中国旅行記 我愛南昌(上)(02〜03.江西省) 本文へジャンプ


南昌への道


 私の好きな中国語に「有縁千里」という言葉がある。
縁があれば千里離れていても必ず会える、という意味の言葉だ。中国江西省・南昌市は私にとってよくよく縁がある街らしい。今回の中国行きは南昌の人や土地に対するたくさんの有縁を感じた滞在となった。

 2002年。中国語を学びはじめて4年がたち、日中協会の活動では中国人の友人も増えてきた私は、中国で生活しながら自分の語学力を試してみたい、という願望を強くしていた。だが、年休消化もままならない勤め人にとって考えられるのは1〜2週間の短期留学がせいぜいである。
幸いにも、2002年〜03年の年末年始にはまとまった連休が取れそうだと気づいた私は、本格的に中国行きの検討を始めた。

 まずは行き先選びから。中国人に聞くと異口同音に「語学留学?それは北京しかないでしょう」と言う。
方言差が半端でなく激しい中国、日本では北京語として知られる普通話も地方ごとの訛はかなりあるようだ。やはり正統な普通話を学ぶなら北京に限るらしい。とはいえ、私の取るに足りない願望ながら、北京には普通話を完璧にして堂々乗り込む、という夢があった。
それに地方訛がある方がネイティブぽい気がする。「外国人?」と尋ねられるより「外省人?」と聞かれる方が相手との距離は近いんじゃないか。

 私の知人が住む中国の地方としては、北京をはじめ昆明と南昌が選択肢にあった。
広い中国を理解するのに、北から南、西から東を撫でて回るのもよいが、私は1カ所をじっくり観察してから次の場所へ移ろうと思った。それなら最も馴染みがあって知人も多い南昌がいいだろう。ここなら旅行社を通さない留学計画ができそうだと判断した私は、日中協会の会合の際に事務局Fさんを捕まえて南昌に連絡をとってもらうよう相談した。

 後日、Fさんから嬉しい知らせが舞い込んだ。
南昌市に進出した日系アパレルメーカーが日中協会の会員となり、会社の1室をその南昌支部にしてもよいという。
「日中協会の代表として南昌支部開設に行きませんか?宿舎は総経理宅を提供してもらえるそうですよ」
さらに、短期留学先に関しては、私が以前もお世話になった江西省政府外事弁公室の王雨森さんが探してくれるようだ。

 私は、王雨森さんに正式な依頼の手紙と日程表を書いて郵送し、その返事を待った。9月に入る頃、待ちに待った回答が届く。
「江西省には短期留学を受け入れる大学はありません。例えあっても老師との1対1の授業だけでは日本で学ぶのと変わらないでしょう。どうですか、私の事務所に席を用意するので職場体験をしませんか?生きた中国語が身に付きますよ」
うーん、職場体験か。まるで世界うるるん滞在記を地で行くようで興味があるが、果たして中国流儀の事務所で私は何をすればよいのだろう。

 何度か手紙やFAXでのやり取りをした末、中国らしい結論ながら「詳細は南昌へ着いてからの相談」で落ち着いた。次は交通手段である。
10月の航空ダイヤ改正で上海の国際便はほとんど浦東空港へ移転した。一方、国内線は虹橋空港。両者の移動に1時間はかかる上、名古屋便と南昌便の乗り継ぎもよくない。江西省へ行くためには、往復とも上海での宿泊が必要になるようだ。
何かいい方法がないものか、インターネットで検索すると、上海−南昌には夜行列車が夜8:30発翌朝8:00着で往復しているではないか。高級な軟臥でもホテル代で移動できるなら利用しない手はない。

 航空券は事務局Fさんが紹介してくれた某家電販売店。
半信半疑で電話したら本当に航空券を取扱っていた。「誰の紹介ですか?」と問われFさんの名を出したとたん、店の対応ががらっと変わる。お得意さまらしいが、すごいなあFさん。
年末近い時期に上海行きが5万円は確かに安い。しかし、中国の交通機関は旅行社にとってまだまだ難物といい列車の予約は無理だった。
仕方なくインターネットで検索して東京の旅行社で切符を購入。
名古屋にもある大手の個人旅行向け会社は「航空券かホテル予約とセットにしないと売らない」なんて言うのだ。どうも、中国の列車予約は面倒な割に利益が上がらない代物らしい。

 まずは一安心、と思った私に、全く予定外の同行者問題が持ち上がった。
ある晩、私はHさんから電話を受けた。
「青木君、中国行くんやろ?僕もぶらっと旅行したいから格安航空券を教えてよ」
Hさんはそんなに親しい人ではないが何気なく例の家電販売店を教えた。すると後日、
「上海まで一緒に行きたい。出発日を教えて」
ここでうっかり答えたのが運の尽き。

 11月末、私は事務局Fさんからの電話に驚いた。
HさんはFさんに「僕は青木君と南昌へ行く。ついては宿泊先や現地の予定を手配して欲しい」と一方的に言ってきたらしい。「本当に承諾したの?」と聞かれても私には寝耳に水だ。あわててHさんに問いただすと
「何や、1人旅を心配してやっているのに。2人なら安上がりで君も助かるやろ」

その実、私についていけばホテル代を浮かせられる、というのが彼の本心だった。
まるで私に恩を着せるような口振りにカチンときて、少し強く言い過ぎた
「遊びに行くんじゃないですよ。観光旅行のつもりなら人の好意にすがるような真似しないで下さい」
「分かった、分かった。迷惑ならやめるよ。1人で行くなら僕は中国旅行をあきらめるよ」
ガチャンと電話を切られてしまった。まったく。

だが、ここで終わるようなHさんではない。私は家電販売店からの電話にも翻弄されるはめになった。
Hさんは私に黙って航空券を2人で予約し直した上、やめる、と言いながらキャンセルしなかったのだ。
電話は「2人の予約では予定日に航空券が取れない」というもの。私はきっぱりと1人に訂正するようお願いした。結局、キャンセル料こそ必要なかったものの、Hさんは私の予定を出発日を1日早く、帰国日を2日も早く変更させたのだった。

 出発日直前、家電販売店へ最終確認したところ、Hさんは尚も「病気が回復したら旅行するから予約を保留してくれ」などと言っているらしい。まあ、ここまで来れば私に迷惑が及ぶこともないだろう。私は「Hさんとは一切関係ありませんから」と断言して電話を置いたのだった。

 さて、Hさん以上に悩ましいのは年末の忙しい時期に職場に年休を申し出ることだ。
特に重要な会議が多いため、12月の予定次第では中国行きをあきらめなければならない可能性も高い。
幸い、クリスマス連休後には会議は1つのみ。私は上司に頼み込んで5日間の休暇をいただいた。私の職場は役所なので、県関係とか国際交流のため、といった大義名分が比較的通りやすい環境ではある。
私が押し掛け交流するような中国行きではあるが、書面だけ立派に謳った「計画書」をつくり、役所に提出して一足早い年末休暇に入った。

 一方、荷物は最後までまとまらなかった。
なんせ今回はお世話になる機関や個人が多いのでお土産が大変なのである。
家の奥に眠っている春慶塗りの花立てや灰皿×5個を引っぱり出す。中国では特に喜ばれる日本のカレンダー×50部は職場に大量に届く広告用カレンダーを調達する。あとは上海でお世話になる朱実先生あての郵便物の束、どれもお金をかけた訳ではないが重さだけはかなりある。
スーツケース、折り畳めるバッグ、ショルダーバッグ。仕事のためのスーツに、中国語の辞書に、かさばって重い荷物を詰め終わってみれば、まるで引っ越し荷物を持って中国をさすらうかのようだ。ああ、重量検査が気にかかるなあ。


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朱実先生(2002年12月20日 金)

                                       


2002年12月20日、私は1日早いクリスマス休暇を迎えた。
名古屋空港を午後3時発の便なので余裕を持って到着する。
西北航空カウンターでチェックインすると、恐れていたとおりスーツケースの重量超過を指摘された。その重さ32キロ。ああ12キロオーバーか。あきらめかけたが、航空会社の取扱いで荷物が壊れた場合、賠償請求しなければ10キロまで免除するという。ちょっとラッキーだ。

 しかし、搭乗時間になっても肝心の西北航空機がやってこない。
岐阜に住んでいる中国人の友人に「中国へ行って来るよ」とメールをしながら、タイトな乗り換えを嫌がった家電販売店担当者の話を思い出す。
結局30分以上遅れて飛来したWH293便は、あわただしく搭乗を開始し、冬の早い夕陽が傾きだした名古屋空港を飛び立っていった。

 2時間後、飛行機は生暖かい空気と霧雨が包む上海浦東空港に到着した。ドアが開くとすぐ外気。
空港ビルへは満員のバスに乗せられ移動する仕組みだ。意外に前近代的だなあ、と思ったが、そこは中国が誇る最新鋭の国際空港、ビルに到着してからの入国手続きは実にスムーズ。長い通路を歩くことなく入国審査所に到着し、簡素化された入国カードを提出すればもうOKである。
暗くて威圧的だったかつての虹橋空港とは全然違う雰囲気に、中国の対外開放が進んでいることを感じる。
スーツケースを受け取り、浦東発展銀行で当座に必要な3万円を両替したら、あとは上海の街へ向かうだけだ。

 今夜は上海に住んでおられる朱実先生宅にお邪魔する予定になっている。
出発日が1日早まったので、南昌行きの列車は明日の晩なのだ。朱先生からは空港バスで上海の西北部、静安寺まで行き、タクシーを使うのが便利だと教えていただいた。入国ロビーの外へ出るとすぐに空港バス乗り場。2路バスを見付け、運転手に「車票はどこで買うの?」と聞けば、車内で販売するという。
やがて車掌らしき小姐が乗客から料金18元を徴収し、バスは定刻通りに雨の高速道路を走り始めた。

 金曜日の夕方6時という時間帯、上海市街に近づくにつれて渋滞が激しくなってきた。
特に浦東と浦西を結ぶ南浦大橋などは、周辺の道路から本線に合流しようとする車が突っ込んできて車列は少しも前へ進まない。
ようやく南浦大橋を渡りきり、紫色の照明に照らされた高架道路から不夜城をほうふつとさせる市街に下りると、空港バスはネオンやショウウインドウの光があふれ、たくさんの人が行き交う南京西路へ入っていった。
静安寺バスターミナルはもうすぐだ。

 重い荷物を抱えて表通りに立ち、タクシーを拾う。
まばゆいばかりに輝く上海商場から住宅街の脇道に入り、タクシーが止まったのは門の奥にそびえる高級マンション。ここかあ。朱先生の名刺には○○弄とあるので、私は上海伝統の集合住宅「弄堂」かと勝手に想像していたのだが。

 飛んできた警備員に名刺を示すと、きんきらのクリスマスツリーが飾られた玄関ホールに案内される。ホテルを思わせるフロントのおばちゃんが朱先生に確認の電話を入れた。すごいなあ、まるでVIP待遇である。
高級マンションに初めて足を踏み入れ、緊張気味にエレベーターに乗り込んだ私の横には全身レザーに身を包んだ金髪、サングラスのお兄ちゃんが。肩にはエレキギター、中国人らしくない格好だなあ。さては名のあるミュージシャンか?と観察するうちに目的の階に到着した。

 「遅かったね。心配していたよ」
フロントから連絡があったので、朱先生はわざわざ部屋の外で待っておられた。流ちょうな日本語で迎えられるとほっとする。
「申し訳ありません、飛行機もバスも遅れまして」

1人暮らしの3LDKのお宅では、日本で書道家をしている息子の朱海慶さんと、安徽省で仕事をしている甥御さんも揃って出迎えてくれた。今日の昼間、日本で亡くなった朱先生の奥さんの納骨式があったのだという。夕べは徹夜で仏壇と奥さんの遺影に線香を絶やさなかったそうだ。

 朱先生のお宅は靴を脱いで上がるしくみ。「日本式ですか?」と聞くと、
「いいや、中国でも増えているよ。フローリングを汚したくないからね」
雨の中を転がしてきたスーツケースを載せるのは気が引けるけど荷物を広げさせてもらう。
まずは泊めていただくご好意に対してお礼を述べ、私からのお土産である春慶塗りの文書箱とカレンダーをお渡しする。事務局Fさんから託された郵便物の束と俳句投稿用の郵便書簡も忘れずにお渡しした。

 朱実先生は30年前、日中国交正常化交渉で事前交渉の大役を務め、上海での周恩来・田中角栄会談の通訳をされた方である。
その後19年間を大学教授として日本ですごされた。2002年10月に上海へ帰られた朱先生だが、今年は日中特集でNHKや新聞にも登場されたので、帰国後も岐阜の家にたくさんの郵便物が届いている。私が朱先生宅へお邪魔したのはこの郵便の束をお渡しする役目もあったのだ。

 「さあ、青木君も来たし夕食に行こうか」
朱先生が先頭に立ち、私もありがたく食事についていった。
マンションのすぐ近所に満席の客で賑わうレストランがある。玄関にずらりと花輪が並んでいるのは今日オープンしたばかりだからという。予約席に着くとさっそくマネージャーが開店の挨拶にやってきた。他の小姐と同年齢くらいの女の子だが、黒のスーツでびしっと決めている。
ここは何の料理?「上海の家庭料理です」 おすすめはどれ?

4人を代表して書道家の朱海慶さんが注文してくれた。
ビールを飲み、落花生をつまみながら待っているとテーブルの上が料理でいっぱいになる。
「青木君、中国旅行は何度目だい?」
「4度目です。以前と比べて見違えるほど変わりましたね」
4人で改革開放がもたらした上海の大発展を語りながら、食事が進んだ。特にスープが絶品、一見くどそうなのに少しも脂っこくないのだ。中華料理ながらあっさり味でおいしい。「今の上海人は健康を気にするから脂っこい食事は受けない」らしく、素材の風味を活かした料理が流行なんだとか。

 「当店の料理はいかがでしたか?」

注文の品が出そろうと、マネージャーと料理長がやってきた。
「おいしい、特にスープが好き」と言うと満足そうにうなずく。
丸顔にくりっとした目のマネージャーは安徽人、料理長以下小姐たちも地方出身者なので上海人の好みに合わせた味を研究しているのだという。
「私は安徽の馬鞍山なんだよ」
甥御さんが名刺を出し、朱先生、息子さんも名刺を取り出す。私も日中協会の名刺を渡す。
「日本人ですか?」はい。
「当店を利用される時は私に申しつけて下さい」
マネージャーも名刺を私たちに配った。

 「この店も贔屓客ができましたね」
「上海はレストランが次々出来ているから、サービスを競って客を引きつけないと生き残れないんだ」
確かに以前の中国では考えられないくらい、このレストランの小姐たちはきびきび働いている。
「これ面白いよ、コインで擦ってみて」と渡されたのは100元毎の額面になった領収書。スクラッチカードになっていて当たりが出れば消費した以上にキャッシュバックされるのだ。脱税対策のために台湾のレシートには宝くじがついているが、中国大陸もここまで進んできたとは知らなかった。

 すっかりごちそうになってレストランを出る。上海駅から安徽省へ帰る甥御さんとはここでお別れだ。
朱先生のお宅には畳を敷いた和室があり、私のためにふとんを敷いていただいた。朱先生と息子さんは「今日は早く休むよ」と自室へ戻られる。
私もシャワーから出てすぐにふとんに入った。まだ10時だけど、中国滞在の初日でもあるしゆっくり休もう。
上海の光が漏れる障子窓の向こうからバスや車の行き交う音がずっと聞こえていた。


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雨の上海(2002年12月21日 土)


朝、目が覚めて時計を見ると6時前。1時間の時差があるので日本時間は7時か。
まだ暗い中を起き出すと、リビングでは朱海慶さんが1人で朝食を食べていた。
「おはようございます。随分早いんですね」
「うん、今日は仕事があるんだ。君も食べるかい?」

さっそく、さつま芋入りお粥と食パンの朝食をいただいた。
「それじゃあ、また後で」息子さんが出かけて行く。
食器は家政婦さんが片づけるから洗わなくていい、そうなので、テレビを見ながら朱先生が起きて来られるのを待つ。やがて朱先生もリビングにやってきて台所で朝食を温めはじめた。
ガスじゃなくて電子コンロ、オール電化住宅なのだ。

「私は昼間、会議があって留守にするんだ。君はどうするね」
上海の街を散歩してきます。道に迷う心配はありません
「それじゃあ、3時に帰ってきなさい」

 まだ早いので9時まで待って部屋を出た。
外は夕べと同じく細かい霧雨が降り続けている。
特に傘を差すほどではないが、傘がないとコートがくったり濡れてしまう感じだ。
朱先生のマンションがある辺りは、上海の中心部ながら主要な通りと離れているため、個人商店の佇まいに泥臭い中国色が色濃く残っていた。ちょっと湿っぽい、すすけたコークスの匂いは空気が汚れている証拠だが、私にとっては「中国へ来たんだなあ」と実感させる懐かしい匂いでもある。
いくつか通りを越え、遠安路を東に歩く。風景が屋台の朝食屋が軒を連ね自転車の人々が行き交う庶民度満点の街に変わり、通りを挟んで黄色い寺院の壁が現れると最初の目的地、玉仏寺だ。


 さすが上海観光の目玉のひとつだけあって、雨の朝にもかかわらず玉仏寺の境内は多くの参拝客で溢れていた。本殿の仏像も古い、落ち着いた風格があるようで、私の持つ派手派手ピカピカの中国寺院イメージとは少し違うようだ。僧侶の読経に合わせて南無阿弥陀仏を唱える参拝者の脇を通らせてもらい、観光客の列について玉仏楼を参観する。日本人ツアー客が多いので、黙っていても解説を聞くことができるのだ。

 ビルマで発見された巨大な玉で仏像を彫り、中国に運んだという高さ2mの玉仏は、想像したよりずっと大きくて立派だった。上海人の友人が、「観光するなら玉仏寺が一番素晴らしいよ」と言っていたのもうなずける。

 広い道路を車が激しく行き交う天目西路を上海駅まで歩く。
「閘北区はあなたを歓迎します」の看板。雨に煙った蘇州河を越えると、かつては上海の田舎と見なされていた閘北地域。しかし、今や道路を跨ぐ歩道橋の周囲にホテルホリディインや巨大なショッピングセンターが立地し、その奥には総ガラス張りの巨大な上海駅がそびえている。
私は今夜の南昌行き夜行列車に乗るために、日本で予約した切符を駅構内の旅行社へ受け取りに来たのだ。

 上海の玄関にふさわしいスケールの大きさを誇る駅ビルの前には、地方から出てきた人々が大きな荷物を抱えて座り込んでいる。外にたむろする人民たちが勝手に軟臥待合室へ入ってこないよう、ドアの前で見張っている駅員に予約確認書を見せて中へ。訪ねた旅行社ブースではすぐに切符を手渡され、発車の1時間前には待合室へ来て待っているよう念を押された。
なんだ、中国の列車切符は非常に入手が難しいと聞いていたが、旅行社を通せば手数料がかかっても簡単に買えるものなんだなあ。


 さて、ノルマは果たしたし、どうしようか。1人で雨の上海を観光するのもつまらないし、こんな時は上海博物館で時間をつぶすことにしよう。
上海駅から地下鉄1号線で人民広場駅へ。地下鉄出口の外、公園の遊歩道には多種多様な小吃屋台が並んでおいしそうな匂いを漂わせている。面白いのは、たこ焼き、大判焼き、といった日本小吃が結構あって賑わっていること。おでん屋台の「関東煮」という表記は、関西の影響だろうか?

 小吃の通りを抜けると、地下鉄駅から上海博物館まで続く長い人の列が見える。
何だろう?イベントでもあるのかなあ、と思いながら入り口へ歩いていけば、なんと博物館の入場待ちをしているのだった。大きく掲げられた看板には「唐、宋、五代、元代国宝書画展」の文字が踊る。そうか、国宝展があるのか、たしかに興味をそそられるけど・・・

それにしても行列は軽く300mは越えていそうで、人々は傘を差しながら、手に手に国宝展のパンフレットや写真目録を持って辛抱強く立っている。列の中程にいたグループに、待ち時間はどれくらい?と聞くと「3時間」という声が返ってきた。うーむ。中国人ほど並ぶのが好きじゃない私はおとなしく退散することにしよう。

 人民公園から福州路を外灘に向かって歩く。
以前、上海書城で1日をすごすのが夢、とHPに書いたことがあったが、おもいがけず今日は夢がかないそうだ。上海の書店、文具街である福州路にそびえる7階建ての巨大書店、それが上海書城である。
1階の生活、娯楽、旅行書のコーナーから、3階の小説、歴史書のコーナー、4階の語学書のコーナー、と階ごとにテーマ分けされた膨大な書籍が詰まった本好きにとってはこれ夢の城なのだ。

 まずは旅行書コーナーへ。
上海人の日本旅行開放に伴い以前はなかった日本のガイドブックもちらほら見える。
空前の海外旅行ブームも手伝ってかアメリカやヨーロッパ、アジア方面の案内書は日本にある書店と大差ない品揃えだ。しかし、注目すべきは国内旅行のガイドブック。出版社の多さといい、扱うテーマや地域の多様さといい、圧倒されるほど。中国旅行好きなら全種類欲しくなってしまうだろう。
ここで調子に乗って買い込んでは南昌まで運ばなくちゃならない。はっと冷静になって、最終日の空き時間に必ず再来することを心に誓った。

 結局、旅行書は南昌バスマップ付きで実用性が高そうな「江西熱線遊」を購入するにとどめた。
次は小説コーナーへ行き、中国語教室のメンバーへのお土産を探すことにしよう。あれこれ迷ったけれど、面白いか分からない現代小説はやめて、無難な四大古典小説の文庫版、10元均一本を人数分買い込む。「口語版」とあるから現代語訳されたものか。
メンバーには熱烈な三国志ファンがいるのできっと喜んでくれるだろう。それにパンダチョコなんかよりずっと安上がりだ。

 語学書、中でも日本語学習のコーナーに学生らしき若い人たちが詰めかけている様子を眺め、7階のCD、VCDコーナーにある中国映画やチャイニーズポップスを数本選んで時計を見れば、なんともう2時じゃないか。うっかり書店で3時間近くをすごしてしまった。
昼食をとっていなかったので急に空腹を感じた私は、遅い食事をすませて朱先生のマンションへ帰ることにした。



 福州路は「杏花楼」という飲茶の大型店が有名だが、1人で飲茶というのも淋しいなあ。
私はここからほど近い南京東路歩行街にある小吃店を思い出した。上海へ来たからには、小籠包を食べに行こう。
雨の上がった歩行街は土曜日の午後とあってか黒山の人だかり。うまく流れに乗らないと、向こうから歩いてくる人混みにぶつかってしまいそうだ。

 そのとき、ふと誰かに声を掛けられた気がした。
「何?」
振り向けば少し派手めの女の子が早口で喋りかけてくる。
私の「分からない」の言葉に、今度は英語で「Are you from?」
なんだ、うさんくさい奴だなあ。
「どこから来たって聞いてるのか?」と聞き返せば、うなずきながら「あなたは何人か」と尋ねてくる。
「日本人」言うや否や女の子の口から日本語が飛び出した。
「ワタシ、ニホンジントモダチ」

 私は呆れてしまった。何が友達だよ、言うまで日本人と分からなかったくせに。ぼったくりの店へ連れていく詐欺の手口ではないか。一瞬、韓国人と偽ろうかと思ったが、ハングルもよく見かける上海のこと、突然韓国語で話されても困るだろう。
黙り込んだ私に、相手は一方的に話し続ける。
「ニホンゴデオハナシシマショウ」
「コーヒーノミニイキマショウ」
うるさいなあ。何を言われても「不行、不行」と繰り返す私をあきらめたのか、やがて女の子はあっさり去っていった。

 うーむ、今のが噂に聞く上海のぼったくり屋かあ。私は何度も南京東路を歩いたけれど、前は気づきもしなかった。
それにしても、1人で歩く男に声を掛けてまわるなんてご苦労なことである。古典的な手口だけど、引っかかる日本人が多い証拠なのかなあ。
思ったよりしつこくなくて拍子抜けしたけれど、うっかり興味を示したり、言い負かしてやろうなどと考えると相手の術中にはまりそうだ。この手に繁華街なんかで話しかけられても無視するに限るだろう。

 ごったがえす南京東路の片隅に小吃の店を発見した私は、例の女の子につけられていないか、さっと周囲を見回して店の中に入った。
時間帯がずれているので数席の空きがある。昼食代は20元、南昌の物価にすれば高いが、日本から来たばかりの感覚ではおお、300円、安ーい、と感じるのはしかたない。食券を買って席で待つこと数分、アッという間にあつあつの小籠包と牛肉麺が出てきた。せっかく中国へ来たんだし、これからも小籠包を食べまくるぞ。

 お腹は膨れたものの、さっき声をかけられた事件ですっかり気分を害した私は、おとなしく地下鉄に乗って帰る。マンションの部屋には、すでにお二人とも戻っておられたが、大きなスーツケースを手にした朱海慶さんは、
「これから昆明での仕事があるので、お先に失礼」
と言い残し、私と入れ違いにあわただしく空港へ去って行ってしまった。
うーん、残念、一緒に写真を撮ろうと思っていたのに。



 朱先生だけでも、とお願いしてマンションの部屋で写真を撮らせていただいてると、電話が鳴った。
ところが、朱先生と通話相手は一体何語で話しているのだろう?中国語のようだが、私には少しも聞き取れないのである。おまけに会話のあちこちにはっきりと日本語が混じる。えっ、日本人と会話しているのかなあ。「・・・ジップンラン・・・」という部分だけは上海語か台湾語のような気がした。

電話を置いた朱先生に「さっきお話になったのは台湾語ですか?」と聞くと、そうだ、という答え。なんとカナダに住んでいる妹さんからだったのだ。
朱先生は日本統治下の台湾生まれで台湾語と日本語を身につけて育った方である。台湾の中国復帰後、蒋介石国民党の学生弾圧を逃れて戦火の大陸へ渡り、中華人民共和国成立後は日本と中国の国交回復に尽力された。
台湾海峡の断絶は家族との別れをも意味したが、カナダへ移民した妹には自由に会える。一方、海峡両岸の交流が進んだ現在では、朱先生たち中国に渡った人々も台湾の故郷を訪ねることができるようになったという。

 「ジップンランは日本人でしょう?」
朱先生によれば、台湾語とその近縁の福建語は、北京語と比べると英語とドイツ語以上の違いがあるらしい。そして、台湾語で特徴的なのは日本語の漢字発音にとても近いことだという。
「倶楽部は北京語ではチューラープーだけど、福建語ではクラブと発音するからね。西洋からの言葉はたぶん福建人が音訳したんだよ」
そんな話を、朱先生はかつて司馬遼太郎の通訳として同行した際によく語りあったらしい。そういえば「街道を行く・中国・ビンの道」に登場する「呼吸するように日本語を話す」通訳とは朱実先生のことである。

 それからは、司馬遼太郎、先生の友人である陳舜臣(台湾出身)、といった歴史作家の話、日本と中国の関係、岐阜の思い出、いつ尽きることもないお話を2人きりの場で聞く、というまたとない贅沢に与ることができた。気が付けば、外はすっかり暗くなり時計は6時半をすぎている。
「おや、もう時間だろう。夕食にしないと」家政婦さんが用意していたおかずをレンジで温めて、朱先生と食卓を囲む。

「朱先生はまたおひとり住まいですか」
「まあ、忙しいからね。また5月には大阪へ行く予定があるし、岐阜へも顔を出すよ」
「ぜひ、いらしてください」
荷物をまとめて朱先生のお部屋をあとにした。朱先生はタクシーが待つマンションの玄関先まで見送りに来て下さった。
「大変お世話になり、ありがとうございます。とても思い出に残る上海滞在でした」

 上海駅まではタクシーで10分もかからなかった。地下のタクシー乗降場で重い荷物を降ろし、エスカレーターで地上へ。
ガラガラとスーツケースを引っ張って軟臥待合室に入る。
暖房が効いた広い待合室には、中国語、英語、日本語で表示された電光掲示板が立ち、空港の特別ラウンジを思わせるふかふかソファーが用意されている。さすがに客層も裕福そうな中国人の姿が多い。
土産物屋をのぞく気もなくソファーに埋もれているうちに、電光掲示板の南昌行きK287列車が「改札・乗車」へ変わった。



 エスカレーター前で改札を受け、跨線橋を通ってホームへ下りれば、すでに列車はドアを開いている。
軟臥車の前まで行き、乗り込もうとするが30キロのスーツケースがネックになった。重すぎて高いステップを上げられないのだ。服務員小姐と周りの乗客に引っ張り上げるのを手伝ってもらう
「重いな」 「謝謝」
列車の廊下を転がして切符に印刷されたコンパートメントへ。

軟臥のコンパートメントには、シーツに糊の利いたふとんが用意されたベッドが4つある。
長さは身長180cmの私でも楽々横になれそうな大きさなので楽ちん、楽ちん。あとはハンガーと歯磨き洗面セットが各1つ。テーブル下には熱湯の入ったポットが用意されている。
私は下段、昼間は座席になる位置だが、スーツケースが収納スペースに収まらず、床に置くしかないのでちょうどいい場所だ。窓際のテーブル下に置かれたゴミ箱と魔法瓶をどかし荷物を押し込む。そのうち、他の同室客たちもやってきた。

 列車が上海駅を離れてしばらく、服務員小姐が検札にまわりだす。
他の人の様子を見ていると、切符と身分証をチェックしているようだ。私の場合はパスポートか。
切符はいったん服務員に預けて「これは無くさないように」の注意と共にプラスチック製の番号札を渡される。目的地に深夜到着しても、預けた切符で確実に起こしてもらえるらしい。

 この日の同室客は、小さな孫を連れたおばあさん、中年の夫婦、そして私の5人だ。
まだ口が回らず「上海」を「ランハイ」としか言えない男の子は、「ランハイで買ったおもちゃ」の話を夢中でしゃべり続けている。中年の奥さんは上段で編み物をしながら、車内に流れる軽やかなBGMにあわせて鼻歌をうたっている。
杭州駅に近づく頃には時間はもう10時をすぎ、車内の明かりも消えた。
私もふとんに入って心地よい揺れの中で眠りについたのだった。


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南昌服部時装有限公司(2002年12月22日 日)


夜行列車ですごす夜は思ったより快適だった。
目が覚めると、まだ明けやらぬ車窓の外には江西省の大地が濃い朝靄に包まれて広がっている。
どこまでものっぺりした田園地帯はいかにも大陸らしい光景で、外を眺める私の頭の中を「世界の車窓から」のテーマソングがぐるぐる回っていた。
列車内はまだ静かだけど、廊下を洗面所へ向かう足音も聞こえだした。到着までそんなに時間はないから、混み合う前に洗面を済ませよう。

 やがて軽やかなBGMが始まり、列車内は到着の準備をする人で突然あわただしくなった。洗面所やトイレの前には順番待ちの列ができている。早めに済ませておいてよかった。コートを着込み、やってきた服務員小姐から番号札と切符の交換をしてもらうと、いよいよ目的地は近い。

 車窓はいつしか線路沿いに続く工場群やすすけたレンガアパートの景色に変わっている。
相変わらず霧雨が降っているらしく、どんよりと重苦しい雲がくすんだ地方都市の空を覆っていた。
私は日本で連絡を取り合った時に聞いた「南昌は現代都市をめざして印象ががらりと変わりました」という言葉を思い出した。本当かなあ。
つい1日をすごした上海に車窓風景を比べて、その落差に南昌を選んだことを少し後悔する。一体1998年頃とどこが変わったのだろう。

 そんな私の思いをよそに、K287列車は近郊電車や貨車が並んだ広大な構内をゆっくり進んでいき、まもなく南昌駅の長いホームへ到着した。
次々に荷物を抱えた乗客が吐き出され、列車にこんなに乗っていたのか、とびっくりするほどの人混みが改札口をめざしてわさわさと動いてゆく。薄暗い地下コンコースの日本のラッシュ時を思わせる混雑ぶりに、なるほど中国では鉄道切符の入手が難しい理由も納得できるのだった。
改札の向こうには、「○先生」とか書かれたカードを掲げる出迎え人の姿が見える。
私には誰か待っているのだろうか?もし誰もいなければ、今日は日曜日、困ってしまうなあ。


 「チンムーセンション」
出口の人混みから声が聞こえた。
はっと振り向くとようやく見知った顔が。よかった、出迎えに来てもらえたんだ。
南昌駅で私を待っていたのは、王立強さん。江西省政府外事弁公室亜洲東欧処の処長さんだ。
2002年4月に江西省訪日団の団長として岐阜を訪れ、私は歓迎会でご一緒したりショッピングセンターへ案内したことがあった。実は以前、岐阜市で1年間の生活経験があるようなのだが、日本語は話せない。
とりあえず、外事弁公室のサンタナで宿泊地の日系企業へ案内していただく。

 「今日はありがとうございます。2週間、南昌でお世話になります」
車中でお礼を述べると、王さんは「今、日本語職員はみんな出張中で申し訳ないね」と言われる。
それはすでに聞いていた。亜洲東欧処の職員も私と親しい人ばかりだが、現在公務で日本へ行っているのだ。今日から順次、南昌へ帰ってくるらしい。私が職場研修で行う仕事内容など詳しくは明日、月曜日に相談することになるのだろう。
「構いません、私は中国語学習に来たので、日本語には頼りません」

 サンタナは鉄道沿いのガタガタ道を水たまりの泥水を跳ね上げながら郊外に向かって走った。
街のあちこちで古いレンガ住宅が取り壊され、がれきの山が積み重なっている。「今はこの辺りを集中的に再開発しているんだ」と王さんが話す。
大通りに出ると、その言葉どおり、再開発地区には新しいビルや商店の工事が進んでおり、上海華聯という名のスーパーチェーンまで出来ている。「龍王廟街」真新しいアパートが並ぶ街区の入り口には中華街を思わせる原色派手派手な牌坊が立ち、灰色の風景の中でいやに目立っていた。

 やがて、車はとある工場の門をくぐり構内のビルの前で止まった。
「着きましたよ。総経理を呼んでくるから待ってて下さい」
しばらくして戻ってきた王さん、首を振りながら「おかしいな。日曜日なのに自宅に誰もいない」
うーむ、事前に連絡をとっていたはずなのにそれは困る。「工場を見てくる」と言い、私を玄関に残して別棟のビルへ消えていった。
お、王さーん、人気のない、知らない会社のビルに1人取り残されて不安が募ってゆく。10分ほど待っただろうか、ようやく王さんが1人の日本人を連れてやってきた。

「やあ、こんにちは」
その人は南昌服部時装有限公司の福田総経理、私がこれからお世話になる方だった。
「岐阜日中協会の青木と言います。今回は押し掛けて申し訳ありません、お世話になります」
階段を上って5階にある総経理の宿舎へ案内される。事務所棟として使われている建物にはいろいろな会社が入居しており、階ごとに「○○有限公司」とか「○○弁公室」「展示ホール」といった看板が掛かっている。
どうやらビル全体で南昌市服飾工業団地を形成しているらしく、日系企業はその1角に入居しているようだ。

 事務所用1フロアを全部住居に使っているだけあって広い家だった。
ふだん日本人社員3人が暮らしているが年末とあって1人が帰国し、福田総経理と社長室長の吉田さんの2人が残っている。私は空いている1室を自由に使ってもいいという。ベッドとエアコン、洋服掛けのみのシンプルな洋室である。
「食事は一緒に食べよう。外で食べるときは連絡しなさい。あとは私は気を使わないから、君もあまり気を使わなくていいからね」
なんともありがたい言葉だ。

 王立強さんが帰っていった後、私は福田総経理に連れられて会社を訪問した。
さっそくお土産の煙草盆とカレンダーを抱えて隣のビルへ歩いて行く。

「大きい建物だろう?おおよそ岐阜県庁舎くらいはあるよ」

6階建てながら、工場棟だけあって天井が高く、フロアの高さが普通のビルの2階分に相当するのだという。聞くと、この服飾工業団地には台湾やシンガポールから進出した企業が1フロアごとに入居しており、南昌服部時装有限公司は岐阜県の西濃地方から進出した、同団地唯一の日系企業。
ちなみに、南昌市在住の日本人はたった8人しかいないらしい。

 工場らしく巨大なエレベーターに乗って6階へ。
そこにはフロア1面に婦人用スラックスの縫製やプレスの台が広がり、たくさんの従業員が黙々と作業に取り組んでいる。入口でスリッパに替える。下駄箱の上に、どんぶりご飯を食べるためのホーロー鍋がずらりと並んでいる様子は中国ならではか。
作業場を見渡せる位置に会社の事務所があった。従業員は全部で250人、事務所には総経理以下日本人3人と中国人通訳2人、事務員が数人いる。あいさつを済ませお土産を手渡した後、応接間でお茶をいただきながら、総経理から南昌での仕事についてお話を伺った。

「日曜日なのにお仕事大変ですね」と言うと、総経理は
「金曜日に停電があって仕事ができなかったので、急遽操業しているんだ」と言う。
なんでも、南昌市の急速な発展に電力供給が追いつかないらしく、都市郊外ではたまに停電がおきる。工場にとっては仕事にならないため、特別に電力当局との関係をつくって情報を事前入手しているのだとか。そして、停電のある日は休業にして、その分を日曜日に取り戻すのだそうだ。
「停電情報は新聞に出ないんですか?」との問いには
「発電所は表向き事故停電だと言っているんだ。本当は計画的じゃないかと疑っているんだが」

 かように中国での仕事は「関係」が重要で、また頭を悩ませるという。
それは会社内でも同じで、従業員たちは常にお互いの力関係を量りながら仕事をしているらしい。先輩と後輩の格差は入社が1日違うだけで全然違い、それ相応の待遇を相手にも会社にも求めてくる。ボス社員をうまくコントロールしないと仕事が進まない。
「中国人には、従業員同士が平等なんて考えは毛頭ないからね」
全員が自分を個人事業者だと考えているから、技術や情報の共有を嫌がって、会社の同僚同士が行う仕事上の指導にすら対価を要求する。
「せっかく苦労して覚えたモノを同僚や後輩に教えたら、自分の価値が下がって損すると思うのだろうね」
少しも融通が効かないので、仕事を進めるのは二度手間、三度手間がかかって大変だという。

 「今、日本の技術者を中国がどんどん呼び寄せていますね。中国を仕事先に選ぶ人も多いですし」
の話に総経理は
「日本人は甘いからね。技術者も只でノウハウを教えるだろ、中国も待遇をよくしてくれる。だけど、持っている全てを吸い取ったら、あとはポイッと捨てられるよ。いかに自分の価値を中国側に認めさせるかが重要だね」
と厳しい見方をする。義理人情とシビアでドライな人間関係が複雑に入り交じる中国社会、日本人もそれ以上にしたたかでないと生き残れないようだ。

 しばらく雑談した後、「昼食まで待っていなさい」と応接間に残された。
窓から霧雨の降り続く外を眺める。会社の周辺は殺風景なコンクリートアパートがずっと広がっていた。すぐ裏に中学校のグラウンドが見え、その隣、道路沿いのビルは消防車があるから消防署だろうか。特に珍しくもない住宅地の風景に飽きた頃、総経理が「食堂で飯にしよう」と顔を出した。

 昼休みには少し早いが、総経理と吉田さんに連れられて工業団地内を歩く。
事務所棟隣にはインターネットカフェやディスコまであり、その奥に体育館のような従業員食堂があった。600人収容のがらんとしたホールに、会社ごとに厨房が分かれている。一番奥まった厨房では料理人が強火コンロで野菜を炒め、ホールに出した大皿に盛りつけていた。
3人で厨房に入ると、円卓に従業員用の食事と同じモノが用意されている。
「いつもここで食べるのですか?」と聞くと、なんと2人とも食べに来たのは初めてらしい。
「平日は家政婦のおばちゃんが日本食を作るんだ。土日はインスタントで済ませるけど、今日は特別だよ」

 料理は肉野菜炒めなど5〜6種類くらい、スープ、ご飯。私がご飯とおかずを混ぜて食べると、総経理が驚いたように
「青木君は中国人と同じ食べ方するね。俺は真似できないな」でも、これには理由がある。
「中国の白飯は味がないでしょう。おかずと混ぜ合わせて味を付ければおいしく食べられます」
どうやら大量に食事を作るため、米を炊くのでなく蒸しているのだ。厨房ではご飯の蒸籠が次々と蒸しあがっていく。
白飯はともかく、おかずは本当に従業員食堂?とびっくりするほどおいしい。
唐辛子の利いた味付けで、額に汗しながら食が進むのだ。中でもハンバーグほどもある巨大肉団子は初めて。
「江西料理はすごくおいしい」の言葉に喜んだ料理人は、「もっと食べろ」と勧めるがもうお腹はいっぱいで入らない。
総経理が言う
「従業員の方が俺らの日本食よりよっぽどうまいもの食っているな。道理で待遇に不平を言わない訳だ」
従業員が気にする待遇が食堂の味とは食の国らしいなあ。

 食堂には従業員たちがホーロー鍋を手にして詰めかけてきた。厨房の前は黒山の人だかりができて、早くしろ、と殺気立っている。
従業員たちよりも早く、12時に食事を終えた私たちは、そのまま事務所棟5階の宿舎へ戻った。
「まあ、テレビでも見て休もう」吉田さんがテレビを点けると、中国製テレビになんとNHKBSが映った。
アンテナの位置を苦心の末に調節し、日本と同じモノを受信しているのだとか。ただし、中国で外国放送を受信するためには特別許可が必要で、外事弁公室の王さんを通して公安当局に話をつけた。その条件は「中国人従業員にテレビを見せない」というものだ。
「国際情勢はNHKを頼ってるよ。中国では情報操作されている危険があるからね」
その一方、中国の放送は言葉が分からないため必要ないらしい。


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南昌1年大変化(2002年12月22日 日)


「午後はどうする?」私は街を散歩したいので交通手段を教えてほしいと頼んだ。
総経理は私を窓際に呼びよせて、服飾工業団地の外を走る街路を指さしながら
「あの道路が解放路、手前の道路は上海路。11番バスなら市中心部まで循環運転しているから、ぐるっと元のバス停へ戻ってくるよ。料金はどこまで乗っても市内一律1元だしね。タクシーで帰ってくるなら航空工業学院の近く、と言えばいい」
宿舎の鍵を預かって防犯上の注意をいくつか受けた私は、昼休みを終えて会社に戻る総経理たちと一緒に部屋を出た。




 工場の門を出ると、上海路にはカラフルなラッピング広告の11番バスが数台止まっている。
どうやら内線、外線で循環する始点がここのようだ。バス停に「辛家奄」とあるのは、この辺りの地名なのだろう。ドアを開けた外線バスに乗り、料金箱に1元玉を投入して運転手の真後ろに座った。
やがてベルと共にドアが閉まり、バスは上海路を走り出す。さて、乗ったはいいが降りるにはどうしたらよいのか?車内を見た限りでは降車ボタンらしきものはないなあ。しばらく様子を見ていると、何だ、全部のバス停に止まっていくのだった。
「前門上車、後門下車のワンマンバスです。すみやかに後ろへ移動し、老人には席をお譲り下さい。次の停車は○○、急停車にご注意下さい」
現在の南昌市バスにはアナウンステープまでついている。

「右回ります、安全にご注意下さい」
車外に向けて放送しているのは、所構わず道路を横断する通行人や、交通ルールなどあってないような自転車に対する警告なのだろうか。
運転手席の後ろには「南昌市公共交通条例」が掲げられている。「運転手に話しかけるな」「運転手に直接金を渡すな」「運転手を脅迫すると刑法に沿って罰せられる」うーむ。

 車窓に映る風景は、記憶にある1998年当時の南昌とはやはり違う。
郊外の上海路にも大型のスーパーやデパートがあり、24時間営業のコンビニやインターネットカフェもいくつか見つけた。「マドリード」「ローマ」といったベーカリーや「華氏薬房」などチェーン店らしい洒落た商店が多く、もはや片田舎の雰囲気は感じられない。
バスは南昌大学前で南京路に入り、やがて市の目抜き通りである八一大道に出た。江西賓館や百貨大楼など見覚えのある街並みの前方に、南昌のランドマーク「八一起義記念塔」が見えてきたら、そこは市内の中心だ。

 八一大道より西側に広がるエリアが南昌市のダウンタウン。
私は人民広場でバスを下りて4年ぶりの南昌散歩をはじめた。路地裏にはコークスですすけた昔の中国風情が残っているけれど、表通りに面したビルはすっかり化粧直しされている。
なにより一番変わったと思われる光景は、照明も明るい商店街のショウウインドウに飾られた「聖誕快楽」の文字と聖誕老人、クリスマスツリーだろう。
一体、中国人はいつからクリスマスをこんなに楽しむようになったのか?

 主要な通りに信号機の数がぐっと増えていた。
通行人たちは信号のない場所を中国ルールでさっと渡って行くが、信号があればとりあえず守るようになったようだ。
赤信号、青信号ともに残り時間表示があるのは、交通法規遵守を嫌う、せわしない中国人気質に合わせて普及したものか。
さて、車も人も一応信号に従っているとはいえ、交差点を渡るのは安心できない。
車や自転車は、直進が赤信号であっても常時右折OKだからだ。突っ込んでくる車に注意しながら、左右を確認して横断するには勇気がいるが、そこは相手も事故なんか起こしたくない気持ちは同じ。混雑した交差点では徐行してくるので、大した交通事故が発生しないのだろう。

 街角にある「○○路」の表示と街路図を頼りに歩いて行くと、突然、目の前に上海ばりの歩行者天国が現れた。
南昌市が誇る最新スポット、勝利路歩行街。日曜日の午後とあって買い物客の数も上海・南京東路に負けないくらいである。カラータイルが敷き詰められた歩道には街路灯やベンチが置かれ、カジュアルファッションのジョルダーノや結婚写真館など、台湾、香港資本のチェーン店が目立つ。
なんと、南昌初進出のマクドナルドまであるのだ。ケンタッキーだけはやたら見るが、ついに江西省へやってきたか、マクドナルド。







 突然、霧雨とともに生温かい突風にあおられて、私の傘が曲がってしまった。
あちゃー、と思って見れば、華奢な折り畳みの骨が見事に折れてしまっている。しかたない、今日の街歩きの目的は代わりの傘を探すことにしよう。
色とりどりの商店が並んだ南昌市きっての繁華街、中山路に「必勝客」の看板が目を引く最新ショッピングセンター「太平洋購物中心」がある。おっ今度はピザハットか、私は傘を探しがてら南昌のデパート探検に入っていった。

「太平洋購物中心」の前には、十数メートルの高さはあるクリスマスツリーがそびえている。
その周囲は興味深そうにツリーを見上げる買い物客と、必死に呼び込みをかけるサンタ姿の店員たちでいっぱいだ。ツリーの飾りが独特なので私ものぞきに行くと、なんと中国結のついた中華風絵馬が一面に吊り下がっているのだった。
なぜ絵馬かといえば、木の板に書かれたクリスマスメッセージが「成績が上がりますように」とか「彼氏が見つかるように」とか、お願い事なのである。日本の七夕のような感覚でいるんだろうか?

 さて、デパートの中を見てみよう。
おお、広くて明るい店内といい、商品の品揃えやあか抜けたディスプレイといい、日本のそれと比べても遜色ない感じ。ジングルベルが流れるフロアでは、お揃いのサンタ帽子を被った店員たちがクリスマスの雰囲気を高めている。

ああ、そうだ、傘を買うんだった。
店員に尋ねてみれば、た、高い。
ずらりと並んだ傘はどれも200元前後もする。最も安くて140元、2100円。日本で買う方が安くあがりそうだ。
そんな私に向かって店員は「どれも輸入品ですよ。外国製は丈夫で壊れません」と断言する。そんなはずないよ、日本製でも壊れるんだから。








 結局、私は何も買うことなくデパートを後にした。
中山路の脇には緑の小島を浮かべた東湖が広がっている。
南昌中心街のオアシス「八一公園」だ。冬でも常緑の森に包まれた公園では、ぐずついた天気ながらたくさんの中高年層市民が思い思いのときをすごしていた。
さすがに午後も遅い時間とあって太極拳にいそしむ姿はないけれど、代わりに胡弓や琴の奏でる中華風のメロディーに乗せて京劇の台詞を語るグループが何組も見られる。観客から「いいぞっ」の掛け声をもらう京劇爺さんたちは、趣味で集まってきているらしい。

 東湖に浮かぶ緑豊かな小島は「百花洲」という。
杭州にある有名な西湖と同じく、湖底の泥を浚渫して造り上げた人工の島だ。
四季を通して花が咲くところから百花洲という名が生まれたらしい。かつては科挙の受験会場になり、有名な文人や政治家が住居を構えてその美しさを愛した。小島と湖畔を結んで柳並木の堤防が続き、左右に湖を眺める絶好の散歩道になっている。
ここは陳舜臣の小説「桃花流水」の中にも登場する場所。湖畔にひっそりと建つ古い洋館があるいは小説の舞台かもしれない。

 八一公園に流れる中国的なゆったりした時間に満足した私は、すぐ近くにある市内きっての名刹、祐民寺へも足を伸ばした。銅の大仏がある古い禅宗寺院だが、参拝客はちらほら見えるだけ。
集票所で2元を払って線香の束をもらい、中国式に拝拝してまわる。
大きな樟樹が生い茂る境内はしーんと静まり返って表通りを行く車の音すら聞こえない。台湾や東南アジアに見る派手に彫刻された賑やかな中国寺院を見慣れた私には、祐民寺の厳かなたたずまいが新鮮にも感じられた。


 帰り道は東湖に沿った蘇圃路を辿る。
私が明日からお世話になる江西省政府外事弁公室はこのかいわいに位置するのだ。
八一大道から賑やかな中山路を通り、森と湖に囲まれた百花洲を抜ける通勤ルートが頭に浮かぶ。上海路からの所要時間は約1時間、なかなか素晴らしいルートではないか。結局、傘を見付けることはできなかったけれど、南昌散歩に満足して再びバスに乗って帰ることにした。

 11路外線バスは中心街から乗り込んだため、ぎゅうぎゅう満員。
南昌駅を経由し、車内が空いてきたところで近くの乗客に声をかけた。
「請問、解放路と上海路の十字路はまだですか?私は外地人なので知らないんです」
バスマップを出して見せると丁寧に教えてくれる。どうやら終点までずっと乗っていればいいらしい。
その終点、十字路の手前で止まったバスの運転手は「着いたよ。上海路へは道を渡って行ってくれ」
その言葉とおり、解放路を渡ると服飾工業団地の門が見えてきた。

 さて、私が門を入っていくと、薄暗い敷地に止まっていた1台のバンがライトを点けた。
何だ?と思いきや、総経理が首を出して「待っていたんだ、早く乗れ」と急かす。
訳も分からずドアを開けたバンに乗り込めば、吉田さん、会社の通訳2人も一緒だった。総経理は
「今日は君の歓迎会だけど、ちっとも帰ってこないから置いていこうとしたんだ」と笑った。
えー、歓迎会までしていただけるなんて思いもよらなかった。ありがとうございます。

 車中で140元傘の話をした。
「高くて買えない」とこぼすと、通訳さんが「八一大道の地下通路には安い雑貨がある」と情報をくれた。
「わざわざ街まで行かなくても、傘なんて会社の近くにある北京華聯超市で売っていますよ。値段も10元くらいかなあ」とも言う。
そうか、スーパーがあったか。さっそく明日行ってみることにしよう。
「南昌のスーパーは大抵、夜9時まで営業しているから、仕事の帰りでも十分間に合いますよ」

 会社のバンは市中心部に向かい、私が昼間に歩いた通りを走りすぎた。
暮れかかった南昌の街はネオンの瞬きや看板を照らす明かり、街路樹に付けられたクリスマスイルミネーションによってまぶしく輝いている。
私は1997年に初訪問した際、夜のあまりの暗さに日本との経済格差を思ったものだが、それはやっと5年前のことなのだ。今や活気あふれる街の様子は、不況下の日本を追い越してしまった感じ。昼間にも劣らない人の波が、紫のあやしい光に包まれた勝利路歩行街へと流れ込んでいく。

 「南昌が変わったとは聞きましたが、それにしてもすごいですね」
私が感心すると、総経理は「上海3年大変化、という言葉があるけど、南昌1年大変化だね」と言う。
まだまだ所得水準は低いながらも、毎年給料が上がり続け、その一方でモノがあふれて物価は下がる。人々はお金を使う場所を求めて消費に走っている状況だとか。特にレストランなどは、人口130万人の南昌市でよくあんなに流行るなあ、と不思議なくらい連日満席なのだという。
「宵越しの金は持たない中国人気質も個人消費を大幅に伸ばしているんだろうね」

 到着した場所は、南昌きっての観光スポット「滕王閣」前にあるレストラン「東方酒楼」。
車から降りると、目の前には中国三大名楼に数えられる58mの楼閣がライトアップの光に浮かんでいる。
総経理が南昌で最もうまい、と一押しする高級レストランなので、とても楽しみだ。同じ場所に「新東方」と「老東方」の2軒が並んでいるが、もっぱらお気に入りなのは老の方なんだとか。今日はもちろん老東方である。


 予約した個室に案内され、私の南昌訪問を盛大に歓迎していただいた。
昼間の従業員食堂の味もなかなかだが、やはりレストランの江西料理はおいしい。白酒で乾杯、乾杯を繰り返す手荒い歓迎も受ける。一座で酒が飲めるのが総経理だけなので、酒量が増えないことが幸いだった。
「青木君、亀は食うかい?」
えっ亀?私は犬はOKだけど亀はちょっと・・・
「もったいないなあ、スッポンなんて日本で食えないよ」
えっ、スッポン?それは日本では高くて食べられない。
「私ももらっていいですか?」
1人につき1匹出てきたモノを前に、日本ではいくらするんだろう、と考えてしまう。
「日本にはないんですか?」と通訳さん。
「日本にもありますよ。温泉地で飼育しているからもっと大きいけど、高いんですよ」

 総経理が精算を済ませると、小姐は「抽選券」を持ってやってきた。
クリスマスシーズンに100元以上の飲食をした客に配っているのだという。
老東方の階段ホールに積み上げられた衛星テレビやステレオ、その他家電製品の段ボールの山は景品だったか。24日、クリスマスイブの晩に抽選を行い、当たった人にプレゼントするらしい。その他、南昌の大きなレストランはどこも会員カードを用意しており、割引サービスも盛んに行っている。
老東方でも会員カードこそないが「消費100元につき20元の還元」を謳った割引券を用意しているのだった。

 「すっかりご馳走になってしまいました。私は何もお礼できずに申し訳ありません」
総経理と吉田さんは、気持ちだから礼なんていらない、と言うが
「青木君の家郷は川もきれいだし、温泉があるだろ?私が夏に鮎釣りに行ったら、そこで温泉に入って一緒に飲もう。礼はそれでいいよ」
温泉ならまかせてください。お待ちしてますよ。

 通訳さんを家まで送り、上海路へ帰ってきた。会社の運転手さんに礼を言って分かれ、3人で事務所棟5階まで上る。
「酔っぱらうとさ、この階段が辛いんだ」
「そうそう、青木君が遅くなっても心配しないが、会社の門は夜中2時に閉まるからね。私らは一度、門をよじ登って帰ったことがあったな」
宿舎に入ると総経理から順番にシャワーを浴びて自室に戻っていく。
窓の外からは遅くまで工業団地付属のディスコ?から響くカラオケの歌声が聞こえていた。


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はじめての授業(2002年12月23日 月)


朝、6時に目が覚めた。
南昌服部時装有限公司の仕事は7時半には始まるそうで、福田総経理と吉田さんはもう起きて朝食の準備をしている。
「おはようございます。随分早いんですね」
聞けば、朝ご飯は前の晩に家政婦さんが用意するため、炊飯ジャーをセットして味噌汁を温めるだけでいいとか。ただし、月曜日だけは総経理が米を研ぎ、自慢の味噌汁をつくるのが習慣だという。

 「赤味噌だけどいい?」美濃の人らしく八丁味噌の味だけど、私は何でもOK。
「ところで今日の予定は?」
私は朝のうちに外事弁公室から電話をもらうことになっていた。
いきなり出向いてもいいが、初日だけは誰かと一緒じゃないと誰何されても困るだろう。
スーツに着替え、お土産も揃えて準備はできた。総経理と吉田さんの出勤を見送ったあと、BSテレビを見ながら連絡を待つことにする。

ガチャ、玄関のドアが開いて中国人のおばちゃんが入ってきた。
ちょっとびっくりするが、この人が家政婦さんだった。
自己紹介してしばらくお世話になることを話す。家政婦さんは挨拶程度の日本語しか知らないらしいが、ここの住人たちとはどうやって意思を通じているのだろう?総経理はこの人に日本料理を教え、今では味噌汁から肉じゃがまで、何でも作れるまでになったという。

 掃除の邪魔にならないように自室に戻ったけど、電話がかかってくる気配はない。
9時すぎ、しびれを切らした私は南昌訪問の窓口である王雨森さんの携帯電話へ連絡を試みた。王さんは確か昨夜には上海へ着いたはずである。
「おや青木さん、無事に到着しましたか?」
携帯に出た王さんに、外事弁公室からの連絡がまだないことを話す
「青木さんの予定は顧健紅さんに任せてあります。私から聞いてみるので、そのまま待ってて下さい」

 しばらく時間がかかりそうだ、と思った私は、近くのスーパーへ傘を買いに行こうと決めた。
家政婦さんに超市の開店時間を聞けば、なんと8時半らしい。早朝から夜9時までとは、日本のスーパーも見習ってほしい営業時間ではないか。
「私が付いていきましょうか?」家政婦さんの言葉を「1人で行きます」と断って、上海路に面した超市の場所だけ教えてもらってでかける。

 工業団地の門を出て、上海路中学と武警消防隊、南昌航空工業学院の正門を通り越せば、北京華聯超市上海路店まで100mも離れていない。
スーパーの中は生活雑貨、衣料品、靴、スポーツ用品から食品売場へと続き、最後に全ての商品が同じレジを通るしくみになっている。品揃えは日本と大差なく、食品も発泡スチロールやビニールパックされている野菜が目立つ。
ああ、中国・南昌でさえ過剰包装が浸透しつつあるのは嘆かわしいことだ。

 全体的にホームセンターの雰囲気に近いスーパー内をぐるりと見て歩き、ここでもサンタ帽子を被った店員を呼び止めて傘の場所を聞く。スーパーの片隅に見付けた雨具コーナーには、なるほど、昨夜の通訳さんの話通り10元〜70元くらいの価格帯で沢山の商品が並んでいる。
あまり安物だと壊れやすい、そうなので20元の長春製リンゴ印雨傘を選ぶ。店員はその場で現物を広げて故障や穴がないか確認し、OKを出した。
うーむ、日本で客がこれをやったら店の人間は嫌な顔するのかなあ。でも、高級デパートで傘を買うと、確か日本でも同じことをしてくれる。

 「会員カードはあるか?」と店員が聞いてくる。
この超市では商品の値段が「通常価格・会員価格(ちなみに価格交渉不可と書いてある)」の二重制なのだ。おお、スーパーでも割引カードか。「没有」と首を振れば、店員は私をレジまで案内したうえ、自分の名札を通して20元の傘を会員価格18元にしてくれた。
サービスのよさに感激したけど、客全員が会員価格で買い物できるのなら、通常価格に何の意味があるのか?

 再び宿舎に帰って外事弁公室・顧健紅さんから来るはずの連絡を待つ。
1人ぽつねんと辞書を眺めながら時間が過ぎて結局12時。昼休みで戻ってきた総経理と吉田さんが私を見て
「なんだ、まだ電話がないの?」と言う。「まあ、それが中国流だからね。飯にしようや」
家政婦さんも入り4人で日本風の昼食を囲む。部屋の電話が鳴ったのはちょうどその時、総経理が私に取り次いだ。
「青木君、お待ちかねの電話や」

 待ちに待った顧健紅さんの声が飛び込んできた。
「チンムーセンション、お元気でしたか?南昌へようこそ」
「こちらこそ。顧さんには出張帰りの忙しい時にご面倒おかけします」
ところで・・・顧さんが本題に入った。
「青木さんの予定は江西財経大学です。午後1時、朱老師が南京西路にある金陽光超市の肯徳基でお待ちしています」
私「金陽光超市ですね・・・えーと老師の名は・・・」
顧さん「朱老師、朱小紅、私の南昌大学での同学です。携帯番号は・・・、白いコートを着ています」
ふう、電話を置いてみれば、待ち合わせ時間まであと30分もない。
「福田さん、南京西路の金陽光スーパーってご存じですか?」「いいや、知らないなあ」
うーむ。とにかく、タクシーを使ってでも早く行かないと。

 それにしても江西財経大学へ行く、なんて予定は初めて聞いた。
日本でのやりとりでは「職場研修を・・・」なんて言っていたけれど、語学留学が可能になったのかもしれない。
私はノートや辞書や中国語学習に役に立つと思って持参した本を数冊、カバンに押し込んだ。大学へのお礼にカレンダーを抱えて準備はOK。
私は「今日は大学で夕食が出るようです」と断って宿舎の階段を駆け下り、上海路へ飛び出していった。

 あわててタクシーを拾ったものの、金陽光はすぐ近くだった。
スーパー前を11路バスが走るから、きっと昨日のバス散歩で通った道だろう。
ケンタッキーの店内には大学の先生らしい白いコートの女性は見あたらず、コーラを買って通りを見渡せる入口横の席で待つことにした。
ふと私は、全くの勘ながら、通りを渡ってやってきた人が気になって、ドアを開け、店内を見回した女性に声をかけた。
「朱老師ですか?」相手はびっくりして
「はい、あの日本人の方ですか?」
ああ、よかった。朱小紅老師だった。

 朱老師に伴われてタクシーに乗り込む。
「よく初対面で分かりましたね」
日本で生活した経験もある朱老師は流暢な日本語を話す。
「ええ、何となくですが。朱老師は私を日本人だと分かりましたか?」
「何となく雰囲気が違います」
よかった、話しやすい気さくな先生で。
車中の話題が、大学で同学だったという顧健紅さんの話になった時、私は語学留学の予定を切りだした。

「あの、顧さんを通してお願いした授業の件ですが」
朱老師も、そうですね、と前置きして「青木さんは何か授業の希望はありますか?」
私「おまかせします。私は中級程度だと思いますが、多聴多説の会話練習がしたいですね」
それならよかった、と朱老師は私に語った。
「財経大学には日本人教師がいません。学生たちは青木さんから日本語を学べるのでとても喜ぶでしょう」

ええっ、何か違う気がするが、それは私の聞き間違いではなかった。
どうやら顧健紅さんは私を日本語の教師として財経大学に紹介したらしい。
「朱老師、申し訳ありませんが、私は日本語を教えることはできません」
私の訴えを朱老師は笑って受け流す。
「没問題、没問題。私が通訳しますから、日本のことを何でもいいから話して下さい」

ふだん日本人と接する機会が極めて少ない田舎大学の学生たちは、生の日本情報にとても強い関心があるのだという。そう言われてみれば、私だって中国の学生と交流できる機会なんてざらにはないだろう。なんだか面白そうな気がしてきた。
「さあ、教室で学生たちが待っています。どうぞ来て下さい」

 巨大な長江の、これまた巨大な支流、カン江にかかる八一大橋を通り過ぎた南昌市郊外に江西財経大学はあった。
中国らしい広大なキャンパスを歩きながら簡単な説明を受ける。
学生数1万5千人、教員数2千人。その名のとおり経済学中心の大学で、MBA(経営管理学修士)も取得できる。外国語学院は発足して間もないが、英語科と日、独、仏、露の第2外語があり、日本語学科の設立計画がある。
私は大学卒業以来、こうしたキャンパスに足を踏み入れるのは実に9年ぶりだった。なつかしさがこみあげてくる。

 教学楼に案内され、緊張しながら教室のドアを開ける。
30人ほどの学生が立ち上がって拍手で迎えてくれた。よし、ここまで来たら肝を据えよう。
「大家好!我是青木、従日本岐阜県来的・・・」
中国語で話しはじめると、おおーと小さなどよめきが起こる。うーん、いい感じじゃないの。
「岐阜の地名は岐山、曲阜に由来します。中国と縁の深い土地なのです。現在、岐阜県に在住する中国人は約9千人、そのうち30%は江西人です。私は岐阜日中協会で日本在住の中国人と日本人の交流活動をしています。今回、南昌の人たちと交流するため中国へ来ました・・・」
ふう、何とか自己紹介を中国語だけで通したぞ。

 「私は新聞の社会人教育中心(中日文化センター)で中国語を学んで4年になります。日本では中国語学習者が増えて、中国への留学生もアメリカに次いで2番目の多さになりました。かつて、中国語に関心がある人は、例えば三国演義や水滸伝や西遊記など、古典小説から興味を抱きましたが、今では中国の目覚ましい経済発展を見て、これからは中国の時代だ、と考えて現代中国に関心を持つ人がとても多くなっています」

 ああ、そうだ、カレンダーがあった。
「日本の風景を見て下さい」私は富士山など風景写真のカレンダーを学生たちの席へ回した。そして、日本紹介のために持参していた「指さし会話帳・北京語の日本案内」と「中国いかがですか」の2冊も回覧する。
「中国・・・」は南昌大学の元留学生が描いた漫画で、1996年当時の南昌の様子が出てくる。日本語だが、漫画だから何とか理解できるだろう。

 あとは質問タイム。
「日本の学生生活はどんな様子ですか?」
私は最近の大学の様子をよく知らないけど、「中国では学生や教員が大学内で生活しますが、日本ではほとんど学外に住みます。生活費に充てるため、仕送りの他にアルバイトをします。私の知ってる中国人留学生は超市や菜館でアルバイトする人が多いですね。スーパーで売れ残った食品をもらって食事を作り、レストランの厨房なら無料でご飯を食べられるから。物価が高いから生活は大変ですよ」
「中国の社団はクラブ活動といい、体育会と文化会に分かれています。私は市の青少年活動中心で子どもたちの活動を指導していました」

 次は私から質問
「日本の歌手を知っていますか?」ハイ、ハーイ、次々に手が挙がる。
「ピンチープー」ああ、浜崎歩ね。「チンチーシャオズ」キンキキッズか。よく知ってるなあ。
「あのー、青木先生・・・」はいはい、「最近、モーニング娘。のメンバーが変わったそうですが?」
えっ私の苦手な質問だなあ。ごめんなさい、詳しくありません。
「じゃあ○△×@を知ってますか?」えっ誰?「○△×・・・」分からない。漢字で書いて下さい。学生が出てきて黒板に日本人の名前を書いた。うーん、やっぱり分からない。こんなタレントいたかなあ。
「えー、知らないんですか?日本の動画片の主人公で・・・」
ごめんなさい。私はアニメや漫画の話は分かりません。

 学生からの質問「日本では中国の歌は有名ですか?」
はい、「最近ではチャイニーズポップスとして知られています。一番人気はドラマにも出た王菲ですね」おおー、とどよめきが。
「中国映画も知られるようになりました。張芸謀は有名ですね、一個都不能少とか、我的父親母親とか」
学生の話によれば、張芸謀の最新映画「英雄」が今、中国で一番人気なのだとか。なんでも財経大学の学生中心で上映されるという。
「それはいいですね。私もぜひ見てみたいです」

 私の初めての授業はこうして終わった。
どぎまぎしながら中国語と日本語のチャンポンで話す90分間だったが、少しも長いとは思わなかった。私は最後に、中国語で締めくくった。
「今日は皆さんとお話ができて大変うれしいです。大学を卒業して9年間がたちましたが、皆さんと交流すると若返った気持ちです。謝謝大家」
学生たちから大きな拍手をもらって教室を後にする。気がつくと手の平は汗びっしょり。あー緊張した。

 朱老師に従って外語学院の弁公楼へ行く。
学院長室で、学院長をはじめ共産党書記、他の外語教員から歓迎を受けた。
「青木先生は中国語も上手で・・・」朱老師が私を紹介する。
「そんな、誉めすぎです。私は明確な中国語が話せずに恥ずかしいです・・・」
ここでは日本語を理解する人は朱老師だけ。私はさっき学生に話した内容を繰り返した。
「ところで、青木さんの仕事は?」
「税務工作です」
学院長はうなずいて「それはよかった。ここは財経大学です。次は日本の税制について講義を・・・」
私はあわてて否定した。「待って下さい。税務職員ですが、実務と税制研究は別です。私は税法全ての専門家ではありません」

 大学の概要や、日本語学科の新設について2時間ほど話を伺ったあと、朱老師が財経大学のキャンパスを案内してくれた。広い敷地の半分以上を学生寮や教職員宿舎が占めているのが中国らしい。宮殿建築を乗せた島が浮かぶ大学池、小学校、病院、銀行にスーパーや携帯電話屋まであって、大学は1万数千人が生活する1つの街を形成している。
大学の建物は新しく日本の老朽化した校舎とは比べものにならないほどきれいだ。今後、さらに規模を拡大する予定で、周辺の田園地帯はすっかり整地されて新校舎の建築工事が進んでいた。

 大学が誇るMBA校舎は総ガラス張りの近未来的なビル。
ホールで社交ダンスを練習する学生サークルを見て、朱老師が感心したように言う。
「学生たちは若くて羨ましいですね」
大学の先生だって学生たちに囲まれているから、羨ましいですよ。
次に訪れた学生活動中心の玄関には、今、話題の映画「英雄」の大きな看板が掛かっている。
「青木さんは英雄を見たいって言ってましたね」はい。
「金曜日の夜は空いてますか?私も映画を見たくなりました。一緒に見に行きましょう」
えっ本当ですか?嬉しいなあ、ありがとうございます。


 その晩、外語学院が私のために歓迎会を開いてくれた。
大学招待所のレストランで改めて学校の私への配慮と、老師たちの歓迎にお礼を述べる。朱老師が言う。
「今日のクラスはおとなしい学生たちです。水曜日の日本語クラスはまだ学習歴3ヶ月ですが、好奇心がすごく強いですよ」
そうか、次回は明後日か。宴席が和んできた頃、老師たちも自分たちの話題に一生懸命になる。うわあ、すごく早口で聞き取れない。
「あのね、英語科の教師は他の外語教師に比べ授業も多くて忙しいでしょう。なのに論文を書くノルマは同じだから、おかしいって言ってるんですよ」
なるほど、大学の先生も大変ですね。

 そのうち、1人の学生に話題が移っていた。
なんでも老師たち自慢の優秀な卒業生がいて、アメリカか、北京、上海の外資企業へ就職を希望していたらしい。現在は大学生も自分で就職口を探す時代になったのだ。しかし、江西省は田舎ゆえ実力があるのに相手にしてもらえず、結局、その学生はナンフェイに仕事を見付けたのだとか。
「えっナンフェイ?」
ええ、そうです。フェイジョウです。
「もしかして南アフリカですか?」
うーむ。中国では学生の就職先に南アフリカなんて国名まで飛び出してくるのか。
意外にも、日本人よりずっと外国との垣根が低いのかもしれない。

 ああ、今日は本当に楽しかった。南昌の街まで帰る老師たちと一緒に大学専用車に乗り込んで、夜の大学を後にする。
「上海路と解放路の十字路」で降りると、心配した朱老師にはわざわざ私が門を入るところまで見送っていただいた。心遣いがありがたかった。


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