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延辺有縁

私がつれあいのYANと知り合ったのは2007年1月のこと。
それまで中国からの研修生に日本語を教えたり、中国の大学でにわか日本語教師の経験をしたりと、普通の人よりは中国に触れる機会も多かった私は、なんとなく頭の片隅で、どこかで中国人と知り合って結婚するのかなあと思っていた。
ただ、30代も後半に入ると焦りも出てくる。かといって最近よく聞く「お見合いツアー」に参加して中国へ行き、その場で相手を選んで、言葉も分からない者同士が結婚してしまう結婚斡旋所のやり方には個人的に疑問を抱いていたので、それはしたくなかった。

そんなころ、隣の市でばったり顔見知りの夫婦に出会った。
奥さんは中国人、山東省青島にある日系企業の駐在員をしていた旦那さんと結婚して来日した人で、中国人研修生や、「お見合い結婚」でやってきた中国人のお嫁さんたちの日本語教室でお会いしていた。
出産のためにしばらく姿を見なくなったと思ったら、この日、出会ったときは赤ちゃんを抱いていた。旦那さんとは日本語の勉強がきっかけで知り合ったというだけに、流暢な日本語を話す。
それまで、あまりプライベートな話題はしたことがなかったけど、ひょんなことから結婚の話になったとき、私はついつい「中国にいい人がいれば紹介してもらえませんか?」と頼んでいた。

ただ、つれあいに怒られるかもしれないけれど、私もそんなに期待していた訳ではなかった。
数日後、かかってきた電話に出ると、今では義妹になるあの奥さんだ。あやうく忘れかけていたところを思い出し、用件を聞くと、意外な言葉が返ってきた。
「私のお姉さん(親姐姐)は独身で彼氏もいません。よければ紹介しましょうか?」
なんと、私が何気なく言ったお願いを聞いて、中国にいるお姉さんに連絡を取り、紹介してもよいと承諾をもらってくれたのだった。

次の週末、教えてもらった奥さんの家に行って私の写真と中国語ワードで打ったプロフィールを渡す。
その日は旦那さんは仕事で不在ながら、お父さんがみえて、お嫁さんのお姉さんの話をしてくれた。彼女の写真は、妹の結婚式に出席するために、中国の家族が来日したときのものだ。
「雨が降ってきたとき、さっと傘を差しかけてくれたんだよ。年寄りを大事にしてくれる優しい子だよ」
青木さん、どうですか?奥さんに聞かれて私も答えた。
「はい、あなたのお姉さんなら、きっといい人に間違いないと思います。よろしくお願いします」

ところで、彼女の家は吉林省だと教えてもらった。え、青島じゃないの?
「私は青島に出て仕事をしていたんです。実家は吉林省図們市というところです。知ってますか?」
あの、北朝鮮との国境を流れる豆満江のところですか?脱北者が凍った川を渡って逃げてくるという、日曜日の朝のテレビをつけるとよくやっている・・・
「そうそう、さすがに青木さんは中国に詳しいですね」
うーむ、頭の中を重々しいBGMが流れ、寒々とした吹雪の荒野と凍てついた国境の情景が駆け巡った。
平穏な生活から、一気に国際政治の裏側で脱北者が息をひそめ、麻薬や贋金が密輸され、CIAや国家情報院や公安や人民軍といった諜報機関が暗躍するおどろおどろしい世界に関係を持ってしまうのだろうか?
まあ、そんなことは口に出せずに、メールアドレスと携帯の番号を教えてもらって、ちょっと複雑な気持ちで奥さんの家を後にしたのだった。

その数日後、私のパソコンに中国からのメールが届いていた。妹からメールで私の写真やプロフィールを送ってもらったといい、彼女のプロフィールが書かれていた。
いまになってYANは、「あのとき写真を見て、イケてないなあとがっかりしたよ」と言うけれど、そのときは何もそんなことを言っていなかった。私は、自分から先にメールしなかったことを詫びて、返事を打った。
失礼ながら、中国の辺境でパソコンを持っている人がいるとは思いもしなかったけれど、彼女はパソコンを使った仕事をしているといい、メールの文面にもユーモアがあって聡明な感じを受ける。
「ところで、あなたのパソコンではQQはできますか?」
私が以前も日本のパソコンからQQを試したけどだめだった、と答えると、しばらくして妹と旦那さんが私の家までわざわざQQダウンロードのために来てくれた。どうやら以前試したパソコンのときは、まだADSL回線でなかったのでできなかったらしい。そして、私の家まで来たのは、お姉さんのために、私の住んでいる環境を知りたかったからだろう。
そのときは、まだ私の家族は普通に友人が遊びに来たのだと思っていたけれど、妹夫婦は、うちの両親が妹夫婦の赤ちゃんをあやすのを見て、いい家族で安心した、と言って帰っていった。

QQでチャットをはじめると、もちろん相手と簡体字を打つスピードは比べられないけれど、リアルタイムでやりとりができるようになり、電話もよくかけるようになった。そうなると、早くメールに添付されてくる写真だけでなくて、実際に会ってみたくなった。私はゴールデンウィークに吉林省を訪ねてみようと、妹に相談した。
「それはいいですね。私も子どもを中国の家族に見せたいと思っていました。一緒に帰省しませんか」

その頃、近くで辺真一氏の東アジア情勢講演会が開かれた。コリアレポート編集長として、よくテレビでも見る朝鮮半島情勢の専門家である。なんてタイムリーな。氏によれば、人民にとっては不幸なことながら、現在は北朝鮮体制の崩壊とそれに伴う混乱を望む国は日米中韓どこにもなく、しばらく現状は続くだろう。
特に中国は国境の安定を第一に考える、とのこと。ちょっと安心した。
講演を聞きに行った話をYANにすると、大笑いされた。なんで?心配しているのに。
「図們はそんなおどろおどろしい場所じゃありませんよ。戦争が起きるなんて考えたこともないよ」
でも、北朝鮮が大混乱したら、私だってあなたや家族を助けに、動乱の地へ行かなきゃならないからね。
「私はニュースが好きじゃないし、政治はよく知りません。それより、安心して図們に来てくださいよ」

そんなこんなでゴールデンウィークが近づき、私は家族にYANのことを話した。もともと私が知り合いの中国人を連れて来ても、特に身構えることなく接してくれた家族だけに、その人がよければ、中国人であっても日本人であっても問題はない、いい人かどうか見て決めればよい、と言ってくれた。
そして、海外旅行の準備を整えて、5月3日、赤ちゃんを連れて里帰りする妹について吉林省へ向かった。

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はじめての出会い 5月3日

妹の旦那さんが運転する車で中部国際空港まで送ってもらった。
「妻と子どもをよろしくお願いします」と見送られて、赤ちゃんを背負うお母さんに代わって荷物を持つ。
昼に発つ中国南方航空、名古屋発瀋陽便は、ゴールデンウィークの真っ只中ながらがらがらに空いていた。こんな運行状況で大丈夫なのかな。それとも、企業が休みなのでビジネス客がいないせいなのだろうか。
ところどころにいる乗客は、妹と同じ中国からお嫁に来て里帰りする人のようで、お母さんと小さな子どもという組み合わせが多い。そして日本人は仕事で忙しいのだろうか、夫と一緒に、という人はまずいない。

2時間ほどで飛行機の窓から中国東北の大地が見えてきた。2004年に大連には行ったことがあるけれど、本格的な東北地方に足を踏み入れるのはこれが初めてだ。平原にはどこまでも土色に乾いた畑が広がり、ところどころに家が点在している。道路も鉄道線路もひたすらまっすぐに伸びているのが分かる。私が見慣れた中国江南地方とは明らかに違う風景だった。

やがて地面が近づき、瀋陽空港に着陸したものの、これからが長かった。
瀋陽から延辺朝鮮族自治州の州都・延吉までの国内線は夜8時発。空港での乗り継ぎ待ち時間が5時間以上もある。人民元に両替をして、帰りの飛行機のリコンファームを済ませると何もすることがなくなった。
空港ロビーの2階に肯徳基を見つけた私たちは、大きな荷物を行李寄存処に預け、ケンタッキーフライドチキンのソファー席に座った。ここなら這い這いする赤ちゃんを遊ばせておける。
よその奥さんと5時間も一緒に、という状況もなかなか無いものだが、今回はそんなことも言っていられない。コーラを飲み、夕食をとってひたすら時間の過ぎるのを待ったのだった。

ほとほと待ち疲れて乗り込んだ延吉行きの飛行機は1時間ほどで目的地へ到着した。時間はすでに9時半を回っている。空港ビル構内の薄暗い電気の下には寒々とした冷気が立ち込めて思わず首をすくめた。
はあっと吐く息が白く見える。
「やっぱり延辺は寒いですね。家族が迎えに来ているので急ぎましょう」
看板に漢字の表示と並んでハングル文字が同じ大きさで併記されているのが見えた。北朝鮮が近いことが分かる。それでこんなに陰鬱に見えるのかなあ。人の顔もよく見えないくらい暗いロビーには、また黒々と出迎えの人だかりができていた。その中から数人の人たちが荷物をつかみ、私の手をぐっと握り締めた。
「歓迎、歓迎、遠いところをよく来てくれたね。今日は娘の面倒を見てくれてありがとう」
お父さんだった。人ごみをかき分けて外へ出ると、お父さん、お母さん、お兄さんがいた。そしてYANは「こんにちは」と日本語で言ってくれた。私もあいさつをしたけれど、周囲が暗くてよく顔が分からない。
「とにかく車に乗りましょう」
訳がわからないまま、駐車場へ歩き、小型バンの面包車に荷物を積んで乗り込んだ。YANは私の後ろをついて歩いたけれど、車の一番後ろの席に座り、私は運転手の横の助手席に座らされたから、まだ顔がよく分からない。車の中で出迎えのお礼を言い、瀋陽空港の時間待ちが大変だったことを一生懸命話したけど、YANは言葉が少ない。
「なかなかかっこいいね」
お兄さんが言ってくれた。

車は街灯もほとんどない延吉市郊外の道を走り、高速道路に入った。夜だけあって、ほとんど交通量はないけれど、なんとまあ、こんな辺境にまで高速道路が延びているとは中国はすごい国だなあ。
空港から約40分ほど山間部を走って、ようやく町の明かりが見えてきた。人気がない夜の街に入り、よく分からない通りを抜けて、図們火車站のすぐ近くにあるホテルに到着した。ここを用意してくれたようだ。
「チェックインはもうしてあるから」と言ってキーを持ったYANに続いてホテルの部屋へ向かう。ここで初めてYANの顔が明かりの下で見えた。とはいえ、部屋に入ってもお互い緊張してぎこちない。
今日はありがとう、会えてよかったよ。
「疲れたでしょう。よく休んでください。また明日の朝迎えにきます」
初対面の場合、どうしたらよいのか分からないまま、YANもそそくさと帰っていった。ふうむ。

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国境の町 5月4日

朝、準備をしてロビーでYANを待った。一応ネクタイを締めてジャケットを羽織る。しばらくしてYANがスーツを着て現れた。夕べは空港や車の中が暗すぎて顔もよく見えなかったし、ばたばたしてろくに話もしなかった。
「ゆっくり休めましたか?」
はい、ありがとう。
案内してもらって朝食に出かけた。5月というのにまだ薄ら寒い図們市の中心街には同じような四角いビルが並んで、1階が店舗になっている。そのひとつの24時間営業のお粥屋に入った。小さな衝立で仕切られた店の中は、朝鮮式オンドルの床暖房が効いていて暖かい。ビニールクロスの床に、日本と同じように座布団を敷いて腰を落ち着かせると、ようやく会話を交わす余裕が出てきた。
1月に知り合ってから、今までメールやチャットや電話で話してきたことを2人で振り返る。
「青木さんは中国語ができる人でよかった。私は日本語ができないからどうしようか迷っていました」
まあ、私の中国語も馬馬虎虎なもので恥ずかしいけど。お互いに言葉を教えあう互相学習をしましょう。

図們市は北朝鮮と豆満江をはさんで向かい合う中国東端の国境の町。このあたりは吉林省の中でも朝鮮族が多い地域で、空港のある延吉市を中心に、延辺朝鮮族自治州になっている。図們市の人口約5万人のうち、朝鮮族は約6割を占めるという。YANは漢族だけど、延吉で勤めている会社の老板は朝鮮族だとか。
「普通話で『ご飯食べましたか?』は『吃飯了ma』って言うでしょう。でも朝鮮族はつい『飯吃了ma』って間違えるんですよ。おかしいでしょう?」
韓国語は日本語と文法が似ているっていうからね。前に南昌で知り合った朝鮮族の人は、東北の朝鮮族が通う中学校では英語の代わりに日本語を勉強するって言ってたよ。
「そうです。中国のことよく知ってますね」
夕べ会ったお父さんはドラマ「東北一家人」に出てくる「牛大爺」に似ているね、「あんたらの事は俺らの事、俺らの家はあんたらの家」っていう。
あっはっは、YANは爆笑した。「そうそう、私たち東北人は人情に厚くて親切なんですよ」
それから一気に打ち解けた。

「午前中は図們市の観光地を案内して、市場で買い物をします。昼に家に行ってご飯を食べましょう」
タクシーを拾って古いアパートが立ち並ぶ通りを「観光地」に向かった。そこは巨大な赤いコンクリートの門が建つ口岸、北朝鮮との国境だ。ここがあの有名な豆満江かあ。そういえば日本のテレビで北朝鮮特集をやるときによく見る場所だと気がついた。
ところが、国境の中国側にはぎりぎりまでアパートがひしめき、何の変哲もない住宅街が広がっている。国境の川沿いはきれいにカラータイルで舗装された遊歩道が続く公園で、中国版ゴールデンウィーク「五一長暇」だけあって多くの中国人観光客がつめかけ、お土産屋や記念撮影屋がずらりと店を並べていた。
「どこから来たの?韓国人?日本人?あっちが北朝鮮だよ。金正日の肖像画も見えるよ」
おばちゃんの熱心な売り込みに負けて、レンタルの双眼鏡を借りて豆満江の対岸を覗いてみる。銃を担いだ兵士の他に、思いのほか畑仕事や魚釣りをしている一般人らしい姿も多い。ただ、ほとんどの人はやることもなさげにぶらぶら歩いているだけのようだ。北朝鮮側の町・南陽には白いビルが立ち並んでいるが、本当に人が住んでいるのだろうか?生活臭が感じられない建物ばかりだ。
「ああ、あの人たちは皆監視の人たちです。魚釣りの格好をしながら見張っているんです」
へえ、そうなのか。また、後日延吉でYANの友人たちに国境を見てきた話をしたとき、南陽のビルは無人のはりぼてのようなものだと教えられた。
「北朝鮮は毎日中国側から観光客に見られているって知っているでしょう。北朝鮮だってビルぐらい建てられると見せるために、外側だけ作っているんですよ。その証拠にビルには窓ガラスが入っていないんです」
ふーん、そうなのか。

国境の観光地
YANの家族
近所の人と

中国側の山々は、オンドルで焚く薪を切ってしまうために日本の山に比べれば貧弱だけど、それでも萌え始めた雑木林の緑がまぶしい。しかし川の対岸にそびえる北朝鮮側の山はなんと言うか土色の斜面が広がっているばかりだ。食糧難で雑草の根っこまで掘り返して食べてしまったという話は本当なんだろう。
「2002年頃は毎日のように北朝鮮から逃げてきた人たちが物乞いをしていましたよ。警察に捕まって北朝鮮に引き渡されると、手に針金を通されて連行されるそうです」
うわあ、痛そうだなあ。
現在は北朝鮮の国境監視が厳しくなり、一般人が近づけなくなったのと、当初は逃げてきた同胞をかわいそうに思って匿っていた朝鮮族の人たちも相手をしなくなったために、脱北者はほとんどいなくなったという。
国境の門の先には道路橋、川の下流に鉄道橋が見える。一時期北朝鮮が図們市から程近い日本海の港湾都市・羅津と先鋒を経済開放するとかで、このあたりはロシア・中国・北朝鮮が接する「金三角」と呼ばれて投資ブームが起きた。しかし、北朝鮮の政治・経済状況が相変わらずで、現在ではほとんど物流がないらしい。そういえば、図們の街中にも建設中のまま放置されたビルが目立っていた。

そろそろ戻りましょう、YANに促されて遊歩道を引き返していくと、ふと大きな看板が目に留まった。
「中国共産党でなければ発展はない、調和社会の実現を」云々と書かれている。ふうむ、つまり、中国人観光客たちが北朝鮮を覗き見て「やっぱり貧乏たらしいなあ」と優越感に浸りつつ振り替えると、経済成長を引っ張ってきた中国共産党の看板が目に入るという仕掛けだろう。そこまでして「愛国・愛党精神」を盛り上げたいようだけど、少々えげつなくないか。
お土産屋に入ってみた。韓国の人形や携帯ストラップがずらりと並んでいる。ロシアも近いのでマトリョーシカ人形やロシア製チョコレートがある。北朝鮮の物産は切手やお札などが主で、工芸品はない、せいぜいタバコくらいか。将軍様の不自然なくらいにこやかな笑顔がなんともはや。
「(私の)お母さんや妹たちにお土産を選びましょう」
YANが私の家族のために、韓国の化粧鏡やストラップを選んでくれた。あ、私が払うよ。
「いいんです。私の家に来てくれたんですから、私からプレゼントします」
YANが選んでくれている間に、私は服務員に北朝鮮のバッジがないか尋ねてみた。何でそんなもの欲しがるの?と思われてもいやだから、YANに見つからないようにこっそり聞いてみる。服務員は思わせぶりにカウンターの下から赤いビロードの布を取り出した。布にはびっしり金日成や金正日のバッジが留められている。おお。
「多少銭?」
「20塊」
おや?日本円で300円なの?紛失すると命にも関わるというバッジにしては安いなあ。
「これは偽物ですよ。全部中国でお土産用に作られたものです」
商売っ気のある服務員が言う。おいおい、あの思わせぶりに取り出したのは何だったんだ。

タクシーを拾って市の中心へ戻った。頼まれた買い物があるというので私もYANにつきあう。
まずは市場へ。だだっ広い体育館のような建物の中に、ずらりと青果や肉類、雑貨の店が並んでいる。魚はバケツに入れられてまだ泳いでいる。「これ下さい」YANが鯉を指差していうと、魚屋のおっさんはバケツから鯉をつかんでまな板に載せ、大きな中華包丁でばんばん叩いて魚を絞めた。じゃりじゃりと鱗を取って中国らしいぺらぺらのビニール袋に入れてくれる。ワイルドだなあ。
妹の赤ちゃん用の雑貨などいくつか買い物を済ませてホテルに寄り、日本から持ってきたお土産を携えてタクシーに乗り込む。いよいよYANの家だ。

図們の町から外れて郊外に走る。教会のある集落を抜けた土道でタクシーが止まった。
「ここです。どうぞ」
外側をレンガの壁に囲まれた家はなんと言うのだろうか、四合院?中庭に畑があって建物が囲んでいる中国らしい造りの農家だ。ニイハオ、あいさつをしながら入っていくと、玄関の台所では昨日空港へ迎えに来てくれた家族が料理を作っている最中だった。
「ああ、ようこそ、ようこそ、こちらへ上がって待っていて」
一段高くなったオンドル部屋に靴を脱いで上がり、床に座るとお尻がほんわり暖かい。部屋には親戚のおじさんやおばさんたちが思い思い座っていて、おしゃべりに花を咲かせていた。
「みんな青木さんを見に来たんですよ」
えええ、緊張するなあ。
隅で正座していると「そんな座り方せずに楽にして」と言われて胡坐をかく。ああ、そうだ、お土産を渡さないと。荷物を開けてタバコを取り出した。カートンを開けて一箱づつ渡す。親戚のおじさんたちは喜んだが、肝心のお父さんとお兄さんはタバコを吸わないのだという。そうなのか、弱ったな。
「ありがとう。友人に日本製のタバコをあげれば、きっと喜ぶからね」
自分で吸わないタバコをもらってくれた。「一本吸いなさい」親戚から中国製のタバコが差し出されるが、私も吸わないので丁重にお断りした。
「そうかい、じゃあ酒は飲めるか?」
はい、酒ならなんとか。
「中国人と日本人では酒量が違うから、あまり飲ませてはだめよ」
YANがおじさんたちに言った。
「そうですよ、青木さんも気をつけてね。うちの旦那は中国の結婚式で飲まされて3日寝込みましたよ」
妹も注意してくれた。そうしているうち、部屋に2つ置かれたちゃぶ台の上には次々と美味しそうな料理が並べられていく。まだ全員が座らないうちから、さあ食べよう、とおじさんが言って白酒を開けた。

「あの、初めまして。私のあいさつを・・・」
お父さん、お父さん、こっち来なさい!おばさんが台所のお父さんを呼んで座らせた。この料理は昔調理師もしていたお父さんが私のために腕を振るったものだという。感激した。
「まあ、遠いところをよく来てくれたね。歓迎するよ。乾杯!」
私は最初は気をつけてビールにしていた。中国のなるいビールなら、何度乾杯しても大丈夫だろう。問われるままに日本の生活のことなどを話し、差し出されるコップと乾杯する。
「ああ、何だか外国人と話している気がしないね。中国語が通じる人でよかったよ」
初めて来たYANの家で、思いもよらず大歓迎され、話も盛り上がって嬉しかったけれど、隣にいたYANはいつの間にか女の人のちゃぶ台のほうに座って食べたり、話したりしている。2つあるちゃぶ台は男の席と女の席に分かれているのだ。
「さあ、白酒も試してみなさい」
勧められるままにビールから白酒へと乾杯の酒が変わっていく。
中国では、相手から杯をもらうと、お互い飲み干さなければいけないのだ。「為了健康・・・」「為了友誼・・・」いろいろな理由をつけて乾杯を迫られるので、いいほど飲んでしまった。
3時間ほども宴会が続き、お母さんたちが片づけを始めた。あ、私も手伝います。
「いい老公になるねえ」おばさんたちが笑っていう。
「日本人は大男人主義じゃないの?」
いまはそんな人はいないでしょう。旦那でも家事は手伝いますよ。
「うちの旦那もよく手伝ってくれますよ」と妹。

後片付けをして、果物が出されるころには、大酒飲みの親戚やお父さんたちは別室に入って眠ってしまった。ぐおーぐおーと大きないびきも聞こえてくる。
「青木さんも疲れたでしょう、こっちで昼寝していてください」
YANの部屋にふとんを敷いてくれたので、ごろんと横にならせてもらった。ああ、頭がぐるぐる回る。
目が覚めると、もう夕方近く。帰っていく親戚たちを見送ったあと、6時には町へ行くバスがなくなるとかで、家族みんなでミニバスに乗ってホテルまで行く。投宿している東関賓館の敷地内にある火鍋レストランで熱くて辛い重慶火鍋を囲んだ。どっと噴出す汗で酔いがぐんぐん引いていくのが分かる。
「今日はありがとうございました」 
また明日ね、YANと家族はタクシーで家に帰って行った。

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山盛りの多良の芽 5月5日

次の日は兄妹で揃って延吉の町へ買い物に連れて行ってくれることになった。
朝、YANがホテルまで私を迎えに来てくれて、昨日とは違うお粥屋で朝食をとる。YANのお兄さんと妹がミニバスで図們火車站まで来る間、町を散歩しながらいろいろ話をして時間をつぶした。
10時頃、もうそろそろ着くだろうと図們火車站の横にある長途汽車站へ向かうと、お兄さんと赤ちゃんを抱いた妹はもうバスターミナルの中にいた。お兄さんから延吉までの切符をもらい、次のバスに乗り込む。図們市から隣の延吉市までは10分おきに高速バスが出ているのだという。
バスは川を渡って市街地を離れ、背の低い雑木林に覆われた山間部に伸びる高速道路に入った。山一面に白い花をつけた木があって日本の風景みたいだが、あれは杏の花で桜ではないという。そういえば、町のあちこちにも杏の花が満開だった。
日本の花見みたいに、中国人も杏の花を見てピクニックするの?
「いいえ、中国には花見の習慣はありません。郊遊(ピクニック)は清明節のお墓参りにしますよ」
ふうん、日本ではお墓参りは春分にするけど、ピクニックはしない。日本と中国はちょっと似ているけど、違っているところもあって面白い。

やがて山間部を抜けると、北海道の富良野のような雄大な景色が広がった。どこまでもゆるやかな丘陵地がうねうねと続いて、ところどころに小さな家並みの集落が点在している。見渡す限りの丘が全部畑で、大豆かとうもろこしかじゃがいもを作っているのだろう。ちょうどこの辺りは緯度でいえば北海道にあたるところだ。
高速道路を下りて、丘陵地に囲まれた盆地にビル群が見え出したと思ったら、周囲はごちゃごちゃした中国の地方都市らしい町並みに囲まれ、バスは延吉の町へ入っていった。街の看板は全て漢字とハングル文字が併記され、チマチョゴリを着たモデルが微笑む看板もあって中国の他の地方とは雰囲気が違う。

「ここで下りて昼食にしましょう。おいしいレストランがありますよ」
お兄さんに声をかけられて、終点まで行かないうちに、大きな延辺大学医院のバス停でぞろぞろと降りる。
連れていかれたのは、中国東北料理のレストランだった。入り口に大きなショーケースが並んで、水槽には魚やえび、かにが泳いでいる。ここの食材から選んで料理を頼む中国独特のやり方だ。
よく分からないので選んでもらうと、みんなで顔をつき合わせてわいわい食材を物色しだした。
「あれと、これと、あ、そっちのも・・・」
あの、頼みすぎなんじゃないの?
「青木さんも何か頼んでよ」
うーん、あれ?この木の芽はもしかして山菜の多良の芽じゃないの?
「ああ、これは山に生えている芽ですよ。名前はなんて言ったかなあ。思い出せないけど」
そういって頼んでくれたのは、ショーケースに山盛りに盛られた多良の芽だった。「天ぷらにできるかな?」妹が服務員にかけあって日本料理の天ぷらの作り方を教えている。そして、個室に通された私たちの目の前に、頼んだ料理と共に、多良の芽の天ぷらが大皿に盛られてどーんと出てきた。おお、すごいなあ、こんなに出てくるとは思わなかった。
「天ぷらって韓国料理にもありますね。でも多良の芽の天ぷらは初めて食べたよ。おいしいなあ」
お兄さんが言った。物価が安いとはいえこれは驚きだ。日本で頼んだらものすごく高い山菜だよ。
「中国じゃ普通の山菜ですよ。じゃあ、たくさん買い付けて日本に輸出しようかな」
中国滞在中はすべてYANの家で費用を出してもてなしてくれた。いくら私が出そうとしても、これが中国流だからという理由でお金を使わせてくれない。このときも、お兄さんが奮発してたくさん頼みすぎたので、料理が食べきれなかった。まあ、お客に食べきれないほどのもてなしをするのも中国流だろうけど、どうするのかな。
「これ、お母さんにも食べさせてやりたいので、打包してもらいます」
お兄さんは服務員に頼んで、残った料理をビニール袋に包んでもらった。おお、健全だなあ。

レストランを出て、今日の目的地の中関村へ歩いていくことになった。中関村とは北京にある中国版シリコンバレーとも呼ばれるIT企業の集積地だが、延吉でもITショップが集まるエリアを中関村と呼んでいるらしい。東京の秋葉原、大阪の日本橋、名古屋の大須といった場所のようだ。
もちろん、中国辺境の地方都市だけあって、中関村という名前でも規模はあまり大きくないが、それでも5階建てのビルにパソコンの付属品や携帯電話を扱うショップがひしめきあう様子は壮観だ。お兄さんが安い携帯電話を探している間、中国移動通信の待合椅子に座って眺めていた。

次に私の家へのお土産を探すために、延吉最大の市場まで歩いた。
延吉の町は再開発の真っ最中でどこへ行っても工事をしている。あちこちに取り壊されて更地になった一角があり、道端にも工事資材が転がっていた。それはいいのだが、今日は砂埃が交じった強風が吹き荒れており、顔にぴしぴし当たって痛い。空気も悪くのどが痛くなりそうな環境だった。
私はいいとしても、赤ちゃんを抱いた妹がかわいそうだ。YANも心配して毛布で赤ちゃんを包んでやったりしているけど、空気の悪さに赤ちゃんがぐずり出した。これでは風邪を引いてしまわないかなあ。
図們よりも大きな延吉の市場には、ずらりと干し鱈やスルメといった乾物の店が並んで、中国語や韓国語で呼び込みをしている。私は赤ちゃんがぐずるのが心配で仕方ないけれど、YANは一生懸命私の家へのお土産を探し、たちまち大きなお土産の包みができてしまった。
「じゃあ、早く図們に帰りましょう」
そ、そうですね。
タクシーを拾って延吉の長途汽車站に向かい、図們行きの高速バスに乗り込むとほっとした。
「青木さん、大丈夫ですか?」
うん、大丈夫だけど、ちょっと空気が悪すぎたみたい。
図們に戻って食堂に入ったけど、私は食欲が出ない。YANは明日はゆっくり休んで、一緒に按摩に行きましょうと言ってくれた。

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恐怖の韓国あかすり 5月6日

昨日の延吉の砂埃にはまいったが、なんとか風邪は引かずにすんだようだ。今日は少し遅めにYANがホテルに迎えに来てくれた。
あなたは大丈夫なの、疲れてない?
「はい、私は普段は延吉で働いているから慣れています。今日は金水洞へ行きましょう」
はて、金水洞とは?鍾乳洞か何かを観光するのだろうか?
お粥屋で朝食を済ませて、自転車の後ろに幌付きの椅子を置いた輪タクで金水洞へ向かった。
図們市の一番の繁華街から、朝鮮族の中学校を横目に住宅街へ入ったところで輪タクが止まる。ここかあ、金水洞とは街中の銭湯の名前だった。ただし、ここは市内で一番いい銭湯で、韓国式健康ランドのようなところらしい。フロントに靴を預けてロッカーのキーをもらう。服務員の後ろには入浴料の他に、サウナやあかすりや足療、韓国式按摩、中国式按摩などの料金表が掲げられており、神秘室なるあやしい項目もある。私たちは韓国あかすりや総合按摩90分が入ったセットを頼んだ。これで88元は安い。

タオルとシャンプー、あかすりタオル、パジャマのような服とパンツをもらって更衣室に入る。
しまった、出る時間を決めていなかった。まあ、しかたないか。
ロッカーに鍵をかけて、お風呂へ行った。意外にも日本の銭湯そっくりの造りになっていて、なみなみとお湯を満たした大きな浴槽が3つと、寝湯、サウナがある。中国人は人前で裸になるのを嫌がるし、公共浴場もシャワーしかない場所が多いはずなのに、ここは韓国の影響なのか、ゆっくり風呂に浸かっている人も多い。
壁際に並んだシャワーで先に体を洗って、浴槽に手を入れてみた。あ、あっつー、思わず手を引っ込めるくらい熱い。こんな風呂誰が入れるのだろう?温度表示は50度近いから、江戸っ子だって無理だろう。
次の浴槽も熱いが、まあ入れないことはない。次の浴槽は38度、ぬるめが中国人好みなのか、みんなここに浸かっている。心なしか色が変わって見えるのは、お湯を替えていないせいか・・・ここはやめておこう。

ところで、例の韓国あかすりはどうやって頼めばいいのか。
一角にウレタンベッドが並んでいるから、あれがあかすりの場所なんだろうけど・・・
更衣室に首を出して、椅子に座っている服務員のおっさんに聞いた。服務員は私のキーの番号を見てうなづくと、風呂場に声をかける。すると、おもむろに腰を上げたのは、さっきから浴槽の縁に座っていた引退レスラーのようなおっさん。え、あの人は客じゃなかったの?
筋肉がごりごりしたおっさんの背中には、刺青ならぬ抜缶の跡が丸々と一面についており、これはこれで迫力があった。そんなおっさんは全裸のまま無言でウレタンベッドに薄いビニールを敷き、バケツでお湯をばっしゃーんとかけて、やはり無言で私にベッドに乗れ、と促す。おお、怖いー。
ベッドにうつぶせになって、前を向いた。あかすりタオルを渡すと、おっさんは私にバケツの湯をばっしゃーんとかけて、肩の方からごしごしこすり始める。しかし、手をあごの下に組んで顔を上げると目の前におっさんのナニが・・・以下省略・・・うーむ、怖くて目を開けていられない。痛いか?とか痒いか?とも聞かれず、ひたすら無言で全身をくまなくこすられる。くすぐったい場所をごしごしやられても、のどの奥から笑いがこみ上げるけど、やはり怖くて反応できない。
完全にまな板の鯉状態で恐怖とくすぐったさに耐えた韓国あかすりだった。でも、終わってみると、体が本当に軽くなった爽快な感じがする。おっさんは使用済みのあかすりタオルを要るか、とジェスチャーで示すが、わたしも要らないと手を振って返した。
おっさんはあかすりの仕事を終えると、ふたたび浴槽の縁に腰を下ろした。あの人は日がな一日、全裸で浴槽の縁に座って仕事をしているのだろうか?ふやけてしまいそうだ。

もうそろそろかな、体を拭いた後、更衣室でパジャマのようなシャツとパンツに着替えて、金水洞の2階に上がった。ここはほとんど真っ暗で、じっくり効いてくる低温サウナの神秘室や、マッサージ室などがある。眼鏡を外したので何がどうやら分からずに進んでいくと、ふいに人にぶつかった。
不好意思・・・
「青木さん?心配して探していたんですよ」 
おやYANだった。なんとまあ偶然な。2人で神秘室へ。銭湯でデートをするカップルもいて、暗い低温サウナの片隅でひっそりと抱き合っている。
「YAN」「はい・・・」
私たちも並んで横になり、いつの間にか少し汗ばんだ手を握り合っていた。
ああ、この人と結婚するんだな、火照ってくる頭の中で、このときはっきりと意識した。
その後マッサージ室でベッドを並べて90分も按摩を受けた。

金水洞を出て、輪タクで火車站へ戻り、ミニバスでYANの家へ行く。
今日は、YANのお兄さんが長春市へ帰る準備をしていた。晩8時発の夜行列車に乗るというので、私も見送りをすることしよう。YANの家で昼食後、お兄さんのために餃子作りが始まった。中国東北は餃子の本場で、どこの家庭でも手作り餃子を作るのはよく知られている。おめでたいとき、家族が帰ってきたり、出発するとき、何かあればみんなで一緒に餃子を包むのが慣わしだという。
YANとお母さんに教えてもらって一緒に餃子を包んだ。YANの家で作る定番餃子の餡は日本では珍しい卵とニラの炒め物、家庭料理らしさがあっていいなあ。私も餃子を包んだことは何度かあったけど、さすがにYANたちはスピードが違う。それに、私の包んだものは何だか恐竜みたいだ。
「あまりくっつく面を大きくすると、固くなってしまいますよ」
注意されながら包んでみるけど、やはり恐竜餃子になってしまう。なかなか難しいなあ。とてもかなわないよ。

先日は親戚が集まってきたけど、今日は私を見るのと、長春に帰るお兄さんに会うために近所の人が集まってきた。YANと家の外を散歩していると、たくさんの人が声をかけてきて、すっかり有名人になってしまった。
「隣の娘は日本へ留学して、今は通訳をしています。あの家の親戚も日本に住んでいます」
農村ながら日本へ行ったことがある人がやたら多い場所だなあ。
あっちの十字架がある教会の村は?
「ああ、あっちには朝鮮族が暮らしています。教会のある場所はたいてい朝鮮族の村ですね」
聞くと、朝鮮族は主に韓国へ出稼ぎに行く人が多く、海外流出によって今では延辺自治州の人口も漢族の割合が増えているのだという。韓国で外貨を貯めて戻ってきた人たちは延吉で投資をしたり、消費をするのでここは中国の辺境ながら消費水準は高い方なのだとか。
「韓国でお金を貯めて戻ってきた人たちは、使い果たすとまた韓国へ出稼ぎに行きますよ」

夕食に水餃子を食べた後、私とYANとお兄さんは町へ向かった。夜6時を過ぎるとミニバスは終わり、その代わりに深夜まで相乗りのタクシーがぐるぐる走っている。2、3台のタクシーを先客でいっぱいのために見送ったあと、やってきた空車に乗り込んだ。さっき見た教会で1人の客が相乗りして、火車站へ。
まだ改札までに時間があるけど、お兄さんは「早く帰って休んでください」とばかりに私たちを送り出す。名残惜しいながらも、駅の待合室でぎゅっと握手をして別れた。謝謝哥哥。
「あなたたちが幸せになるのを祈っていますよ。また来てください」

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延吉カラオケ大宴会 5月7日

今日はYANが1人暮らしをしながら仕事をしている延吉市で、彼女の友人を紹介してくれるという。
図們市は実家がある場所ながら、中学卒業後に町を離れて専門学校へ行ったり働いてきたYANにとって、延吉の方が友人が多いらしい。昨日までも街中で何人かの中学校の同級生と顔を合わせる度に、「一緒に食事へ行きましょう」と誘ってもらった。また次回にね・・・とかわしたけれど、中国では「ご飯食べましょう」があいさつみたいなものなのだろうか?まあ、割り勘が一般的でない中国では、誘った方が奢ることになるのだけど。ところで、今日は延吉の友人のなかでも大切な姐姐たちに招待されたのだ。

朝まだ早い高速バスで延吉へ向かう。
先日はどんよりした厚い雲の下で砂埃が強風に舞って難儀したが、今日はおだやかな快晴ですごしやすそうだ。延吉市に入って大きな通りでバスを下り、まずはYANの勤め先を訪ねた。
え、いきなり会社を訪ねるの?
彼女の仕事はタイピスト。パソコンの普及している日本では見かけないが、中国ではパソコンを持っていない人がワードやエクセルで文書を作りたいとき、原稿を持っていって打ち込んでもらう打字屋というお店がある。同時に機械を置いて写真の現像やコピーもできるようだ。
カウンターの後ろにはパソコンが数台並んでいて、2、3人の女性社員が文章を打ち込んでいる。奥のデスクにいる男性が老板だった。
「やあ、ようこそいらっしゃい」
朝鮮族の老板は笑顔で迎えてくれた。
「この人がYANの男朋友なの?」
女性社員がきゃあきゃあ言っている。いきなり職場訪問するとは思わなかったよ。YANは私を簡単に紹介したあと、彼女の休暇中におきた仕事の状況について女性社員と話し込んでいる。私は空いているパソコンの前に座り、出してもらったお湯を飲んだ。
「青木さん、暇でしょう?インターネットでもしていてください」
いや、仕事のパソコンでそんなことはできないでしょう。
老板がやってきて、長白山へ行きましたか?と聞いてきた。日本人が外国人に向かって「富士山を見ましたか?」と聞くような質問だろう。まだ行ったことがない、と答えると、老板は「残念だなあ」と言ってパソコンのファイルに保存されたデジカメの写真を見せてくれた。高山植物の写真がたくさん入っている。
「延吉へ来たなら、長白山へぜひ行ってみてください。今はまだ閉山中だけど、夏は素晴らしいよ」
はい、機会があったらぜひ行ってみたいですね。

ようやく彼女の用事が済んで、私たちは会社をあとにした。次はどこへ行くの?
「そうですね、最近できた大きな広場へ行ってみましょうか。きれいなところですよ」
通りでタクシーを拾って市のはずれにある金達莱広場へ行った。金達莱とはアザレアというツツジの一種で、延辺自治州の山にたくさん咲いていることから州の花になっている。ガラス張りの国際会議場やヨーロッパの宮殿風な政府庁舎が取り囲む広い敷地に、できたばかりの公園が広がっていた。
巨大なオブジェやまだ育っていない百花園などは見たけれど、市の中心から離れているために人出は少ない。あまり見るところもないので、もっとにぎやかな延吉公園に移動することにした。

延吉公園で
チマチョゴリを着る
朝鮮族みたい

市バスで延吉公園に行く。ここは延吉市の中心繁華街にも近い場所で、遊園地や動物園もあってたくさんの市民が散策を楽しんでいる。市内のビル群を望む小高い丘にも森が広がっていてそよ風が気持ちいい。
やっぱりこっちの方がいいなあ。展望台の東屋がある丘から斜面を降りていくと、遊園地に入り込んだ。面白そうだね、何かに乗ってみようか?少々老朽化してきしんだ音を立てるのが怖いけれど、ジェットコースターやバイキングや、飽きるまで何度乗っても同じ料金の観覧車で公園デートを楽しんだ。
「あ、私はあれを着てみたいです」
噴水の近くでYANが指差したのは、記念撮影用にハンガーに架けられたチマチョゴリ。朝鮮族の民族衣装だ。あなたは漢族じゃないの?
「漢族には民族衣装を着る習慣がないから、韓服に憧れているんですよ」
いわゆるチャイナドレスは旗包という満州族の衣装で、漢族には民族衣装がないという。
さっそくチマチョゴリを貸してもらい、私も男用の韓服を着て一緒に写真を撮ってもらう。なんだか結婚写真を撮るみたいだ。公園の貸衣装屋には、ブランコや花壇などの小道具もあってたくさん写真を撮った。
YAN、よく似合っているね。
「そうですか?本当の結婚写真のときも韓服にしましょうか」
「青木さん、そろそろ時間です。みんな待っているだろうから急ぎましょう」
お昼近くになったので、動物園を早足で抜けて大通りからタクシーを拾い、彼女の姐姐たちが待つレストランへ急いだ。

招待された場所も金達莱、中国各地にチェーン展開している東北料理のレストランだ。
ニイハオ、用意された個室に入っていくと、もうすでに何人かお姉さま方が待っておられた。少し遅れてYANの妹分になる友人もかけつける。図們で出会った中学時代の同級生とは違い、それなりの地位もありそうな人ばかりだ。
「初めまして、YANとお付き合いさせてもらっています・・・」
ちょっと緊張しながらあいさつすると、YANが姐姐たちを私に紹介してくれた。
「こちらが陳姐、こちらが梅姐、こちらが王妹・・・」
ちょっと、一度では覚えられないよ。どの姐姐も朋友というより、延吉で一人暮らしをしているYANの面倒を見てくれている人たちで、本当の姉妹のような付き合いをしているそうだ。何でも相談に乗ってもらっているほか、ときどき集まって食事をしたり、カラオケに行ったりしているらしい。
「遠くからよく来てくれました。私たちの妹が幸せになるのはとても嬉しいですよ。じゃあ乾杯」
しみじみと妹分の幸せをかみしめているかと思いきや、酒を飲みだしたら姐姐たちは豪快だった。
先日、YANの家に親戚が集まったときは女の人たちのテーブルが別だったり、女の人はお酒を飲まなかったりと、延辺は保守的な地方なのかなと思っていたけれど、女の人ばかりになるとそうでもない。次々に生ビールが運ばれ、日本では大ジョッキほどもあるビールが空になって部屋の片隅に積み上げられていく。
乾杯ができなければ好漢じゃないと姐姐たちに煽られて、私もぐいぐい生ビールを空けさせられる。
東北の人は酒が強いとは聞いていたけど、ここまで強いとは。私と、会社の老板だという陳姐の旦那さんは完全に姐姐たちに圧倒されていた。
「ちょっと、あなた、YANにひどいことをしたら、日本だろうとどこだろうと、私たちが乗り込んであなたをぶつからね。覚悟して結婚しなさいよ。幸せにしてやりなさいよ・・・」
は、はい、気をつけます。
いやあ、「漢」と書いて「おとこ」と読ませる義侠の世界だ。女の人たちだけど。

姐姐たちにご招待された
延辺式宴会
カラオケのあとで

昼食の締めに韓国冷麺を食べてお開きかと思いきや、まだ終わらなかった。
タクシーに分乗して姐姐たちと向かったのは大きなカラオケボックス。なんだか日本の二次会そのままだ。姐姐は部屋に入ると服務員に「まずビール」え、まだ飲むんですか?
「じゃあ二次会で乾杯」となって、コップに注がれたビールをぐいっと飲む。ぷはー、ちょっと酔ってきたかも。「ビールどうぞ」と姐姐のコップにビールをつぐと、「おお、日本流だねー」ときゃあきゃあ言って喜ばれた。中国では乾杯相手の杯にお酒をつぐことはあるけど、自分のコップに自分で飲みたいだけつぐのが一般的だ。
果物の盛り合わせやつまみ類が大きな籠に載ってどーんと出てきた。
「さあさあ、歌って、歌って」
促されて、私の知っている限りの中国語の歌をカラオケで歌った。「但願人長久」とか「老鼠愛大米」とか。周華健の曲で結婚ソングの定番、「明天我要嫁給ni了〜」と歌うとやんやの喝采を浴びる。
「デュエットしなさいよー」
YAN、どうする?ここはテレサテンの「時の流れに身を任せ」を私が日本語と彼女が中国語で歌って再びやんやの喝采を浴びた。
「じゃあ、次は日本語の歌を・・・」
リクエストが多いなあ。カラオケの曲名リストにはずらりと日本語曲が載っているが、さすがに姐姐たちも日本語の歌までは分からないのか、1つ歌ったら
「まあ、分からないからいいわ」
みんなが歌って盛り上がっている最中に、私は一人一人の姐姐のところを回って、私のYANへの気持ちや、YANがまだしばらく中国にいる間、彼女の相談に乗ってやってほしいと頼んだ。
「あなたの気持ちはよく分かるよ。私たちに任せなさい」
頼もしい姉御たちだ。

カラオケボックスを出るともう5時近い。
「じゃあ、晩ごはんを食べにいきましょう」
通りでタクシーを拾おうとする姐姐について行こうとすると、YANが私の腕を引っ張った。
「ちょっと、もうキリがないからやめましょう。図們に帰りますよ」
YANによれば、全て姐姐たちの奢りで招待されたので、どこまでも甘えるのは申し訳ないから、という以外にも理由があった。何より延辺の宴会の恐ろしさを私はまだ知らなかったのだ。一般的に中国では宴会の時間は決まっていて、その場だけでお開きになることが多い。
だけど、延辺は朝鮮族の習慣が影響してか、一次会の宴会が終わると、カラオケ等で二次会があり、今日のような昼の宴会なら三次会で夕食を食べ、また飲み、サウナへ行って酔いを醒まし、マッサージをするかまだ飲むか・・・とにかく延々と続くのだと言う。本日のお姉さま方は大変喜んで私を気に入ってくれたので、間違いなく午前様コースに突入するところだったとか。そうなると、確実に明日は一日ベッドでうなっていなければならなかったろう。
おそろしや、おそろしや。
私は帰国の準備もしなければならないし、とか理由をつけてその場を辞した。
ところで、その後、姐姐たちは家で旦那さんと喧嘩になったのだという。遅くまで酒を飲みすぎたのが原因ではない。そんな楽しそうな宴会に、なぜ俺を誘ってくれなかったんだ?ということらしい。
おそろしや、おそろしや。

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日本で会いましょう 5月8日

今日は図們滞在の最終日になる。
早朝いつものとおりホテルまでYANが迎えに来てくれて、お粥屋に食べに行くのも今日が最後だ。
朝食の後、ホテルの部屋で荷物をまとめてチェックアウトし、タクシーでYANの家に行った。今日は私の出発のために餃子を包んでくれる。餡はYAN家の味とでもいうのか、卵とニラの炒め物。先日とてもおいしかったので、また作って欲しいとお願いしていたのだった。
お父さん、お母さん、妹、そしてYAN、家族で車座になって餃子を包んでいると、なんだか本当にここの家族になったような気がしてきた。でも、私が包む餃子は相変わらずの恐竜餃子だけど。

餃子作り
餃子作り
延吉空港で

昼食はたくさん作った餃子を大鍋で煮て、水餃子にする。
そろそろ私とYANとで相談した今後の予定をことを、お父さんとお母さんに報告するときだ。
赤ちゃんを連れて里帰りした妹が6月末まで実家に滞在するので、その間に私は日本でYANの短期滞在ビザを申請しておく。妹が日本に帰るときに、YANも一緒に日本に来てもらい、3ヶ月間ほど私の家と妹の嫁ぎ先に滞在しながら、日本での生活を自分でよく見て、結婚するかどうか決めてもらう。
結婚する意志が固まれば、3ヶ月のビザが終わる9月でもいいし、12月くらいでも私が長期の休みがとれる時期に中国を訪問して、結婚の手続きをとる。そうすれば中国の春節が来る頃には日本での生活が始められるだろう。
お父さんとお母さんはうなずきながら「あなたたちで話し合ってよく決めなさい」と言ってくれた。

昼過ぎに頼んでいたミニバン面包車がやってきて、全員で延吉へ向かった。
延吉の韓国レストランで早めの夕食をとり、空港まで送ってもらう。空港ロビーで搭乗手続きが始まるのを待つ間、YANはずっと私の肩に顔を埋めながらぎゅっと手を握って離さなかった。
ああ、この人と結婚するんだなあ、そんな思いが強くなった。
「大丈夫だよ。すぐに会えるから。今度は日本で会いましょう」
待っているからね。YAN。

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