸だけを珍重する習慣がないらしい。
「じゃあ、松茸いきましょう。松茸」
王さんによると、江西省で産出するとは聞かないので、四川省や雲南省の山岳地帯から持ってきたモノでないかという。ふーん、日本で言う中国産松茸と同じ産地か。

 江西省では、同じく「体が温まるぜ」と言って犬鍋なども食べさせられるが、日本では目が飛び出るほど高いスッポンや松茸が一般的なメニューとして出てくるのはすごい。私は、かつてないほどに、松茸を鍋で堪能することができた。ありがとう、ごちそうさま、総経理と王さん。
鍋を囲んで談笑する人たちの中で、王さんの奥さんとは知己だが、運転手さんの奥さんは初めてお会いする。
子どもさんはもう大学生で、なんと王さんの息子さんを含めて3人とも日本留学中だという。

 「単身赴任で外国にいると、家族のふれあいに飢えるだろ?だから、王さんや運転手さんの家族団らんの仲間に入れてもらうんだ」
総経理が私に言った。吉田さんも帰国してしまい、1人になったため、ついほろっとしたのかもしれない。ところで、総経理の帰国は12月31日の朝、最も高いJALに乗り継いで1日で日本へ帰る強行スケジュールらしい。
「やっぱり年越しは日本で過ごしたいね」
私は短期滞在といえ、家族と離れて中国の空の下か。
「寒気団が来て、空港が閉鎖になると日本へ帰ないよ」
王さんが里心のついた総経理を脅かす。南昌でも閉鎖することがあるの?
「ここは南方だから除雪装置がないんだよ。まあ、以前、香港の代表団が雪で閉じこめられたとき、武装警察を動員して滑走路を人力で除雪させたことはあるけどね」

 食後は、市内のはずれにある運転手さんの家へみんなで遊びに行くことになった。
「青木君は昼からどうする?」
あの、私は財経大学へ5時に行くことにしてますが。
「財経大学は結構遠いよ。今、ついでに乗せていってやるよ」
たしかに交通は不便だけど、まだ早すぎる。どうやって時間をつぶせばいいのだろう。私の心配にも構わず、一行を乗せた会社のバンは一路、八一大橋を渡って郊外に向け走り出した。

 結局、正門に到着したのはまだ2時前、約束の時間まで3時間半もあった。
低くたれこめた雲からはらはらと雪が舞い続ける日に、1人で放り出されても、どこで過ごすあてもない。とりあえず小糖果に連絡を取らなくちゃ、と考えた。彼女は携帯を持ってないから、寮へ電話することになる。まだ試験中で帰ってないかもしれないが、その時は仕方ないだろう。
大学構内へ歩きかけた私は、ポケットに入れた電話カードを握り締め、公用電話を探すべく正門に向かって踵を返した。

 「あれ、李さん?」目の前に立つ女の子は、「青木さん?何で今いるの?」
なんとも偶然なことに、正門でばったり顔を合わせたのは小糖果だった。
「朋友に送ってもらったんだけど、時間が早いから君に電話しようと思ってたんだ」
私の滞在中、この時ほど有縁を感じたことはない。1万5千人の学生が暮らす大学内で、電話しようとした矢先に本人と出会ったのだから。
「へえ、そうなんですか。有縁千里ですねえ」
今晩のパーティに使うケーキを予約するために外出していた、という小糖果と話しながら、凍えずに済んだ私はほっと胸をなで下ろしていた。

 「ところで、テストは終わった?」
「はい、まあまあですね。外は寒いから私の部屋へ来ますか?」
ありがとう、その言葉を待っていたよ。小糖果と連れだって先日も訪れた女子寮の7階にある部屋へ行った。
「あれ、他の同学たちは?」
「まだ試験中の人もいます。パーティの準備をしている人も。順次帰って来ますよ」
あなたはパーティの準備はいいの?
「私の役割はケーキの用意と、青木さんを迎えに行くことなんです。ゆっくりしてて下さい」

 椅子に掛けて、お茶を淹れてもらう。蓋付きの保温カップで手を温め、天井の扇風機を眺めながら聞いた。
「扇風機はあるけど、部屋に暖房はないの?」
この前は同学たちが大勢いたから寒さを感じなかった。2人きりというのはドキドキする状況だけど、それ以上に体の芯から冷えがつのる。
「暖房がないから大変です。耐えられないですよ」
屋内であってもきっちり着込んで防寒対策を講じるしか対処法がないという。長江以南の暖房がないつらさを実感した。「夏はまた蒸し暑いでしょう?」もっとも、最高気温が40度を超す季節は夏休みにあたり、まだましなのだとか。

 「これ見て下さい。かわいいでしょ」
ベッドに置いてあったサンタクロースのぬいぐるみを手にとって私に差し出した。
「岳恵さんが男朋友からクリスマスにもらったんだって。いいなあ」
「へえ、同学は彼氏がいるんだ。小糖果には男朋友はいないの?」
「私にはまだいません」
あの、忘れ物の本を持っててくれたでしょう。これは男朋友じゃないけど、私からお礼。「給イ尓」
「えっ、これは何ですか?」
私は日本から、干支のぬいぐるみを1つ持ってきていた。お土産になりそうなモノを何でも荷物に詰め込んでいたのだ。
「吉祥羊。来年は羊年でしょう」
「わあ、ありがとう。嬉しいです」
喜んでくれると私も嬉しい。

 今夜のパーティはどんなことをするの?
「私の同学はダンスをします。あとカラオケやゲームも」小糖果はダンスをするの?
「いいえ、私はダンスできません。代わりにカラオケで歌います。青木さんは何か歌えますか?」
うん、この前の「我去在乎イ尓」とか、「花心」とか。一緒に歌わない?「はい、いいですよ」ありがとう、じゃあ練習しようか。私たちは寒い部屋の中でカラオケの練習といって歌いながら、あとは、とりとめのない雑談を延々しゃべり続けた。

 「私は日本語を学んでいますが、中国を愛しています」
突然、きっぱりと小糖果が言った。ついに来たか。中国人と打ち解けると、必ず出てくる話題だ。
「うん、愛国心は大切。生まれる国は選べないんだから、愛着を持つことは自然なこと。でもね、政治上の過ちを認めたくない人がどこの国にもいます。それは指導者の面子に過ぎないのにね。私は日本を愛しているし、中国も好きです。日本と中国は歴史も文化も経済も、お互いの関係なしには成立しないでしょう?」

 こんな答えでどう?
「そうですね。私もそう思います」よかった、難問をクリアしたか。
一体、私はこんなに長く中国語のキャッチボールをしたことはない。間が空かないよう会話し続けたけれど、気づかないうちに、自然に中国語が口をついて出てくるようになっていた。南昌滞在中、たくさんの人々に出会ったが、私にとって一番の中国語老師は小糖果だったろう。

 そのうち、同学たちも部屋に戻ってきてにぎやかになった。
「ハイ、チンムーセンション」「ハイ、試験どうだった?」「まあまあかな」
5時近くになって、同学たちは会場準備のために再び部屋を出ていく。
「青木さん、一緒に夕食に行きましょう。パーティにもお菓子を用意しているので、軽くでいいですか?」
小糖菓が私を連れていったのは、小吃専門の学生食堂。カウンターの上には西北風味、北京風味、とあり、餃子や麺類を中心に出しているようだ。
「水餃子好きですか?」うん、大好き。
「じゃあ、水餃子、辛いスープで」小糖果がてきぱきと注文してくれた。
「私が奢るよ」「いいえ、学生食堂は現金じゃないんです」

見ると、磁気カードの学生証をカウンターにかざして、モニター上に金額が表示されるようになっている。
「あとでまとめて精算するんです。私がご馳走しますよ」
ありがとう、小糖果。

 ご馳走する代わり・・・小糖果が言った。
「私に付き合ってもらえますか?」いいよ。どこへ行くの?
「注文したケーキを受け取りに行きます」うん、一緒に行こう。
2人で歩いているうち、カバンをごそごそしていた彼女が「引換券がない」と言い出した。寮の同学に電話しても結局見つからなかったらしい。
「どんなモノか知ってるんでしょう?引換券がなくても大丈夫だよ」
すっかりしょげた小糖果をなぐさめながら、小さな商店街にあるケーキ屋へ行く。
「あ、これ、祝3年って書いてあるの。これです」
店員が彼女を覚えていたので、私たちは無事にケーキをもらうことができた。ところで、祝3年って何?
「私たちが3年生になったお祝いです」
大きめのデコレーションケーキを下げた私は、小糖果についてパーティ会場へ向かった。

 大学構内のあちこちで、きれいに飾り付けされた部屋を見る。今日はいろいろなクラスがパーティを開くらしい。
私を招待してくれた3年生のパーティ会場は、教員住宅の1画にある大会議室だった。ステージに向かって机がU字型に配列され、学生たちがお菓子やジュースのペットボトルを並べて準備している。
「こんにちは。招いてくれてありがとう」
椅子に案内されて、「ミカンをどうぞ、ジュースも」とテーブル一杯に持ってきてくれた。もてなし上手の中国人らしいなあ。風船を膨らませている男の子が、四苦八苦しているので、「貸してみて」とやってみせた。「おお、すごいですね」周りの学生たちも集まってきて、子どもみたいに驚いている。
あれ、みんな風船膨らましができないの?妙なところが不器用なんだなあ。



 結局、ほとんどの風船を膨らませた頃にパーティが始まった。担任老師と共に前へ引っ張り出されて、あいさつをする。
「青木さんは、全部の風船を作ってくれたんですよ」
紹介されると、「おおー」ちょっとしたどよめきが起きた。私は風船膨らましで尊敬を受ける日本人になってしまった。
さて、オープニングは小糖果の同室の女の子3人によるダンスから。今日に向けて練習していただけあって、やんやの喝采を浴びている。

 そのうちの1人は雲南省出身のタイ族学生。続けてソロでタイの優雅な民族舞踊を披露してくれた。
「やってみたい」何人かの同学が前に出て、タイ舞踊に特徴的な手や首の動きを教えてもらう。「えー、できない」合掌しながらぎこちなく首を左右に振る様子はお世辞にも優美とは言えないぞ。たちまち会場中が大爆笑に包まれた。
「まだ、踊りの上手な人はいますよ」
次に出てきた女の子は、赤い扇子や布を使って、西北高原に伝わる漢民族の舞踊を舞った。
「青木さんもやってみて下さい」
私も他の学生たちと一緒に前へ連れ出される。赤い扇子を渡されて、女の子について見よう見まねで踊った。
「あはは、全然違うよ」
そうかなあ、見たとおり踊ってるのだけど。





 今日のパーティは一人一芸大会みたいだった。
ギターを抱えて弾き語りする男の子、4、5人で出てきてコントをするグループ、出し物を周りで見ている同学たちも、なんとなく日本でやる同種の会に雰囲気が似ている。
「あの、相声って日本語で何て言うんでしたっけ?」うん?漫才だよ。
「これからマンツァイやりまーす。しかし、なんですなあ・・・」
内輪ネタだけの漫才をやって、周りを寒い空気にさせ、ちっとも受けずに帰って行く様子も同じ。外国のパーティというと欧米のように派手で社交的なのを思い浮かべるが、シャイで素朴な学生たちは日本っぽくもあった。いや、今や日本の学生なんてこんなに微笑ましくないか。

 いよいよカラオケで私の番が回ってきた。
「青木さん、準備はいいですか。次ですよ。次」
小糖果に手を引っ張られて前に立った途端、ブレーカーが落ちて部屋が真っ暗になった。
ついてないなあ、また停電したの?これじゃあカラオケでデュエットできないね。
「アカペラで歌いましょ・・・みなさーん、私たちの日本朋友、青木さんが来てくれました。2人で『我去在乎イ尓』を歌います。手拍子して下さーい」
おいおい小糖果、なかなか積極的だなあ。非常灯の明かりだけを頼りに、同学たちの手拍子で半分ほど歌ったら電気がついた。やれやれ、私たちはまた改めてカラオケで「時の流れに身を任せ」を歌い直した。

 「次の歌は何にしますか?」歌本を見せてもらって、「張宇の『用心良苦』にするよ」と言うと、「用心良苦が歌えるのー?」また周りがどよめく。
え、何?そんなに反響が大きい歌なの?新しい曲ではないが、中国語カラオケの定番なんだとか。もっとも、台湾、香港など域外の明星が大きな位置を占める中国大陸では、人気の歌は新旧を問わず親しまれているらしい。
「僕も一緒に歌う!」
ギターの男の子が名乗り出た。今度は男2人のデュエットだ。
異性の同学から花束代わりに風船を渡され、パーティ飾りで作ったレイを首にかけてもらうのはお約束。ありがとう小糖果、次は君にレイをかけてあげるからね。







 そのうち、パーティグッズのスプレー缶を手にして悪ふざけが始まった。
固まると発泡スチロールになるスプレーを撒き散らして、みんなきゃあきゃあ言って逃げ回っている。時計を見るともう9時、そろそろ潮時かな。財経大学は街から遠いだけに、帰り道が心配になってきた。
「ありがとう。みんなと会えてとても嬉しかった。私は帰ることにします」
全員揃って記念写真を撮り、見送られて大会議室を出る。小糖果と幹事の鐘哲君が正門までついてきてくれた。

 「私は南昌で沢山の妹妹や弟弟ができたような気持ちだよ」
3人で歩きながら言うと、「じゃあ、青木大哥ですね」
うん、小糖果は中国の小妹妹だね。日本へ帰ったら手紙を書くよ。
「Eメールの方が早いですよ」そうか、私のパソコンは文字化けするといけないから、メールは日本語・中国語のピンイン、または英語で送ってね。

 夜の大学、正門前にはタクシーなんていなかった。
「私、こんな遅くに街へ行ったことがないから分からない」
心細そうな顔をして小糖果が言う。バスもとっくに終わっているし、弱ったなあ。
そのとき、路上のおんぼろバンから声をかけられた。「南昌まで行くのかい?」
うーん、白タクだったか。さっそく鐘君が値段交渉に入った。私が運転手に「上海路まで」と言うと、
「上海路?遠いなあ。40元もらわないと」なんて言いやがる。正規のタクシーなら25元で行く距離だ。
「40元?高すぎる。ぼったくらないで」
鐘君に小糖果も加わって掛け合ってくれたが、学生では歯が立たない相手だった。

 「嫌なら他を当たりな。タクシーなんていないぜ」
ここまで言われてはしかたない。「私は大丈夫、40元も持ってるから。ありがとうね」
小糖果たちに感謝して、運転手にOKを出した。
「青木さん、心配だから帰ったら確認の電話を下さい」
「うん、明日の朝、授業前に電話するよ」
「必ずですよ。アリガトウ、サヨナラ」ああ、そこで日本語は出さないでほしかったな。
「謝謝、小糖果妹。再見」

私を乗せた白タクは南昌市内に向けて走り始めた。車は4車線の廬山大道をわざとはずれて、がたがたの田舎道へ入って行く。何も知らなければ恐怖に陥ったかもしれないが、私は朱老師と初めて財経大学へ行ったとき、有料の八一大橋を避けたタクシーに大回りされた記憶があった。
くそっ、白タクめ、無料のカン江大橋へ遠回りしやがったな。

 外国人とばれてトラブルになっても仕方ないので、私はずっと黙ってムッとしていた。ようやく南昌市内に入り、上海路まで来ると「着いたぜ」すぐ降ろそうとする。
「まだまっすぐ。上海路と解放路の十字路まで行って」
私は十字路がある度に止まろうとする運転手にイライラしながら、なんとか工業団地へ到着することができた。
「はい40元。ちょうどだよ」
ポケットに握り締めた40元を渡すと、「気を付けて」一応礼儀のある白タクは通りの向こうに去っていった。

 帰り着いたのは10時すぎ。私が戻ったことを伝えてシャワーを浴びていると、今日もまた総経理に呼ばれた。
「青木君よ、また中国語で電話やで」
慌てて飛び出しすと、私の帰宅を心配した小糖果の声が電話の向こうから聞こえてくる。
「心配してくれてありがとう。私は無事に帰ったよ。もうすぐ新年、いい年を迎えてね。祝身体健康、学習進歩」


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