台湾旅行記 台湾迷走記 本文へジャンプ


テロと台風

 あれは世界を揺るがせた2001年9月11日。
 
私はニュースを見ていた。画面の向こうでニューヨークの国際貿易センタービルが黒煙をあげ崩れ落ちて行く。その1週間後、私はニューヨーク旅行を控えていたのだ。

 航空券、ホテルはもとよりミュージカルなど全ては手配を終え、代金もすでに支払ってあとは荷物をまとめるだけだったのに、楽しい旅の予定はビルとともに崩壊していった。

事件の翌日になっても状況は混乱を極めており、飛行機は全ての便が運行停止になった。気になるのは1週間後のことだが、犠牲者が出続けている今、自分の予定など相談してよいものか。

 私が旅行社に電話したのは、それから3日後のこと。

 幸いなことに状況は多少の落ち着きを取り戻し、旅行社の対応も誠実なものであった。聞けば、支払い済みの代金はミュージカルチケットを除き、航空券とホテルは全額が払い戻してもらえるという。

まずは一安心である。だが、考えてみれば私は仕事の夏休みを取ってしまった。連休をはさんだ1週間、国内旅行では間が持たないし、かといって家にいるのは退屈すぎる。なにより、海外旅行を楽しみに働いてきたのに未練が募っていいはずがない。

 ニューヨークの代わりになる旅行先はどこか?アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリアは飛行機が飛ぶ見込みが立たないし、2次、3次テロの可能性もささやかれている。

韓国、タイは面白そうな国だが、言葉も文字も分からないまま自由旅行するのはつらいかも。

中国なら言葉も大丈夫、実は本命なのだが、1週間ではビザを取得する時間がない。

 私は地図を眺めながら思った。やっぱり台湾か。

私は何度か中国語教室の仲間とともに台北とその周辺を電車やバスでまわる旅行をし、地下鉄MRTを中心とした台北市内にはちょっと詳しくなっていた。

 翌日、再び旅行社に電話を入れた。往復の中華航空チケットを予約し、払戻代金から差し引いてもらうことにする。旅行保険はニューヨーク用にかけたものがそのまま使えるという。

ホテルは以前泊まった台北駅前の天成大飯店へ家から電話して1泊分を確保した。

これでOKのはずだった。でも私はついていなかった。

 沖縄上空の台風16号である。その名前を聞いてから実に2週間、私がとっくに忘れていた台風がまだ沖縄のあたりをうろうろしていたのだ。
やがて、出発日が近づくにつれて、あろうことか台風まで台湾に接近しつつあった。

悪いことは重なるもの。台風は旅行4日前に台湾に上陸すると、その名も納莉台風という中国名に改めて近年にない猛威を振るいまくった。なんせ時速6km、天気図上の位置が全く移動しないまま、3日間も台北上空に居座り続けたのである。暴風雨によって大洪水が起きたらしいが、テレビの報道は相変わらずテロとアフガン攻撃の準備に終始して、隣国の惨状を伝えてはくれない。唯一の情報源はパソコンで見る台湾のヤフーのみであった。

 私はテロと台風を恨んだけれど、どうしようもない。行くか行かないか決定せねば。

そして、決めた。台北へ行こう。現地を見れば何ができるか分かるだろう。

   

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水害の町へ


中華航空機は台湾上空に近づいている。窓の外には台湾北部の海岸線と中央山脈の山々が青空の下に広がり、川から海へ流出する泥水の筋が水害のあとを物語っている。

 ラッキーにも旅の始まりに合わせて納莉台風は去っていったのだ。

見慣れた中正国際空港には別段の変化はない。高速道路を走る空港バスの車窓からも大した被害は見受けられないようだ。「よかった、被害は少ないのかも」

 しかし、台北に近づくと様相は一変した。許容量いっぱいの水量で流れて行く泥の河、堤防沿いに並ぶ自動車の群は水没して故障したのだろうか。高速道路を下りて商店街に入れば、大勢の人たちが道路に積み重なったゴミを集めたり、掃除をしたり、水害の後かたづけに精を出している。

 台北駅前広場のはずれでバスを降りると、いつもは乗降客であふれる台北駅が今日に限って薄気味悪いほど閑散としている。地下を走る国鉄とMRTがともに水没したのだ。巨大な駅構内から何本ものホースが外に伸びて排水作業が行われているが、玄関に張り出されたお知らせによれば、運行再開のめどは全く立っていないらしい。弱ったなあ。

 ホテルにチェックインすると、フロントが「昨日の到着でなくてよかった」と言う。

なんでも、前日は電源がやられて5時間停電。ロビーは水位が1mにもなりやむなく休業してお客を避難させたのだという。従業員総出による徹夜の大掃除の結果、営業が再開できたらしい。しかし、それもホテルが台北駅の非常電源を共有しているから可能な話で、市内の最高級ホテルといえども、いまだに電気が復旧していないところがあるそうだ。

 部屋で荷を解き、さっそく街へ出る。「地球村英語日語中心」「NOVA電脳」など、語学教室やコンピュータ量販店の看板が派手な色彩で目を引き、新光三越百貨店前の歩道にも人波があふれている。デパートも営業しており一見ふだんと変わりない光景にも思われるが、昼間の繁華街にしては何か暗い。そうか、マクドナルドが閉まっているのだ。

よく見れば街の半分近くの店が閉まって復旧作業中である。道理で暗いはずだ。
開いている靴屋や洋服店の前には人だかりが出来ている。覗いてみると、水に浸かった商品の投げ売りなのだ。路上のワゴンには時ならぬバーゲンセールに殺到する人々の姿が・・・

 台北市が誇る最新の地下鉄MRTが動かないため、私たちはタクシーを拾って移動することにした。ところが、黄色の車体が目立つタクシーは、車線を埋めるほどたくさん走っているのにことごとく無視されてしまう。手を挙げてアピールしても、どの車にも先客が乗っていて空車がつかまらないのだ。どうしたものか。

 ようやくタクシーが止まった。降りる客と入れ替わりに車に乗り込む。カーラジオからは台風の被害状況が延々と流れている。
台風はひどかったね「ああ、ひどかったよ。車が水没しないように高台へ逃げたんだから」聞けば、台湾東部と南部は暴風雨の被害に遭わなかったらしい。じゃあ、明日は高雄に行こう。でも、と運転手は言った。「鉄道は各地で寸断されて道路も不通。陸路の見込みはないね」うーん、どうしよう。

 交通マヒした台北では、道路の大渋滞が続いていた。信号が青になっても進まない車列、詰まってしまって左折が出来ない交差点、メーターはばんばん上がるが、これなら歩いた方が早いくらいだ。

 ホテルへ帰って部屋のテレビを点ける。ニュース討論番組をやっており、与党と野党の立法委員たちが台風被害の拡大について責任を押しつけあうのも煩わしい。

 今日の様子では台北はあきらめた方がよさそうだ。台北を脱出しよう。



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不思議な九イ分の旅


台北を脱出しなくては。だが、陸路が無理だという以上、飛行機しか手段はない。

その晩、ホテルのツアーデスクに相談すると、国内線は満席が続いているようだ。私は翌日の移動をあきらめ、3日目の花蓮便を予約した。台風通過後も状況はかなり混乱しているらしいので、花蓮から高雄への飛行機、旅行中のホテルも予約を入れる。

これで台湾を一周する旅行プランができた。明日は1日近郊旅行にしよう。

 台湾2日目。台北の北東の街、基隆と九イ分へ行くことにした。
今日も閑散とした台北駅を過ぎ、台北汽車站へ向かう。国光号は高速道路を走る特急バスである。トイレ付きで目的地までノンストップで走る上に、主要都市や国際空港へは10分おきに出ている。切符もすぐ買えるし、安くて便利な移動手段だ。
 
国光号は市内の道路渋滞にはまり、予定から1時間遅れで基隆港に面したバス終点に到着した。

 だが、私が水害を逃れてやってきた基隆の街は、台北よりさらにひどかった。

町中が泥だらけ、道端には水害でやられた家具や生活用品がゴミの山となり、まだ店内がぐちゃぐちゃの商店が大半だ。主要道路には消防車が出て放水しながら街を洗っている。

港につながる基隆駅には電車が止まったままなので、駅前ロータリーは台北方面の客をめあてにタクシーが列をなしている。「台北へ帰る?電車は動かないよ」客引きが次々声を掛けてきてちょっとうるさい。警官がやってくると、すかさず一般客のふりをするのもおかしい。




 私は山の上にある中正公園から基隆の街を見下ろしたくらいで、先を急ぐことにした。
基隆駅に戻った路線バス乗り場から、基隆客運バスが九イ分に出ている。

九イ分は観光地だが、バスの中は地元の人ばかりのようだ。カップルが2組乗ってきたが、九イ分へ行くのだろうか?バスは基隆の市街地を抜けて山間部を走ってゆく。

やがて、瑞芳の町に入ると、車窓には思わずあっと声をあげるような光景が広がった

 そこは、まさに被災地だった。私は幸いにも今まで災害に直接遭遇した経験はない。阪神大震災の救援活動で西宮市にいたが、今の瑞芳は震災なみの状況に近い惨状だった。

きっと、台北、基隆、瑞芳と中心部を離れるごとに復旧も遅れているのだろう。堤防は大きく崩壊し、川沿いの家並みはすべて傾いて濁流に流された建物もある。道路脇に積み重なった車の群は泥まみれのスクラップと化して水害のひどさを物語る。

 洪水によって色彩を失い、泥一色になった瑞芳で、災害復旧の主力は軍隊だった。

濃緑色の軍用トラックが町から増援部隊を運び、スコップを手にしたまだあどけない顔の兵士たちが災害現場へ列を組んで向かっている。整列して交代を待つ泥まみれの兵士には、一様に疲労した様子が見られる。軍隊が出動していることで、町の雰囲気も一層緊迫して感じられ、台湾の山間地では復興はまだ始まったばかりのようだった。

 バスの乗客はほとんど瑞芳駅前で降り、カップルもいなくなった。3人ほど残った客は九イ分の住人のようだ。観光客は私たちだけか。

 瑞芳の町を離れ、ヘアピンカーブが連続する山道を走るバスの車窓には、やがて足元に続く台湾北部の海岸線と青く光る東シナ海が見えてきた。遠くに基隆の港湾クレーンがかすむ。

       


カーブをひとつ曲がる。前方に現れた形のいい尖峰は見覚えがある。台湾映画の「恋恋風塵」で背景にそびえていた基隆山だ。その右手に続く草山の斜面には、階段状に赤や青の家々が建ち並ぶ大きな町が広がっていた。運転手の横で「九イ分?」と尋ねると、そうだ、という答え。

それはちょっと劇的な風景だった。九イ分は日本領時代の古い街並みが有名なのだが、日本の町、というよりイタリアの町だ、と言った方が雰囲気的には合いそうな感じである。

バスは観光客用の駐車場がある九分バス停を飛ばして、街並みの上部に近いセブンイレブンの前で止まった。他の乗客もここで降り、運転手は「ここが九イ分だ」と言う。

私もバスを降りて目の前のセブンイレブンに入り、店のお兄ちゃんに九分の状況を聞く。お兄ちゃんの答えは「台風?九分は山の上だから被害には遭わなかったよ」というものだった。ラッキー、九イ分は無傷だったのだ。

 傾斜地に広がる町、九イ分の見所は、古い街並みを貫いて伸びる堅崎路の階段である。主な通りは階段と交わるように水平に走り、土産物屋や茶芸館、民宿が軒を連ねる観光街になっている。だが、店の半分がシャッターを閉め、あとも開店休業といった感じだ。

人の姿がない。まあ、あれだけの台風被害のあとだ、観光に訪れる客もいないのだろう。

階段の上から海を眺める。はるか基隆方向には緑の山並みが東シナ海に落ち込んで、複雑な海岸線を描いている。静まり返った街に2人だけ。どこかで見たような不思議な感覚。
この街は「千と千尋の神隠し」そっくりのたたずまいなのだった。



もともと九イ分の名前は9世帯の村、という意味のようだ。日本領時代に金鉱山の開発によってゴールドラッシュが起こり、山頂の村は小上海と称されるにぎやかな街に成長した。やがて、時代が変わって九イ分の金も堀り尽くされ、街の存在も忘れられてしまった。観光地として注目を浴びたのは、日本の敗戦から国民党統治下の二二八事件を描いた映画「非情城市」の舞台となったからである。

 非情城市の中に出てきた酒楼や映画館は今も階段沿いに残り、カラフルな外壁と装飾ガラスの洋館が並ぶ街並みはかつての繁栄をしのばせる。しかし、やっぱり千と千尋・・の街の印象が強かった。あのアニメ映画は台湾の九イ分を舞台にしたのだろうか?私には分からないが、ふだんは観光客でごった返すという九分の不思議な静寂は、確かに映画を思い出させた。



 階段を下って九イ分のバス停で帰りのバスを待つ。やってきたのは行きと同じ運転手だ。

山道を揺られるうち、外には黒雲が広がってゆき、やがて大粒の雨が窓を叩きはじめる。瑞芳ではびしょぬれになった学校帰りの高校生たちが乗り込んで、たちまち立つ隙間もないほどの満員になった。通学バスの騒がしさはどこも同じか。彼らの話し声を聞いているうちに、うとうと眠気に襲われてくる。

目が覚めるとバスは雨の基隆に戻っていた。基隆は有名な雨の町。駅前ロータリーに立つ蒋介石像も合羽姿だ。不思議な1日旅行の締めくくりとしては、これもいいか。




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花蓮は海山総天然色


水害に遭っていない地方を求めて、台北を脱出する朝がきた。

 東海岸の花蓮へは、鉄道も道路も寸断されていて、現在のところ飛行機が唯一の連絡手段になっている。
国内線の松山空港は市内の北部。交通渋滞を考慮してホテルを早く出たものの、タクシーは高架道路を下りたとたん渋滞にはまって動かなくなってしまった。刻々と迫る搭乗時間と、上がり続けるメーターに気が焦る。

「飛行機の時間に間に合わないよ」運転手に訴えると「よし来た」とばかりに車は脇道に入り、住宅街をめちゃくちゃに飛ばし始めた。十字路を左折、次の角では右折、現在地のつかめない裏道をぐねぐねと走ってゆく。おいおい、大丈夫か?心配になってきた頃、目の前にふいに空港のフェンスが現れた。「間に合った」

 松山空港では、アメリカのテロ事件直後ということもあって厳重な荷物検査が行われ、順番を待つ人の列ができている。私たちの番、係官に止められてしまった。「荷物を開けて下さい」何だろう?不安になりながらトランクを開けて見せる。こんな経験は初めてだ。



 花蓮行きのプロペラ機は30分遅れで離陸した。花蓮まで1時間もないフライトだが、サンドイッチとジュースが配られる。ただ、この飛行機は揺れがひどくてジュースなんて飲めないのだ。中央山脈越えで雲に飛び込むと、今にも空中分解しそうなほど上下左右に揺れ続ける。私の後ろに座る台湾人のお婆さんなどすっかり震え上がって、必死で念仏を唱える始末。「南無阿弥陀仏」を聞きながらフライトに耐える気分も嫌なものだ。やっと花蓮空港に着陸すると、気の毒に腰を抜かしたお婆さんは空港職員に抱えられて飛行機を降りて行った。

 さて、花蓮。飛行機を降りただけで台北と空気が違うことに気づく。新鮮というか、濃いのである。目の前にそびえる中央山脈も、椰子の並木も、緑が濃くて鮮やかな原色で見える。台北と同じ太陽さえ、花蓮では一段と明るい陽光を放射しているようなのだ。

 まぶしそうに紺碧の空を見上げると、突然、耳をつんざく轟音とともにF16が飛び去っていった。飛行場の対面には銀色の戦闘機群と、草山に偽装された格納ドームが続く。

タクシーに乗り、ホテル名を告げる声を遮るようにF16編隊が低空で飛来する。
「空軍もアフガン問題で緊張しているの?」運転手に聞くと「アフガンは関係ない。問題なのは中国だ」
東海岸ののどかな都市、花蓮にさえ中台の緊張が見え隠れしていたとは。

 私はリゾートホテルっぽい造りの統帥大飯店にチェックインすると、さっそく花蓮最大の見所である太魯閣峡谷へ出かけた。太魯閣は町から50kmほど離れており、路線バスもあるが観光で歩くには不便だろう。



フロントに相談して観光ガイド兼の個人タクシーを利用することにした。やがて、ホテル玄関に黒塗りのハイヤーが止まり、マネージャーが「車が来た」と言う。

ええっこの車?ちょっと豪華すぎる。私はてっきり普通の黄色いタクシーかと思ったのに。

念のためにタクシーの運転手にツアー料金を確認したが、間違いはない。そうか、私たちはラッキーだ。台湾へ来てこんな豪華な車で観光できるなんて。

 車が走り出すと運転手さんの自己紹介と観光案内が始まった。彼の名は康さん。

物腰の柔らかい丁寧な日本語を話し、60代というがずっと若く見える。花蓮で生まれ育ち、個人の観光ガイドとして日本の大企業の社長や政治家なども案内したという。しかし、日本の不況は康さんを直撃した。台湾へ来る日本人は多いが、ツアー客は観光バスで乗り付けるし、個人旅行者は花蓮まで足を伸ばさない。花蓮も不景気なのか。

 市内を抜けると、広い幹線道路が真っ直ぐに中央山脈に向けて伸びている。空港で晴れていた空が、ホテルを出る頃には叩きつけるようなスコールに変わっていた。

「太魯閣も雨降りですか?」康さんは「花蓮の天気はすぐ変わるから大丈夫」と言う。

その言葉通り、ふっと雨が止むとぐんぐん雲が晴れ、再び輝く青空の下に中央山脈の秀峰が姿を現した。日本アルプスに似た尖峰が視界に入らないほどの高く迫ってくる。あの峰のどれもが日本アルプスよりはるかに高いのだ。それを海岸線に近い、バナナ畑や椰子の木が続く南国風景から見上げると、標高差は3500mを越えているだろう。


 国立公園ゲートで入場料を払って、いよいよ太魯閣峡谷へ入って行く。

太魯閣は谷の深さが2000mを越える巨大な峡谷である。河川の浸食でできた谷間には無数の滝が落ち、対岸へ飛び移れそうな近さに岩壁が迫る。その岩壁のすべてが白く光る大理石なのだ。私はこんなにスケールの大きな峡谷は初めて見た。黒部峡谷よりすごい。

 何より驚くのは、険しい峡谷に自動車道路を開拓し、3000m近い峠を越えて台湾の東西を結んだ人の力だった。中国大陸を逃れて台湾にやってきた国民党軍兵士たちの雇用対策として行われた東西横貫公路の難工事は、多数の犠牲者を出して完成した。兵士たちの慰霊廟が峡谷の入り口近くにある。




 太魯閣のハイライトは2kmを歩く遊歩道。康さんは終点まで先回りし、私は峡谷に沿った旧道をハイキングする。路線バスや通常の観光バスツアーだったらトンネルを素通りしているところだ。

雨あがりの峡谷には冷気がたちこめ、岩肌のあちこちから水が湧いて無数の滝をつくっている。雨が降らないと見られない絶景に出会うなんて、やはり運がよかったらしい。

峡谷の終点、天祥はリゾートホテルが建つ避暑地だった。私は丘の上にある禅寺へ登って、緑の谷を渡ってくる涼風に吹かれた。ここにも観光客の姿はなく、静かな時だけが流れて行く。思わず眠気を誘われる心地よさだ。

 帰り道、寄り道をお願いしたのは東海岸の清水断崖。どこまでも紺碧に広がる太平洋に中央山脈が断崖絶壁となって迫る場所である。ここにも自動車道が拓かれ、海からの高さは800m。世界一の臨海道路と呼ばれている。高すぎて感覚がつかめない。黒潮が洗う濃紺の海が波打ち際で突然鮮やかな水色に変わり、白い波となって砕ける様子が印象的だった。

        


 花蓮への車中、康さんは自分の話を始めた。小学校まで日本語教育を受けた世代、戦争中は米軍の空襲が激しく、竹林に防空壕を掘って生活したという。戦後、台湾の中国復帰で国語が北京語になると勉強をやり直さなければならなかった。でも、康家は福建移民の子孫、生活の言葉は昔から台湾語なのだ。台湾で国語と呼ばれる北京語と台湾語は全然違うらしい。台湾のこの世代の人たちはバイリンガルならぬトリリンガルなのである。

 車窓には草山に林立する白い十字架。花蓮の原住民、阿美族の墓地。かつて、宣教師が教育や医療をもたらしたので、原住民にはキリスト教徒が多いという。ホテルのフロント、漢族顔のマネージャー以外は東南アジア系の従業員だったが、彼らが阿美族なのだろう。阿美族は台湾で最大人口の原住民。花蓮は原住民の多い町なのである。

小さな島である台湾の、更に小さな花蓮に何層にも重なって存在する多言語世界。台湾で育った人たちの言語感覚は一体どうなっているのだろう。興味をそそられるところである。

 その日の夕方、浜海公園の丘に立つ観音像から太平洋を眺める。中央山脈に日が沈み、オレンジ色の光の筋が峰々の間から伸びている。夕焼け空を切り裂いて戦闘機が飛んでゆく。

花蓮は海も山も人も、なぜか鮮やかな色彩とともに思い出される。

       



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南国の都会、高雄


花蓮はのんびりした好きな街だが、いかんせん田舎だった。太魯閣を観光してしまうとすることがないのだ。
何もしないで滞在するのも魅力的だが、私は次へ移動した。台湾第2の都会、高雄である。今度の飛行機は揺れることもなく快適に太平洋上空をゆく。

窓の外には台湾が立体地図のように見え、屏風を立てたような中央山脈には最高峰玉山が雄大な姿を現している。やがて、プロペラ機は最南端で大きく機首を北に向けると、巨大タンカーや港湾クレーンがひしめく高雄港をかすめて高雄国際空港に着陸した。

 高雄の街は道路が広く整備されていて、バス系統も覚えやすい。空港からの市バスは、大王椰子の巨木が並び南国ムードあふれる4車線道路を、中山四路、中山三路、中山二路、と分かりやすいルートで走り、新幹線開業に向けて改装工事中の高雄駅に着いた。

 国鉄西部幹線はまだ不通らしい。わずかに台東行きのローカル列車が出発を待つだけだ。

 駅前のデパ地下で昼食を済ませて、市バスでホテルに向かう。このふた晩は中信大飯店、この旅で最高のホテルだ。台北との物価の差なのか、台北で中級ホテルに泊まる金額は、花蓮のリゾートホテル、高雄の高級ホテルの宿泊料に相当するのだ。

 ホテルで荷を解き、高雄観光へ出かける。高級ホテルだけあって、立地も椰子並木の愛河や仁愛公園といった緑ゆたかな環境にあることがバス停への道すがら見て取れる。



                              


 再び高雄駅で市バスを乗り換えて蓮池潭風景区へ。高雄郊外に数ある湖沼の中でも観光地として有名な湖だが、ここは神様のテーマパークとして人気なのだ。なぜテーマパークか。

湖畔には大小の仏教、道教の寺廟から孔子廟まであらゆる神様が軒を連ね、中には湖まで突きだして、七重塔や龍や巨大な神像がいくつも造られているからである。

 寺廟はいかにも中華風な派手さで参拝客を集め、大きな神木の下には露店の茶芸館が出て老人たちの憩いの場になっている。日本人が聖地と聞いて考える厳かさはないが、霊験あらたかにしてあやしくて濃ゆい、キッチュな雰囲気には満ちている。

 湖畔を巡る途中、私はベンチで休憩していた。隣には90を越えた白髭のお爺さんが行儀良くちょこんと座り、おじさんが熱心に写真を撮っている。カメラからするとプロのようだ。興味深そうに見ている私たちに、カメラマンは北京語でない言葉で話しかけてきた。
「分からない」そう言うと、お爺さんの写真を取り出して見せながら北京語で話し直す。半分も分からないが、私を外国人と気づかないようだ。いや、もしかしたらどうでもいいのかも。

それはいい写真だった。淡い光の中で緑を背景にほほ笑むお爺さんの姿。私はきっとお爺さんの遺影を撮っているのだと思った。「きれいな写真ですね。本当にきれい」と言うと、お爺さんとカメラマンはうれしそうに頷いた。神様の湖は台湾の人の心の拠り所なのだろう。


高層ビル群に沈む夕陽を見ながら市バスで駅に戻ると、街にはネオンが灯り始めていた。

高雄に限らず台湾では道を探すのに苦労しない。誰に聞いても親切に教えてくれる上に、バス停を一緒に探してくれる人までいる。恐縮すると「何でもない」と笑顔が返ってくる。市バスでも学生や若い人がごく自然に老人に席を譲っている姿がある。人々のゆとりか、国民性か、教育なのか。
大通りで、今度は私が人に道を聞かれた。親切にしたいけど「対不起、外地人なので分かりません」お互い笑って別れたが、台湾では親切を受けるのも自然な習慣なのかなあ。

 台湾最大級の夜市である六合夜市。台北と違って道路が広いせいか、たくさんの人であふれていても、どこかゆったりした雰囲気が漂う。高雄は人も街も南国を感じさせる。


 
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台湾最南端紀行


高雄まで来たので、せっかくだから台湾の最南端へも行ってみたくなった。

先日訪れた九分は北部海岸にある。墾丁にも足を伸ばせば、台湾の両端を見られるのだ。

墾丁国家公園は台湾最南部、恒春半島の先端に伸びる2つの岬と弓状の海岸からなる珊瑚礁のビーチと熱帯雨林の観光地である。台湾のハワイと呼ばれている景勝地らしい。

墾丁はかなりの面積があるので、効率的に名所をまわる1日ツアーをホテルで申し込んだ。

 翌日、ホテルで待っていると1台のバンがやってきた。あれ、観光バスではないの?今日は他に客がいないので私たち専用で回ってくれるという。またまたラッキーである。

車は高雄市内から工業地帯を抜け、台湾最南の屏東県に入った。辺りは一面の農業地帯、稲刈りの隣で田植えもやっている二毛作の田圃と熱帯果物の農園、海老の養殖池、椰子の木がのんびりした農村風景をつくっている。ぱっと白い綿わたが広がったかと思うと、それは養殖池に放たれた何百羽ものアヒルなのだった。

 国道は小さな田舎町をいくつか通過してゆく。南へ伸びる道はバス街道、24時間、5分間隔で走るカラフルなイラストが描かれた墾丁直行バスや、台湾各地からの観光バスが列をなして続いて行く。ドライブインにも観光バスが止まり、名物の海鮮料理やお土産の看板が目を引く光景は日本の観光道路と大差はない。

それよりも気になるのは、道端に大小を問わず点在する派手な檳榔売りのボックスである。電飾ピカピカのボックスには、台湾で他に見かけないような水着姿に近い姿の小姐がけだるそうに座っている。檳榔は椰子科の木の実、噛むと軽いマヒ作用があって肉体労働者が好むという。国道沿いはトラックの往来も激しいため、運転手の気を引くように派手な装いで商売をしているのである。

 南に行くにつれて空はぐんぐん青さを増してくる。太鼓や獅子、御輿を載せた軽トラックが、台湾の祭り衣装を着けた青年団とともにピカピカの廟に向かって走ってゆく。国道沿いの廟にはきんきらの装飾が飾り付けられて大勢の参拝客がつめかけている。銅鑼や笛の音も聞こえてにぎやかな村祭りといった風情。いいなあ、何のお祭りだろう。




 高雄から2時間、右手に開けた台湾海峡を眺めながら国家公園へと到着した。墾丁をつくる2つの岬のうち、西側の猫鼻頭は隆起した珊瑚礁のごつごつした岩場である。岬の先に猫の形をした岩があるのでこの名前がついたのだとか。岩場の影になった小さな湾にはダイビングをしている人たちが見える。だけど、すごい強風。バシー海峡から吹き付ける風で話も聞こえず、まっすぐに立ってもいられない。猫鼻頭はそこそこにして、逃げるように車へ戻る。

運転手は1つだけ出ていたイカ焼き屋台のおっちゃんと喋っていたが、この強風の中では商売にならないだろうなあ。名所だけに次々とマイカーからカップルや家族連れが降り立つが、やはり写真を撮ると早々と立ち去ってゆくのであった。

 次は墾丁海岸に沿って最南端へ。ここでは風も収まり、黄金海岸と呼ばれるビーチには大勢の人たちが波打ち際で遊んでいる。まだまだ夏の暑さなのに泳いでいる人は意外にも少ない。

どうも、台湾人にとって気温が30度を切ると寒くて泳ぐ気にはなれないものらしい。

ビーチを過ぎると墾丁の中心街。マクドナルドやコンビニ、海鮮レストランやホテルもこの周辺に集まっている。椰子が茂る街並みと青い海、背後は南の島をほうふつとさせる尖った岩の奇峰、さすが台湾のハワイと称するだけあるが、ハワイというより東南アジアのチャイナタウンといった方がしっくりする。

 中心街から南には国家公園らしく自然いっぱいの風景が広がり、開発されていない天然林や海岸線が現れた。やがて台湾の最南端、鵝鑾鼻の駐車場に到着。入場料を払って公園に入ると、広い芝生の上には白い灯台がある。灯台まで上がれば墾丁の海岸線と尖った山並みが一望でき、大海原の広がる南はバシー海峡。その向こうはフィリピンなのだ。





ホテルで、ツアーには昼食が付いていないから持参するように言われた私は、昨日、高雄のベーカリーでパンを買って昼食用に持ってきた。実際には墾丁は観光地でレストランも多い。だけど、せっかくだから景色のよいところで食べようと、岬の先端、本当の最南端へ行ってみる。ちょうど具合のいい場所に、断崖から突き出た展望台がある。風がほどよく吹き付ける東屋で、海を眺めながらゆっくり時間をとって昼食を食べた。

 最南端の辺りは熱帯海岸林。はるばるフィリピンから流れ着いた植物がジャングルをつくり、迷路のように遊歩道が森の中に続いている。

 車に戻り、次は墾丁観光のハイライトといえる墾丁森林遊楽区へ向かう。中心部から大門をくぐり、山に向かってヘアピンカーブを繰り返してゆく。ふいに山頂に高原が開け、空中から眺めるように海岸線や2つの岬が眼下に広がった。うーん、やっぱり地形は地図のままの形をしているんだなあ。

 森林遊楽区は山頂部に広がる熱帯雨林のジャングルである。珊瑚礁が隆起してできた山のため、地形は複雑で鍾乳洞も多い。毒草、毒虫、毒蛇に注意、の看板も何やら恐ろしげだ。

「えっコブラが出るの?」入場券売場で運転手に聞くと、笑って言われた。「大丈夫、毒蛇なんて今では保護されるくらい。見付け次第人間に食べられちゃったからね」うーむ。

 運転手さんを残して遊歩道に入る。ジャングルの中を1周2時間ほど。うっそうとした森を抜けて、ひんやりした鍾乳洞をくぐると中間地点の観海楼だ。エレベータで上がる展望台からの眺めはまさに360度。山頂部の、さらに最高地点だから何も遮るものがない。さっき海岸線から見上げた岩の峰、マッターホルンに似た大尖石山もここからは目の下である。

観海楼には南から強風が吹き付け、はるかフィリピンの方角は真っ黒な雲で覆われてきた。この日、新しい台風が発生したのだ。
 雨の降り出しそうな雲は台湾にも広がってくる。急いで駐車場に向けてジャングルの中の階段を駆け下りると、待っていたかのように大粒の雨がこぼれ出す。車に乗ると久しぶりのスコールが台風並みの豪雨となって襲ってきた。ラッキー、間に合った。

 高雄までの車中は夢の中、激しい雨も高雄市内に入るころにはすっかり止んで、夕焼けの高層ビルの向こうには大きな虹が架かっている。


ホテルの近く、小籠包が旨いと地元情報誌に載っていた高雄港エリアの上海料理店へ

七賢路、五福四路の周辺には国際港らしく外国人の姿が多い。台湾で、路上のバーやレストランにたくさんの外国人が集まる光景は初めて見るものだった。七賢路からバスで港へ向かい、フェリーで5分間の夜景クルーズを楽しみながら旗津半島へ渡る。

海鮮料理で有名な夜市がフェリー乗り場から旗津海岸へと続いている。夜市の喧噪が漏れ聞こえてくる夜の海水浴場、旗津の街並を越えて港の光が空を明るく照らし、港口の丘からは灯台の光、台湾海峡には空港を発着する飛行機の光、幻想的で落ち着く光景だった。

 光の装飾に飾られた高雄のデートスポット、愛河の夜景を見ながらホテルへ歩く。高雄はもっといたくなる街だ。

 

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再び台北


台湾を巡る旅も終わりに近づき、台北へ戻る日が来た。

 朝、チェックアウトを済ませて荷物だけフロントに預け、バスで昼間の旗津半島に行く。

フェリーターミナル周辺は国立中山大学の学生街になっているようだ。面白いのは海之氷という名物かき氷屋。客が食べたり飲んだりしている容器が半端でなく大きい。10人分かき氷は金魚鉢サイズになるらしく、周りの喫茶店も競って大きな氷や飲料を売り出している。学生の街らしい店だ。

 9月も終わりになると、旗津半島の海水浴場も開店休業の様子。人がいない海はなんだかもの悲しい。ここにいると旅の終わりを感じて寂しくなるなあ。帰ろうか。




 
ホテルで荷物を受け取ってバスで高雄駅へ。高雄長途汽車站にはずらりと高速バスが並び、台湾各地へ出発してゆく。台北行きの国光号は10分おきに運行するため、予約もいらず切符を買ったと同時に乗車、発車となった。台北まで所要時間は5時間。トイレ付きでシートも広くて大きい。飛行機よりもずっと楽だ。

 日本の狭いバスよりずっと快適だなあ、と感心する横を民間会社の2階建てバスが追い越して行く。こちらは総革張りシートと専用モニターまで備えていた。台湾ではバス会社の競争が激しいので、安い値段で豪華なバスが次々に登場しているそうだ。うらやましい限りである。

 思い切りリクライニングするシートで眠り込んでいるうちに、バスは台湾を南から北へ走り抜けて台北市内へと入っていた。見慣れた台北駅前のビル群が現れる。まだ国鉄は復旧のめどが立っていないと見えて駅舎は真っ暗だが、周辺道路の渋滞は先日よりかなり緩和されていた。テレビのニュースで見たとおり、台北市内への一般車の乗り入れを規制するという非常手段が効を奏しているのだろうか。

 久しぶりの天成大飯店に投宿し、夕暮れの台北へ出た。4日間も空けていると、街は少し様子を変えたように見える。台北の繁華街には、依然不通のMRTを除けば台風の影響は残っていない。さすが首都だけあって復旧は早いんだなあ。しかし、タクシーのラジオは、次の台風が南から台湾に迫っている、と不気味な情報を流していた。頼むから明日の帰国までは台湾に来ないでくれ。

 私が向かった先は、行きつけになった足裏按摩、呉神父脚底按摩中心。痛いけど、ここほど効きそうな感じの按摩は他にないだろう。白湯を飲んで一息つき、台湾最後の夜へ出ていく。

 この辺りは頂好と呼ばれる台北でも最先端を行くこじゃれたエリア。悲しいかな、私には1日いても飽きない品揃えの誠品書店や足裏按摩でしか縁のない場所でもあるが、さすが夜も活気があってスターバックスも若いカップルであふれている。

ここまで来たからおしゃれな店で夕食を食べよう。恐る恐る足を踏み入れた上海料理レストランの店内は輝くばかりのまばゆさ。窓際の席に案内されると、外には頂好の夜景が広がり、やがて店中央のピアノではチャイナドレスの小姐が生演奏を始める。おしゃれだ。

 台湾旅行最後の晩に、思い切りのリラックスと、ちょっぴり贅沢を味わった私は、さらに初めて入ったスターバックスでコーヒーを飲み、満足してホテルに戻っていったのだった。


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中華民国


台湾の旅も今日が最後、夕方の飛行機だが実質の滞在は約半日だ。

 いよいよ台風の影響が台北にも及びだした様子で、朝早くから雷を伴った雨が降ったり止んだりを繰り返している。

    


 台北へ来るたびに見ているが、ぜひまた見たいものがあった。中正紀念堂の衛兵交代式である。中正紀念堂は朝9時に開門するので、その時間に行けば1番最初の着任式を見られるんじゃないか、と計算したのだ。

 タクシーで中正紀念堂の脇門へ急ぐ。周辺の道路上には、軍用の濃緑色のバスが何台も集まっているのが見えた。今日は何か行事でもあるのだろうか。

紀念堂の階段を駆け上がると、警備の兵士と軍の帽子を被ったお爺さんが立っているだけ。他に観光客はいない。蒋介石像を収めた紀念堂の巨大な入り口も、頑丈な鉄扉に閉ざされている。いつもこんなだったろうか。眼下の広場には散歩する市民の姿も見えるけど。

「見学に来たのか?」兵士に言われ、そうです、と答えると「下がってなさい」と一言。

すると、9時の時報とともに、スピーカーから大音響で中華民国の国歌が流れ出した。警備の兵士はもちろん、お爺さんも脱帽して直立不動の姿勢、広場の市民たちも微動だにしない。高く掲げられた青天白日満地紅旗が風にはためく。私たちも直立不動のまま国歌を聴いた。

その間に鉄扉が静かに開いてゆき、堂内には行進、整列する衛兵儀式が行われている。国歌が終わると、街の騒音が聞こえてきた。お爺さんは帽子を被り直し、蒋介石像に敬礼して去っていく。きっと国民党軍の兵士として大陸から渡ってきた外省人だろう。どんな思いで紀念堂にやってくるのか。かつて蒋介石が叫ぶ大陸反攻のスローガンに帰郷の望みを託し、国民党の強固な支持基盤であった彼らも、決して恵まれた支配階層ではなかった。老兵たちは家族を大陸に残して生き別れ、台湾で孤独な老後を過ごしている人が多いと聞く。

 紀念堂の見学を終えて中正広場に出る。蒋介石の偉業を讃える巨大なモニュメントだが、日中戦争があったとはいえ国民政府は政治を誤ったとしか思えず、民心を失って共産党に台湾へ追われた後は、台湾人を抑圧して強権政治を敷いてきた人物である。現在の台湾は民意を反映した民主的な国家になっているものの、国民政府時代に造られた紀念堂には、大陸にある共産党を讃える革命博物館と同じ感想を持つ。



     


 広場では兵士の一団が軍楽隊の演奏のもとで軍事パレードの練習を繰り返していた。

さっきの軍用バスはこの兵士たちだったか。台湾、いや中華民国の国慶節は10月10日、1911年の辛亥革命で清朝が倒れた日のことである。暦も同年を民国元年とする民国暦で、だから2001年は民国90年。新聞の日付も食品の賞味期限も皆90年なのだ。

彼らは国慶節の軍事パレード練習のために、会場となるこの広場に集合したのだろう。

やがて、突然の雷とともに大粒の雨が降り出した。行進の練習は一時中断されて、兵士たちが国立戯劇院の庇の下に駆けてくる。私たちも見物の市民も、兵士たちと同じスペースで雨宿りすることになった。近くで見る兵士の腕には中華民国陸軍儀仗隊のマークが誇らしげだ。晴れの舞台に選ばれるだけあって、背も揃って高く、体格もいい。いかつい表情は訓練の厳しさを伺わせる。戯劇院の広い庇の下では軍楽隊の演奏が始まり、銃を使ったバトン練習が再開された。





 小雨になった広場を大門に向かって歩き出す。戯劇院の1階にあるスペースでふざけあう兵士たちの姿が。顔つきもあどけなく、バトントワリングする銃の回し方もぎこちないから新兵なのだろう。彼らもいつか軍事パレードに出るようなエリートになるのだろうか。

 中国との統一、台湾としての独立の間で揺れる台湾。平和な光景の影に中国との緊張も垣間見られる島、台湾。徴兵制のある台湾で、若い兵士たちは何を考えているのだろう。

 テロと台風に翻弄され、台湾を迷走する旅の最後に、台湾と中国の行く末を考えさせられることになった。台風が近づく台北に、また激しい雨が降ってきた。

   



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