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日本での手続き

中国での結婚手続きを終えて、私は9月24日、先に日本へ帰ってきた。
YANを日本へ呼ぶためには、@まず日本でも婚姻届を出して書類を揃え、Aそれを入国管理局に提出して配偶者の在留資格をもらい、BそれをYANに送って中国の領事館でビザ手続きをしなければいけない。在留資格認定は審査の結果によって2ヶ月〜半年くらいかかるともいう、まだまだ道は遠いなあ。

週が明けてから、市役所の戸籍窓口に婚姻届を提出した。婚姻届自体は日本人と結婚する場合と変わらないが、私たちのはもう中国で結婚しているから、書類に「中国の方式による婚姻」と書かれ、書き方が少し異なる。それから、省政府でもらった結婚・出生・国籍の公証書とその日本語訳、赤い結婚証のコピー、YANのパスポートコピーを資料として出せば受理される。

1週間後に戸籍ができた。ただし、YANの国籍は中国なので、日本の戸籍には記載されない。私が筆頭者になった一人だけの戸籍が作られ、一番下に小さくYANと結婚してたことが書かれていた。
次に、公証書やパスポートのコピー、戸籍謄本を持って名古屋入国管理局岐阜支局に出向き、「日本人の配偶者」の在留資格認定を申請をする。現在は偽装結婚を防ぐために審査が非常に厳しくなっており、婚姻が成立しているからといって、簡単に日本での在留許可が認められるとは限らない。私たちが結婚するに至った経緯を申請書や質問書に詳しく書き、中国や日本で撮った2人の写真、あるいは両国の家族と写った全家福など、「恋愛結婚なんです」とアピールできる資料をつけた。
入国管理局の職員も「こんなに準備する人も珍しい」と言っていた。あとは審査を待つだけだ。

「日本人の配偶者等」と書かれた在留資格認定証明書が交付されたのは、11月の中旬頃。私たちの場合は約1ヶ月半で審査が通ったことになる。インターネットで調べた限りでは2ヶ月〜4ヶ月、さらには半年、といった期間を予想していただけに、早く交付されてほっとする。
国際結婚は全て手探り状態で、インターネットの情報に頼りながら自分で準備するため、ひとつひとつの段階をクリアするだけで、うれしい達成感があった。

さっそくEMSで中国のYANに書類を送り、延吉にある国際交流中心でビザ手続きをしてもらう。
在留資格認定証明書はビザ審査を簡略化するためのものなので、ビザ自体には問題もなく10日程度で交付されたようだ。このとき12月はじめ、長くて複雑な手続きはようやく一段落した。

あとは来日の予定を決めなくては。もうすぐ年末、いまなら2007年のうちに日本へ来ることができるがYANは何と思っているだろうか?春節を家族で過ごしてから来てもらった方がいいかなあ。
「私は少しでも早く老公のそばに行きたいな」
おお、かわいいことを言ってくれるなあ
新年を日本の我が家でスタートさせるために、クリスマス頃にYANを迎えに吉林省まで行くことにした。私の両親や兄弟も一緒に連れて行って、YANの家族に会わせたり、中国での結婚式に出席してもらいたいけれど、急に決めたことや、真冬の延辺が−20度にもなるため、「訪中団」は次回に組むことにした。
さあ、いよいよYANが日本にやってくる。

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姐姐たちの歓迎を受ける 12月22日

この日、富山空港から中国南方航空で大連を経由して延吉に降り立った。
富山空港や名古屋の中部国際空港から出発するのはだいたいお昼過ぎ、多少時間の変動はあるものの、夜8時頃には延吉へ到着するから、海外といえどもまだ近いうちだろう。日本国内だって北海道や九州の人と結婚すれば、実家との行き来に同じような時間がかかるだろうから。

相変わらず電気の薄暗い出迎えホールに着くと、YANが待っていてくれた。
「今日は延吉にホテルを取っています。姐姐たちが老公を歓迎したいって」
あの元気のいいお姉さま方かあ。ここは初日から酔いつぶされないように覚悟しないと。
空港の外は冬の延辺。空気が冷たくぴーんと張りつめて、顔がぴりぴりしてくる。今日は何度くらいなの?「ここ最近は暖かいよ。−12、3度くらいじゃないかな」
あ、そう。さすがに最近の寒さを聞いたとき、「地球温暖化で冬に眉毛が凍らなくなった」とか言ってのけるだけはある。寒さの基準が違うのだ。一方、もともと寒すぎる場所では家も完全断熱、古い家はオンドル、アパートは全館スチーム暖房が効いていて室内は20度に保たれている。
外が−20度の世界でも、家の中ではみんなTシャツくらいで過ごしているから、YANは日本へ来てから家の開放的な造りに、「寒い、寒い」を連発するようになった。MSNのテレビ電話で会話する延辺の友達も、YANがパソコンの前で厚着をしているのを見て、「日本はどれだけ寒いところなの!」と驚きを隠さなかった。

雪が少ない延辺地方だが、その寒さで道路が凍結して鏡のように光っている。そこをスタッドレスタイヤなんか知らない、通年同じタイヤを履きとおす中国のタクシーが結構なスピードで飛ばしていく。
おいおい、事故は大丈夫か?明日、図們までは高速道路を通らなくちゃいけないのに。

市中心の州際酒店が今夜の宿、ホテルのレストランに姐姐たちがお待ちかねだった。
チェックインして部屋に荷物を置き、レストランへ急ぐ。熱々の火鍋を囲んで乾杯が始まった。
「YAN、チンムー、結婚おめでとう!」
ありがとうございます。今夜は上の部屋で寝るだけなので、とことんお付き合いします。
と言いつつ、私はビールだけ飲むことにして、恐ろしい延吉の宴会に付き合ったけど、YANはビールの大ジョッキをうれしそうに空けている。飲んで、語って、食べて、中国延吉の大宴会は閉店時間まで続いた。
「じゃあね、日本へ着いたら連絡しなさいよ」
一次会だけで済んだ、とほっとしながら、姐姐たちを玄関まで見送ると、私の横でYANがぐったりしている。
おい、老婆、大丈夫か?
「うーん、今日はうれしくて飲みすぎたみたい・・・」
ぐったりしているYANを担いで部屋に戻り、私は長春での一夜を思い出しながら妻を介抱した。
「老公、ごめんねー、私うれしかったからねー」
分かっているよ。はやく寝なさいよ。
ところが、9月の結婚手続きのときと同じく、私も翌日の結婚式でぐでんぐでんになってYANから介抱を受けるはめになるとは、このときは思いもしなかった。

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中国の結婚式 12月23日

今日は中国での結婚式のため、YANと2人で図們へ帰る。
朝の延吉長途汽車站は空気が冷え込んで、バスの排気ガスと人いきれと茹でトウモロコシ屋台の湯気が混ざり合い、白いもやが漂っているかのようだ。寒さで耳がちぎれそうに痛い屋外に耐え切れず、高速バスに乗り込んだけど、エンジンがかかっておらず暖房もないので、結局外にいるのと変わらなかった。
時間になってようやくエンジンをかけ、バスは出発する。走り出しても全然暖房が効いてこないし、窓は吐く息で真っ白、運転手もフロントガラスをタオルで拭きながら視界を確保している。高速バスなのに・・・ここの人たちは家の中をガンガンに暖房する割りに、外ではどんなに寒くても平然としているから不思議だ。

図們火車站でタクシーを拾ってYANの実家へ。暖かい屋内に入ると、ほっとした。
好久不見、身体好ma?
「おお、よく来たね。延辺は寒いだろう?」
お父さん、お母さん、今日のために長春から駆けつけたお兄さんに歓迎を受けた。懐かしいけれど、今日はゆっくりする時間もないのだ。YANに預けておいたスーツを出してもらい、赤いパンツから、Tシャツ、Yシャツ、ネクタイまで、全てYANの家で新調してもらった衣服に着替える。中国では、結婚式のときに新郎が着る衣装は新婦の家で揃える習慣なのだとか。
ところで、靴下が異常に薄っぺらなのはいかがなものか。日本で売っている厚めの丈夫な靴下だって中国製のはずだけど、どこへ行ってもすぐに破れそうなちゃちなものしか見当たらない。
日本から持ってきた「発熱パッチ」を上下に着込み、ホッカイロも貼って私の準備はOK。YANは中国の新婦らしい赤いスーツに着替えて化粧をしている。
「老公、どお、似合う?」
う、うん、でも老婆よ、こんな派手な色のスーツ、結婚式以外で着ることがあるのか?

後から親戚と会場に来るお母さんを家において、4人で図們の町へ向かった。
市中心部の歩行街に面したレストラン「アリラン」が私たちの披露宴の会場になる。いくつもある宴会場では、スタッフが披露宴の会場設営に忙しそうだ。
「え、こんなにたくさん人が来るの?」
服務員に案内された部屋は豪華なステージが設けられ、100人以上のパーティが出来そうな大ホールだった。驚いていると、服務員は準備に忙しい円卓の間をずんずん通り抜けて、ホール脇の小部屋に入っていく。「こちらでございます」なんだ、こっちか。個室には円卓が3つ用意されているけど、問題は違うカップルの披露宴会場を抜けてこないと辿りつけないことだ。

今日の会場を確認したら、お兄さんに連れられて買出しに出かける。ん、買出し?
「結婚式に使うビールなんだ。60本買うからいくらになる?」
アリランを出て、向かいの食料品店に入り、ビールや白酒の値段交渉を始めるお兄さん。え、どうなっているの?そのまま私たちは別の店に向かい、そこでもビールや白酒の値段を確認する。
「よし、ビールはこの店、高麗村はあの店にしよう」
3、4店を回って一番安いところから仕入れを行った。お酒は店の人が会場へ届けてくれるという。
「あの、レストランに外から酒を持ち込んでいいの、怒られない?」
結婚式につきものだという袋入りの飴各種、おめでたい双喜柄のタバコのカートン、つまみのピーナツやひまわりの種などが入った買い物袋を抱えながらお兄さんに聞いた。
「料理を頼んでいるからいいんだよ。だって、レストランの酒は高いでしょ」
まあ、それはそうだけど。

アリランに戻ると、親戚やYANの同級生たちが三々五々集まってきた。
そのたびに「好久不見!」「おお、恭喜、恭喜〜」などと肩をたたかれてお祝いされる。YANにおじさんやおばさんを紹介されたけど、中国では親族の呼び方が父方と母方で違うので、関係がよく分からない。
「えーとね、老爺は母方のお婆さんの兄弟なの」
「ああ、私は父方のおじの・・・」
うーん、やっぱり分からない。
市内に暮らす同級生たちを連れてきたのは、YANの中学校時代の恩師だそうだ。そうそう、タバコをどうぞ。日本から持ってきたセブンスターや、さっき買った双喜タバコから1本づつ取り出して差し出す。
「謝謝、あなたも吸いなさい」
私にもタバコが差し出されるけど、吸わないので固辞したら、感心された。
「さすが外国人は禁煙なのかねー」

円卓は親戚、いとこ、YANの同級生で分かれ、宴会が始まるまでピーナツをつまんだり、飴をなめたりして雑談している。まだ全員集まってきていないが、服務員が料理を運んでくると、そのまま食事が始まった。
お父さんがグラスを持ってあいさつをする。かんぱーい。その後、私も今日集まってもらった親戚や同級生たちにお礼のあいさつをした。かんぱーい。
「何を飲むね」と聞かれてビールと答えたら、老爺から横槍が入った。「高麗村にしなさい」
見ると、親戚たちはみんな白酒の小さなグラスを持っている。延辺特産の酒で、アルコールは38度もある。まあ、乾杯くらいはいいか・・・くいっと空けて「杯を干しました」と逆さにして示すと、すかさず次を注がれた。あの、私はそろそろビールを・・・
「いいじゃないか、飲めるんだから」
わはは、と豪快に笑うおじさんに肩をばしばし叩かれながら乾杯を繰り返す。
「祝福・・・」
「為了健康・・・」
中国の乾杯は一対一なので、今日は多勢に無勢、なかなかつらいものがある。

親戚全員にあいさつして、乾杯して回った後、YANの同級生の円卓に移動した。
こっちは若いだけに次々に乾杯攻勢に遭って結構きつかった。
「日本での生活はどんな感じ?」
「月給はいくら?」
「ほお、人民元にするとどれくらいかな」
私の、日本の地方では一家に数台は自動車がある、という話を聞いて感嘆の声があがった。
「豊田好」
「いいや本田の方がいいよ」
「みんな車を持っているなんて、金持ちだなあ」
あの、日本は物価が高いから、生活はきついですよ。
「外国はいいなあ。日本でアルバイトしたいから紹介してよ」
あのね、日本は外国人の単純労働を受け入れていないから無理だよ。南美日僑、つまり日系人なら働けるけど、中国人は研修生しか認めていないから。
「中国人は出国が難しいからね」
恩師もそう説明している。
しまった、YANの家にカメラを忘れてきた。大きな披露宴なら、みんなカメラを持参して写真を撮りまくるところだろうけど、今日は親族だけの宴会なので、誰もカメラを持ってきていない。代わりに携帯電話でパシャパシャ写真を撮るのは日本と同じか。

いつの間にか、YANはお父さんの肩に頭をつけて目を潤ませている。
「YANをよろしく頼むよ・・・」
わかりました。妻を大切にして2人で幸せな家庭を作ります。
「YANをいじめたら、親戚みんなで日本へ押しかけてあんたを打つからな」
前に延吉の姐姐たちにも同じことを言われた。
安心してください。機会があったら、皆さん日本へ来て私たちの家庭を見てください・・・

ようやく、お開きになった。コートを羽織り、まだ宴たけなわの他人の披露宴会場を抜けて外へ出る。
「私らは先に家に行っているよ。あなたはゆっくりして来なさい」
私は家族や親戚と一旦別れて、YANや同級生たちと2次会へ向かった。足取りがふらついて、どこのカラオケボックスに来たのか分からない。
「老公、大丈夫?」
うーん、ちょっと飲みすぎたみたい。横になっているよ・・・
カラオケボックスのソファに横たわると、天井がぐるぐる回っている。結局ずっと高麗村だったからなあ。
「YANの老公の歌が聞きたいなあ」
同級生のリクエストで、YANに歌を入れてもらったけど、マイクを持って立ち上がった瞬間にふらふらっと倒れてしまった。
「老公、どうしたの?大丈夫?」

目が覚めると、私は真っ暗な部屋で、YANと並んでふとんを被っていた。
どうやってカラオケから帰ったのだろう。YANを突付いて聞いたところ、私が酔っ払って潰れてしまったので、みんな驚いた。それで数人で担いでタクシーに乗せ、家でふとんに寝かせて介抱したのだという。うわ言で「老婆、不好意思〜、没関係、没関係〜」と言っていたそうだけど、覚えていない。タクシーの中では揺れるたびにゴンゴンと頭をぶつけるので、とても心配したらしい。ああ、恥ずかしい・・・
隣の居間から明かりが漏れ、がやがやと賑やかな声が聞こえる。どうやら先に帰った親戚たちは、まだお酒を飲んでいるようだ。なんて酒豪ばかり揃った家なんだろう。
心配をかけたし、あいさつしないと失礼かな、と考えて酔った頭で居間へ這いずり出た。
「おや、大丈夫かい?まだ寝ていなさい」
お父さんに言われたけど、もう少しなら、おつきあいします。
「延辺の洗礼を受けたなあ」
親戚のおじさんに冗談を言われながら、席に加わった。
あの、私はしばらくお酒を見たくないので、オレンジジュースでお願いします。

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嫁ぐ日 12月24日

YANを連れて図們を離れる日が来た。
夕べは遅くまでお父さん、お兄さんや親戚のおじさんたちと語り合った。YANは生まれ育った中国から、日本へ嫁ぐ。頼れるのは夫である私しかいない、YANを大切にしなければ、という思いが沸いてくる。
この日の午前中、延辺の習慣でみんなで車座になって、わいわい雑談をしながら水餃子を包んだ。暖かい家族団らんの時間はYANにとっても思い出になるだろう。
「まだまだ修行が足りないねえ」
すみません、YANに老師になってもらいます。
「老公、私がびしびし教えてあげるからね」
老公に中国料理を教え込んで、と話すYANを見たお母さんは、
「チンムー、もしYANに至らないところがあれば、中国に電話しなさい。お母さんが叱ってやるから」
そんな、YANは私の自慢の嫁さんですよ・・・
言葉は違っても、家族の中で交わされる会話は日本と変わらない、というか、親孝行を大切にしたり、しつけに厳しいところは古き良き日本という感じさえする。
YANはいい家族に恵まれて、そして、私もいい家族や親戚が中国にできて本当によかった。

午後になって、YANの荷物をまとめ、頼んでいたミニバンで延吉へ向かう。
ミニバンとタクシーに分乗して親戚たちも空港まで送ってくれることになった。延吉の「全州ビビンバ」は私が延辺を離れるときには必ず夕食をとるレストランで、今回もみんなでビビンバや韓国風味噌汁、韓国家庭料理を囲んで名残を惜しむ。
「さあ、もうそろそろ空港へ行くか」
延吉空港に到着すると、大連便のチェックインが始まるまで、YANは家族の肩に顔を埋めていた。
「おーい、搭乗手続きが始まったよ」お兄さんが教えに来てくれた。
「YAN、旦那さんの言うことをよく聞いて仲良くするんだぞ。早く行きなさい・・・」
お父さんがYANを前にぐっと押し出した。
安全検査に向かうエスカレーターの下で、家族や親戚にお別れをする。
「日本の家族を連れて遊びに来なさいよ」
「体に気をつけて、元気でね」
ありがとうございました。YANは私が守ります。
見送ってくれる家族の姿が見えなくなると、目をうるうるさせたYANは、そっと私の肩に身を寄せた。老婆、大丈夫だからね、私を信じてね。抱きしめる手にぐっと力が入った。

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大連のクリスマス 12月25日

YANを日本へ連れて帰る途中、せっかくなので大連で1日を過ごすことにした。
ちょうど12月25日、クリスマスじゃないか。中国でも飛び切り垢抜けた大連のこと、きっと華やかなクリスマスイルミネーションが輝いているに違いない。
空港に到着したのは24日の深夜。タクシーで市中心に向かい、大連のへそにあたる中山広場を見下ろす博覧大酒店にチェックインした。もう時間は午前1時を回っている。ああ、疲れた、今日は早く休もうか。

翌朝、ゆっくり起き出して街へ出かけた。おだやかに晴れた大連は、ホッカイロを貼ったり、服の下にパッチを着込まなくても過ごせるほど暖かい。延辺の−15度という極寒の世界がうそのようだ。
ヨーロッパ風の建築がぐるりとロータリーを取り囲む中山広場を越えて、古い通りを歩く。おや、煎餅果子の屋台が出ている。前にYANと大連空港に下りたとき、わざわざ空港から出て買いに行った中国風のクレープだ。YANについて屋台の列に並ぶ。目玉焼きの上にソーセージを載せて炒め、小麦粉を溶いた生地でクレープを作ってくるくるっと巻いて出来上がり。胡椒味がくせになる。
朝食前に軽く食べてしまったけど、そのあとで「永和豆漿」でも中国風揚げパンの油条と豆乳、小龍包を頼んで中国らしい朝ごはんにした。海に向かって緩い坂道を下っていくと、路面電車の通りを越え、鉄道の跨線橋を越えて、大連一の観光スポット・ロシア風情街に出る。

19世紀後半、ロシア租借地だった時代に作られた街並みは、きれいに修復されて、まるでディズニーランドのようになっている。昼間は観光客で賑わう場所だけど、朝まだ早いせいかお土産を売る屋台がぼつぼつ店開きを始めたところだった。
さあ、観光してまわろうか・・・といっても、クリスマスらしい雰囲気はどこにも見当たらない。ロシア風情街なのに、教会風のとんがり屋根がにょきにょき生えた建築物が並んでいるのに、クリスマスツリーやサンタといった賑やかな飾り付けがないのである。立ち並ぶお土産屋は、あくまで1年中あるようなロシア製や韓国製の民芸品を、いつもと変わらず売っているだけだった。

暖かそうなショールを見つけて日本へのお土産にし、大連の中心街へ移動した。
巨大な大連火車站の南側に広がるのが、何層にも分かれて迷路のようになった地下商店街「勝利地下商場」、日本へ行く前に安い服を買っておきたい、ということでYANの買い物につきあってぐるぐる回った。
昼食をケンタッキーで済ませたら、今度は地上へ出る。庶民的な店がごちゃごちゃと並んだ地下街と打って変わってハイセンスなデパートが立ち並ぶ青泥街の歩行者天国をウィンドウショッピングして歩いた。
意外にも12月25日の大連にはクリスマスの雰囲気はない。さすがにデパートの中は多少それらしい飾り付けがあるものの、全体として浮かれていない感じがする。
まあ、春節までには時間があるし、年の瀬らしい雰囲気がないのは仕方がないにせよ、私が2002年に南昌市で見たお祭り騒ぎのクリスマスはどうなったのだろう。

ショッピングで疲れたので、いっぱいの買い物袋を提げてホテルに戻り、夕暮れまで休憩した。
暗くなってから再び繁華街の青泥街へ繰り出す。デパートやショッピングビルだけではなく、レストランも集中するエリアだけど、選択肢が多すぎて迷ってしまう。えい、ここにしよう。「四川風海鮮料理」辛い四川料理は2人とも好きだし、大連に来たなら海鮮を食べないとね・・・水槽から生きた食材を選んで調理してくれるシステムで、雰囲気も値段も高級だったけど、新婚の記念になった。

その後、生暖かい夜風に吹かれながら、勝利広場から中山広場に歩いていく。
中山広場は古いヨーロッパ風建築が一斉にライトアップされて、きらきらと輝いている。まるで中国ではないみたいだ。2人で肩を寄せ合って明日からの日本の生活を語り合った。
いよいよ日本だね。これからよろしくね。

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日本へ 12月26日

朝の大連空港出発ロビー、富山行きの搭乗手続きが始まるのを待っていると、大きな荷物をカートに載せた若い女性がちらほら見える。雰囲気からすると、あの人たちも国際結婚で日本へ渡るのだろう。
カウンター前の列に並んだとき、1人の女性が心細そうにYANに話しかけてきた。YANが「私もこれから日本へ嫁ぐ」と言うと、ほっとした表情になった。
「こちらの方は?」
私が中国語でYANの夫だと言い、中国に迎えに来たことを話すと、うらやましがられる。
「いい旦那さんですね」
いいえ、それほどでも・・・
「大変そうだから手伝ってあげて」YANに言われて女性の大きな荷物をカウンターに預けるのを手伝ったことから、彼女はずっと私たち夫婦についてくるようになった。

どこに行くんですか?
「シンシエシェンです」
ああ、新潟県ね。雪が多いところですよ。
「豪雪地帯だと聞いています。どんなところか着くまで分かりませんけど」
女性はハルビン出身で、旦那さんとはお見合いと結婚式の2回しか会っていないという。YANと私の出会いを聞かれて、「妹の紹介で、日本に3ヶ月滞在して結婚を決めた」、と言うと感心された。
「日本に着いたら、どうすればいいんですか?」
ああ、まずは住所のある市町村で外国人登録をするんですよ。そうしたら、外国人登録証のカードがもらえるから、それが身分証明書になります。あとは健康保険と年金に入ってね、日本は社会保障制度があるから、中国より安心して病院にかかれるからね。

「あなたは日本の名前はなんていうの?」
YANが「ない」、と答えると女性はちょっと驚いた。
「日本に行ったら、日本人の名前に変えるんじゃないの?」
いや、あのね、あくまで本名は中国名ですよ。ただ、日本風の名前があったら便利だと思えば、外国人登録証や保険証上で、通称名を登録できるんです。私はね、老婆の名前YANは日本語でも漢字の発音が似ているし、もともと国際結婚は夫婦別姓なんだから、本人が希望しなければ中国名でいいと思っています。
それに、中国で生まれ育った歴史があっての現在のYANでしょう。その人を好きになったんだから、その名前や歴史も大切にしたいんですよ。

「へえ、感動しました。いい老公に会えて幸せですね」
中国語をほめられた上に感動された。あなたも日本で幸せな家庭を作ってくださいね。YANと新潟県へ嫁ぐ女性はQQアドレスを交換しあって、搭乗ゲートからそれぞれに飛行機に乗り込んだ。
さあ、YAN、私たちも幸せな家庭を作るために、一緒にがんばろうね。

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