中国旅行記 浙江山海紀行(下)(2006年 浙江省) 本文へジャンプ


月餅を買いに(2006年9月20日)


今朝も紅宝石大酒店に孔さんと王さんが迎えに来てくれた。
漁港である坎門の町には見るべき場所がないので、今日は玉環県の県城へ行くのだ。まず、何台もミニバスが止まっているバス停前で豆乳と油条の朝食。通りに面した歩道のオープンカフェで、女の子と朝食なんてヨーロッパチックだけど、ここは中国。朝からがちゃがちゃした騒がしさがあり、ちっともお洒落ではないなあ。でも海から吹き抜ける風は爽やかで、上海や大都市圏にはないものだ。

さすがに、まだ7時すぎなので動き出すには早すぎるから、バス通りの向い、ぼちぼち店開きを始めた町の総合市場に行ってみる。ここには王さんのお母さんが経営する雑貨店がある。夜市に店を出して、翌朝は早くから市場なんて、王さんの家の仕事も大変だね。まだ半分近くがシャッターを下ろしているが、お母さんはもう店を開けていた。
「おはようございます」
世間話をして時間をつぶす。あの、そろそろ出発しようか。
「そうですね」
県城行きのミニバスに乗ってトンネルを過ぎ、玉環島の中心まで15分ほど。
市中心は南国っぽい椰子の茂るロータリーだ。ここは浙江省の中でも南端に近い。小さな島の中で王さんと孔さんでは方言が異なるそうだ。方言を話されても分らないけど、孔さんの家郷は台湾語に近いので、彼女は台湾のテレビを見て、台湾方言で話していても理解でき、台湾には国民党に付いて移住した親戚もあるのだとか。そんな場所なんだ。



中国風の楼閣が建つ公園を散歩する。気温がぐんぐん上がり、日陰を探して歩くけど、暑いなあ。
楼閣の地下には、地獄巡りという中華風ぽいお化け屋敷が作られていて、お約束のぎゃあぎゃあという女の叫び声が響いていた。
入ってみる?
「いや、私は怖いのが大嫌いです」
王さんは真顔で顔を振った。
あはは、こんなの子供だましだよ。
私たちは地獄めぐりに入らず、池の周りをぐるぐる巡った。公園の売店では民族衣装を貸し出して記念写真を撮るようになっている。へえ、着物もあるんだ。ちょうどカップルがやってきて、洋服の上から着物?浴衣?を羽織り、簡単に帯を結んで傘を差して写真に納まっている。
「あの着物は本物じゃないよねえ」
日本で浴衣を着たことがある2人が声を揃えて言う。
うん、こっちの方が面白いや。
結局、小さな県城にも観光地と呼べる場所はないので、さらに玉環汽車站からバスに乗って、隣町の温嶺市へ。孔さんが中国移動通信の携帯電話屋で働いている街だ。広い緑地帯に現代的なビルが並び、椰子の茂る大通りに新しいショッピングセンターやファーストフードチェーンも並んで、中国の辺境の中都市にしては垢抜けた雰囲気が漂っている。











タクシーで市中心部の芝生広場へ。後ろの小高い丘の上には、おや、大阪城じゃないか。
偽物ディズニーランドとか、パクリ天国の中国ではあるけれど、日本のお城をなんでこんな場所に。
って、これは東輝閣という歴史ある楼閣で、知る人ぞ知る温嶺のシンボル的存在らしい。中国に来ていろいろな伝統建築物を見たけれど、ここまで天守閣そっくりな建物は初めて見た。

さっそく丘を上がって東輝閣へ行ってみる。残念ながら、土日と平日夜間のみの開館らしく、建物の入口は鍵がかかって無人だった。夜には東輝閣全体がライトアップされ、夕涼みを兼ねた夜景見物でとても賑わうというが、昼間休館の観光施設って、やる気があるのかないのか、よく分らない。

ひっそりしているけど、人気の夜景のみならず、昼間の眺めも素晴らしかった。
町はずれに小高い山々が連なり、禿山が多い玉環島と違って緑に覆われている。その頂上付近には中国風に奇妙な岩峰がぽっこり飛び出している。未亡人峰といい、遠くへ旅に出た夫を待ち続けるうちに、岩になってしまった奥さんの姿なんだそう。まあ、ありがちな伝説だ。







麓の芝生広場に下りて、ケンタッキーで昼食にする。
老北京栲火巻と大納言蛋達、老北京は初めて食べたけど、北京ダックと野菜を巻いたメキシコ風クレープで美味しい。エッグタルトは中国のケンタッキーに来たらいつも食べる定番のおやつ。小倉大納言ということだけど、日本風を意識しているのか、中国でも小豆を大納言と呼ぶのだろうか。どちらも中国にしかないご当地メニューだ。

昼食後、今度は市政府正面の川沿いに出来た新しい公園へ向う。
空調の効いたケンタッキーから外へ出ると、南国の太陽が容赦なく照りつけて暑い、暑い。人影まばらな公園の遊園地、ジェットコースターや観覧車は、やはり日が暮れてからがメインの営業時間らしく、どれも動いていなかった。ついでに、新しい公園も昼間は無料開放で、夕方から有料だとか。温嶺市民は夜型人間なのか。
外は暑い、どこかに休めるところはないの?
「じゃあ、私のアパートへ来ませんか」と孔さん。
え、いいの?
「その代わり、クーラーはないですよ」
あの、そういうことじゃなくて。





小さな商店が密集した繁華街の一角に孔さんのアパートがあった。暗い階段を上がった5階の2LDKを会社の同僚とシェアしている。中国にはワンルーム式のアパートが少ないので、若い人が部屋をシェアして住むのは一般的らしい。部屋には2台のベッドと小さなテレビがあるだけで、飾り気もなく女の子にしたら本当に質素だ。
「ちょっと洗濯しています。これ使ってください」
窓を全開にして、小さな扇風機を回し、日本でもらったという銀行のうちわで扇いだ。
ベッドに腰掛けてテレビを見る。孔さんが戻ってくると、3人で部屋がいっぱいになるほど狭い。同居人に気を使いそうな生活だなあ。
「そろそろ玉環に戻りましょうか」
うん、私は孔さんの暮らしぶりが見られてよかったです。
スーパーで買物をして、汽車站から玉環行きのバス、玉環から坎門行きのミニバスに乗り換えて海辺の漁港に帰ってきた。みんなで実家の手伝いに忙しい阮姉妹に会いに、月餅屋へ行く。先日の晩、「青木さんに家の月餅をプレゼントします。来てくれますか」と言われていたのだ。







こんにちは、はじめまして。日本では娘さんに中国語を教えてもらって・・・
「おお、よく来たね。娘がお世話になりました」、
父さん、お母さん、弟も月餅焼きに忙しそうだ。今は中秋節を間近に控え、1年で一番忙しい季節、ほとんど徹夜で月餅を焼き続けるらしい。月餅作りの様子を見学し、プレゼントされるだけでは悪いので、300元の大きな月餅を買う。これで日本への土産はできた。

ホテルの部屋に戻って昨日買った文旦の残りを3人で食べ、日が落ちてからオープンエアの海鮮レストラン街へ。
「これと、これと、あ、蟹も」
水槽や平台の魚介類を指差して注文し、料理をお任せする。
ビールも届いたし、みんなの健康を祝してかんぱーい!





「青木さん、玉環はどうでしたか?」
みんなに歓迎されて本当に嬉しかったよ。とても楽しかったです。
「私達はみんな青木さんの妹ですからね」
うん、私は中国にこんなに可愛い妹たちがいて嬉しいよ。別れを惜しんで、乾杯を重ねた。


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モダン寧波(2006年9月21日)


楽しかった玉環を離れる朝、孔さんと王さんが紅宝石大酒店のロビーに迎えに来てくれる。
女の子たちが付き合ってくれた玉環での日々は今日で終わり。バス停前、オープンエアの店で朝食をとるのも今日が最後だ。2人とも今日の午後から仕事だという。
ごめんね、3日間も私に付き合せてしまって。

ミニバスで玉環県城の汽車站へ向い、名残を惜しみながら寧波行きのバスを待つ。
改札が開いて、私はバスの人になった。高速バスは窓が開かないので、窓の下にいる孔さんや王さんと身振り手振りでやり取りする。
楽しかったよ、ありがとう。
「また電話してね」
仕草が可愛いなあ。バスが動き出すまで、2人は手を振って送ってくれた。







さて、今回の旅も後半に入った。
急に1人になって話し相手もいなくなると、妙に寂しい気分になる。
ちょっと感傷に浸りながら、車窓を過ぎてゆく浙江省の山河と、バスの中で上映されているVCDの映画を交互に眺めていた。浙江省の南部、海岸沿いの地方は山がちの地形で、高速道路からの景色も曲がりくねった川と、道路に沿った小さな山村だ。
それにしても経済発展著しい中国は、こんな山の中にまでどーんと高速道路を通してしまうのか。省内の各都市を結ぶ浙江高速客運公司の高速バスは、追い越し、追い越されつつ、数え切れないほどの便が走っている。世界の工場と呼ばれる工業地帯だけに、トラックも多い。また、マイカーもずいぶん走っている。ここだけ見れば、日本と何ら変わらない。

高速道路を下りて、都市の郊外風景の中をしばらく走ると、ガラス張りのパビリオンのようなバスターミナルに到着した。巨大な寧波長途汽車站からタクシーで市中心部の寧波飯店へ向う。寧波南駅近くの飲食店が集まったにぎやかな一角にホテルがあった。外見はちょっと古そうだけど、ロビーの内装はシックでお洒落な感じがする。

チェックインと明日の普陀山ツアーの申し込みを済ませたら、さっそく寧波散歩に出発だ。
まずはチェーン店の大娘水餃で、ビールと水餃子で腹ごしらえ。入口が見える席でぱくついていると、ふと1人のおじさん旅行者が入ってきた。おや、日本人だ。大きなスーツケースを抱え、食券売り場で日本語や英語を交えながら、注文に悪戦苦闘している。ほぼ日本人と出会うことがなかった今回の旅で、こうした場面を見ると同胞意識が湧くけれど、結局は声もかけなかった。
なんだか1人旅で大変だなあ、と思っただけ。1人旅の寂しさを共有できたと思っただけだ。

昼食を終えて徒歩数分の寧波南駅へ行く。杭州や上海を結ぶビジネス特急の専用の窓口に並ぶと、明後日の上海行きの切符はすぐに買えた。ついでに地図も買って、駅前通りを日湖と月湖へ歩く。









月湖は水と緑に恵まれた江南地方らしい公園。湖畔には歴史を感じさせる中国古建築と、緑濃い柳の並木が続き、落ち着いた風情がある。中秋節の提灯で飾られた園内には、胡弓を楽しむ人々の姿が見られ、ゆったりした時間が流れているのも中国らしい。大きな湖の対岸には森を越えて高層ビル群がそびえているのも、現代の中国らしい風景だ。

次に月湖の近く、旧市街の風情を残す天一閣へ。古くから中国有数の貿易港として賑わった寧波には、富と共に文化も蓄積された。天一閣は明代の官僚範欽が建てた蔵書庫、いわば個人図書館で、その歴史とともに30万冊を越える蔵書も中国随一を誇っている。文書楼の周囲には庭園や築山がつくられ、渋い落ち着きがある。

実は寧波といったら郊外の天童寺と阿育王寺であり、両寺は日本の禅宗、越前永平寺を本山とする曹洞宗の源流として日本でも有名である。残念ながら、今日は半日しか時間がないので、郊外へ出ることはできなかった。しかし、市内の天一閣だって相当に見応えがある古建築で、雰囲気もなかなかよい。









閑静な旧市街から車が行き交う大通りに出ると、風変わりな鐘門が現れた。
旧寧波城の城門に設けられたもので、これをくぐると、観光客を意識した歩行街に続いている。中国の伝統的な街並みが再現された通りには、中央にも屋台がずらりと並んで、狭い路地に人々が行き交う猥雑な活気にあふれ、ちょうど上海の豫園辺りを思わせる。

CD店に立ち寄って、旅の途中に高速バスで流れていたMTVで気に入った曲を探す。自由気ままな1人旅である。数枚のCDを買うと、店員が会員カードを作ってくれた。寧波市内にチェーン展開するCD店で使え、割引やポイントがあるという。まあ、寧波の会員カードも次にいつ使うか分からないけど、記念にはなるかもしれない。



観光用の街並みをどんどん進むと、緑豊かな中山公園に突き当たる。
ここは周囲を高層マンションに囲まれて、そこの住民が集うのだろう。やたら地元民の割合が高い。そして、圧倒的におじいさん、おばあさんの姿が多い。そう、公園には高齢者ばかりが集っていた。もしかして野外老人ホームなのか?

ちょっと場違いな空気を感じながら、さらに中山公園を突っ切ると、大きな川が見える。寧波は市内を姚江、奉江、甬江の3つの川が流れ、その合流点は古くから国際貿易港として栄えてきた。特に日本との交流では大きな役割を果たした場所だ。

車で渋滞する解放橋を対岸へ渡り、川沿いの遊歩道を三江口までそぞろ歩く。
川面に大きな柳が影を落とし、対岸には高層ビルが夕方の太陽を浴びて光っている。遊歩道にはベンチやブロンズのオブジェが置かれて、小洒落た雰囲気の場所だ。なんだか中国ではないみたい。3つの川の合流点・三江口は、上海と同じく西洋列強に支配されていた頃の教会や風格のある洋館が残り、やはり外灘と呼ばれている。規模は小さいけど、公園風に整備されて、対岸は現代的な高層ビルなのも、上海に似ている。



だけど、大都市すぎて、いまだあちこちに再開発の手が行き届かない上海に比べて、寧波は徹底的に現代都市への再開発が行われ、残すべき古い街並みは中国伝統風に整備されて、街づくりがうまくいっているように感じた。なんだか人々にも余裕が感じられるのだ。

再び橋で対岸へ渡ると、ショッピングモールに囲まれた天一広場がある。ケンタッキーに入ってコーラを飲みつつ眺める石造りの広場も、やや小ぶりながら、センスがいい。日本で言えば、横浜や神戸のような港町独特の開放感や垢抜けた雰囲気がある。
寧波に到着した時は、1人旅の感傷に浸っていた私も、街なかを歩くごとに楽しい気分になっていった。
天一広場から市バスに乗ってホテルに戻り、夕食は寧波飯店のすぐ隣にある24時間の小吃店で雲南過橋米線を食べる。
明日は寧波の東海上に浮かぶ仏教聖地の島、普陀山への1日ツアーである。
出発時間が早いので、早々に床に入った。



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普陀山ツアー(2006年9月22日)


今日のツアーは朝6時出発なので、5時前に起きて着替え、隣の24時間店で朝食にする。
便利がいいホテルでよかった。15分前にロビーで待っていると、少し早くツアーのガイドさんがやってきた。
「普陀山ツアー?」
そうだ、と答えると、玄関先に止まったマイクロバスに乗せられる。
このバスでいくのかなあ。
しかし、数軒のホテルで客を拾ったあと、月湖公園を望む路上でみんな下車することになった。看板には「寧波中国青年旅行社」とある。ガイドさんは日程表と黄色いバッジを配り
「○○ツアーは○号車、△△ツアーは△号車」
と配車を告げてまわる。どうやら、ここ中国青年旅行社がツアーの発着地で、行き先ごとにツアー組みをするらしい。間違えたら全然違うところへ連れて行かれそうだ。デイパックを持って車外へ出ると、駐車場にはどこから集められたか、すでに黒山の人だかりができていた。
ひえー、ここから自分のツアーを探すのか。
やがて、次々に大きな観光バスが路上に並び、みんな一斉にバスに殺到する。まあ、ツアーバスなんだから、置いていかれることはないけれど、それでも必死になって日程表に書かれた号車番号と観光バスの番号を確かめた。

無事に普陀山1日ツアーの観光バスを見つけて乗車する。今日のガイドさんは若い兄ちゃんだった。
バスは朝まだ早い寧波の街を走り抜ける。やがて、街外れに建つ立派な輪渡中心・フェリーセンターへ到着、ここから島へ渡ると思いきや、ここは港ではなく、ただの切符売り場だった。まぎらわしいな。ターミナル構内は列車の駅のように船便ごとの改札があり、時間になるまで開かない。どう見ても、ここが乗船場でしょう。

今回のツアーに参加する人たちを見回す。仏教聖地へのツアーらしく、年配の人が多めか。若いカップルも2組いる。そのうちの1組は菜食主義の真面目な巡礼者だと後から分かった。首には大きな数珠を下げている。
そして、一番目立つのが、軍や警察の制服を着崩したおじいさんの5〜6人グループ。退職者の旅行だろうけど、ツアーの中で傍若無人な振る舞いを見せる。ここフェリーセンターでも煙草に火をつけて、服務員から禁煙だと追い出され、普陀山行きの改札と全然違う列に並んで、ガイドさんに連れ戻される。
中国では退職した軍人や警官に各種の優遇制度があるけれど、先払いしたツアー料金が割引になっていない!と窓口やガイドさん相手にやりあう、この後、老人たちはガイドさんの要注意グループになった。

さて、時間が来て、改札が開いた。高速船のチケットを切ってもらい、港へ行く専用のバスに乗り換える。さらに1時間近く寧波の郊外を走って、ようやく海辺のフェリー港へ到着した。泥色をした海には、高速船が止まっている。





普陀山というと山岳地帯のようだけど、実はここから船で約1時間、舟山列島に浮かぶ島である。高速船はザバザバと黄色い波しぶきを立てて東シナ海を突っ走った。船内には普陀山観光のVCDが流れている。

中国仏教の四大聖地のひとつで、小さな島ながら百を越える寺院と、千人を越える僧侶が暮らし、島全体が「海上仏国」と称される観音霊場なのだという。その全てを見て回るには、12日が必要である。
今日のツアーは主に島の南部を巡り、北部には行かないのだった。
瀬戸内海のように島影が多い海を走り、やがて緑の小さな島に接岸した。港には金色の文字で「普陀山」と書かれている。

高速船を下りて、まずは徒歩で島内ツアーが始まる。
寺の数が百を越えるだけあって、港の前にも小さな寺がある。線香や土産物を扱う商売っ気たっぷりの寺も多い。ツアーの半分が線香を買い、私は買わなかった。それから山手の道を巻くように歩いてゆく。
海軍施設をすぎて山登りがはじまり、石段をあえぎながら登ると、洞窟に観音像が祀られた「観音洞庵」、さらに本格的な山道になって、親亀子亀が仏の説法に耳を傾けているような「二亀聴法石」、島を見下ろす稜線に出ると、普陀山随一の奇岩と呼ばれる「磐陀石」や「説法台石」がある。
磐陀石は絶妙なバランスを保っている石で、今にも落ちてきそうだ。









島の稜線を遊歩道で辿る。
いくつかの山寺をすぎて、下へ降りてゆくと、有名な「心字石」がある。一枚岩に、5m×7mの大きさで「心」と刻まれている。しかし、誰が何の謂れで書いたのか、不明なのだそうだ。
ツアー前半は心字石で終わり、山を下りたレストランで円卓を囲む。このとき、先の若い巡礼カップルは別席で精進料理を食べていることから、熱心な仏教徒であることが分かった。別のツアー参加者が興味深そうに尋ねると、彼らは何やら願掛けをしていて、巡礼中は菜食で通すのだという。
例の老人グループは、彼らだけで別テーブルをあてがわれ、ビールだ、酒だ、と騒いでいる。
その他大勢グループの食卓は、一般の海鮮料理。この周辺の海はいい漁場で、普陀山では海鮮料理が有名だとガイドさんは言うが、はて、海上仏国で魚料理はいいのだろうか。

レストランからマイクロバスに乗って、このツアーのハイライト「普済禅寺」へ。
普陀山三大寺院では最も大きく、中国でも有数の仏教寺院で、黄色に塗られた壁や屋根は、もともと皇帝にしか許されていない黄色を特別に勅許されたもの。常に老若男女の捧げる線香の煙がたなびく境内は広く、楠の老木が生い茂って独特の落ち着きがある。9日間にわたる旅行中にほとんど会わなかった日本人ツアー客も、普済禅寺ではよく見かけた。









ところで、普陀山は実は日本と切っても切れない縁がある島。
それは、次にマイクロバスに乗ってやってきた「不肯去観音院」にある。
その昔、日本から遣唐使として中国に渡った僧侶が、帰国の際に五台山で観音像を求め、寧波の港から出航した時のこと。船が舟山列島に差し掛かると、やおら海が荒れて前へ進めなくなってしまった。観音様が日本へ行きたがらないのだ、と考えた僧侶は、とある島に船を止めて観音像を祀った。それが、仏教聖地・普陀山の始まりといわれる。
ということで、不肯去観音とは、「どうしたって行かない観音」の意味である。

駄々っ子のような名前だし、日本へ行きたがらない観音を観光するのもちょっと複雑な気持ちだ。
この辺りは島の南部にあたり、周囲に海が見晴らせる。海は黄土色でお世辞にもきれいとは言えないが、高台から望む海と島々の景色はなかなか素晴らしい。日本の仏教会が建てた修行道場もあった。ツアーの最後は歩いて南端に立つ「南海観音」へ。巨大な観音像が静かに海を見下ろしている。



そもそも普陀山の地名は、日本の熊野信仰にもあった「普陀洛信仰」から来ている。
それは、海の向こうにある理想の仏の国のことで、日本の熊野では東海が、ここ中国では南海が観音浄土だと考えられて、多くの僧侶たちが小船に身を任せて航海に旅立ち、そのまま帰って来なかったのだ。

マイクロバスで港へ戻る。フェリー港の売店には、仏教関係の本やCDが売ってあり、私は「癒しの音シリーズ」と銘打って、竹林や緑茶をイメージした音楽CDを買った。
おや、仏教歌手?何だこりゃ、妙におばさんな歌手に混じって、若そうな女の歌手がジャケットに載ったCDがある。買わなかったけど。そしたら、帰りの船では、VCDで仏教ポップスなるMTVが繰り返し流れていた。ドレスを着て出てきた歌手が、お寺の中で歌いまくる。
さすがだなあ、中国仏教界。

ちなみに、仏教ポップスではないけど、謝雨欣が歌って中国で大ヒットした「老公老公我愛NI」という歌の中にも「あなた、あなた、愛しています。阿弥陀仏もお守り下さいます」なんて歌詞が普通に出てくる。
あの、あなたは浄土真宗門徒ですか?







寧波の港に着いて、帰りは途中のフェリーセンターに寄らずに、一路、市内を目指す。
途中で夕方の渋滞にはまったりしながら、月湖の寧波中国青年旅行社に着いたのは夜になっていた。みんなここで観光バスを降りる。
ホテルが遠い客は送迎があるようだが、ガイドさんは私に、
「あなたは寧波飯店ですね、近いから歩いて行けますか」と言う。
いいですよ。散歩がてら、歩いて帰ります。すると、
「じゃあ、僕も歩いて帰るので、途中まで送りましょう」
あ、ありがとうございます。
ツアー中には、ガイドさんとは、会話らしい会話もしなかった。だけど、さすが旅行業の人だけあって、私がちょっと違うと気になっていたらしい。
「あなたは、どこの人ですか?」
私は日本人です。リーベンレン。
「どこ?」
分からないかな、アラ、サパニン。
「おお、日本人ですか!なんで寧波方言が話せるの?」
いや、なんとなく上海語と同じかな、と思って。
「コンニチハ、アリガト、ですね」
おお、ガイドさんも日本語離せるの?
「いや、ガイドの資格を取るときに勉強したけど、ちょっとだけだから、忘れちゃいました」
ホテルの近くまで送ってもらい、メールのアドレスを交換して分かれた。これも一期一会の出会いだ。そのまま繁華街にあるチェーン店の永和豆乳で排骨飯を食べ、ホテルに帰った。



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中国茶でまったり(2006年9月23日)


浙江省を離れて上海へ向かう日は、朝から小雨がぱらつくあいにくの天気だった。
ホテルから駅までは近いが、荷物が重い。特にいくつも月餅の袋を提げているので余計にかさばっている。通りに出てタクシーを拾い、寧波南駅へ。駅前のケンタッキーで葡萄牙蛋達を買って、車中の楽しみにする。

寧波南駅が起点の上海行きビジネス特急は、2階建てのなかなかモダンな列車だった。23年後には、さらに新幹線技術を導入した高速列車が走り、やがては杭州湾自体を跨いで、上海から直接橋が架かるのだそうだ。どこまで発展するのか、中国。





とはいえ、現在のところは上海まで所要時間5時間かかる。
紹興、杭州とつないで走る車窓には、江南地方の眠たくなるような平原が広がり、すごく暇である。買ってきたエッグタルトをほおばり、昼食に弁当を買う。ぎゅうぎゅうに押し詰められたごはんに、目玉焼きが乗っている。おかずから汁がごはんに沁みて、全体に茶色い弁当になっていた。もそもそと食べる。
「日本安倍新政権の分析」という見出しに惹かれて買った新聞を何度も読み返して、ふと、隣に座るおじさんが手にした本を見ると、「日本人に負けるな!」というタイトルだった。
おお、関わり合いにならないでおこう。
こうして昼過ぎに上海駅に到着した。今夜の宿は、上海駅近くのアパート街の一角にある古いホテル「河北飯店」だ。相変わらずどんよりした雲の下を歩いて行き、チェックインする。まだ時間は早いし、外へ出よう。

駅に戻って地下鉄で人民広場へ。そこから福州路をぶらぶらと散歩する。上海書城で立ち読みしつつ本を2,3冊選んだあと、久しぶりに中国茶でも買って帰ろうと、裏通りにある中国茶の店に入った。服務員が3人暇そうにしている。
「歓迎光臨、まず座って、お茶を試飲してください」
お客が入ってきたので、急にきびきびした動きになった服務員が、茶海に聞香杯やお猪口のような湯のみを並べ、急須にお湯をかけて茶葉を蒸らし、1杯目で淹れたお茶の香りを聞香杯で嗅がせてくれる、工夫茶を実演してくれた。
緑茶が欲しいのだけど、西湖龍井はありますか。
「龍井はこれです。香りが爽やかでしょう」
うん、美味しい。
「こちらの茶もどうですか」
次々に試飲の茶葉が出てくる。
「へえ、日本人ですか、この店には日本人がよく来ますけど、あなたみたいに中国語が上手な人は初めてですよ」
ありがとう、ところで、この店はまけてくれるの?
「ここは安売り店じゃありません。福建省に直営の茶園を持っているんですよ。烏龍茶はいかがですか」
うん、おいしい。みなさんは上海人ですか?
「いいえ、安徽省とか四川省とか、みんな地方出身です」
それじゃ、上海での生活も大変でしょう。上海人はプライドが高くて、田舎出身者を馬鹿にするっていいますもんね。ところで、お茶を買ったら、このお茶請けをくれますか?
「いいえ、だめですよ。まけられません」







次々にお茶を勧められながら、2時間も粘ったけど、結局この店で値引きは効かなかった。
上手だなあ。
お茶を買うのは高いけど、まあ、中国語でおしゃべりを楽しみながら、お腹がたぷんたぷんになるまで、色々なお茶を工夫茶の要領で試飲して、お茶請けまで試食したのだから、まあ、いいか。普通は茶館に行っても、こんなには和めないからなあ。それにしても、私が粘っている間には、他の客が誰も来なかった。あの服務員たち、私を暇つぶしの相手にするくらい、よほど暇なのか。

時間はもう夕方近くだ。南京東路から地下鉄に乗って、南京西路の静安寺駅で降りる。上海へ来たから、朱実先生にあいさつをしないと。
地下鉄駅から続きのスーパーで月餅を買い、人々が行き交う南京西路の表まで出てタクシーを拾おうとしたら、空車がちっとも来ない。しかたない、歩きながらタクシーかバスを探そう。結局、朱先生のマンションへ歩いて辿り着くまで、まったく捕まらなかった。

高級マンションのフロントで、朱先生の名前を告げて、エレベーターに乗る。朱実先生は相変わらずお元気そうで、私の来訪を歓迎してもらった。あの、これは月餅です。みなさんでどうぞ。お手伝いさんが作った料理を先生と囲む。
「青木君、遠慮せずに家に泊まっていけばいいのに」
はい、明日は朝早い飛行機なので、上海駅近くに泊まりたかったんです。久しぶりの話に花が咲いた。
さて、もう遅くなったし、タクシーで帰ります。



外は雨、幸いに時間がピークを過ぎているためか、すぐにタクシーを拾うことができた。
ホテルに帰り着き、エレベーターに乗ったら、服務員が「ちょっと待って!」と叫ぶ。
何だろう?
ドアを開けていると、段ボール箱を抱えたフロントの服務員が駆け込んできた。
「謝謝。このホテル、エレベーターが1機しかないでしょう。遅いのよ」
なんだかなあ、客を客と思っていないのか。このホテルは。だけど、ついおかしくなった。ついでに、エレベーターの中で、ビニールのゴミ袋がもらえないか聞いた。外は雨だから、明日、きっと月餅の紙袋が濡れてしまうだろう。
「え、いいわよ。後でフロントまで下りてきてね」
ざっくばらんだなあ。
10分ほどしてフロントまで行き、服務員から黒くて薄いごみ袋を大量にもらうことができた。
手荷物に全部ビニール袋を被せると、なんだか地方からぼろぼろの荷物を大量に抱えて出てきた人のような風情になったけど、しかたない。明日は日本へ帰るのだ。



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