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吉林省へ 9月15日

6月末にYANが日本にやってきて、もう2ヶ月半が過ぎた。
帰国するYANに付き添って中国へ向かう私は、2回目の吉林省延辺訪問になる。
そして、今回は中国での結婚登記が目的なのだ。思えば今年1月にYANの妹を通じて知り合って以降、QQやMSNでチャットやテレビ電話をしながら、お互いに会える日を楽しみにしてきたけど、実際に会った回数としてはたったの2回だけともいえる。しかし、私の家にずっと滞在して、共に生活をしていたので、会っている期間としては十分長いともいえる。
まあ、どちらにしても、世間一般の付き合い方とはちょっと違った経緯で結婚を決めたのだった。

富山空港から中国南方航空で大連を経て延吉へ。
前回の訪問では瀋陽で5時間待ちという時間をすごしたが、今回は大連空港で3時間程度の待ち合わせ。空港ロビーにいる間に、YANは空港外の市場まで出かけて中国版クレープに卵やソーセージを巻いた煎餅果子というものを買ってきた。YANが以前、大連空港の近くにある市場で買い物をしたときに、煎餅果子を売っているのを見て、時間があれば買いに来ようと思っていたらしい。
「ああ、幸せ。中国の味がする」
と言って喜んでいる。

延吉空港は相変わらず電気も薄暗く陰鬱な感じがするが、そこには家族が待っていた。
「お帰り、元気だったかい?」
お父さんとお母さんに迎えられて、ミニバン面包車で一路図們市を目指した。最初の晩だけホテルが用意されており、時間が遅いながら「お腹が減ったろう」と敷地内の重慶火鍋店で夕食をご馳走になった。この2ヶ月半、YANが日本で体験したいろいろなカルチャーショックの話でとても盛り上がり、ビールが進んだ。
ところでYANは実家に帰るとのことで、お父さんたちと一緒に車に乗り込む。
えー、ここで別れるの?
「なに言ってるんですか。それじゃあ、また明日」

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結婚のあいさつ 9月16日

次の日の朝、YANがホテルまで迎えに来てくれた。
前にも行ったお粥屋で朝食をとり、ホテルに戻って荷物を整理する。今日は大切な日なので、少々緊張しながら持ってきたスーツを着て、ネクタイを締める。チェックアウトしてYANと2人、タクシーで家まで向かった。
懐かしい家の門をくぐると、お父さんが「いらっしゃい、よく来たね」と笑顔で迎えてくれるが、私のスーツ姿を見てちょっと顔に緊張が走ったのが分かる。まあ、「娘さんを下さい」とやってきたのだから当然か。

「お母さん、座布団を出しなさい」
靴を脱いで上がるオンドルの部屋に、慌てて座布団を敷いて、お父さんとお母さんがちょこんと座る。最初は足を崩していたけど、お母さんに言われてお父さんも正座になった。
私も緊張しながら、YANと並んで両親に向かい合い、日本で買って荷物に入れてきた折りたたみ式の三方を組み立てて、ホテルで金額を数えて入れてきた結納金に鶴亀の水引をつけて、お父さんに差し出した。
「お父さん、お母さん、YANを必ず幸せにしますので、結婚をお許しください」
こういう場合はどうしたらいいのだろう。日本でのやり方、というのも私はよく分からないが、中国ではどうするかなんて全く知らない。とりあえず、日本式に正座して床に頭をつけるあいさつをした。
お父さんにはそれが昔の中国で皇帝に対する土下座のように見えたのだろう、あわてて
「分かった、分かった。もういいから楽にしなさい」
と言ってくれた。
「まず、足を崩していいかね。苦しいからね」
それから、YANと私に、国は違っても親の子を思う心や結婚にあたっての心得は変わらないんだなあ、と思わせる「お互いを思いやること、年寄りや親を大切にすること、自分が相手によくしていれば、周囲の人も必ず自分によくしてくれること・・・」といった話をじっくりと諭してくれた。
お母さんもYANに妻になる心得をゆっくりした口調で諭した。
「分かりました。2人でいい家庭を築くことができるよう努力します」

「さあ、あなたも私の息子になったのだから、固いことはなしで着替えなさい」
「儀式」が終わるとほっとしたような顔でお父さんが言い、私は正式にYANの部屋で寝ることが許された。
そしてちゃぶ台には、朝からお父さんが腕を振るってきた料理が並べられた。
これからどうするね、お父さんが尋ねる。それにYANが答えた。
今日の午後は結婚写真の予約をする。YANの友達が市内の「ローマ風情婚紗撮影」で結婚写真を撮って、よかったと言うので、そこを見てみる。夜には長春行きの夜行列車に乗り、明日の朝、長春火車站までお兄さんが迎えに来てくれて、省都での国際結婚の手続きに付き添ってくれる。手続きに2日かかるから、帰りはしあさっての早朝、それから結婚写真を撮ったり、買い物に行ったりする・・・
結構ハードな滞在になりそうだ。

昼食後、2人で近所の銭湯に出かけた。この辺りの農家にはシャワーがついていないので、村の公共浴場がある。図們市内まで行くと「金水洞」や「太平洋洗浴」といった韓国式健康ランドのような銭湯があるものの、一般的なところは肩まで湯に浸かる習慣のない中国らしく、固定式シャワーが並んでいるだけだ。
洗面器にタオルや石鹸を入れて銭湯に入る。ロビーの正面に番台があって、左右が男女に分かれているのは日本の銭湯と変わらない。更衣室のロッカーの鍵がのきなみ壊れているのは中国ならではか。広い浴室は白いタイル張りで思ったよりきれいでよかった。

ただシャワーだけなので体や頭を洗ってしまえばそんなに時間がかかるものではない。
10分も入ってロビーへ行くと、まだYANは出てこなかった。そのあと待つこと20分、日本でゆっくりお風呂に浸かるくらいの時間をかけてやっとで出てきた。
「なんでそんなに早く出るんですか?ちゃんと洗ったの?」
うん、YANこそシャワーで30分もいられるの?

それからミニバスに乗って町へ向かう。目指す「ローマ風情婚紗撮影」は図們の中心部・歩行街に近い繁華街にある。そのまますんなり結婚写真館に行くのかと思いきや、YANは中学時代の同級生の店に寄ったり、友達に携帯で電話したりなかなか到着しない。いつ行くの?
「本当にあの結婚写真館がいいところなのか、友達に確かめているんですよ」
YANによれば、地元で評判がいいのが「ローマ」だけど、図們は小さな町なので選択肢が少ない。延吉市まで足を伸ばせばたくさんの結婚写真館があるので、もっといい写真を撮ってくれるかもしれないという。それで、妹夫婦は地元ではなく延吉まで行って写真を撮ったのだった。
まず「ローマ」を見てから考えてもいいんじゃない?気に入らなければ、延吉まで行ってもいいよ。
女の人は衣服を買うときやこういうとき優柔不断だからなあ。ちょっといらついたら怒られた。
「一生に一度の結婚写真なんですよ。慎重になるのは当然じゃないの」

「ローマ」に入ってみる。入り口には見本の写真が飾られて、店の中も広くて明るい。
スタッフもきびきびしていて好感が持てる感じだ。熱心に写真集の見本を示しながら説明してくれる女性スタッフは、学生といっても通りそうだが21歳でマネージャーなのだという。実力主義の中国らしく、上海の最新流行を勉強してきて責任者に抜擢されたとかで、都会風の演出ができると売り込んでくる。
「やっぱりここがいいかなあ」
撮影用の衣装を見せてもらったり、セットを覗いたり、細かいチェックをしていたYANが言った。
ガラス製表紙の大判写真集と革製表紙の写真集、ミニ写真集、写真立て、ポスターと巻物、写真集を入れる革製のトランクがセットで3888元。撮影は図們に帰って来たしあさっての朝から開始して1日かかる。屋内のセット撮影のほか店の車に乗って公園へ行き戸外撮影をするが、雨天のときは屋内撮影のみだとか。
オプションで日本直輸入だという割りにパッケージの日本語が怪しい(中国製だろう)化粧品やマニキュアを買って、デポジットを支払った。

結婚写真の予約を終えて、一旦家まで帰り、夕食後に再び図們火車站へ向かう。
明日はいよいよ吉林省の省都・長春市で結婚登記をするのだ。長春行きの夜行列車は夜8時発。中国の省は日本では県にあたるが、その省政府所在地へ行くために列車で10時間もかかるとは、さすがに広い国だと実感する。
時間になって改札が開き、私たちは列車に乗り込んだ。座席は硬臥、つまり硬いベッドの二等車で、3段ベッドの一番上だった。まあ、一番干渉されない場所だけど、列車の揺れも大きくなる。
明日は長春に早朝5時着なので、ぼそぼそ話も早めに切り上げて床に就いた。

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結婚登記をする 9月17日

目が覚めると山間部の図們辺りとは景色が一変して、どこまでも平らな大地が広がっていた。線路の両側には並木が続き、朝もやにかすんだ風景も大陸らしさを感じさせる。まだ多くの乗客は眠っているようなので、そっとトイレに行き、洗面を済ませた。コンパートメントに戻ってくるとYANも起きている。
「おはよう、気分はどう?」
すると、YANは疲れた顔で一睡もできなかったと訴えた。列車の揺れが気になってどうしても眠れなかったのだという。婚姻登記処が開くのが朝9時だから、長春に到着してもまだ時間がある。火車站にはお兄さんが迎えに来てくれることになっているので、どこか連れて行ってもらって少し休憩しようよ。
「そうですね」

到着した長春火車站は早朝から非常に混雑していた。長いコンコースを出口めがけて黒山の人の波がわさわさと動いていく。出口を抜けると、冷たい空気が砂埃と一緒にさあっと吹き付けてきた。駅前広場を取り囲んで高層ビルが林立し、車やバスが忙しく行き交う。おお、大都会だなあ。駅前にはお兄さんの姿はなく、しばらくその場で待つことにしたが、YANはつらそうにしゃがんでいる。
おいおい、大丈夫かい?
ようやくお兄さんがやってきて、3人でタクシーに乗り込んだ。お粥屋を見つけて朝食にするけれど、やはりYANは食欲がない。少しは食べないと体力が出ないよ。
それからお兄さんの暮らすアパートへ行った。いわゆるワンルームマンションがない中国では、独身者がアパートをシェアするのが珍しくないといい、ここでも一般家庭用の3LDKに会社の同僚たちと一緒に暮らしている。お兄さんが使っている部屋に通してもらい、YANをベッドに寝かせて背中をさすった。
1時間ほど横になるとYANの顔色も良くなり、少し楽になったと言う。私もスーツに着替え、中国らしい色だと考えて持ってきた赤いネクタイを締めて準備をして、お兄さんの案内で婚姻登記処に連れて行ってもらう。

タクシーの運転手の間違いで市政府民政大楼で下ろされ右往左往した末に、なんとか「吉林省渉外婚姻登記管理処」に到着、受付のカウンターで申請書を渡された。それはいいのだけど、受付の女性は入口にある売店で飴とタバコを買え、と言う。飴?タバコ?
お兄さんがミネラルウォーターと一緒に、おめでたい双喜印がパッケージになった飴の袋と、やはり双喜の赤いタバコを買ってきてくれた。60元は破格の値段だ。中国の結婚式では飴は縁起物として欠かせないとは聞いたことがあるがはて?どうやら登記の際にご祝儀として係員にそのまま差し出せ、ということらしい。
でも、飴とタバコを売っているのは登記処の売店だ。役所のせこい裏金作りだろうか、中国らしいなあ。

まあ、そんなことを気にしていてもしかたないので、言われたとおり登記のカウンターに行って飴とタバコを差し出し、日本から用意してきた書類(私の婚姻用件具備証明書、パスポート、YANの戸口本、身分証)を提出して手数料を支払った。ややあって、私たちの名前が呼ばれ、別室に入っていくと赤い緞帳が下がった写真撮影セットがある。
「はい笑って。もっと肩を寄せて」 
おや、この日本人は中国語が話せるんだね、と言った写真撮影係の職員は、緊張をほぐすように冗談を交えながら写真を撮ってくれた。わりにあっけなかったが、この婚姻登記処での手続きはこれでおしまい。次は午後1時に別の場所へ行って「結婚証」を受け取るようで、省政府民政大楼の場所を詳しく教えてくれた。

お兄さんが予約してくれたホテルのチェックインにはまだ早い。中国銀行で人民元の両替をしたあとは、ホテルの隣にある韓国料理店に入って昼食をとった。ところが、このとき食べた冷麺であとあとひどい目に会うとは、このとき私たちはまだ知らなかった。
12時になって隣のホテルにチェックインすると、デポジットはすでにお兄さんが支払っているという。私たちの結婚登記に付き合うために仕事も休んだ上に、そんなことまでしてもらって申し訳ない。部屋に荷物を置いて、午後の手続きのために市の中心部にある省政府民政大楼にタクシーで向かった。

時間にはまだ早く、役所は昼休み中。カウンターの中の職員はトランプに興じている。
1時になって渉外婚姻登記処(民政大楼)が開き、順番に名前を呼ばれて別室へ入る。ここには中国の国旗を前に、テレビなどで見る宣誓台が置いてあり、そこに立って準備された宣誓文を読み上げて署名した。
日本人向けには日本語で宣誓文が用意されていて、職員が日本語の説明文を棒読みしてくれる。
宣誓が終わると、今朝撮った写真が貼り付けられた赤い「結婚証」と、金色の中華人民共和国国章がアレンジされた結婚証用の小箱を、夫婦それぞれにくれた。これで私たちは夫婦になった。
そうそう、日本での婚姻手続きのために、出生や国籍、結婚の事実の公証書を作ってもらわなければいけない。向こうもちゃんと心得ていて、資料をメール便で公証処へ送り、明日には民政大楼で公証書一式を受け取れるようになっていた。これは日本の役所より親切かも。

ひととおりの手続きを終えると、YANがお腹が痛いと訴えだした。額に脂汗が浮かんで顔をしかめている。
午後はお兄さんの案内で買い物に行く予定だったが、外出はやめて休憩することにした。夕方5時に市中心のデパート前で待ち合わせることに決め、民政大楼でお兄さんと別れて2人でホテルに戻る。
部屋に入るとYANはトイレに駆け込んだ。やれやれ、食あたりか?思い当たるものといったら、隣にある韓国料理店で食べた昼食の冷麺だけど・・・
「長春は空気も水も悪いから嫌い。ここへ来るといつもお腹を壊すの」
中国人でもお腹を壊すことがあるんだ。
私が日本から持ってきた胃腸薬を出そうとすると、YANは中国の薬の方が強くて即効性があるから、と言って自分が持ってきた薬をかばんから取り出した。あとはベッドにもぐりこんでうなっている。私は濡れタオルを絞って額に載せ、手を握って背中をさすりながら、中国製の強力な胃腸薬が効くことを祈った。

しばらく寝息をたてていたYANが目を覚ましたのは夕方近く。薬のおかげか、お腹が痛いのもほぼ収まり、外へ出たいという。本当に大丈夫かい?タクシーで市中心の繁華街にあるデパートへ向かった。携帯電話でやりとりをしたので、もうすでにお兄さんが待ち合わせ場所に立っていた。
「YAN、本当に大丈夫か?」
お兄さんも心配そうに聞く。
まず、デパートの貴金属売り場で婚約指輪を選んだ。宝石を前にした女性の顔がぱっと輝くのは古今東西の世の習い、さっきまで苦しんでいたYANも例外でなく、あれこれと出してもらって嬉しそうに眺めている。昨日の結婚写真の予約と同じく、「快点!」とか急かすと「一生の大事なのに」と怒られそうだ。
と、指輪を選ぶのを見ていた私の体調も変調をきたしてきた。酔ったように頭の中が回り、力が抜けていく感じがして、お腹がぎゅるぎゅる言い出す。もしや私まで!しかたないのでカウンターの椅子に座って待つことにした。
YANに指輪を買ったあとは、今度は私がスーツを買ってもらう番になる。
中国の習慣で、結婚式で新郎が着る服は全て嫁さんの家が仕立てるのだという。スーツ、ネクタイ、Yシャツから、なぜか赤いパンツ、ベルトや革靴まで新調してくれるのだ。YANに連れられて紳士服売り場をぐるぐる回る。このデパートにないから、次のデパートへ、次はショッピングセンターへ、おいおい、私の体調のことも考えてくれよ。
ようやく見た目と質と値段が釣り合う紳士服ブランドが見つかり、試着をする。服務員に案内されて試着室に入ると、そこはデパートの倉庫のようで、段ボール箱が乱雑に転がっている。中国らしいなあ。日本の「洋服の青山」並みの値段がする紺色スーツと、真紅のネクタイ、ドレスシャツをYANに買ってもらったところで、ちょっと限界が来た。
「老公、大丈夫?脂汗をかいているよ」

とりあえず、今日の買い物はこれくらいにして、といっても夜8時近いけど、夕食に行くことにした。
やはり中国で冷たいものや生ものは禁物だろうから、李先生加州牛肉面で牛肉ラーメンを頼む。だけど食欲が失せてしまい、がんばって麺だけでも口に入れるけど、のどを通っていかない。ほとんど食べられずに店を後にすることになった。
「老公、少しは食べないと体力が出ないよ」
うん、分かっているけど。
薬局に寄って即効性のある胃腸薬を求め、心配してくれるお兄さんに礼を言って別れ、2人でホテルに戻った。部屋に辿りつくと、今度は私がトイレに駆け込む番だった。
ロマンチックなはずの結婚初夜は、こうして夫婦が一緒にお腹を壊し、お互いに濡れタオルを絞ったり、背中をさすったりの介護をしながら、まんじりともせずに腹痛に耐える忘れがたい一夜になってしまった。

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夫婦の初の共同作業? 9月18日

笑い事ではなく、本当に苦しい一夜を過ごした私たちは、腹痛と下痢がようやく収まった明け方近くに少しうとうとしただけで、2人とも体調は最悪、食欲も全くなかった。
本来ならば、公証書一式を昼に受け取りに行くまで、長春郊外にあるディズニーランドもどきの遊園地にでも行こうかと話していたのだが、これでは遊園地どころかホテルの朝食も無理そうだ。そこで、早朝で申し訳ないけれど、お兄さんに助けてもらって2人で病院に行くことにした。
朝6時に携帯で起こされたお兄さんは、私たちの夕べの惨状を聞いてびっくりし、とにかくアパートまで来るように言った。なんでも、大きな病院だと患者も多く待ち時間も長くなる。とりあえずはアパートの近所にある開業医に診察してもらった方がいいだろうとのこと。私たちがホテルをチェックアウトしてタクシーで向かっている間に、お兄さんは内科診療所に連絡を取ってくれた。

道端で心配そうに私たちを待っているお兄さんを見つけてタクシーを下りる。
中国ではアパートの1階にいろいろな店舗が入っているけれど、そのひとつに内科診療所があった。お兄さんから連絡を受けた白髪の医師とおばさんの看護婦が準備をして待っていた。
「どれ、べーしなさい」診察の方法は中国でも同じか。
「うーん、疲れから来る胃腸衰弱だね。点滴を打って少し休めばよくなるよ」
ベッドが2つ並べられて栄養剤の点滴がセットされる。あの、針は使い捨てですよね・・・
「心配しなくていい、今では全部使い捨ての針を使っているよ」
先生は点滴セットの箱を取り出して説明してくれた。
点滴の値段は1人150元だったが、体が無事ならば安いものだ。しばらく日本のことなど雑談をしていた先生は、ゆっくり休みなさい、と言ってカーテンをシャーっと閉めて出て行った。私たち夫婦の最初の日は、夫婦で診療所のベッドに並んで横たわり、一緒に点滴を受けた記念すべき日になった。あーあ。

点滴が終わって、診察代を支払って、先生にお礼を言って診療所を出る。だいぶん体が楽になって、しゃんと歩けるようになったものの、夕べはほとんど寝ていないのでとにかく眠い。私たちを看病したせいで遅れて仕事に出て行くお兄さんからアパートの鍵を預かり、部屋で再び横になったけれど、アパートの外では、長春市内一斉にサイレンが鳴り響いてすんなり眠らせてくれない。

いったい何だろう?今日は9月18日、ということは、柳条湖事件(満州事変)の日か・・・1931年9月18日、関東軍が自作自演で満鉄線路を爆破し、それを中国の仕業として東北一帯を占領、清朝のラストエンペラー溥儀を担ぎ出して満州国建国に突っ走った。
それは、日本が「日露戦争10万の英霊」の犠牲によって得た「生命線」と称していた満州で(しかし、そこは中国の土地なのだが)子飼いの軍閥だと思っていた張学良が蒋介石率いる国民政府に接近し、中国内地と東北が統一されて自分たちの権益が損なわれることに焦った関東軍の暴走だった。
当時、大恐慌と政党政治不信に喘いでいた日本は、本国政府の不拡大方針を無視する関東軍に引きずられるように、国際連盟からの脱退、日中戦争、太平洋戦争と軍部の暴走を許し、破滅の道を歩んでいく。

柳条湖事件はあまり日本では注目されないけれど、中国では9.18が国辱の日として記憶されている。
私もわざわざ9月18日に結婚登記をすることもないと考えて、1日早くしたのだ。まあ、だからといって反日的な扱いを受けることもなかったけれど、町から聞こえるサイレンはたぶん中国共産党による「愛国精神」を高めるために、防空演習かなにかしているのだろう。
吉林省の省都・長春市はかつて満州国の首都・新京として、日本によって建設された計画都市。タクシーで走っていても、広い並木道に面してそびえる天守閣を模した共産党省委員会、かつての関東軍司令部とか、日本風の建築物を多く目にすることができる。歴史的に日本との深い関係を持った場所なのだ。

昼になってようやくベッドから起き上がり、お兄さんが買ってくれたパンや果物、栄養ドリンクで昼食にする。アパートの部屋に鍵をかけて、タクシーで昨日の省政府民政大楼へ。もうすでに窓口に公証書の書類ができており、これで中国での結婚関係の手続きは無事終了した。
市中心をぶらぶらしたあと、アパートに戻ると、お兄さんが私たちを心配して、わざわざ仕事を早く切り上げて帰って来てくれた。何から何まで、お兄さんに世話を焼かせてしまって恐縮する。
「青木さんはどこか行きたい場所がありますか」
お兄さんに尋ねられたので、按摩を受けたいとお願いした。じっくりマッサージをすれば、変調をきたした体もすっきりするかもしれない。3人でアパートの近くにある美容健康按摩院に行き、90分間じっくり念入りにマッサージをしてもらった。ベッドにうつ伏せになってゴリゴリつぼを押されると、何だかもう、「ああー」という呻き声しか出ようがない。体のバランスが元に戻りつつあるのを感じる。

なんとか食欲も出てきたので、そのままウォルマートまで歩き、ケンタッキーのハンバーガーで夕食にする。あとは軟調なお腹が早く元に戻ってくれるだけだ。図們へ戻る列車の時間が近くなり、荷物をまとめて3人で長春火車站へ。今度はタクシーでなく、できたばかりのLRT軽軌道に乗っていく。
火車站でさんざん心配をかけてしまったお兄さんにお礼を言って別れ、私たちは夜行列車の人になった。
「今度は私たちの結婚式のときに、図們で会いましょう」
さて、今回の夜行列車は硬臥の一番下のベッド。あまり揺れが気にならない。まあ、それ以上に疲れ果ててしまったので、横になった瞬間にコトンと眠りに落ち、2人とも泥のように眠り込んだのだった。

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婚紗撮影 9月19日

早朝6時頃に列車は雨の図們火車站に到着した。私たちの体調は、お腹がゆるいことを除けばまあまあ良くなった。タクシーで家まで帰り、お父さんとお母さんに結婚証を見せながら、大変だった長春での2日間を語った。電話で事情を聞いていたお母さんは、お粥を炊いて待っていてくれた。心配かけてすみません。
今日は忙しいので、朝食後、服を替えてミニバスに乗り図們の町に引き返す。
婚紗撮影では事前に体を洗っておくこと、となっていたので、途中で下車して銭湯「太平洋洗浴」でシャワーを浴び、体と髪を洗ってひげを剃る。このときばかりは時間が押しているのでさっと済ませたが、再び雨の中へ飛び出すので下手をすると風邪を引きそうだ。

タクシーで「ローマ風情婚紗撮影」に乗り付けると、もう準備はできていた。今日は残念ながら雨降りなので、戸外撮影は中止、すべて店内でのセット撮影だという。まず、時間をかけて新娘の化粧が行われる。女性マネージャーとアシスタントが2人がかりで上海の最新流行メイクを施してくれるが、強烈なライトを当てて撮影するので、結構な厚化粧だ。私の新郎の化粧は簡単に終わる。
それから、ウェディングドレスやチャイナドレスを1階の衣裳部屋とっかえひっかえ着替えて、私も新郎の衣装に替えて、2階の撮影スタジオとの間を忙しく往復した。セットがいろいろ組まれて、扇子や造花から、ブランコに至るまでの小道具も揃えられて、女性カメラマンからポーズの指示を受ける。
「まだ表情が硬いよ。緊張しないで、はい笑って、こっちを向いて」
手をぱちぱちやる方に向け、ということだけど、私は眼鏡を外しているのでよく分からない。
いかにもなポーズを取るのが気恥ずかしい私が、カメラマンから盛んに「新郎の表情が硬い、表情が硬い」と注意されるのに比べ、YANは実に楽しそうにポーズを決めている。さすが中国人の写真好き、撮られ好きは違うなあ。中国の観光地などに行くと、みんな往年のアイドル雑誌ばりの決めポーズをしているのだ。
それに、中国人は結婚だけに限らず、成人の記念に、赤ちゃんの成長に、とあらゆる機会にマイ写真集を作ってしまう。これだけ写真館が流行るはずだ。


やがて、お母さんが「ローマ」に現れた。1日に及ぶ撮影の間、昼食を取る時間もないので、お母さんがミネラルウォーターやビスケットを買って持ってきてくれたのだった。市内に住むYANの友達数人も、結婚写真を撮ると聞いて「ローマ」に見学に来たので、ギャラリーもモデルの撮影会なみににぎやかだ。私たちが着替えて撮影するのを後ろから見て、「YANはきれいだねー」と感嘆している。
ちょうど結婚写真の予約に現れたカップルも、「わざわざ日本から結婚写真を撮りに来た人がいるんですよ」と聞いて、私たちの撮影現場を見学して行くので、やっぱり恥ずかしい。
やっと撮影が終わったのは午後3時近く。
お腹が減っているので、洗顔したもののバリバリにメイクが残った顔のまま、歩行街のお粥屋でお腹にやさしいお粥を食べて、家に帰った。

その晩、初めてYANの家で枕を並べて寝た。
両親は居間にふとんを敷き、私たちはパソコンのあるYANの部屋にふとんを敷いて寝る。驚いたのは中国辺境の農村ながら、インターネット環境は光回線であること。うちは負けている。
また、YAN家にはテレビ、DVD、飲料水機、冷蔵庫、洗濯機といった日本にもある家電製品は中国製ながらだいたい揃っている。それで「結婚にあたって必要なものがあれば私が揃えます」と申し出たところ、何も必要なものはないよ、と言っていたのだろう。
ただし、−20度にもなる冬の寒さに耐えるために、かまどで薪を燃やしてオンドルに熱を送り込むことが必要であり、電子レンジとかまどが同居している。一冬を支える薪は、お父さんが秋に山へ行って切り出してくるのだという。中国は全土が国有地だけど、どこで薪を切ってもいいの?
「畑や宅地は個人の使用権が決まっているけど、山には使用権がないから自由に取ってきていいんです」
薪に限らず、山菜やきのこ、薬草、うさぎ・・・といった山の幸は、国有地から取り放題なんだとか。

そして、トイレが問題・・・畑を挟んだ向こうにレンガ造りの小さな建物があり、快適な現代日本の生活に慣れた者にとっては難敵だ。当然ぼっとんトイレながら、夜は電気もないのでトイレットペーパーと懐中電灯を抱え、雨なら傘を持って行くことになる。
YANの妹夫が、このトイレが原因でYAN家に一泊もできなかった、といういわくつきなのだ。
「紙はクズカゴに入れてトイレに落とさないでね。肥料に使えなくなるからね」
私はなるべく町に出たときにきれいなトイレを探そうと心がけたが、背に腹は代えられない。夜になってどうしてもトイレに行きたくなったときは、YANを起こしてついてきてもらった。
「老婆、頼むから懐中電灯を持ったまま、あっちを向いててくれないかな」

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台風の一日 9月20日

結婚写真を撮った次の日、延辺に台風がやってきた。といっても直撃したわけではなく、日本海上空を通り過ぎていくだけだが、それでも朝から結構な強風と雨が窓ガラスを叩いている。
中国南部では台風は珍しくないが、東北で台風というのは意外な気もする。だけど、ここは北朝鮮をはさんで日本海までほんの少しの距離なのだ。気候も穏やかな海洋性というか、ばりばりに乾燥していた内陸部の長春市とは違う。そういえば、YANも「長春は空気も水も悪いから、すぐお腹を壊す」と言っていた。

台風のために今日は家の中で休息、テレビを見てすごす。
ただでさえ広くて山地も多い中国では省単位のテレビ局も衛星放送になっている。それで、延辺にいながらテレビをつけると、湖南衛視や浙江衛視、山東衛視など、全国の地方チャンネルを見ることができる。大陸のテレビ局は全て中国中央電視台・CCTV系列の官営放送なので、全国ニュースは一斉に同じ内容になるけれど、ドラマなどは新旧のドラマも、本放送も再放送も関係なく流れているのが中国らしい。

この頃、中国の各テレビ局でよくやっていたのは「家有児女」という一話完結のホームドラマ。第一部から第三部まで、それぞれ百話近くあるドラマが時間を問わず同時平行で放送されていたから、実際には2〜3年前に作られたものだろう。
実は日本のスカパーでもやっていて、私もちらっと見たのだけど、離婚家庭で、継母で、異母兄弟で、といった設定にかわいそうな子どもの話だと早合点してじっくり見たことはなかった。中国で見ると、都会で暮らす子煩悩のパパとすぐ怒るママ、しっかり者の長女、いたずら好きの長男、甘えん坊の末っ子、という家庭のコメディドラマで、ワハハという外野の笑い声など、ちょっとアメリカっぽい作りだ。
アメリカからの帰国子女という設定は、一人っ子政策がある中国の事情のせいだろうか。結構子どものいたずらが強烈ながら、そこは中国だけあって教育的にまとめられているし、笑いもあればじーんとさせるところもあって好きなドラマだった。日本でもNHKでやらないかな。

さて、そうした多チャンネルの中に、韓流ドラマをそのまま流す延辺朝鮮語テレビも混じっている。
延辺朝鮮族自治州は人口の4割を朝鮮族が占める中国でも異色のエリア。さらに国境の図們市だとその数は6割近くになるという。町には漢字と並んでハングル文字が併記されているし、漢族の料理や家も、朝鮮族の影響を受けている。中国の辺境にしては、ちょっと懐かしい感じがするのは韓国・朝鮮文化と日本文化が似ているせいだろう。
すぐ隣に北朝鮮という厄介者を抱えているものの、自治州という名前がついても旧ユーゴのコソボ自治州などと違い民族紛争の影はない。ただし、韓国との見えない領有権争いがあるのが心配なところだ。

もともと、伝統的な中華世界とは延辺からはるか離れた万里長城の内側を指し、その外側は遊牧民族が暮らす野蛮な土地とされていた。しかし、17世紀、ヌルハチが満州族を統一して清朝を建て、その子ホンタイジが山海関を破って中国内地へ攻め込むと、あっという間に漢族の明朝を滅ぼしてしまう。
こうして長城の内外がひとつになったものの、中国では幾多の征服王朝が中華文明に感化され、漢族に飲み込まれた歴史を持つ。そこで清朝は、支配者の満州族が圧倒的多数の漢族に埋没しないよう、故地である東北への漢族移住を禁止し、中でも民族聖地・長白山周辺には一般人の立ち入りを許さなかった。
こうして人口希薄になってしまった東北に、19世紀にロシア、20世紀には日本が進出してくる。1860年にはアヘン戦争、アロー戦争のどさくさにまぎれてロシアに広大な外満州(沿海州:ウラジオストックとはロシア語で「東方を征服せよ」という意味)を奪われ、中国は日本海への出口を失った。同年、清朝政府がようやく東北移住と開拓の奨励に踏み切ると、なだれを打って漢族が流れ込んで東北の最大民族となった。

YAN家のお爺さんによれば、YANの一族はこの頃、はるか雲南省から移住してきたのだという。
一族の歴史を綴った「家譜」には、中国各地を転々としてきたルーツが記されていたが、文化大革命によって失われてしまったそうだ。ちなみに、中国人の伝統的な名前の付け方には「家譜」に従って漢字を選ぶ決まりがある。初代が「忠」、二代目が「孝」、三代目が「義」というように、親族の名前に同じ字を使い、子々孫々に至るまで「家譜」で使う字が決められているのだ。そのため、親戚の中で誰がどの字を使うかによって何代目に当たるかが一目瞭然、上下関係は単なる年齢ではなくて、代が早いほうが上になる。
もっとも、「家譜」が失われた現代、決められた漢字で子どもに名前をつける習慣はないようだ。

さて、禁地だった長白山周辺の延辺地方(韓国では間島地方)には、李朝朝鮮や清朝の圧制を逃れて住み着く人がおり、いつの間にか朝鮮族と漢族が混住する地域になっていた。両国は「トゥーメン江を国境にする」と決めたが、ここで問題が発生する。長白山には「豆満江(図們江)」と「土門江」という2つの川があって、どちらも「トゥーメン江」だったからだ。(トゥーメンとは満州語で「源流」の意味)
結局、韓国併合を狙っていた日本が、清朝に取り入って中国に有利な「豆満江」を国境にすると同意した。
こうして中国領になった延辺には、日本の植民地支配に抵抗する朝鮮人が逃げ込んだり、さらに日本によって朝鮮人開拓団が大勢送り込まれたため、やがて朝鮮族が多数派を占めるようになった。
しかし、豆満江を国境と決めたのは日本と中国であって、当事者の韓国ではない。当然、韓国は納得していない。これが間島領有権問題だ。

北朝鮮は中国の意に逆らえないので国境問題はないけれど、もし韓国によって朝鮮半島が統一された日には、朝鮮族の多いこの辺りはちょっと複雑になってくる。中韓両国が日本との間に抱える竹島や尖閣諸島といった無人島の争いと違って、200万人もの人が暮らす土地、しかも韓国人にとっても民族発祥の聖地である長白山(韓国では白頭山)を擁する地方だからである。
中国政府は先手を打って「東北工程」なる歴史研究プロジェクトを発足させている。そもそも中国東北部で興亡を繰り返した高句麗や渤海といった民族的に朝鮮系統の国々も全て中国の地方政権であり、韓国だって中国の一部なんだぞ、と言っているわけだ。対する韓国には間島返還要求の動きもあると聞く。
北朝鮮情勢も含めて、目が離せない地域なのだ。
もっとも、YANも含め延辺に暮らすどれだけの一般人がこの問題を深刻に捉えているかは分からない。
YANは日本でテレビを見て「北朝鮮ってこんなひどい国だったんですか?中国ではこんなニュースはやらないよ」と言っていたし。

ここで台風の話題に戻ろう。
図們の町へミニバスで行く途中の川原に、ごみの埋立地があった。
中国では、都市はともかく、ちょっと田舎になると社会インフラの整備がちぐはぐだ。YANの村には電気や光回線が来ていても、上水道があるのに下水や浄化槽はない。ごみはレジ袋にまとめて家の前に出すと、「ごみ屋さん」がリヤカーで集め、売れるものをより分けたら、不要物は川原に捨てる。そのため、埋立地はリトルスモーキーマウンテンのようになっていた。
台風の翌日、図們に向かうと、豆満江の支流が増水して埋立地がすっかり水没していた。環境保全なんてないも同然だ。数日後、またそこを通ると、埋立地がごっそりなくなっている!あ、ごみの山が流されたよ!
「ん、ごみ?大丈夫よ、ぜんぶ北朝鮮へ行っちゃったから」
そういう問題か?その向こうは日本海だぞ。

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延吉へ行く 9月21日

この日の早朝には日本海の台風も去り、雲間から明るい日差しが戻ってきた。
今日は延吉で姐姐たちに再会することになっている。図們から朝の普通列車に乗って延吉市へ。火車站から歩いていける距離のところに、梅姐の旦那さんが経営する会社があった。
「ニイハオ、梅姐はいますか?」YANが事務員に告げると、大柄な老板が出てきて、妻は出かけているが座って待っていてくれ、と通してくれた。前回、延吉で姐姐たちが私をカラオケ大宴会に招待してくれたあと、「なんでそんな楽しそうな飲み会に誘ってくれなかった」と夫婦喧嘩をした旦那さんはこの人だろうか。

姐夫は笑顔で私たちを招き入れ、社長室にある巨大水槽で悠々と泳ぐ熱帯魚を見せてくれた。
「君たち、お茶はわかるかい?」
私が少しわかると答え、龍井緑茶や鉄観音烏龍茶の名前を出すと、姐夫は喜んだ。
「私は工夫茶が趣味でね。お茶の話ができて嬉しいよ」
そして、小さなコンロや茶瓶、茶海、聞香杯や茶杯などの茶道具セットを取り出し、応接テーブルの上でいそいそと中国式茶道の準備をする。ままごとセットのような可愛い茶道具を、大柄な姐夫がせっせと並べているのも面白い。コンロに載せられた土瓶がしゅるしゅると蒸気を噴き出すと、茶瓶にお湯をかけて温め、一杯目のお茶は濃いので茶海に捨てる・・・
「まず聞香杯で香りを楽しむんだよ」

YANは中国南方の工夫茶を珍しそうに眺めている。東北ではお茶を飲む習慣は一般的ではなく、もっぱらお湯だけを飲む人が多い。YANは烏龍茶もプーアル茶も、日本へ来て初めて飲んだと言っていた。
姐夫が銘茶を買い集めて楽しんでいる工夫茶は、ここではお金持ちの趣味なんだろう。
おいしい、香りが爽やかだ、と誉めると、姐夫はさらに喜んで「このお茶を知っているかね?」と一本の茶筒を取り出した。共青茶とある。いいえ、知りません。
「そうだろうとも、限られた農園でしか作られていない幻の銘茶なんだ」
そして、これを私にくれるという。そんな申し訳ないですよ。YANと相談して、次回は日本の銘茶を老板にプレゼントすることにし、ありがたくいただいた。

梅姐が外から戻ってきたので、私たちの結婚手続きが無事終わって夫婦になったことを報告する。長春で夫婦になって一緒にお腹を壊した話、並んで点滴を受けた話は大いにうけた。
次は近くのマンションに暮らす陳姐の家へ。中国に次々と建ちつつあるヨーロッパ風の瀟洒な高層マンションで、エレベーター付きだ。ドアが開いて中へ招き入れられると、白色の内装がまぶしい、まるでアメリカの映画に出てくるような豪邸だった。私の給料では日本ではこんな家に住めないだろう。陳姐にも私たちの結婚を報告して、人生の先輩から結婚生活や子育ての話を聞いた。
そろそろ時間はお昼頃。久しぶりに姐姐たちがYANと私を昼食に招待してくれるという。

梅姐の旦那さんが運転するアウディがマンションの前にやってきた。
「何か食べたいものはあるかい?」
あの、恥ずかしいですが、刺激の少ないものをお願いします。
「火鍋なら体も温まっていいだろう」
レストランを選んでもらう。昼休みになり、陳姐の旦那さんもやってきた。
「じゃあ、乾杯しようか」
ビールは控えたいところだけど、せっかく姐姐と姐夫たちが私たちを祝ってくれるので、少しだけお付き合いした。陰陽の2つに分かた火鍋は片方は激辛スープ、もう一方が清淡スープになっている。私もYANも普段は激辛大好きなんだけど、今日はがまん、がまん。

ご馳走になって姐姐たちと別れ、デパートで革靴を買って図們へ帰った。
まだ時間が早いのに戻ってきたのは、図們でいろいろ用事が残っているからだ。
まず、火車站に近い旅行会社に行って明日の長白山日帰りツアーを申し込む。もともと延吉発着のツアーらしいが、図們市までタクシーで送迎してくれるという。
「では、どこのホテルにお泊りですか?」
YANが郊外の農村だと言うと、服務員が驚いた顔をする。タクシーの運転手が朝4時!に集落の中の道を来てくれるのだろうか?私たちは分かりやすいようにバス道路まで出て待っていることにした。
手続きをしている間、壁に貼られたツアー案内を眺めていると、北朝鮮観光も用意されており、「アメリカ人と韓国人は参加できない」と注意書きがある。一時期、北朝鮮は外貨稼ぎのためにカジノを作ったが、中国の地方腐敗官僚たちがこぞって公金をすってんてんにした結果、中国政府が怒って閉鎖させたらしい。
図們発の海外ツアーにはロシアもある。そういえば、ここでは観光バスでやってくる白人団体客をよく見かけるが、ロシア人の「購売団」で、延辺で中国製品を買い付けてロシアで売りさばく商人たちだという。

次に「ローマ風情婚紗撮影」に出向いて結婚写真を選んだ。
デジカメ画像をパソコンから選んでいき、手直ししたい写真には修正をかけることもできる。たくさんポーズを取らされたので、衣装によっては結構似たような写真が多いけれど、その中からどれか選べ、と言われると大いに迷ってしまう。あれも、これも捨てがたい、なんてやっていると予定枚数を大幅にオーバーするのだ。
「旦那さん、どうしますか?」
若いながら商売上手なマネージャーに聞かれて、私はYANのために選んだ写真を全部買うことにした。予定枚数を越える分は追加料金が発生するので、セットで3888元のつもりが結構高くついてしまう。
まあ、仕方ないか。

せっかくなので、図們で2人でご飯を食べて帰ることにした。歩行街の一角に新しくオープンしたばかりの韓国料理店を発見し、ビビンバを食べることにした。おや醤湯がある、これって日本の味噌汁じゃないの?ゲソのから揚げを頼んだら、食べきれないほどの量が出てきた。
いい店を見つけたなあ。次回もまた、ここへ来ようか。

ところで、この日、延吉長途汽車站で乗り込んだバスでの出来事について。
出発前の高速バスに、手になにかペラペラの冊子を抱えた中年男が入ってきて、低い声で「5元、5元」とつぶやきながら乗客にガリ版の冊子を示して通路を歩いてくる。何だろう?
ちらっと表紙を見ると、「実録!党中央権力抗争、某地区党某書記の腐敗を暴く!某重大事件の真相!」などといった不穏でセンセーショナルなタイトルが並んでいる。地下出版された反政府雑誌だ。
もちろん、公安に見つかったらただじゃ済まない。ところが、無関係とばかりに無視する人がある一方で、多くの乗客が何事もないかのように中年男からガリ版雑誌を受け取り、そそくさとしまい込むので驚いた。

中国政府がテレビ、新聞といったメディアを官製ニュース一色に染め、ネットの世界では、個人的なメールに政治的に微妙な語句を書き込んだだけで「警告」が発せられるほど(本当に「警告」されたときは驚いた。どこで見ているんだ)神経質に監視網を張り巡らせても、老百姓の口や耳を押さえることはできないのか。
ただでさえ、地方の党・政府の腐敗がひどく、この国では農民一揆が年間数万件も起きている。
社会主義を標榜し、「労働」とか「人民」といった言葉をあちこちに掲げているにも関わらず、都市戸籍と農村戸籍が差別され、圧倒的多数の農民には健康保険や年金制度といった公的セーフティネットがない。老百姓にとっては、何かあっても自助努力しかないので、中国では貯金志向が高いのだろうか。
(ここはちょっと怒って書いている。「最も成功した社会主義国」と揶揄された日本でも最近は怪しいものだけど、それでも社会政策は中国政府よりずっと上等だ)
市場経済の恩恵にあずかれない庶民には相当な不満があるのだろう。歴代王朝が農民反乱によって倒されてきた中国、自らも腐敗した国民党を追い出して政権を打ち立てた共産党は、怒れる農民を公安権力で抑えられると思っているのか。
「老公、あなたは外国人だから関心を示しちゃだめよ。無視して」
もちろん、危ないところには近寄らないけど。


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長白山新婚旅行 9月22日

まだ真っ暗な午前3時に腕時計の目覚ましを合わせていた。
お父さんやお母さんに迷惑がかからないようにゴソゴソ準備をしていたら、結局、両親を起こしてしまった。
ここで、9月と言えども明け方は冷え込むことに気づく。長白山は標高2700mもある、きっと寒いだろう。
起こしついでにお父さんにお願いして、オーバーを借りて羽織った。ビスケットやソーセージは昨日図們の町で買っている。旅行用のディパックに入れて準備はOK。そろそろと家を出た。
空には満天の星空が広がっている。今日はいい天気になりそうだ。
ミニバスの通る道路に出て待っていると、やがて町の方向から1台の車が走ってきた。こんな田舎道を深夜に通る車は滅多にいない。旅行会社が手配したタクシーはきっとあの車だろう。
果たして延吉まで送り届けてくれるタクシーだった。運転手も私たちに気づいて少し離れた場所に停車する。ただし、ここは中国、私たちも深夜にやってきたタクシーを大丈夫かと警戒するし、あちらもこんな辺鄙な場所を指定してきた客は大丈夫だろうかと伺っている。
「長白山ツアーのお客さんかい?」
そうだ、と答えると運転手もほっとした表情になった。

ほとんど交通量のない明け方の高速道路を飛ばすと約30分で延吉の町に到着してしまった。いままでの最短記録だ。タクシーは延吉の中心部にある4星ホテルの前に止まる。玄関先に大型の観光バスがエンジンをかけて待っていた。ここから長白山ツアーのスタートだ。
ガイドさんに2人の名前を告げてバスに乗り込む。私たちは第一号の客だった。ぽつぽつと今日の参加者が集まり始め、8割方の座席が埋まったところで観光バスは出発する。まだ時間が早いので、できる限り睡眠をとっておこう。

延吉は長白山観光の拠点として知られているが、実は長白山までは240kmも離れており、その間にほとんど町がないという。だからツアーは早朝5時出発で夜7時帰り、片道約4時間を要する大旅行になってしまうのだ。しばらく延吉郊外の農村部を走って、安図県城の火車站に到着、数人の客を乗せるとうねうねと山間部の道を登り始めた。
車窓には白樺林に囲まれた湖や、朝もやに包まれた深い森など、信州の高原を思わせるような風景が続いて美しいけれど、ひたすら同じ景色なのでじきに飽きてしまう。
ところどころに稲刈り前の田んぼが広がる朝鮮族の農村が点在し、オンドルの煙が煙突から出ていた。延辺は寒冷地ながら米どころで、朝鮮族が作るお米はおいしいと有名なのだという。
観光バスが集まるドライブインで朝食になる。バイキング形式におかずやお粥、ご飯、スープが並んでいて、自由に取っていく。キムチが豊富に出ているので朝鮮族の経営だろうか。延辺では漢族もキムチを漬けるけど、どうしても朝鮮族にはかなわないそうだ。
バスガイドさんはここが最後のトイレ休憩になると言うので、ぽつんと離れた公衆トイレに行ってみる。場所があやしいが、果たして今まで中国で見た中でも最悪の部類だった。みんなきれいに使おうよ・・・

バスは丘陵地帯をゆるやかに登り下りして走り続ける。黄金色の田んぼに囲まれた小さな町がようやく現れたと思ったら、そこが長白山の登山基地になる二道白河だ。はるか向こうに、たくさんの峰を連ねた巨大な山塊がそびえているのが見える。あれが長白山か・・・山頂から麓にかけて優美なスロープを引いていることからも、火山であることは分かるけれど、御嶽山や乗鞍岳、白山といった日本の火山に比べてもとてつもないスケールを持っている。
二道白河からは道路はまっすぐに斜面を登り、コメツガやモミといった針葉樹の原生林の中をバスは走る。日本で言えば亜寒帯か亜高山帯の景色そっくりで、ここが中国だと思えないくらいだ。
だいぶん高度が上がり、回りの木々が紅葉を始めた場所に長白山の山門が現れた。観光バスや一般車両は山門で通行止になり、ここから上へは入場料を払って自然公園専用の低公害バスに乗り換える必要がある。以前YANが来た頃はマイカーで山頂まで行けたというが、今では中国でも環境保護に取り組むようになったのだろう。

ツアーごとにまとまってガイドさんの後ろを歩き、山門をくぐった場所で現代的なデザインの低公害バスに乗り換えた。バスには満州族の民族衣装・旗包(チャイナドレスの原型)を着たガイドが乗っていて、長白山の概要を説明してくれる。この山は朝鮮族の民族発祥伝説がある聖地で、韓国人にとっては日本でいう富士山のような存在らしい。清朝の支配民族だった満州族にとっても民族発祥の地として崇められたため、かつては一般人の立ち入りが禁止されていた。そのため、豊かな自然が手付かずのまま残されており、熊や虎などの野生動物が生息している。
やがて、バスは運動員村駐車場に到着、また乗り換えになった。今度は目の前にそびえる長白山の峰のひとつ、天文峰に登るという。駐車場には観光パジェロが次々とやってきて、客を乗せて山へ向かっている。

長い行列を作ってパジェロに乗り込むと、安全のため運転手からシートベルト着用を指示された。
しかし、この運転手の格好は何だろう、黒いスーツに黒いネクタイ、サングラスと完全にマトリックスである。ぎゅるるる・・・パジェロが発進すると体にGがかかった。なんて急発進をするんだ、危ないじゃないか。
山頂から下りて来る対向車があるというのに、マトリックスの運転手はものともせずにヘアピンカーブに突っ込み、タイヤをきしませながらぶっ飛ばしていく。どうやら、料金を取って山頂まで客を乗せる以上、スリルを楽しませないとなあ、という趣旨らしいのだが、あまりのスピードに車内は凍りつき、体を支えるのが精一杯で会話もままならないほどだ。
タイヤは2日で交換するほど消耗が激しいという。どこが環境保護なのか。
あっという間に針葉樹林帯を飛び出してダケカンバ林を越え、森林限界になると下界の眺めが開ける。どこまでも樹海が広がって、周囲に人工物がない。かすかに遠く見えるのは二道白河の町だろうか、樹海の中に浮かぶ島のように見える。中国東北の広大さを実感するときだ。
道端には見事なつららが下がって、山頂はもう冬だと思う頃、パジェロはレストランのある天文峰の駐車場に滑り込んだ。ああ、お疲れ様でした。さっきの運動員村からものの10分もかからなかった。

火山灰地特有のザラザラの登山道を、息を切らしながら滑らないように慎重に進んでいく。
標高2670mの稜線に出ると、足元に真っ青な「長白山天池」の眺めが広がった。さらに天文峰の稜線を辿ると、見る角度によって天池が姿を変える。湖面の標高が2194mだから、標高差は500mほどか。
南北5km、東西3km、最深部は312mにも達する天池には、ネッシーに似た怪獣が棲むといわれ、目撃例も多く新聞を賑わせている。どことなく神秘的な雰囲気を湛えた美しい湖だ。湖畔は高山植物のお花畑になるが、長白瀑布から2.4km、標高差300mの登山道を登る必要がある。
湖の対岸は北朝鮮。テレビでもよく見る北朝鮮の映像には必ず白頭山(長白山の韓国語名)天池と不自然な笑顔の将軍さまをセットに描いた絵画が登場する。北朝鮮では、あの山頂に金正日将軍さまが降臨されたという神話を信じ込ませているそうだ。さすがは世界に冠たる新興宗教(主体思想教)国家だ。
一方、後ろを振り向けば、どこまでも東北平原が広がっており、長白山の自然などは日本にも似ていながら、そのスケールの違いに驚く。これを大陸的というのだろう。

あのスピード恐怖症の人には耐えられないだろう観光パジェロで運動員村駐車場へ戻ると、ガイドさんが弁当を配ってくれた。昼食後は、再び低公害バスに乗って、川の上流にある長白山温泉に向かう。
周囲を山々に囲まれたU字谷の底に、終点の長白山温泉がある。谷沿いに湧く温泉は最高温度が82度、一般的な温泉でも60度近くあり、あたり一面から湯煙が上がっている。なんだか中国離れした風景だ。
温泉といえば、名物はやっぱり温泉卵で、あちこちに温泉卵を茹でて売っている人がいる。
ここには韓国式建築のホテルが数軒あるほか、日本式露天温泉とうたった共同浴場もあって、午後の観光は日本式露天風呂入浴か、長白山温泉から遊歩道を1km歩いて長白瀑布を見に行くかの選択になった。この温泉は入浴料が80元という日本以上の値段だ。だけど、中国人観光客は温泉だ、温泉だ、と言って入っていく人も多い。

私たちは日本でも入れる温泉はいいから、天池から流れ出す水が、落差68m、中国東北最大の滝になって落ちている長白山瀑布を見に行くことにした。長白山温泉からダケカンバ林の中の遊歩道を約1km歩くと、滝を見晴らす河原に出る。遊歩道のあちこちにも温泉が湧いており、適温の場所には足湯の設備もある。
長白瀑布の横には、落石防止のロックシェードで守られた階段が、標高2194mの天池湖畔まで延びている。さらに徒歩で約1時間半は必要になる。

秋の晴天に恵まれて、大満足の長白山観光ツアーだった。最後に長白山名物だという観光鹿園に寄って漢方薬や朝鮮人参の販売があり、暗くなってから延吉を経て図們に帰った。

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但願人長久 9月23日

明日24日の朝8時に大連を発つ飛行機で日本へ帰るため、延辺滞在は今日が最後だ。
私たちは中国の手続きに従って正式に夫婦になったけれど、YANが日本に来るためにはまだ日本で市役所に出す婚姻届や、入国管理局への在留資格認定申請、日本領事館でのビザ申請といった複雑な手続きが残っている。私が日本へ帰って準備を整え、配偶者ビザが下りたところで再び迎えにくることにした。

お父さん、お母さん、YANと一緒に餃子を包み、水餃子にする。家族が帰ってきたとき、家を離れるとき、何かある毎に餃子を作るのは中国東北の習慣だ。私も前回教えてもらって多少は上手になったかな。
「老公、まだまだ下手だね。私が日本へ行ったらしっかり教えてあげるからね」

頼んでいたミニバン面包車がやってきて、みんなで乗り込み延吉の町へ行く。夜8時の飛行機にはまだまだ時間があるので、その間、延吉のデパートで日本へのお土産を買うことにした。YANのお父さんには、朝鮮人参や山ほどもある木耳など、特産品をたくさんお土産に頂いたけど、私はまだ欲しいものがあった。

それは「月餅」、そう9月25日は2007年の中秋節に当たるので、デパートの正面には月餅の特設売り場が設けられ、贈り物に月餅を求めるたくさんの客で賑わっている。
「これはうちに、これは職場に、これは親戚に・・・」
YANと指折り数えながら、いろいろな大きさがあるパッケージを選んで買った。
「これはひとつ余るんじゃない?」
大きい月餅の箱を指してYANが聞く。ああ、これはYANの家に私からの贈り物。

中秋節の空に上る満月は、家族団らん、大団円の印でしょう。私たちは少しの間離れるけれど、YANは延辺で私を待っていてね。蘇軾の宋詞にあるでしょう、「但願人長久、千里共嬋娟」って。
「千里離れていても同じ月を見ていますって、王菲の歌ですね」
うん、あなたのことをずっと想っているよ。

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