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朱實先生

2008年9月、中国に帰国されて6年になる朱實先生が、4年ぶりに日本を訪ねられた。
朱先生は私が所属する岐阜日中協会の顧問でもあり、長らく岐阜経済大学で教授を務められた。

朱先生を囲んで日中協会の歓迎会を開いたあと、お忙しいスケジュールを縫って我が家へお越しいただき、下呂温泉に入浴して、うちに泊まり、翌日は飛騨高山を散策された。

先生からいただいた俳句
「下呂の郷 日中友好の 燕来る」
は私の妻を詠んだもの。大切な夫婦の宝物になった。

朱先生は82歳。日中国交正常化交渉にあたって周恩来首相の信頼が厚く、田中角栄訪中の際、上海で周、田中会談の通訳を務めた方である。その後、司馬遼太郎の通訳として「街道を行く ビンの道」の中にも登場する。

朱先生は日本統治下の台湾で生まれ育った。
司馬遼太郎に「呼吸するように日本語を話す」と評された丁寧で教養あふれる日本語は植民地時代に身につけたものだ。当時の台湾には九州出身の教育熱心な教師が多く派遣されていたという。ただし、皇民化教育真っ盛りの時代、学校で一言でも台湾語を使うとひどく叱られ、首から札を下げて廊下に立たされた。それは朱先生をはじめ多くの台湾人に屈辱的な思いを味あわせたのだった。
大陸移民の子孫であるのに、漢文、漢詩をはじめとする中国文化でさえ日本語を通して接することしか許されないのも、もどかしかった。

そのもどかしさが朱先生を中国への憧れに向かわせ、戦後、台湾の中国復帰、国民党による学生運動弾圧という激動の中を大陸へ渡ったのだ。中華人民共和国の成立は生まれ故郷との断絶を招いたが、先生は上海に留まって関心のあった京劇や中国古典芸能の仕事に就いた。

朱先生に転機が訪れたのは文革の最中。
当時、日本との国交回復の道を模索していた中国首脳部は、台湾育ちで日本語が堪能な朱先生に通訳として白羽の矢を立てた。だが、皇民化教育に反感を抱いていた朱先生は相当悩み、苦しんだらしい。先生に通訳の仕事を決心させたのは、日本との戦争状態を早く終わらせ、平和で友好的な日中関係を築きたいと願う周恩来首相の熱意に押されたからだった。

そして日中国交正常化交渉。
田中内閣成立直後に日本を訪れた上海バレエ団は、民間文化使節の名目ながら日中国交の可能性を探るのが目的だった。朱先生の通訳の仕事は、バレエ公演の裏側で日本各界に働きかけて田中首相訪中を決意させること。1ヶ月に及ぶ根回しの末、ついに田中角栄と中国側代表、孫平化の会談が実現し、田中首相訪中と国交正常化に向けて時代を大きく動かすことに成功したのだ。

日中復交後、京劇の日本語訳、日本映画の中国語訳など翻訳の仕事に携わり日本に移り住んだ。私たち日中協会との関わりは、中国古典に詳しい岐阜市長の招きに応じて岐阜経済大学教授に就任したことで始まり、以来9年間をこの地で過ごされた。朱先生は中国関係の重鎮でありながら、気さくな人柄で私たちに接していただいた。また、国際結婚や仕事、留学で岐阜に住む中国人にとっても、非常に頼りになる存在だった。

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