中国旅行記 山東秋天(下)(2004年 山東省) 本文へジャンプ


孔子の町へ(2004年9月22日)


孔子の故郷・曲阜は泰安からバスで約1時間。トウモロコシ畑の中をバスが走る。
とある農村の一角、国道脇に立っていた男が手を振ってバスを止めた。しかし、車掌と途中乗車の男はドア付近ではげしく言い争い、どうやら乗せたくない雰囲気が伝わってきた。
何だろう、車内の他の乗客も不審そうに見守っている。
やがて、男を乗せて走り出したバスを後ろから黒いサンタナが追いかけてきた。
車掌が何か言い、路肩に寄せて止まったバスに、どやどやとサンタナの男たちが乱入し、抵抗する男を掴んで外へ引っ張り出そうとする。
ちょ、ちょっと何?事件か?
車掌が一言叫ぶと、男は諦めたのか、おとなしくバスの外へ出た。
国道脇でぼこぼこに殴られ、蹴られる途中乗車の男、ただならぬ殺気に車内の乗客は押し黙ったままだ。殴り殴られる男たちを置いて、バスは逃げるように走り始めた。何だったんだ。



「孔孟の郷、礼儀の邦」と称される孔子の故郷へ向かうのに、全然人間の礼節とはかけ離れた暴力沙汰を見てしまった。これも現代中国の現実なのか。
車内の乗客もひたすら我関せずと無関心を装い、車掌もどういった事情か、乗客への暴力を見てもとても冷たかった。この冷たさも中国の現実なのだろうか。

複雑な思いのまま曲阜の長途汽車站に到着。
さすが孔子の故郷だけあって、街角にも孔子像が立っている。
地図を見ながらに歩いてゆくと、かつての中国の都市そのままに、掘割と城壁に囲まれた曲阜の旧市街が現れた。孔子を祀る中国全土の孔子廟の総本山・孔廟と、孔子の子孫が王朝の手厚い保護の下で生活した孔府、孔子一族の墓が並ぶ孔林があり、世界文化遺産に指定されている。





その孔廟、儒教の総本山として、皇帝が住む宮殿以外では、泰安の道教聖地・岱廟とともに宮殿建築が許された数少ない場所である。
チケットを購入して門をくぐると、大勢の観光ガイドが待機していて、旅行者に群がってくる。
いや、いいです。私は外国人だし、中国語のガイドは結構。
それでもしつこく食い下がってくるので、20元だというガイド料をねぎってみた。
「10元しか払わないよ、それでもやる?」
なんとOKだという。結局、私が根負けしてしまった。













ガイドを頼むと、実に丁寧に説明してくれる。
もちろん、全部中国語だし、早口なので、詳しいことまでは分からないけれど、紀元前551年に生まれた孔子の生涯から、孔子に教えを頂いた魯国の哀公が孔子の没後に廟を開いたこと、孔子の居宅跡、教室跡、お手植えの桧から中国有数の碑文を集めた碑林まで、ずっと解説してくれた。
いや、ありがとう。実に勉強になりました。
なんだか20元をねぎってしまったのが心苦しくなってくる。

ガイドさんに10元を渡して別れ、次は孔子の一族が70数代にわたって暮らした孔府へ。
今度はチケット購入と同時に、もちろん20元で案内ガイドもお願いした。
ガイドさんは大学を卒業したばかりの女の子で、名前を孔さんという。孔子の子孫だそうだ。
曲阜の町には孔子の子孫が今でも多く住んでおり、孔姓を名乗っているのだとか。王朝時代に大切に保護された孔子の嫡子一族は、16ヘクタールの敷地に、436室の部屋を持つ大邸宅に住み、日々詩文や学問研究に励んでいた。
もちろん、儒教は男女を厳しく分けるので、女たちは孔府の後方にある屋敷に住み、男や客人が訪れる正面の屋敷とは狭い通路でしか行き来が許されなかったという。
孔子の一族にも不祥事を起こす子孫がいたようで、院内には牢獄まである。窮屈な生活だったろうなあ。
こうした孔子一族が食べた料理も名物として曲阜市内のレストランで供されている。
偉大なご先祖、孔子さまさまの町なのであった。









世界遺産に指定された場所は、さらにもうひとつ孔林があるけれど、市街から少し離れているし、墓地なので今回はパスして済南へ向かうことにする。
中国でも数少なくなった城壁に囲まれた町をぶらぶら歩いてバスターミナルへ向かう。
お土産屋やホテルなど、観光客向けの新しい建物も見られるけれど、どれも昔の街並みに合わせて、伝統的な外観で建てられている。なかなか散歩をしていて楽しい町だった。









バスで150km離れた山東省の省都・済南市へ向かう。
さっきの伝統的な街並みを見た目には、非常に現代的で斬新に映るガラス張りの済南長途汽車站に到着した。さっそく謝さんに電話しなきゃ。

「仕事がまだ上がれないので、先に予約してあるホテルまで行っててください。夕食は一緒に食べましょう」

そうか。私は荷物を持って外へ出た。
行列の出来ているタクシー乗り場を見て、躊躇していると、通りの向こうからやってきたタクシー運転手が私に話しかけてくる。どうやら、そのまま乗せてやる、と言っているようだ。
大丈夫かな?と一瞬考えたものの、今日は山登りに観光とハードスケジュールをこなしてきたため、私は相当疲れていた。まあ、いいか。
しかし、これが良くなかった。このタクシーの運転手はやたらしゃべる。
「あんた済南は初めてか?」
「どこから来たのか」
「ほう、外国人か。じゃあ日本人だろう」
「あんたの中国語は上手だな」

適当にあしらっていたものの、私が日本人だと分かったので、カモにできる、とでも思ったのだろう。途中から言っていることがおかしくなってきた。
「あんたはホテルは決めたかね」
「そのホテルは良くない。私がいいホテルを紹介してやるよ」
いや、だめだって。私の友人が予約して、あとで待ち合わせしているんだから。
「そんなのキャンセルすればいいじゃないか」

私が語気を強めて目的地に行くように言うと、
「分かったよ。ここがそのホテルだよ」
おい、全然違うじゃないか。横付けされた玄関の前で言い争うので、そこのドアマンが飛んでくる。
「どうされましたか?」
この運転手は私の言ったホテルと全然違う場所に連れてきたんだ。
「何をやっている。だめじゃないか!」
ドアマンに一喝された運転手はしぶしぶホテルの前を離れて、広場を半周し、向かいにあったホテルに到着した。
「さっき広場を半周したから5元くれ」
はあ、あんたのミスだろうが。誰が払うかい!

私は今まで中国のタクシーには何度も乗ったけれど、こんな不愉快な経験をさせられたのは済南で乗せられたこのタクシーが初めてだ。まったく気分が悪い。
まあ、気分を害してばかりはいられないので、ホテルに入ろう。
また、謝さんも済南の中心地に位置する高級ホテルを予約したもんだなあ。







玄関ロビーの豪華さにちょっとたじろぎながらチェックインした。
なんでも、謝さんが通訳を務める会社のコネで安くしてもらったらしい。確かに何十階もある高層ホテルの23階とかで、窓から済南市街が全て見下ろせるほど高いのに、部屋も広くてベッドもふかふか、バス、トイレと分かれたシャワー室はガラス張りなのに、青島の中級ホテルと値段が変わらなかった。ありがとう、謝さん。
その謝さんは仕事帰りにホテルへ寄ってくれた。3日ぶりの再会だ。賑やかな通りに面した火鍋店に入る。
「ごめんなさい。私がいないばっかりに、青木さんに不愉快な思いをさせましたね」
いいえ、大丈夫ですよ。
火鍋を囲みながら、泰山登山など、楽しかった山東旅行の話をしつつ、済南の夜はふけていった。


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泉城済南(2004年9月23日)


今日は地図を片手に、済南市内をぶらぶら散歩してみよう。
まず、歩いて勺突泉に向かう。
済南は黄河デルタの下流に位置し、市の北を黄河が流れている。その豊かな伏流水が泉となって各所で湧き出しており、その数72泉とも称されている。済南の別称を「泉城」と呼ぶ所以である。
中でも代表的な泉が広い公園になった「勺突泉」だ。

気候変動が激しい近年、黄河流域を含む中国北部では雨量が減少し、上流で工業・農業用水として大量に取水されることも災いしてか、黄河の水量は著しく減少しているという。下流では水が全然流れていない砂漠状の場所も現れ「黄河断流」として問題視されていることは、私も知っていた。
勺突泉を始めとする済南市内の泉も、ひどいときは涸れてしまうこともあるらしい。
しかしながら、ラッキーなことに、私が訪れた時は夏に多かった雨のために、市内各地の泉は滔々と、というよりごんごんと豊かな水を噴出しており、大変見ごたえがあった。いつまでもこの泉が涸れずにいてほしいと思う。







さて、勺突泉は中国の伝統的な公園のスタイル。
柳の緑に包まれた園内を、水辺に沿って散策するようになっている。
日本で水辺の柳の木というと、弱弱しいというか楚々とした感じで幽霊でも出そうだけど、中国の柳はなんというか生命力旺盛でたくさんの枝葉を水際ぎりぎりまで垂らし、豪快で力強い。
泉から流れ出した水は澄みきって、川底に繁茂する水草が一斉にそよぐ様子も涼しげだ。

思わず楽しくなって進んでいくと、大きな池状の泉があった。
周囲を古建築が取り囲む泉には「勺突泉」とある。
ここかあ。
確かに、泉の中央部分からごんごんと水が湧き上がり、躍動している。
自然の伏流水がこんな力強さで湧出しているのである。すごいなあ。宋の時代、跳躍奔突の意味で名づけられたというが、言いえて妙である。いつまで湧き出す水を見ていても飽きることがなかった。









勺突泉は水質も良く、お茶を点てるのに最適なようで、古人から称えられたという。
しかし、現代の済南では勺突泉ビールが有名である。労山の花崗岩で磨かれた名水を使った青島ビール、労山ビールも口当たりがまろやかだけど、済南には勺突泉ビールがあって、人々に愛飲されている。

公園内には勺突泉だけでなく、さまざまな場所に泉があって、それぞれ湧き出した水が池や川でつながり、それらを巡る遊歩道沿いには中華風の古建築が点在している。
豊かな水と緑に惹かれた文人墨客が競って泉の地に邸宅や別荘を建て、風光を愛でたのだという。
細部まで細かい装飾が施された、鮮やかだけど落ち着いた風格の古建築を眺めて歩くのも楽しい。だけど、古建築に見られる精密さに比べて、どうやら白雪姫らしいオブジェのやっつけ仕事ぶりは何なのだろう。



そして、澄み切った泉の中を泳ぎまわる巨大な生物・・・
こんな奴もかつてはいなかったに違いない。



勺突泉の北に隣接する黒龍潭公園に足を伸ばす。
九龍壁に龍がうねる公園内にも、澄みきった泉から滔々と豊かな水が流れ込んでいる。
今年は特に雨量豊富で、泉の水も多い、という話は本当なのだろう。黒龍潭公園の池は、あふれて水辺の東屋にまで浸入しているのだった。









さらに、勺突泉公園から流れる川に沿って北へと歩く、泉が流れ込むのは大明湖だ。
市街の北にあるこの湖は、やはり澄み切った湖水を湛えて中国の都市部に見られる水質の悪い池や湖とは全然違う。かつては今の倍もあったというが、やがて土砂が堆積して小さくなり、その平地に済南の町ができたのだという。
水辺の柳が陰を落とす湖畔には、観覧車が回る遊園地があって市民の憩いの場となり、遊覧船が湖に浮かぶ小さな島々を巡っている。

市内の高層ビル群を眺めながら、湖畔の遊歩道を歩く。
遊園地を過ぎると、大明湖畔にも古くから文人墨客が集った亭台や楼閣、湖に浮かぶ蓮の花に浄土を見る仏教寺院などがあり、なかなか雰囲気がよい。いくつかの楼閣は喫茶店やレストランにもなっている。ちょうど12時だし、私は高台の楼閣から大明湖を眺めながら昼食をとった。
もちろん、勺突泉ビールは忘れてはいない。









大明湖のはずれから市バスに乗って、市街の南にそびえる仏教聖地・千仏山へ。
千仏山の麓には山東省博物館があるけれど、今日はパス。ゆるやかな上りの参道を山に向かって歩く。
標識に従って、まずは萬仏洞へ。
おお、突然、森の中から金色に輝く大仏が現れた。どこかシルクロードを思わせる、巨大だけど稚拙な、どこか憎めない顔の大仏である。なんだかロボットみたいだ。







萬仏洞とはこの大仏ではなく、その地下に数百メートルに渡って延びる人工洞窟のことだった。
人気のない洞窟内部に恐る恐る入ってゆく。一つひとつ手で彫り出されたであろう石仏が、これでもか、これでもか、と薄暗い洞窟の中に続いている。さっきの大仏と合わせて、敦煌の岩窟をイメージしたのではないだろうか。ぼんやりした電燈に照らされながらも、鮮やかな彩色が施されており、やはりどこか西域っぽい雰囲気を醸し出している。
一番奥には巨大な阿弥陀如来像。肩からたすきをかけている。
「仏光普照、有求必応」だって。
なんだか、ご要望何でも承ります!とセールストークをしているようでおかしい。

萬仏洞を出たら、山上のお寺へ行く。
千仏山の見所は山上に広大な寺域を持つ興国寺であり、萬仏洞はまだ入口にすぎない。
ただし、朝から済南市内を歩き詰めで、もうくたくた、ここはリフトを使って山上へ上がろう。
興国寺の境内からは、眼下に広がる済南市街が一望できる。高層ビルがにょきにょき林立した都市風景、私は実際に済南に来るまで、ここがこんなに発展した都市だと思わなかった。
内陸にあっても、最近の中国の発展は目覚しいものがある、と実感する風景だ。













再びリフトで山の下へ降りる。
道路へ向かう参道には、先日の労山華厳寺と同じくさまざまな新しい仏教オブジェが並べられている。いま、中国仏教界ではこれが流行なのだろうか。

参道を出たところから、タクシーで市内に戻る。
まだ空は明るく、時間が早い。そこで、ホテルにも近い解放閣に行ってみた。
解放閣は掘割が巡る済南市の旧市街の城壁跡に建っている。1949年の人民解放軍による済南攻撃と、国民党からの解放を記念して作られた革命記念館だ。
楼閣の上にあがると、すさまじい突撃の様子が革命画独特のタッチで描かれ、革命戦士の像を中心に、済南市の発展の様子がパネルで開設されている。
だけど、革命記念館を見たってさほど面白いものではない。

市内を眺めるベランダに出てみると、ちょうど真下に旧市街と新市街を分ける掘割が伸び、そこにも黒虎泉という泉があって、ごんごんと水を噴出している様子が見える。あそこへ行ってみよう。
解放閣を下りて掘割に行ってみた。
やはり青々と茂る生命力の強そうな柳の木々が水面にまで垂れ、数百万都市を流れる掘割なのに、びっくりするほど透明で、川の底まで透けて見える。こんなにきれいな市中の川は日本にだってないだろう。
周囲は公園風に整備されていて、夕涼みを楽しむ市民が多い。
いい街だなあ、済南。













掘割沿いに散歩してホテルへ戻り、謝さんに電話をかける。
「ごめんなさい、今日はお客さんがあって夕食を一緒にできないんです。明日は時間を作ります」
あ、そうなの、ご苦労様。仕事じゃ仕方ないからね。
ホテルにいてもつまらないので、夜の市内散歩も兼ねて夕食に出かけた。
さっきの掘割を橋で渡り、大通りに向けて進んでいくと、夕暮れが迫る路地はずらりとリヤカーや簡易テントが並んで、夜市の準備に忙しい。
おや、こんな場所に夜市が立つんだ。さっそく、あとで寄ってみよう。
大通りに出て、牛肉麺のチェーン店・加州李先生牛肉麺で、どこがカリフォルニア風なのかよく分からない牛肉ラーメンを食べる。今回の旅では麺とか餃子とか、小麦粉系のものばかり食べているなあ。

現代風の高層ビルが並ぶ大通りをぶらぶらしたあと、さっきの夜市を冷やかした。
長さ300mくらいの路地に、4列の露店がずらりと並び、時計やCDや骨董品や100円ショップで売っていそうな生活小物など、どれも偽物ばっかりだろうけど、とにかく安い値段で売っている。
狭い通りなので向こうからやってくる人波とごんごんぶつかる。すりも多そうだから、財布に要注意だ。
活気にあふれる夜市は見ていて面白いけど、特別欲しいものもなく、ホテルの方向へと足を向けた。
ああ、まだ時間があるなあ。

そこで、ホテルの裏通りに見つけて気になっていた按摩店に行ってみる。
泰式按摩や韓式按摩の文字が大きく踊っているけど、あやしい場所ではなさそうだ。
ここ数日間はほとんど歩き詰めだったから、時間追加も含めて120分くらいじっくりと中国式のマッサージをやってもらう。
按摩師はまだ19歳の純情そうな女の子、湖南省出身だという。Tシャツの胸元からふくらみが見えるので、どこへ目をやっていいものやら。変に思われてもいやだしなあ。
「まだ按摩師になったばかりで、あまり上手じゃなくてすみません」
いいよ、力が強いから気持ちいいよ。
「前は広東省の東莞で工場に勤めていたんです」
ああ、広東省は世界の工場だっていうもんね。
「だけど、工場労働は待遇が悪くて仕事は辛いし、給料も安くて休みもないから、逃げたんです」
えっ、工場から逃げたの?
「それでここへ来て按摩師になったんですけど、故郷の両親はそのことを知りません」
済南にいることを言ってないの?
「中国では按摩師は恥ずかしい職業なんですよ」
でも、この店はいかがわしいサービスをする場所じゃないでしょう?真面目な按摩じゃないの?
「でも、親はきっと怒ります」
ところで、泰式按摩ってどういうもの?
「私は勉強中で下手ですよ」
いいですよ、じゃあ明日も来るから、練習だと思って泰式按摩をやってよ。
「はい、うれしいです。待っています」


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黄河を見に行く(2004年9月24日)


今日も済南は快晴、私には、ここへ来たなら見てみたい場所があった。
それは黄河だ。
春に長江をフェリーで渡ったときには、赤褐色の波がうねる海原のような長江を、タンカーが行き交う様子に驚き、さすが長江だと思ったものだ。また、夜に渡ったときには、満月の光に照らされた長江に感動したことを覚えている。
中国を代表する2大河川にして、黄河文明をはぐくんできた黄河をぜひこの目で確かめたかった。

市バスを長途汽車站で乗り継いで、黄河へ向かう。
郊外のショッピングセンターや、観覧車が回る済南動物園を車窓に見ながら、風景はだんだん田舎っぽくなってきた。やがて、高架道路の手前でバスが止まる。どうやらここが終点らしい。
運転手に聞くと、高架道路を通り越した向こうが黄河のようだ。
終点まで乗ってきた客は私1人だけ、周囲は埃っぽい荒地が広がっているばかりで、観光地らしい雰囲気は何もない。高架道路をくぐってまっすぐに歩いてゆき、突き当たった堤防に上がると、派手な装飾を施された中国風の碑坊が立っていた。
「黄河」
黄河をイメージした龍の壁もできている。おお、やっぱり観光地だったんだ。
公園風に整備された大きな堤防の上を進んでいくと、目の前に黄河が流れていた。

あれ?黄河って、こんなに小さかったの?
まあまあの川幅はあるから、決して小川ではないけれど、対岸は手に取るように近い。これくらいの川なら、日本にだってあるだろう。
赤褐色の水はさすがに黄河というだけはあるが、文明の源、とか、中国2大河川、とかイメージが大きく膨らんでいたから、現実ののどかな風景に、ちょっと興ざめてしまった。
これでは公園が整備されても、ほとんど客がいないはずだろう。









ただ、黄河が歴史上、幾たびも大洪水を引き起こし、龍と恐れられた暴れ川であることも確かで、雨のたびに変わる水位に合わせるためか、国道の橋は珍しい船橋になっている。舟を川幅いっぱいに何艘も並べて、その上に鉄板を渡して橋にしているのだ。
対岸へ渡るバスやトラックも鉄板の上をゴトゴト走って行く。面白いなあ。

現実の黄河を眺めても、あまり悠久の歴史ロマンに誘われそうもなかった。
そこで、公園内の砂彫り芸術展示とやらに足を向ける。黄河が上流の黄土高原から長い時間をかけて侵食し、削りだした砂は、粒子が非常に細かくてさらさらしている。この砂を利用した砂の像が並べられており、スケールや材質は違うけど札幌の雪祭りみたいだ。
黄河に堤防を築いて治水を行った伝説の舜帝や、仙人、仏像などの大きな像が十数体、黄河を見下ろしている。仙人が薬を作って壷から噴出している場面であろうか、火を焚きつける小僧の迷惑そうな表情もなかなかよい。
暇を持て余したレストランや売店、動くかどうか分からない遊覧船、ここでは客よりも服務員の方が多かった。まあ、いいや。私は黄河を後に済南市内へ戻ることにした。





再び市バスを乗り継いで市内へ戻る。
昨晩に散策した大通りを歩いた。ここは旧市街、かつて掘割と城壁に守られていたエリアだ。
ほぼ無人だった黄河の後では、市内の人ごみが新鮮にも映る。
表通りには現代的な高層ビルが建ち並び、広い歩道にもドリンクスタンドや、マクドナルドのアイスクリーム専用スタンドまであって、コジャレた感じだが、一歩路地に入ると、1930年代の時代物の中国映画に出てきそうな渋い街並みがあって、なかなかよい。
どうやら、観光地として注目されているようで、上海の新天地のように、古い建物がリニューアルされて、若い人向けの店になっていたりする。私はそうして復元された街並みの一角でお粥を食べた。







さて、そろそろ約束していた時間か。私は昨日の按摩店に出かけた。
フロントの服務員は私の顔を見てくすっと笑い、「こちらでお待ちください」と案内された部屋にも、他の按摩師や服務員が顔を出しては、くすくす笑っていく。
何だよ、気が悪いなあ。
やがて、昨日の按摩師がうれしそうにやってきた。
こんにちは、よろしく頼むよ。
部屋には、服務員がお茶を持ってきたり、果物を持ってきたり、ちょろちょろ覗きにやってくる。
そのたびに按摩師の女の子が真っ赤になって追い返す。なんだかくすぐったいなあ。肝心のタイ式マッサージは、按摩師の体重をかけて腕を伸ばしたり、屈伸したり。
うーん、やっぱり中国式の方がいいかなあ。
「そうですか、下手ですみません」
いいよ、いいよ。今日もたっぷりマッサージを受けた。

夕方、ホテルのロビーに仕事を終えた謝さんがやってきた。
さあ、夕食に行きましょうか。
山東料理のレストランは、青島と同じで、食材を選んで料理を作ってもらう。勺突泉ビールで乾杯しながら、
「青木さん、済南はどうでしたか。私が仕事で一緒に回れなくてごめんなさい」
いいえ、済南はきれいな、いい街でしたよ。黄河にも行ったしね。





レストランを出て、謝さんと夜の済南を散歩した。
大勢の市民が夕涼みを楽しむ市中心部の広場には、オブジェが青い光でライトアップされている。広場の地下にはショッピングモールがあって、夜遅くまで営業しているようだ。
「明日は空港まで送っていきます。ロビーで待っていてくださいね」
うん、ありがとう。山東の旅は楽しかったよ。
「ぜひまた来てください。その時は仕事の休みをとって付き合いますから」
そうだね。


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大連駆け巡り(2004年9月25日)


翌朝、休みをとった謝さんがホテルまで迎えに来てくれた。
謝さんの仕事の都合が合えば、一緒に済南も回れたのに、残念だったなあ。
タクシーで空港まで行き、別れを惜しむ。
「青木さん、もうすぐ中秋です。月餅を食べたら、山東を思い出してください」
月餅をもらって大連行きの南方航空に乗り込んだ。
さよなら山東、また来るよ。



さて、山東半島から遼東半島へ、渤海を飛び越えて1時間で大連に到着する。
飛行機の窓からも、海に面して高層ビルが林立する現代的な大連の街が見えている。
こうしてみると、済南も発展した都市だと思ったけど、大連の方がずっと垢抜けている感じがする。中国的都市と西欧的都市の違いといおうか、空から見ただけで違いが分かるのだ。

大連周水子空港から市内へは意外に近い。
タクシーで今日のホテル・大連飯店に向かう。国道沿いに見上げるような高層ビルがばんばん現れ、鉄道の線路を高架橋で越えると、賑やかな市中心部に入り込んでいく。この鮮やかな都市風景はちょっと感動的だ。
青島や済南にも高層ビルが並んでいたけど、雰囲気は異なる。
上海や香港の華やかさが大連にはあった。
大連飯店は古くからの市中心、ロシア時代や日本時代の風格ある洋風建築がぐるりと囲む中山広場ロータリーのすぐ近く。中国東北地方にいくつかある日本統治時代、満州国時代に作られたオールドホテルのひとつで、決してきれいではないが、部屋の高い天井や、木の調度品に歴史を感じる建物だ。

さあ、大連ですごす時間は半日しかないけれど、今日も歩いてこの街を満喫しよう。
中山広場ロータリーの南へ、ゆるい坂道を下りてゆく。この辺りは古い街並みがよく残っている場所だ。鉄道線路を高架橋で渡る付近には、日本の古い街でも走っていそうな路面電車がゴトゴト通り過ぎていく。
おお、急に中国らしくないメルヘンな通りが開けていた。
ロシア風情街、ロシア時代に整備されたヨーロッパ風の街角だ。
ロシアのとんがり屋根やたまねぎ屋根の洋館がずらりと並んで、どれもロシアの民芸品や軍用品を売るお土産屋として営業している。大連を代表する観光地は、まるでディズニーランドのようだった。













次に市バスに乗って労働公園へ。
大連市内を見下ろす丘の上へリフトに乗って上がる。
丘の上からは、大連のランドマークでもある巨大なサッカーボールを手前に、現代的な高層ビルを背景に据えた市街地の風景が広がっている。この風景を見るためにリフトに乗って大連テレビ塔に来たわけだけど・・・
うーん、テレビ塔には観光客の姿がない。寂れているなあ。

丘にそびえるテレビ塔からは、麓の労働公園までリフトで下りるか、スライダーで下りるか選ぶことができる。スライダーで滑り降りるのも楽しそうだけど、ヘルメットやサポーターを着けてソリに乗るのは腰が引ける。私は安全にリフトで公園まで戻ってきた。公園内には中秋節を祝うはりぼてがずらりと飾り付けられている。











次に、市バスで人民広場へ行く。
芝生が広がる大連市街では最大の広場で、日本統治時代に行政の中心地として整備されたところだ。
ファサードに余分な装飾を排した戦争直前独特の建築様式のビル群が人民広場を取り囲み、現在も大連市行政の中心になっている。だけど、日本統治時代を象徴する官僚的なビル群は、共産党統治の威圧感にもぴったりしている感じだ。

さて、急ぎ足の大連散歩、次はタクシーで南山日本風情街へ。
私も大連地図に小さく載っているのを見つけただけで、タクシーの運転手もどこのことやら知らなかった。南山付近の広場へ行って、通行人に聞いてみる。
ちょうど、スーパーの開店記念をやっており、派手なおばさんたちが扇子を持って踊りを踊っていた。
南山日本風情街は満州国時代に日本人が多く住んでいたエリアで、日本風住宅が並んでいた場所だという。ただし、日本風住宅は現在ではほとんど残っていない。
ここには、中国でよく見られる一見ヨーロッパ風の新興住宅が続いている。
それでも、ロシア風情街と同じように観光地化したいと考えている市当局は、住宅街に一休さん風小坊主のオブジェを作り、「日本風でしょ」と宣伝しつつ、日本土産を売る屋台を並べている。











ホテル近くの自助餐で夕食を済ませて、夜の労働公園へ行く。
昼間も賑やかだった労働公園には、中秋節の灯篭に灯が灯り、背景の高層ビルの明かりと相まって幻想的な夜景が広がっている。
私は9日間の中国旅行を思い返していた。


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