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ちょっとした旅行団 4月24日

2008年12月に長女のYAMEIが生まれた。
中国の岳父もとても喜んでくれて、毎日パソコンの前に座り、MSNで孫の顔を眺めて嬉しそうだ。
どこかでYANのお父さんとお母さんに、YAMEIを見せに行かないとね。
そこで、子どもの首が据わった頃から、そろそろ「再入国許可」の取得など中国行きの準備を始めた。
YANにとっては、結婚後はじめての里帰りになるけれど、隣の市に住んでいる義妹も2人の子どもを連れて一緒に里帰りすることになった。
そして、まだYANの両親に直接会ったことがないうちの両親も、この機会に中国へ行ってあいさつがしたい、と言う。嫁さんたちの里帰りなら私が付き添わなくても、と思ったけど、もちろん親は中国語が分からない。
やっぱり私が添乗員にならければいけないの?
「孝順父母は当然でしょ、老公」

ゴールデンウィークは航空券も高いし、豚インフルエンザが知られる前は円高の影響もあって海外旅行人気が高かった。子連れの主婦2人や退職後の両親は自由時間があるからいいけど、私には仕事がある。
インターネットで格安航空券を検索しながら、「シーズンオフはこんなに安いのにね〜」とか言われても仕方ないじゃないの。なんとか有休を3日もらって、連休直前に旅行日程を組んだ。
こうして、大人5人と乳幼児3人というちょっとした旅行団のようになった。

2年前にはカーボン紙のような複写になった航空券をもらったけれど、今回はEチケットに変わっていた。
インターネット予約なら、パスポートを提示するだけで搭乗券が発券されるのだ。おお。ただ、中国の空港でいきなり「予約がありません」とか言われても困るだろうし、手元に何もないのは非常に心もとない。
メールで届いたお客様控えは最後まで手放せなかった。
そして、中部国際空港の中国南方航空カウンターでは、Eチケットのせいなのか混乱が発生した。
もともと飛行機に乗るには乳幼児でも費用がかかる。ただし、乳幼児には席がない。そこで、乳幼児の名前は親の搭乗券に併記されていたけれど、うちは国際結婚のため、子どもとその母親は姓が違う。そしてYANと義妹の姓は姉妹で同じ。つまり、うちの長女と義妹の2人の子どもは、どっちがどっちの子どもになるのか区別がつかないのだった。
そんなの飛行機に乗ってしまえば同じじゃないの、とも思ったけど、混み合うカウンターで「あれ、間違えた」とか「発券し直します」とか延々時間がかかってしまった。そして、出国審査を終えてまさに搭乗する時間になってまで、南方航空職員がとんできて、「すみません、もう一回発券します」 あーあ。

飛行機に乗ると、YAMEIはすっかり眠ってしまった。長女より半年早く生まれた姪っ子と、2歳の甥っ子は、気圧が急激に変わるのが嫌なのか、ぐずり出すのをうちの両親があやす。
「よかった、私だけでは2人も子どもを連れて来れないです」義妹がしみじみ言った。
2歳の甥っ子が背負っているリュックには、人ごみでどこかへ行ってしまわないようにリードがついている。
よほど奇異な光景に見えるのか、中国では空港でも通りすがりの人たちから大注目を浴びていた。こうして大連空港に到着、入国審査を終えて延吉行きの国内線に乗り換える。
その待ち時間は3時間、少しもじっとしていない子どもを抱いて空港ロビーにいるのは、つらいものがある。
あそこにカフェがあるよ、コーヒー飲んで待とうか。
空港ホテルへの通路に設けられた喫茶コーナーに行ってソファに座った。
「服務員、コーヒーはいくらなの?」
「1杯50元です」
なに?50元!日本円で750円としても破格な値段だ。ぼったくっているなあ。
結局、ポットで紅茶をもらったけど、大連空港の喫茶コーナーは高い。同じ大連市内なら、50元あればそこそこのレストランで、大人3人が夕食にビールを頼んでお腹一杯になるのだ。

大連を夕方5時発の延吉行きは現在直行便ではなく、瀋陽経由なので結局国際線と同じくらい時間がかかってしまう。国内線の機内でもホイルに包んだホットドッグという簡単な夕食が出た。
あれ?なんで一個余っているの? 
「ああ、YAMEIにも出るんだって」
あはは、まだお乳しか飲めないのに?じゃあ、それちょうだい。
「YAMEIに聞いてね」 
ありがとうね、YAMEI。

ぐっと冷え込んだ延吉空港ロビーで図們のお父さん、お母さん、お兄さんに迎えられた。
「よく来たね。子どもたちに風邪をひかせるといけないから・・・」
手に抱えた毛布を子どもに被せてくれる。外は雨降り、荷物を持って駐車場へ急ぎ、義妹が同級生に頼んでチャーターしたミニバンに積み込むと、もう人が乗れなくなってしまった。あれ、どうしよう。
岳父が携帯電話に向かって怒っている。どうしたの?
「もう1台車を頼んだのに、まだ来ないんだって」
よくよく話を聞いてみると、空港に到着したタクシーの運転手から連絡があったのに岳父は気づかなかった。それで別の客を拾って帰ってしまったらしい。仕方がないので、タクシー会社に電話して別の車を回してもらい、私の両親、義妹、子どもたちはミニバンで先に図們市に向かわせた。
岳父と私、YANは空港でタクシーを待つことにした。
あれがそうかな?
「違うよ、あれは延吉の車」
あれは?
「あれは汪清県の車」
どうして分かるの?
「タクシーの屋根に乗っている表示板の色で地区が分かるよ。図們のタクシーは緑色だからね」

30分ほど待って、ようやく頼んだタクシーがやってきた。
「とにかく急いで!」
雨の高速道路をタクシーがかっ飛ばしていく。図們市に入り、火車站前に建つホテル萬山大厦に着くと・・・おや、あれはさっきのミニバンじゃないの?偶然にも到着したのは同じタイミングだった。おかしいなあ。
義妹が笑って言う。
「あのミニバンの運転手は同級生の旦那さんなんです。だけど、つい先週買ったばかりの自慢の新車だから、運転がもう慎重で、慎重で・・・」

家族と義妹たちに分かれ、私とYAN、YAMEI、両親で2部屋をとった。ところが、図們市内で初めて泊まった萬山大厦はがらんとしていて、他に客がいるような雰囲気がない。2階のレストランは閉まっており、エレベーターは「修理中」の張り紙がしてある。わざと止めたんじゃないの?一方、各フロアには服務員が常駐して、部屋の出入りを見張っている。昔の中国式ホテルだ。
おや、おかしいなあ、お湯が出ないぞ。隣の両親の部屋でもやはり冷たい水しか出てこない。フロアの端にある服務員の部屋に行って訴えると、
「このホテルは7時から10時までしかお湯が出ません」
YANが申し訳なさそうに言う。
「老公、ごめんね。ここは新しいホテルだけど、こんなに寂れているとは知らなかったの」
YANと隣の部屋に行き、「別のホテルへ移ろうか」と両親に聞くと、
「泊まれさえすればいいから、大丈夫」
と言ってくれた。まあいいや、お風呂なら明日の朝、金水洞へ行けばいいから。

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爺爺ニイハオ 4月25日

目が覚めて、ふと、ポットのお湯を飲み残したコップを見た。湯冷ましが半分残ったコップの底には、細かい砂が沈殿している。夕べのシャワーが濁り水だったのは織り込み済みだけど、飲み水までこうか。
今日も外は小雨が降り続いている。YAMEIが風邪を引かないようにショールを被せておんぶし、朝食をとりにタクシーに乗り込んだ。市中心の歩行街にある24時間営業のお粥屋に入る。朝鮮族式のオンドル部屋で、日本と同じように靴を脱いで上がり床に座ると、お尻がほんのり温かい。
「初めて中国で食べる朝食はどうですか」
YANが尋ねる。うちの両親も淡白なお粥は気に入ったようだ。

ツアーと違って時間だけはあるので、ゆっくりくつろいだあと、韓国式健康ランドの金水洞まで歩く。
入浴料、タオルセット、あかすり、神秘室、60分の按摩がセットになった套票を買い、父親を案内して男湯に入った。早朝なので、まだお客は少ない。熱いお湯に浸かると思わず「ふ〜」と声が出る。
金水洞の名物?レスラーのような全裸のおっさんに、無言のままゴシゴシ擦られる韓国あかすりもやった。
うーん、前ほど緊張しないけど、やはり目の前にぶらぶらされてあかすりされるのは、変な感じだ。

パジャマに着替えて2階の低温サウナ・神秘室に行く。あれ、YANたちはまだか。
そこで、先に父親とマッサージを受けていると、突然、下の階から赤ちゃんの泣き声が響いてきた。
「どこの子どもかね。大声で泣いているね」
と話す按摩師に、あれは私の女児なんだと説明して、女湯を見てきてもらう。
「奥さんはもう帰ると言っているよ」
そうか。まだ40分ほどマッサージの時間が残っているけど、途中で切り上げて父親とお風呂を出た。ロビーで待っていると、YANが長女を抱いて出てくる。どうしたの?
どうやら、お風呂好きなYAMEIは、最初は機嫌よく入浴していた。だけど、中国の人たちは子ども好き。他のお客や服務員が赤ちゃんの周りに集まってきて「可愛い、可愛い」とワイワイやったらしい。YAMEIは言葉が分からないなりにも、生まれてから聞きなれた日本語と違う中国語の響きを耳にして怖くなったようだ。
うちの母親はマッサージを受けているので、ロビーでYAMEIをおんぶして待った。
愛想の悪い金水洞の服務員たちも、赤ちゃんを見ると相好を崩してあやしてくれる。YAMEIもお風呂の中でなければ、おばさんたちに構ってもらうのはまんざらでもないらしい。

母親が出てきたので、タクシーを拾ってYANの老家に向かう。門をくぐって中庭に面したドアを開けると、台所ではかまどに架けられた大きな鍋から湯気が上がり、お母さんや親戚のおばさんたちが料理に忙しそうだ。
「ニイハオ、久しぶりに帰ってきました・・・」
「あいやー、よく来たねー」
「今日は雨が降っているから寒いだろう」
「やー、この子がYAMEIかい。まるまる肥えて、可愛いねー」
わいわい歓迎を受けて、オンドルの部屋に上がらせてもらう。そこには老爺をはじめ、市内に住む親戚たちが集まっていた。
「まず、日本の生活を見てください。説明するよりビデオがいいかと思って・・・」
YANがテレビにビデオカメラを接続すると、うちの中が映った。YAN、いつの間に撮ったの?
「ほお、日本は住宅も整然としていて、きれいだなあ」
親戚たちが感嘆している。いやあ、それほどでも。
「チンムーの家はすごいな、金持ちか?」
農村の一般的な家ですよ。
「中国では、家の周りに花を植えるような家は金持ちしかないぞ」
そういえば、9月に来たときは道端に花でなく、白菜が植えられていた。

ちゃぶ台だけでは足りないので、もうひとつちゃぶ台を出してきて、さらに、ちゃぶ台の上にコタツのような天板を載せると、大勢が宴会を開けるテーブルができた。おお、生活の知恵だなあ。
岳父が腕を振るって作った料理が並べられる。昔、料理人だったYANのお父さんが、今朝3時に起きて何にしようか考え、市場まで買出しに行って作ったのだとか。
「さあ、娘が孫を見せに帰ってきたんだ。旦那や嫁ぎ先の両親も来てくれて本当に嬉しい、乾杯」
ありがとうございます。男の席と女の席に分かれて、それぞれにYANや私が通訳になって、延辺ならではの宴会が始まった。私が結婚式でつぶされてしまった白酒「高麗村」や、ビールがぽんぽん封を切られる。
「チンムーは結婚式でつぶれたからなあ」 
はい、お恥ずかしいです。今日はビールにします。
「さあ、お父さんも飲んでください」すかさず、うちの母親が飲み過ぎないよう釘をさし、YANが「日本の習慣は違うから、無理に勧めないように」と親戚たちに中国語で注意している。

乾杯
東北料理
全家福

「私は小さい頃に牡丹江の近くに住んでいたようです」
うちの父親が記憶もないほど小さい頃、旧満州に2年ほど住んでいた話をした。仕事の関係で、私の祖父が祖母と子ども2人を連れて日本人が多い牡丹江市の郊外に引っ越したのだという。そこは黒龍江省の都市だけど、吉林省の図們からも遠くはない。
「ほお、牡丹江。私たちも牡丹江から延辺に移ってきたんですよ」
YANの母方のおばあさん、ラオラオの家族がそう言った。YANの一族が延辺に来たのはそんなに昔の話ではないらしく、黒龍江省にも親戚が多いのだとか。
「この辺りは日本人がたくさん住んでいてね。残留孤児もたくさんいたよ。日本へ帰った人もいるよ」
うちの祖父は中国東北の冬の厳しさに耐えられずに、2年で日本へ帰ることにしたそうだ。そこで決断したからよかったが、ちょっと間違えばNHKで2009年4月〜5月、まさにこの旅行中に放送していた土曜ドラマ「遥かなる絆」のように、私の父親も残留孤児になっていた可能性だってあるのだ。
ドラマの場合は原作者・城戸久枝さんの父親が日本名の一部を知ったことから、なんとか帰国することができたけど、うちの父親だったらロシア式民家のペチカで火傷した跡が決め手にされただろうか。
「言葉は違うけど、何だか外国に来た感じがしないなあ」 
うちの両親が言うと、
「そうです。私たちは親戚だから、気持ちが通じているんですよ」
とYANのお父さんも答える。
うちの父親や、YANの親戚のおじさんたちも年齢が近いので、日本語や中国語はもはや関係なく「退職連盟」を作ろうか、なんて話で盛り上がっている。東北らしい、心が熱くなるような歓迎を受けて、とても喜んだ。
やっぱり連れてきてよかった。

「YANのお父さんは苦労した人でね・・・」 
おばあさんの弟にあたる老爺が話し始めた。
田舎には珍しく先見の明がある父親で、子どもに教育をつけさせるため寝食を忘れて仕事に励んだという。
少しでも高いお金を得るために、食堂を開いて朝は豆腐売り、昼は料理人、また建設工事のアルバイト、と働きづめの人生だったとか。YANや義妹も小さい頃はお父さんがとても厳しかった、と言っていた。
そうやって、お兄さんを師範大学に出したものの、安定した教師の仕事に就くかと思ったら大学時代の同級生たちと起業した。しかし、大都市・長春といえどもまだまだ発展の遅れた地方だし、中国も世界金融危機の影響を受けているので、業績は苦しいという。
「生活が安定するまでは結婚が難しいよ」 
親戚から苦言されて、ばつの悪い顔になったお兄さんが言う。なんだか、日本でもよく聞くような話だ。
「まったく、結婚の順番が一番下からなんて。お前が身を固めないと両親が安心できないぞ」
まあ、まあ、お兄さんは優しい、気の利く人だから大丈夫ですよ。がんばって下さい。
「そうですよ、お兄さんの結婚式には、また日本から大勢で来ますからね」 
うちの親も励ます。

中国のおばさんたち
全家福
韓国料理店で

「まあ、高速鉄道ができればいいんだけどなあ」 
ん、高速鉄道ですか?
なんでも、最近、長春から図們を経由してロシアまで国際高速鉄道を建設する計画があるらしい。
「新幹線」と言っていたから、そうなのだろう。現在は夜行列車で10時間かかる図們−長春間が完成後には4時間になる。そして、この家も計画予定地にひっかかるそうだ。
中国の土地収用といえば、北京オリンピックの会場建設の様子は日本でもニュースになったけど、中国では交渉でねばると補償金を下げられてしまうらしい。YANの一家は図們に執着がない。そこで、早くお兄さんに結婚してもらい、補償金を使って長春市に家を買いたいのだとか。
ただ、鉄道建設もいつになるのか分からないようだが。

すっかり歓待を受けたあと、親戚たちがミニバスで帰るのに合わせて図們のホテルに帰った。
おじさんたちは、あれだけアルコール度数の強い白酒を空けているのに、全然酔っ払ったふうでなく、火車站で手を振って下りてゆく。中国では酒飲みでも泰然としている方が尊敬されるというが、さすがだ。
一方、うちの父親はちょっと飲みすぎたので、部屋で休んでYAMEIのお守りをしているという。
私とYAN、母親の3人で市場へお土産探しに出かけた。中華料理の火鍋で辛いスープと淡白スープを分ける「陰陽鍋」、なかなか日本では見つからない調理具だけど、うちの親戚たちはみんな感心していた。そこで、中国土産としてこの鍋を買って帰ることにしたのだ。
ホテルに戻ってから、寝てしまったYAMEIをおんぶした父親を連れて、市中心にある韓国家庭料理店「家族飯店」に向かう。以前、YANと2人で来たときにゲソのから揚げが山ほど出てきてびっくりした店だ。
こうして図們の1日は過ぎていった。

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延吉へ 4月26日

昨日までの小雨もすっかりやんで、今朝は明るい日差しが戻ってきた。
図們を発つ前に、うちの両親をこの街で唯一の観光地でもある北朝鮮国境に案内した。母親は太極拳教室の仲間から「くれぐれも拉致されないでねー」と言われてきたらしい。2009年5月、国際社会を怒らせた北朝鮮の核実験に先立つ4月のテポドン発射実験の直前には、中朝国境を取材中の韓国系アメリカ人のテレビスタッフが北朝鮮警備兵に拉致されるという事件が起こったばかり・・・観光地とはいえ、のどかとばかりも言っていられない。

お粥屋で朝食をとってから、3輪タクシーで北朝鮮国境の口岸へ。
巨大な税関があり、その奥の赤い国境ゲートは開いているものの、車の行き来は全くない。北朝鮮には宗主国・中国から大量の物資が支援や貿易の形で投入されてきたが、その代金を払う余裕が全くないので図們の国境貿易は止まったままだとか。いまや北朝鮮の港湾や鉱山は差し押さえ状態にあるようで、中国による植民地状態だとみる専門家もいる。
ところで、図們市郊外、YANの村へ向かう途中の人民解放軍駐屯地前には、2007年当時、麻薬の検問所があったのだ。今回は検問所が閉鎖されているのは北朝鮮からの密輸麻薬が減ったせいか?
こういう話をすると、YANから「老公は外国人だから、あまり突っ込むのはやめた方がいいよ」と言われるのだけど、日本で言う分にはいいだろうよ。

さて、国境を望む公園に入ったとき、お土産店の服務員に声をかけられた。
「あー、YANだね〜。久しぶり〜」
なんと、YANの中学校の同級生、李さんだ。でも、YANを見かけて声をかけた訳ではなく、うちの父親がおんぶしていたYAMEIを「どこかで見たことがある赤ん坊だなあ」と思いながら見ていたらしい。そういえば、QQでチャットしながらYAMEIの写真をよくUPしていた・・・そしたら、後ろからYANが歩いてきたのだとか。
李さんたちには図們に帰ってきたことを話していないの?
「びっくりさせようと思って、まだ言っていないの」 
それで、よく判ったなあ。

中朝国境
北朝鮮が見える
国境の公園で

2007年頃、李さんは韓国へ出稼ぎに行っていたので、私たちの結婚式に出られなかった。
それをすごく残念がっていたそうだけど、私たちが子どもや両親を連れてきたので嬉しかったという。李さんの義姉さんが開いているお土産店に連れていくと、あれもこれも民芸品を袋に詰めて渡そうとした。
「図們の記念だから、欲しいものを持って行ってね。私からのプレゼントだから」
だめだって。お金は払いますよ・・・私が慌てて止めて、YANも、うちの両親も代金を払うと説得する。
「そんな、久しぶりに会った友達からお金なんてもらえないよ」
でも代金は受け取ってもらわないと・・・100元札を押し付けると、李さんは袋に携帯ストラップや太鼓をぎゅうぎゅうに詰めてくれた。「何が欲しいですか?」と聞かれて、韓国太鼓のミニチュアを指すと、一個でいいのに2つも3つも入れてくれるのだ。そんな申し訳ないよ。
歓待してくれた李さんにお礼を言い、YANが老家にいる間に食事をおごることにして、店を出た。

ホテルに戻ってチェックアウトする。道路を渡ればすぐ長途汽車站で、図們の両親とお兄さん、甥っ子、姪っ子を連れた義妹が私たちを待っていた。これから、みんなで一緒に延吉市へ行くのだ。
高速バスの中にはBGMで韓国語の歌謡曲が流れている。なんだっけ、ポンチャック、ポンチャックしたテクノ風の音で、昭和40年代を感じさせる。
「老公、このメロディー気に入ったよ。これでダンスしてみたい」
YANってちょっと趣味が悪いんじゃないの?おっと、調べたら本当に「ポンチャック・ディスコ」だった。

バスの中にエンドレスで流れる歌謡曲を聞きながら市中心に到着、バス停前のホテルに一部屋をとった。人数が多いし、私たちは子どもや荷物を抱えている。そこで、同じ手荷物一時預かりの料金を払うくらいなら、ホテルをとって休憩した方がいいからだ。
ところで、今日は日曜日だからか、ホテルの前には大きな赤いバルーンアーチが設けられ結婚式の準備に忙しい。私たちがタクシーに分乗して昼食場所へ向かう道すがらにも、ホテルというホテルに結婚式の飾りがしてあるし、黒いアウディにバラの花飾りをつけた車列がいくつも走り抜けてゆく。人口40万人程度の延吉市で、こんなに派手な結婚式をするカップルが1日に何十組もあるんだろうか。

広大な風景
焼肉店にて
延吉の歩行街


昼食は延吉でも有名な韓国焼肉レストラン。昨日は盛大なもてなしを受けたので、うちの両親から招待することにしたのだった。自動ドアが開くと、チマチョゴリのアガシが「アンニョンハセヨ」と迎えてくれ、服務員たちは揃いの制服を着てきびきび働いている。なんだか中国ではないみたいだ。
いかにも高級そうな雰囲気だけど、服務員に「ここの月給はいくらなの?」と聞いてしまうのは中国流か。
聞かれた方も正直に「1000元です。3ヶ月目からボーナスが付きます」なんて答えている。延辺で1000元なら、悪くない方だという。道理で街なかの食堂と違って服務員にやる気がみなぎっているはずだ。

骨付きカルビや冷麺でお腹がいっぱいになってホテルへ戻る。
YANの両親と義妹はホテルで休憩するので、YAMEIを預けて私たちは市内へ買い物に出た。
その前に両替がしたいんだ。老婆、中国銀行へ連れて行ってくれない?
中国銀行ね・・・YANはタクシーの運転手に外貨両替の場所を尋ねているけど、会話がなんだか怪しい。
「中国銀行?そりゃレートが悪いよ」
「・・・へ行って、そこら辺で探せばいるよ」
「歩行街の路上にいる奴は危ない、相手にするな」
「俺から聞いたって言うなよ・・・」 
一体どこへ行くつもりなんだ?
もしや闇両替か、と警戒したけど、タクシーが着いたのは建設銀行だった。なんだ、普通の銀行か。
「外幣服務」と書いてあるドアを入り、整理券発行機のところへ行く。制服警官が機械の横に立って、整理券発行の手順をお客に説明していた。
何気なく「外幣服務」の窓口に行くと、なんと韓国ウォンしか取り扱っていないという。日本円なら中国銀行へ行ってくれ、とのこと。なんで?さっき初老の運転手は私たちを見て「日本人か」と言い、彼の弟は残留孤児で現在は大阪で暮らしている、と話してくれたのだ。日本円が使えないことを知らないのかな。

ところがYANは、ロビーの長椅子に座っているおばさんに近づき、両替の交渉をはじめた。
この人が両替商か。私が日本円を出すと、おばさんは銀行の枚数計算機にかけて金額を確かめ、レートを電卓でたたいてカバンから人民元の束を差し出した。おお、こんな商売を銀行の中でやって大丈夫なの?
「大丈夫ですよ。だって警察官のとなりで商売しているんですよ」 
まあ、たしかに。
「運転手の言ったとおりレートがいいのね」 
YANも持ってきた日本円を両替しようと思ったらしい。おばさんは手持ちの人民元がなくなると、銀行の窓口で人民元の束をおろしてきた。
ここは北朝鮮にも近い延辺でしょう、スーパーKとか、偽札を掴まされる心配はないのかな?
「銀行から出し入れしているから大丈夫だよ。ただし、街なかで声をかけてくる人は危ないって」
おばさんに話を聞くと、外貨と人民元のレートの差を利用して、元高や元安で儲けを出す商売なのだという。銀行内個人トレーダーなのか。

さて、両替も済んだので、若者向けの雑貨が一同に集まるファッションビルに行ってみた。
狭い通路にごちゃごちゃと小店舗が連なり、客層も中学生くらいから20代までの若い人ばかりだ。携帯ストラップや中国結やアクセサリー類など、チープな商品が山のように並んでいる。
その一角がYANの従姉妹が出している中国結やストラップの店だった。ここでも今朝のお土産屋と同じで、「よく来たねー、私のプレゼントだから、これも、あれも持っていって・・・」と商品を押し付けてくる。
ちょ、ちょっと、それはだめですよ。ちゃんとお金を払います・・・
でも、見渡してもこのチープ商品街には、どこにも値段が書いてない。
ええい、100元渡しますね・・・すると、やっぱり頼んでもいないお土産を袋にどんどん詰めてくれるのだった。
続いて、別のお店で大きなサイズの中国結を見ていると、さっきの従姉妹がやってきて、
「この人たちは従姉妹だから、私に免じて安くしてあげて・・・」
と老板に訴える。YANが「本革の財布をプレゼントしたい」と言って財布の店をのぞくと、ここでも従姉妹が「私の従姉妹だから・・・」と値段をどんどん下げさせる。
だけど、ここにある商品はどれも定価なんてついていない。
商品を包むためにばたばた探した箱も、ありあわせでサイズが合っていないのはご愛嬌か。
私たちは、同級生や従姉妹の親切さに感激したけれど、たぶん彼女たちも、一見さんのお客が来たならば高い言い値をつけてふっかけるのだろう。そして、客も買い値を必死に主張するのだ。疲れることだなあ。

延吉市街
ビビンバ
韓国料理店で

続いて子供服が並ぶ市場をぶらぶらした。甥っ子によさそうなTシャツがあったので、手にとって見ると縫製が雑なこと極まりない。5元だというけれど、只でもちょっとなあ。やはり中国製なのか・・・と思いながら見ていくと、YAMEIによさそうな可愛い服がある。日本でも売れそうなデザインで縫製もしっかりしている。
いくら?と聞いたら、日本円で2800円くらいの値段を言ってきた。いくらなんでも市場で売っている服が日本より高いのはないだろう。きっと、日本向け縫製工場から流れてきた服なんだろうけど・・・。
中国の商品、特に衣類関係には「安かろう、悪かろう」と「いいけど、日本より高い」の2種類しかないように見える。ユニクロのように「質がよくて、値段はそこそこ」というブランドがまだ浸透していないのだ。
このあたり、中国商売のひとつのチャンスかも。
さて、最後に革のベルトを見つけて値段交渉する。もちろんノーブランドだけど、店のおばちゃんは
「日曜日はお客が多くて値段交渉は疲れたよ。本当に買うつもりかい?いくらなら買うの?」
まったく商売にやる気を見せなかった。あーあ。

夕食は延吉で常連になった「全州拌飯」、韓国チェーンのレストランでビビンバを食べる。
空港へ送ってもらって、延辺の家族とお別れした。引き続き実家に滞在する妻と子とは6月半ばまで2ヶ月の見納めになる。YAMEI、大きくなって帰っておいで。YAN、待っているから元気でね。
延吉発大連行きの南方航空は、現在直行便ではなく、瀋陽経由になっている。
夜の瀋陽空港に到着したあと、一旦飛行機を降りてバスに乗り換え、待合ロビーのある空港ビルに行く。
ところが、バスが着いたのはビルから伸びる搭乗通路の下、真っ暗な非常階段を上がらなければならず、乗客が押しあいへしあいして危ない、危ない。なんで空いている搭乗通路に飛行機を横付けしないのか。
しばらくロビーの椅子に座っていると、アナウンスも何もなく唐突に再搭乗が始まった。慌てて待合ロビーはずれのトイレに行った父親を呼びに行く。これではトイレに入った人や、売店を冷やかしている人は恐らく気づかないだろう。不親切極まりないなあ。
やる気のない空港職員から乗り継ぎチケットをもぎられて、搭乗ゲートをくぐる。そして、通路の端にある非常階段でまた半券を回収される・・・って、空港ビルから伸びている搭乗通路には、どこにも行方をくらませるような出口は見当たらない。一体何を数えているのだろう?そして、みんな疲れた顔で下りてきた非常階段からバスに乗り換え、飛行機に向かう間はなぜかNOチェック。ここなら暗闇の滑走路に脱走しても分からないだろうに、不思議だ。
空港職員は不機嫌で不親切だったが、一般乗客は疲れているにもかかわらず、うちの両親がバスに乗り込むとさっと座席を譲ってくれた。若いカップルだったけど、さすがお年寄りと子どもを大切にする中国人だ。

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大連見て歩き 4月27日

大連空港からタクシーで市中心のホテルに到着すると、時間は12時を回っていた。
フロントで毛布をかぶって爆睡している服務員を起こし、三人房にチェックインした。ああ、疲れた。
翌朝、準備を整えて外へ出る。今日と明日は私が両親の案内役になる。
夕べは気づかなかったけど、大連交通局が経営する豊源大酒店は大連一の繁華街である青泥街歩行街に面していた。デパートや地下ショッピングセンターが集まる地域で、すぐ北には大連火車站がある。
まず、中華系ファーストフードの永和豆漿へ。お粥と小龍包、南瓜餅で朝食にする。その後、路面電車が走る大通りを越えて進めば、大連一の観光地「ロシア風情街」はすぐそこだ。

すっかり原色派手派手に塗られて、ディズニーランド風に修復されたロシア風情街を一巡する。
どの建物もお土産店になっているけど、売っているものはロシアのマトリョーシカ人形や、軍用双眼鏡、韓国民芸品など見事に同じものばかり。これといって欲しいものがない。「老眼鏡どうですか、ロシアの老眼鏡」両親はやたらに老眼鏡を勧められたが、なんでお土産に老眼鏡が並んでいるのかも不思議だ。

ロシア風情街
風呂桶があった
労働公園にて

路面電車の通りを大連火車站に向かって歩いていると、おや、木の風呂桶がある。
そこは化粧品や美容用具を扱う店だったけど、店頭にはいかにも日本風な小振りの風呂桶が積まれていたのだった。中国では一般的に家庭で入浴する習慣がない。だけど日本との関係が深い大連のこと、お湯に浸かる気持ちよさを知った中国人が自宅のシャワーにセットして入浴を楽しむように作ったのだろうか。
大連火車站の南、勝利広場の地下には、迷路のように何層にも張り巡らされた地下商場が広がっている。
そこのフードコートにも和風ラーメン店や日本料理店が入っていて結構賑わっているのだ。すぐ近くには日系デパートのマイカルもあり、新華書店には日本語学習のコーナーに参考書や日本に関する書籍が山積みにされて、英語学習コーナーを圧倒している。さすが日本への玄関口・大連だ。
「すみません、日本人の方ですか・・・」
書店で日本語の本を手にとって眺めていると、ふと声をかけられた。
「私は日本語を勉強しているんですが、一番いい参考書を教えてもらえませんか」
眼鏡をかけた若い女性だった。大学生?と尋ねると仕事をしながらスキルアップのために日本語の勉強をしているという。これが上海の南京路あたりだと、日本語で話しかける=怪しい人、になってしまうが、大連ではそういう怪しさは感じられない。
そうだねえ、教科書にある日本語と一般的な会話、口語は違うからね・・・
私の妻が中国人で、両親と一緒に実家を訪ねてきた、と話をすると、びっくりしたように、
「奥さんが中国人ですか、それで中国語がそんなに上手なんですね」 
いやあ、それほどでも。
「日本語が話せて楽しかったです・・・」
2,3冊選んだ本を片手に、私たちにあいさつをして去って行った。
小泉政権時代、「反日」が騒がれた中国だけど、一般の人たちは必ずしもそうではないのだ。

ホテルで明日のツアーを申し込んだあと、昼食は近くの太平洋百貨店のフードコートに行く。
明るいガラス張りの外装に囲まれた5階に、大きな吹き抜けを見下ろすレストラン街がある。牛丼の吉野家もある。創作中華料理と謳った小洒落たレストランに入って、水餃子、トマトと卵のスープ、海鮮炒めにビールを頼んで3人分で50元、約750円だから安いものだ。
その後、幹線道路を越えて「労働公園」を散歩する。
メーデーの祝日に合わせてフラワーフェスタが開かれている労働公園には、市中心の高層ビルを背景に、桃や桜の花が咲いてきれいだ。ただ、まだ準備の途中のようで、花壇やマスコットキャラクターに植えられた花はどれも開ききっていない。まあ、5月1日に満開になるように計算されているのだろう。
公園からリフトに乗って山上にある「大連電視塔」へ上がった。
足元には労働公園の新緑、後ろには高層ビルがにょきにょきそびえる大連市街が広がって気持ちいい。時々、ゴーッという音を立てて、滑り台をカートが滑走しているのが見えるが、山上からはリフトのほか、ソリに乗って下りることもできるのだ。きゃあきゃあと悲鳴が響いている。あれに乗るのはやめておこう。

大連電視塔の展望台からの眺めは素晴らしかった。
特に半島の裏側や、湾をはさんだ対岸まで、ひたすら高層ビル群が並んでいる風景は、ちょっと日本では見られないだろう。日本屈指の大都会である名古屋だって、名駅周辺に数棟の摩天楼があるだけだが、大連では数え切れないほどのビルが山がちの半島を埋めている。
アジア経済発展の先を行くはずの日本でさえ、現代中国の発展ぶりを前にしては霞んでしまう感じだ。超近代的な都市景観に圧倒されながら電視塔の2階にある歴史資料館を見ると、なんと大連は1898年、ロシアが租借地としてヨーロッパ風の港を建設するまでは何もない場所だったという。ロシア、日本、中国と支配者が変わったけれど、わずか100年ちょっとの歴史でしかない。中国らしさが感じられないはずだ。

リフトで山上へ
トランプに集中する人々
ダンスの集団

電視塔の外では、おばさんたちが欄干を利用して思い思いに体操をしていた。リフトで山に上がってくるおばさんたちもいる・・・って、歩いて山登りしたほうが運動になるのでは?
公園では、蓮池を囲んで黒山の人だかりができ、100人を越えるだろう集団がトランプに興じている。これも、わざわざ入場料を払ってまでトランプをする必要もないように思うが、不思議な光景だ。
その蓮池に浮かぶ水上ステージには、メーデーの飾りつけが施され、イベントでダンスを披露するらしい女性グループが揃いの衣装を着て立っている。面白そうなので、トランプ集団のはずれに腰掛けてダンスのリハーサルを眺めることにした。
ジャジャーン、大音量で音楽が響いて、スペインの闘牛を真似しているらしいダンスが始まった・・・って、観客席を占領しているトランプ集団はちらりと振り向きもしない。うーん、シュールだなあ。

さっき太平洋百貨店でカフェを見つけたので、休憩がてら寄り道をした。
このデパートは台湾系だけあって、雰囲気がどことなく日本っぽい感じがする。さて、コーヒーは、と・・・え、一杯18元もするの?3人合わせたら、同じデパート内のレストランの食事代と同じくらいになってしまう。
大連空港の50元コーヒーに比べればましだけど、それでも物価水準からかけ離れた値段だ。
店内を見回すと、カフェにいるのは小洒落た格好のお金持ちか、スーツ姿で商談をするビジネスマンらしい人しか見当たらない。中国人にとって、コーヒーはまだ一般的ではないけれど、カフェでコーヒーを飲むのは金持ち層のステイタスなんだろうか。
そして、太平洋百貨店といわず、大連商場やマイカルといわず、デパートで売られている衣料品の高いこと。ブランド品だから高いのだろうけど、ユニクロクラスのシャツが1万円前後はする。やはり、中国では地下商場のような「安かろう、悪かろう」のところと、デパートのような「いいけど、すごく高い」のどちらかしか見当たらなかった。

大連商場では、イベントステージでコンサートが開かれているかと思いきや、歌手がラブソングを歌うステージをたくさんのカップルが取り囲んで、婚紗撮影予約会が開かれていたのだった。少し離れた吹き抜けの廊下では、結婚写真のためのウェディングドレスファッションショーが行われている。歩行者天国の青泥街では、いくつもの写真館ブースが設けられて、どこも見本のアルバムを展示して宣伝している。
ここは幹線道路をはさんで風景のいい労働公園があるから、結婚写真にぴったりの場所なんだろう。それにしても、すごいなあ。ひとりっ子政策で子どもの結婚にかける費用がぐんと多くなっている事情もあるだろうが、結婚写真というひとつのジャンルだけで、こんなにお客を集めることができるなんて。「桂由美婚紗撮影」なんていう、日系デザイナー結婚写真館まで進出しているのだった。

大連港
大連市中心部
中山広場の夜景

大連商場の1階にある「味千ラーメン」で久しぶりに日本食の味噌ラーメンと、焼き鳥、アサヒビールの夕食にする。これでも合計50元ちょっと。やっぱりカフェのコーヒーは高い。
仕事帰りの人たちで賑わいだした天津街では、雑多ながらくたを並べた夜市が店開きを始めた。歩行者天国の道なりに出店が続く天津街を冷やかしながら端まで歩き、ガイドブックで見つけた大連国際貿易中心へ。ここの57階にある展望台は、大連の夜景が一望できる人気スポットだというが・・・
帰宅を急ぐビジネスマンがぞろぞろ出てくる玄関を入っても、どこが展望台入口なのかよく分からない。警備員に聞いてようやく小さく表示された「遊客入口」を見つけ、エレベーターに乗り込んだ。
下りた場所には水族館やテーマパークのポスターが貼られて、それらしい造りにはしてあるものの、私たちのほかに誰もおらず、典型的なさびれた観光地だった。
「有人ma?」
人の気配がしないので心配になって声をかけると、ややあって、奥から若いお兄ちゃんが顔を出した。
「もしかして、お客さん?」 
うなづくと、慌ててカウンターからチケットを出し、展望テラスのドアの鍵をガチャガチャ開けてくれる。
「日曜日は団体ツアーも来るんだけどねえ、平日はお客さんがいないから・・・」
ガイドブックには民族舞踊のショーが毎晩開催される、と書いてあったけど、どこにもそんな雰囲気はない。お客がいないのは50元という値段のせいなのか、それとも別の理由があるのか。
商売っ気のない、人のよさそうなお兄ちゃんはテラスに出てタバコをふかしている。私たちも展望テラスに出ると、ちょうど足元に中山広場のロータリーがオレンジの光にライトアップされ始めたところだった。労働公園の山頂には、青く光る電視塔、ネオンが輝く市の中心部から夜市で賑わう歩行者天国も見えている。ボーっと汽笛が響く北方に目を転じると、大連港に入港する客船が見え、海風が吹き付けて気持ちいい。

大連の夜景を堪能して、服務員のお兄ちゃんに礼を言い、国際貿易中心をあとにした。
ライトアップされて輝く中山広場ロータリーを眺め、友好広場を経てホテルに帰った。途中で足療の看板に惹かれて、足裏マッサージの店へ。60分35元でじっくり揉んでもらった。
按摩師たちは、最初は私を日本人を案内してきたガイドだと思ったようだけど、親子で旅行しているんだ、と聞くと中国語で質問攻めにあう。日本人客は紳士的で、中国人や韓国人よりもいい、と言った按摩師は、
「中国人は出国が難しいんですよ。できれば日本で働きたいなあ」
河南省や黒龍江省の田舎から出てきた按摩師たちは、店に住み込みで働いて月給が千元だという。そういえば、延吉の焼肉店の服務員も月給が千元だと言っていたなあ。
大連の物価水準では、千元は安いの、まあまあなの?
「都会では千元で生活はやっていけません。田舎にも仕送りしなければいけないし」
なかなか大変なようだ。

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東北の小桂林「氷峪溝」ツアー 4月28日

大連の2日目は郊外にある景勝地への日帰りツアーに参加することにした。
旅行前にインターネットで調べると、大連の広域都市圏にある庄河県には「氷峪溝」という観光地があって、「東北の小桂林」とか、「南に桂林有り、北に氷峪有り」とか呼ばれる美しい場所らしい。やはり船で川下りをしながら景色を楽しむ場所のようで、季節は新緑、旅行にぴったりの時期だろう。
日本語ツアーを扱う旅行社のHPにも案内が出ていたけど、ガイド料が1時間80元もする。そこで、大連のホテルで中国人ツアーに申し込んだのだった。これだと、昼食付きで260元だ。

朝7時にガイドさんが迎えに来るということで、ホテル近くのマクドナルドで朝食を済ます。カフェで18元もしたコーヒーだけど、朝マックではセットで10元だった。それにマックのコーヒーは世界一美味しいというぞ。
時間通りに現れたガイドさんに連れられて大連火車站へ。今日はツアーの参加者が多く、観光バスに乗り合わせで観光地へ向かうのだという。駐車場で大型観光バスに乗り換えて、ガイドさんも交代した。やがて、ぼつぼつと参加者が集まって出発、バスは大連市内を抜けて朝の渋滞が始まった高架道路に入る。
ガイドさんの説明では、今日のツアーには山越えの道があり、若い人で15分、お年寄りで30分くらいの山登りをするという。歩きたくない人には有料の渡し舟か、30元の電動バスがあるらしい。まあ、うちの両親は元気だから大丈夫だろう。そして、オプショナルツアーとして「漂流」に参加するかどうかを聞かれた。
ん、漂流?これが船に乗っての川下りかなあ。せっかくだから参加しないとね。
1人80元の「漂流代」を支払う。これが思いもかけないものだったとは、私はまだ知らなかった。

ガイドさんの説明は続く。庄河県は「大骨鶏」という地鶏が有名で、鶏肉料理がたくさんあるのだとか。また、氷峪溝では地球の長い歴史によって作られた玉を産出し、玉の加工品を売る店が多い。このツアーでは最後に玉器工場を見学して買い物の時間があるという。まあ、ツアーなんてこんなものか。
高架道路が終わると、バスは巨大な工場が林立する開発区に入っていった。まだ大連市内から高層マンションの群れが途切れていないことに改めて驚く。一体どれくらいの人が住んでいるのだろう。銀色に光る郊外電車も高架道路の脇を走り抜けてゆく。
開発区のはずれで高速道路に入った。とたんに風景は近未来的な都市から、レンガ造りの農家が点在する中国の農村地帯に一変する。この移り変わりの激しさも現代中国らしい。
あとはひたすら広大な農村地帯を約150km突っ走っていく。ゆるやかな起伏を描く畑では、牛や馬、ロバに犂を引かせて農作業をしているけれど、こんなに広い土地を何日かければ耕せるのだろう。2頭立てで耕作する農家も見られるが、片方牛で片方が馬という2頭立てもある。スピードが全然違うんじゃないか。

氷峪溝
小桂林と呼ばれる
岩山の風景

高速道路を2時間半ほど走って、庄河東ICで一般道に降りた。
いままで大平原が広がっていたけれど、遠くにぎざぎざの山がかすんで見えてきた。
ここまでサービスエリアがひとつもなかったので、ガソリンスタンドでトイレ休憩があった。私は行かなかったけれど、母親は「昔ながらの中国式トイレで、しゃがんだら目の前に並ばれた」と言いながら帰ってきた。それでも動じなかったからすごい。
「太極拳教室のツアーで行った山西省や敦煌の方がもっとひどかったから大丈夫」
そうなのか。
埃っぽい田舎道を進み、岩肌を露出させた山々の麓にある仙人洞という村で昼食休憩になった。
このあたりは満州族が暮らす地域で、カラフルな旗を掲げた家々が目立つ。清朝を打ち立て中国を支配した満州族は「満州八旗」という民族全てを軍隊組織に組み入れる社会制度を持っていた。満州族の家にたなびく旗はその名残で、旗の種類によって素早い情報伝達や軍事動員ができたという。
食堂には円テーブルが用意され、同じツアーの参加者は同じテーブルにつく。料理が出てくる前に小用を済ませようと、2階にある男女兼用のトイレに行った。まあまあきれいで水もちゃんと流れたけれど、鍵を外して出ようと思ったら、ドアが壊れていて出られない。どうしよう・・・内側からドンドン叩いて「有人ma、有人ma」と叫んでいたら、外から同じツアーの参加者が開けてくれた。ああ、助かった。謝謝。
一般的な中国の家庭料理が円テーブルに並び、それを参加者でつつく、という中国形式で食事が進んだ。バスの時間になるまで、数軒並んだお土産店を冷やかす。水着や浮き輪といった水遊び用品があるのは、ここが大連市民が自然に親しむレジャーの場所だからか。玉の産地だけあって装飾品がたくさん売られていたが、そういえば昼食には名物大骨鶏は出てこなかったなあ。

村から10分ほどで氷峪溝国家地質公園の入口に到着した。
1億年前に火山の噴火でマグマが堆積し、その後、氷河に岩肌が削られてできた景勝地で、中国の地質公園に指定されている。夏場は大連市郊外のリゾート地として、たくさんの客が訪れるという。
エメラルド色のきれいな水が滔滔と流れている。ツアー団体ごとにゲートをくぐって、まずは遊覧船で上流をめざす。樹木の緑に岩山が映える風景は中国東北の乾いた風景とは異なり、瑞々しい美しさがある。「あれは鶏岩、あれは獅子岩」と一つひとつの岩に付けられた名前をガイドさんが説明している。
だけど、そうした景勝地が見下ろす川原に、わざわざ鹿や猪の張りぼてが置いてあるのは、わざとらしい演出だろう。岩山の風景を生かしてドラマのロケ地にもなった、という「電影村」だって、今では無残に朽ちかけており、いっそ何も人工物がないほうがすっきりする。
やがて、船着場に到着し、遊歩道をゆるゆると歩いていく。
「あの、日本人の方ですか?」
はい?昨日も同じようなことを聞かれたなあ。あなたは大学生ですか?
学生のような若者グループの女の子が日本語で話しかけてきた。聞けば、大連外国語大学を卒業して旅行会社に就職したガイドさんの卵で、今日は先輩ガイドについて見習いをしているとか。そうか、てっきり参加者だとばかり思っていたよ。大連外大は中国最高の日本語教育機関なんでしょう?
「私は旅遊学科卒だから、日本語は上手じゃありません。でも、困ったことがあれば言ってくださいね」
日本語ができる人がいると、私も安心です。今日はいろいろ助けてくださいね。

リゾート地区
漂流
ボート遊びもできる

うちの両親が今日のツアーの最高齢者なので、見習いガイドの若者たちが付き添ってくれながら、ワイワイ話をして歩いていく。中国人ツアーに参加して、まさか日本語ができるガイドさんがいるとは思わなかったから、心強い。日本人に対するこうしたフレンドリーさも大連ならではか。
山の中腹にそびえる碑坊を過ぎると、そこはダム湖の堰堤で、また別の遊覧船に乗り換える。
エンジン音を響かせて上流へ進み、途中で引き返して堰堤まで戻ってきた。これが桂林の離江下りに似ているのだろうか。たしかに岩肌が川面に迫り、奇怪な形をした峰々がそびえているけれど、ちょっと「南の桂林、北の氷峪」と比べて呼ぶには見劣りがするかなあ。
ダムの堰堤に作られたトンネルをくぐる。これがもしかしてガイドさんの説明にあった「○○洞」か。てっきり鍾乳洞か何かあると思ったのに、人工物にいちいち大げさな名前をつけるものだ。
と思ったら、その先に問題の「漂流」があった。それはゴムボートで文字通り川を漂流するアトラクションだったのだ。うわあ、ラフティングかあ。てっきりさっきの遊覧船が漂流かと思ったのに。通常は2人乗りのゴムボートに、救命胴衣を着けた私たちは3人乗りして、プラスチック製の櫂を渡され放り出される。ひゃー、ダム湖の放流水で一気に流されたものの、下流のよどみに来たら、漕がないと進まなくなってしまった。
「それ右、それ左、だめじゃないか。ああ、ぐるぐる回る」
右と左の力が違うので、ゴムボートはぐるぐる回るだけでまっすぐ進まない。父親、母親、私と親子3人でけんかになりながら、必死で漕ぎ下った。これは仲のよさを図るのにいいアトラクションだろう。カップルや女の子グループで参加している他のツアー客たちも、同じようにぐるぐる回って苦労しているようだ。

それでもコツがつかめてくると漂流も面白く、先頭を切ってゴールすることができた。
でも、よく考えてみれば、同じ時間のうちならなるべくボート遊びをしている方が得だったかもしれない。
そのボート遊びは少し下流のリゾートエリアで楽しめた。30分の間、自由に電動ボートや足漕ぎスワンボート、竹いかだを選んで貯水池で遊べるという。「休憩するからいい」と断ったら、ボート遊び代もツアー料金に含まれているからもったいないという。そうか、ここは大連市民が水遊びに来る場所だったっけ。
電動ボートで貯水池のうえを進んでいくと、恐竜の置き物が水の上に突き出ていたり、ウォータースライダープールがあったりする遊園地エリアがあった。上空をシャーという音を立てて行き来するのは、ロープ渡りのアトラクションだ。
ガイドさんの話で、これからいよいよ山越えがあるという。2元で渡し舟に乗る数人を残して、私も両親も、山越えチームに加わって階段を上り始めた。なかなか急な段差を上ると、辻占い師が店を開く小さな広場があり、その先から見下ろした湖面には、さっき電動ボートから見た恐竜の置き物があった。あれは遊園地エリアじゃないの?水遊びで簡単に行ける場所まで、なんでわざわざ山越えをして行く必要があるの?

トレッキングコース
東北の大地
ひたすら広大

そして、山越えをしてからバスが待つ駐車場へ歩く間が実に長かった。
ときどきゴルフ場のカートのような乗り物が追い抜いていくから、あれが30元の電動バスなのだろう。それにしても、さっきの山越えをした意味がちっとも分からない。なんせ、遊園地エリアで渡し舟を使ってやってきたツアー参加者と合流してから、バスに着くまで40分以上かかったのだから。
遊歩道の途中にも、川に架かる揺れる吊橋は渡り賃1元、となりの橋は渡り賃3元、そのとなりにあるサイクルモノレールは5元、とよく分からない価格設定の有料橋が3本並んでいたり、いかにもキッチュな観音像の前で偽物坊主がお布施を強要しようとしたり、いかにもB級観光地なところが続いていた。

ようやく観光バスの駐車場に到着して、大連に向かう。
ガイドさんによれば、今日は時間がかかったので、玉器工場の見学はしないという。私たちは別に買い物に興味はないけれど、マージンをとっているであろう旅行会社がそんなんでいいの?
どこまでもゆるやかな起伏が続く東北平原に、真っ赤な太陽が沈んでいく。障害物が何もないので、夕日は巨大に輝いている。これが「満州の落陽」というものなのか。日本で見る夕日よりずっと赤く、大きかった。

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猪流感と振り込め詐欺と 4月29日

大連空港の早朝は、日本への帰国便が集中する。私たちは今日も朝マックで朝食を済ませた。
24時間営業のマクドナルドの店内には、寝床がないらしい若者グループが固まっている。日雇い労働者のような若者や、家出少年のような若者もいて、仲間が買ってきたハンバーガーを順番に齧っていた。男の服務員がモップを片手に若者たちを追い出しにかかる。もう朝の稼ぎ時なので、ネットカフェ難民ならぬマクドナルド難民は早く出て行け、ということなのだろう。
夕べのテレビ番組では、中国の貧困地帯・河南省の現状を報道していた。旱魃に襲われる農村地帯では、農家の収入は1日3元、いくら田舎だと言えども生活が成り立たない。相次ぐ旱魃と砂漠化を防ぐため、政府は「退耕還林」つまり、畑だった場所に植林して森林面積を増やそうとしているが、あまりに貧しすぎる農民たちは、せっかく砂漠化防止で植林した木を切ってしまい、わずかな緑も家畜の羊のえさに変えてしまうのだ。勝手に自然破壊行為を働く農民たちを罰するよりも、彼らに生活の糧を与えることが環境保護に役立つ、と言っていた。
そういえば、昨日バスから見た大平原にも、高速道路を砂嵐から守るための植林帯が設けられ、それは以前畑であった場所に作られていたし、氷峪溝に向かう緑豊かな山にも、「放牧するな、薪をとるな」という看板があちこちに見られた。まだまだ貧しい農村を抱える中国はこれからどうなるのだろう。

そして、法律の番組では日本でもおなじみの犯罪が取り上げられていた。振り込め詐欺だ。
電話会社からの架空請求や、オレオレ詐欺が中国でも大きな被害になっているのだという。その手口は日本と全く一緒だ。中国人グループと日本人グループが結託して国際的な規模で詐欺を働いている、と日本でも報道されていたから、その本拠地は日本なのか、中国なのか。
それから、豚インフルエンザ。私たちが中国にいる間に、メキシコからアメリカ、ヨーロッパと瞬く間に感染を広げていってしまった。テレビでも、SARSを経験したお国柄だけあって深刻な受け止め方をしている。ほお、「猪流感」かあ、大変な病気が出たなあ、と見ているうちに、私たちが中部国際空港に帰ってきたときには、サーモスタットで熱を測られ、自己申告書を書かされるようになっていた。
やれやれ、大変な旅行だった。

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