台湾旅行記 台北散歩(2001.台湾) 本文へジャンプ


台北散歩

2001年は私にとっての台湾の当たり年。なんと同じ年に2回も台湾を訪ねることになった。
はじめはゴールデンウィークの1週間後に、3泊4日の航空券とホテルセットのフリープランツアー。私の通う中国語教室のメンバーでわいわいがやがや台北修学旅行だった。今では仲間と旅行しようなんて、予定が合わないの忙しいのと、なかなか難しいのに、このときは不思議に時間がとれて、みんなで、わーい台湾だ!と盛り上がった記憶がある。うーん、若かったのかなあ。
そして、2回目は9月、ニューヨークでのテロ直後。たまたまアメリカはニューヨーク旅行を計画していたのに、突然キャンセルになり、その振り替えで台湾を旅することになった。
こうして大好きになった台湾・台北点描をどうぞ。

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新光摩天楼

台北はアジア有数の大都市ながら、意外に高層ビルの林立する都市景観がない。
周囲を山に囲まれた盆地、碁盤の目状に走る通り、という共通点があるためだろうか。中層のビルが続く街並みから、真っ直ぐに伸びる道路の向こうに低い緑の山並みが見える風景は、ちょっと京都に似ている。
その台北のランドマークになっているのが新光摩天楼。台北駅の正面にそびえる240mの高層ビルは市内のどこからでもよく目立つ。空港などから高速バスで台北へ向かうと、はるか街並みの向こうに1本だけ突き出た鉛筆のようなビルの姿に、ああ、もう少しで到着!という思いが湧いてくる。

新光摩天楼は地下から12階までが三越百貨店。巨大スクリーンに映像が流れ、何かしらイベントが催される正面の広場はいつも人でいっぱい。玄関先を守る中華風の狛犬(獅子?)の像は、地元の人にとって待ち合わせ場所になっているらしい。
もちろんデパートの中も買い物客で賑わっている。三越の華やかさは、さすが日系デパート。台湾資本の大亜百貨店(三越の隣)や遠東百貨店のどこかあか抜けない店内に比べて、商品の見せ方も明るい照明も、ぐっと洗練されている。

高級感が漂うせいか、哈日族といった若者は少ないけれど、大人気の奇帝猫をはじめ日本のキャラクター商品が勢揃いしているのは、日本好きな台湾人客を狙ったものだろう。人気のある、なしで値段が決まるのか、定価の付いたキャラクターの横に7折(3割引)、半額、それ以下、とどんどん値下げされていく商品が並んでいるのもおかしい。
デパート探検ではデパ地下も楽しい。台湾のお菓子なら、お土産を空港より安く買うことができる。食品売場の向こうには、日本菓子の店がずらり。どらやき、まんじゅう、高級そうな和菓子も並んでいるが、結構台湾の人が列をつくって買っていく。好きなのかなあ。


さて、目的の展望台へ。おっと、デパートの中からは行けないのだ。最初に上った時には、館内に表示もなく、エレベーターを探すのに大変だったが、展望台直行のエレベーター乗り場はビルの外、広場の隅から地下へ降りていったマクドナルドの奥にあるのだ。
2004年に101階建509mの完成当時としては世界一高い高層ビル「台北101」がオープンするまで、新光摩天楼は台北で唯一の高層ビルだった。それだけに眺めはみごと。すぐ目の下には巨大な台北駅の駅舎があり、駅をとりまくように車の列が続いて行く。北方面にひときわ目立つはきんきらの中国宮殿ホテル、圓山大飯店。夜は屋根全体が電飾で光っている。あのあたりはもう市のはずれになるが、距離を無視した存在感はさすがだ。
南方向は官庁街の無機的なビルの眺め。東京駅にも似た赤煉瓦造りの総統府の尖塔から、中華風の楼閣が建つ東門をはさんで威圧的な雰囲気の国民党本部ビルまで、まっすぐに旧介寿路(蒋介石の長寿を祝うの意味)が伸びている。



その向こうにはあきれるほど広大な敷地を持つ中正紀念堂の巨大な建造物。かつて、大陸を追われた蒋介石、経国父子が強権を振るった国民政府時代、このあたりは台湾人にとってどんなに抑圧的な場所だったのだろう。現在は選挙で第一党になった民進党が政権を担い、介寿路は台湾原住民の名を取って凱達格蘭大道に改名された。南の足元に広がる二二八和平公園も、中国復帰直後に起こった国民党による台湾人弾圧事件を忘れないための名前だ。
展望台をぐるっと一周する。短冊がたくさん吊り下げられたコーナーがあり、それは、まあ、デートで来たカップルが愛を誓って短冊に書いて吊り下げてゆく、というものらしい。何気なく見ていると、「この夜景をあなたにあげる」だの、読んでいて恥ずかしくなるような中国語が並んでいる。結構好きだけど。


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台北駅南かいわい


台北駅は首都の玄関にふさわしい巨大な駅舎を誇っている。
九州を小振りにした程度の面積しかない台湾島だが、この島国には、小さな国土とは釣り合いがとれないようなスケールの大きな建造物が多く見られるのだ。台北駅もその一つといえよう。

台湾の基本的な形は日本統治時代に形成され、地方の古い駅舎や官公庁の洋風建築など、今では生きた文化財にまでなっているが、巨大建造物はといえば、大陸から逃れてきた蒋介石国民党政権が、中国と対立しながら意地になって造り上げたものだろう。中華文明を代表する、という威信を建築にかけた訳である。
だからかどうか、台北駅も外観は近代的なビルながら、赤い屋根や格子状の窓は中国風のようでもある。
駅構内に入ると、これが広くて天井が高い、高い。吹き抜けのホールになった中央に切符売り場のブースがあり、電光掲示板が発着する電車名と時間を刻々と示してゆく。なんだか空港に近い雰囲気だ。



コンコースは地下2階、ホームは地下3階。地下2階通路は、そのまま台北市の誇る最新の地下鉄MRT駅へと続き、新光三越や長距離バスターミナルにもつながる地下街がその先に延びて行く。
台北駅地下街は、上海もそうだが、新しいアジアの都市らしく整備されていて明るく快適だ。書店、薬局、カフェ、さまざまな店が並び、捷運ギャラリーと名付けられた美術作品の展示もあちこちで行われている。
さて、地下街を抜けてヒルトンホテルに出る。新光三越まで行かず小路を抜けると、台北駅前通りの1本裏手、許昌街に出る。CD安売り店やテイクアウトの鍋貼、包子、中華菓子屋などが並び、ぐっと庶民的な感じの場所だ。

     


ここからは、○○博士補習班、英・数学集中補習、といった看板の群がひときわ目を引く通りが伸びている。日本以上の受験競争で知られる台湾の予備校集中エリア、南陽街。
どの学校も、開けっ放しにした1階フロアに、受付カウンターが置かれて電話オペレーターが待機している。壁やガラスを埋め尽くして台湾大学物理系○○君、といった合格者の名前が張り出され、街を行く若者(予備校生?)の顔つきも真剣である。活気はあるが、ちょっと大変そうだ。

台北駅南かいわいは、はるか昔の台北城内にあたる。(城壁に囲まれた都市だった)その時代の名残なのか、通りごとに同じ業種の専門店が集中しているのだ。
予備校街の西には、電機街、カメラ街などがある。そのひとつ、総統府へ続く重慶南路は書店街だ。大小さまざまな書店が軒を連ね、美術書、地図、古典などの専門書店や文房具店、印章店、書道用の紙や墨、筆を扱う商店も多い。どの書店にも熱心に本を読む客の姿があり、台湾の文化度の高さが伺える。
新光摩天楼から銀行の続く通りを抜けて二二八和平公園へ。正面にあるギリシア建築の建物は省立博物館。日本時代の建築物だ。



                    


 二二八和平公園は、台北の都心に広がるオアシス的な存在である。新光摩天楼が見下ろす緑の園内には、中華風の楼閣や池があり、東屋には寝転がって暑さをまぎらわすおやじの姿がある。公園の木陰に見付けたのは健康歩道と名付けられた石の道。丸みを帯びた小石がコンクリートに埋め込めれた上を、裸足になって歩くようになっている。自分でできる足裏マッサージである。さすが足裏按摩の本場、台湾だ。
靴を脱いで足を載せると、ううっ痛い。見た目にも尖りすぎでないの?といった石だけに、刺さるような感触である。何とか終点まで歩ききったけど、これはきついなあ。看板には丁寧にも食事直後と妊婦はやらないように、と書いてある。まあ、ほとんどの人は、見ただけでやる気を失うだろうけど。

二二八和平公園を横断すると、八車線道路の凱達格蘭大道にあたる。西にそびえるのは、赤煉瓦のルネッサンス洋式建築、中華民国総統府だ。青い屋根瓦、白い窓枠、赤い壁面に椰子並木が映える。総統府前の広い広場には兵士が警備に立ち、政治の中枢にある緊張感を感じさせる。
東京駅に似た外観は、日本統治時代に総督府として造られたからだろう。中央には60mの尖塔が目立つ美しい建築も、日本時代、国民政府時代、と台湾の人たちの上にそびえる外来者支配の象徴だったのだ。

   


夜景を見るために上った新光摩天楼からの眺めが特にきれいだったので、そのまま夜の総統府へ歩いた。
さすがに暗い公園は危険だから、重慶南路を行く。静まり返った官庁街に、ライトアップされたレンガの尖塔が浮かび上がる。幻想的な光景に満足して台北駅方面に向かえば、やがて夜も変わらぬ繁華街のにぎわいが戻ってくる。

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中正紀念堂(現:台湾民主紀念堂)


台北中央部、官庁街に巨大な面積を占めるのが中正紀念堂。蒋介石を讃える壮大な記念碑だ。
MRT中正紀念堂駅を上がると、白い壁に青い屋根を載せた中華風の塀がどこまでも続いている。駅舎自体も白と青を基調にした中華風建築。
塀沿いに歩いて行くと巨大な碑楼にたどり着く。離れないと全体が目に入らない正門の上には「大中至正」の文字。ずらりと中華民国の国旗である青天白日満地紅旗が並ぶ。

門の向こうには、これまた広大な中正広場。長さだけでも500mはある白色の石畳で覆われた空間である。ここには一体何万人が入ることができるだろう。
広場をはさんだ左右には、赤を基調とした北京の紫禁城をほうふつとさせる宮殿建築。国立戯劇場と国立音楽院だ。そして、正面には高さ70mにそびえる中正紀念堂の姿がある。
青い八角形の屋根、大理石が輝く白い壁、堂を載せた90段の階段の台座。どれをとっても巨大で想像を超えたスケールだ。島国と思えないこの大きさは、やはり蒋介石と国民党の大陸への思い、万里の長城や紫禁城に代表される中華文明の正統な継承者だ、という強い意志があってこそ出来たものだろう。
蒋介石の寿命に1年を足した90段の石段を登り詰めると、目の前に巨大なホールが現れる。ホールの中央には、国旗と国民党旗を左右に配してほほ笑む蒋介石の銅像が鎮座している。



         

頭を上げれば、国旗の左上に配された青天白日の太陽の紋章が天井いっぱいに広がる。青天白日は国民党の象徴なのだ。孫文は国民党と中華民国の理念として、民権、民族、民生の三民主義を掲げたが、蒋介石は新三民主義として、自由、民主、科学、を唱えた。紹介石像の背後には彼の理念が文字になって掲げられている。
中正紀念堂を有名にしているのは蒋介石像を警護する衛兵の交代式。1時間おきに、厳格な面もちの兵士が、軍靴をカチーンと響かせて銃剣を取り回し、静まり返った堂内でのセレモニーを行う。交代して定位置についた兵士は次の交代まで1時間、銃剣を支えたまま微動だにしない。

ホールを下に降りると、蒋介石の生涯を伝える展示室。再現された執務室や公用車、世界各国から贈られた記念品などが展示されている。しかし、写真や油絵、パネルで示された蒋介石の功績、国民革命の歴史は、当然というか、ここには都合の悪いことは何も展示されてないのだ。
蒋介石が、共産国家にさえ似た国民党独裁体制を敷いたことも、毛沢東に破れて台湾へ逃げ込んだことも、40年近くも続いた戒厳令と白色テロで台湾住民を抑圧してきたことも、ここでは無視されているようだ。それは、形は違えども、大陸の各地にある共産党を讃えた革命博物館とよく似た雰囲気なのが印象的だった。

    
さて、中正紀念堂広場の脇を走る愛国東路は、中正紀念堂とはまた雰囲気ががらりと変わり、結婚写真館がずらりと並ぶ「婚紗撮院通り」である。
どの写真館もドレスなどを目立つようにショーウインドウに飾り、店先には見本アルバムが出されている。中正紀念堂近くに写真館が集中しているのは、野外撮影のロケーションが揃った場所だからだろう。
実際に写真を撮られる前には、メイクも外から目立つようにショーウインドウに向かって行われ、カップルが次々に覗き込んでゆく。結婚写真には女の人を虜にさせる魔力があるらしい。興味のある人はぜひ、どうぞ。


     


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龍山寺


龍山寺は台北の南西部、下町エリアの萬華にある。台北で最古、最大の寺院だ。
このあたりはMRTの開通によって台北の中心部から手軽に行けるようになった。まるで寺院のような建築の龍山寺駅を出ると、街の雰囲気は下町らしい猥雑さにあふれている。
歩道に設けられたアーケードには、小さな商店がごちゃごちゃと並び、路上にはみ出した商品ですれ違うのも難しいくらい。菓子屋や食べ物屋台、雑貨店などに混じって仏具店、お供え品の店が目立つのも、門前町という性格によるものだろう。
アーケード街には「南無阿弥陀仏」の文字が商店街のロゴのように並び、お寺の周辺に路上駐車している乗用車にも、目立つような位置に「南無阿弥陀仏」のステッカー。交通安全のお守りのようなものか。このあたりの感覚は、日本人とはやや違うようだ。

龍山寺に着く。境内に一歩足を踏み入れれば、台湾寺院の感覚も、日本寺院の荘厳さとは大きく違う。赤を基調にした派手な配色、極楽世界を表した屋根の上に所狭しと天女や龍の彫刻が舞う。柱や梁も、シンプルな部分が全く残っていないほど細かく彫刻され尽くしている。
それらの彫刻には、寄進者の名前が刻まれている。ごてごてとした装飾が多い寺院はそれだけ多くの信仰を集めているということなのだろう。そして境内に漂う線香の煙。入り口でお布施を払って、おもちゃの花火ほどもある中華線香の束をもらう。龍山寺は仏教寺院ながら、同じ境内には中国系の神様、馬祖、関羽までを一同に祭るデパートのような寺院だ。それぞれの神様に香炉があり、熱心に祈る人々の姿がある。

小さな座布団を膝にあて、体を投げ出すように祈る人、お祈りを唱えながら、激しく線香を振る独特の参拝方法、さすがは信仰篤い台湾の人々だ。かつての大震災の際、被災者の救援活動に最も活躍した仏教会の社会活動も、こうした信徒たちに支えられているのだろう。



そして、龍山寺はお年寄りの憩いの場でもある。最大の寺院にしては狭い境内だが、朝早くから、自分用の小さな椅子を持ち込んだ爺さんたちが集まって、世間話に興じたり、何する様子もなく佇んでいたりする。台湾の爆発するようなエネルギーの中にあって、爺さんたちの悟ったような静かさは印象的だった。

萬華の街は台北で最も古くから発展したエリアである。龍山寺を中心として、廟会から派生した華西街夜市など、有名な場所も多い。だが、台北中心部の近代化が進んでいくのに対して、老朽化した建物も多い萬華は、場末のような寂しさとあやしさがある。治安もあまりよくないと聞く。
ただ、龍山寺のお供えものを扱う市場。ジャングルのような花屋や果物屋には、見たこともない花や果物が並び、アジアらしい雑然とした雰囲気がある。近代化へ突き進む台北に残り少ない場所だ。

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頂好と誠品書店

 
台北の街並みが近代化するに従って、都市の中心も新興の東部へと移り変わっているようだ。
その動きは、MRTの開通や、市政府の移転によってますます加速している。台北市が誇る最新の交通システムMRT、地下鉄とモノレールが交差する忠孝路と敦化路交差点のあたり、忠孝敦化は、今や頂好(最高の意味)という名で知られた流行の最先端エリアだ。

台北駅から東へ走る忠孝路は8車線もの広い道路、本家倒産後も台湾では高級デパートとしての地位を譲らない太平洋そごう、高級ブランド店、おしゃれなレストランやスターバックスコーヒーなどが勢揃いする。
一方、南北に貫く敦化路は、ひときわ大きな熱帯樹の並木が通りに緑の影を落とす気持ちのいい道。表にはブランド店の入ったビル、台北文化の新しい象徴、誠品書店、洗練されたショーウインドウが続いて行く。
夕方には道路も渋滞の車で埋まり、仕事帰りの人たちが行き交う。レストランやカフェ、ショッピング街は不夜城のような光に包まれて、夜遅くまで賑わっている。
ここには、西門町のようなチープでごちゃごちゃした雰囲気はない。あくまで高級で、落ち着いた大人の街という感じだ。

       


私はおしゃれな街には興味はない。頂好へ行くのは誠品書店と呉神父脚底按摩中心があるからだ。
その誠品書店。いまや台湾全土にチェーン展開し、台北市内でも台北駅前の大亜百貨には2フロアぶち抜きの支店がある大規模書店だ。しかし、やはり本店の大きさはちょっとすごい。
銀行の脇にある入り口から2階へ上がる。2階が書店、1階は高級文房具、地下には文化関係の商品や美術作品のギャラリーもあって、それらは「文化と風采」というテーマで統一されているらしい。内装は総木造で、迷路のような分野別の小部屋が奥へ、奥へと続いて行く。
それぞれのコーナーは、本棚がゆったりと配置されて、書店というより書斎の感じに近い。閲読カフェもあってコーヒーを飲みながら本が読めるが、大抵の人はフローリングの床に腰を下ろして読みふけっている。
本を選ぶのに悩みながら、書店の中を言ったり来たりしているうちに、2〜3時間はあっという間にたってしまう。できたら1日ここですごしてもいいなあ、なんて考えてしまうくらい、居心地のいい書店だ。

頂好の近く、ロータリーに面した遠東百貨店ビルの11階にある元祖足裏マッサージ「呉神父脚底按摩中心」もはずせない。
デパートからは行けないので、店外のエレベーターで上がる。薄暗い廊下の一番奥にある診療所だ。
日本でも有名な場所だが、台湾人サラリーマンが仕事帰りに通院?しているのをよく見るので、地元でも信頼されているらしい。某脚底按摩が、観光バスで乗り付けたツアー客ばかりだったのとは対照的だ。
ただ、体調が悪いと結構痛い。先生は、客が痛がる部分を、手渡された足裏の絵にチェックしてゆく。
私の連れは、ここで痛い、痛い、と絶叫したあげく、足裏だけでは足りないから、整体で体の歪みを直さないと。などと言われてボキッバキッとやられた。整体室からも響いてくる痛いーっという声に、さぞかし後から来て待っていた客は怖がったことだろう。
按摩治療が終わると、新陳代謝が良くなるように白湯を飲む。按摩初体験の人によれば、体調が悪すぎたせいかもみ返しに悩まされたようだが、しばらくすると按摩に凝るようになってしまった。それ以来、台湾に来ると、頂好に足が向いてしまうのだ。


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故宮博物院


台北観光名所の輝く第一位は何といっても故宮博物院。
その広さといい、収蔵品といい、歴史といい、世界三大博物館に数えられているのも頷ける。
台北中心部から北へ向かい、高速道路と基隆河を越え、トンネルを抜けると緑の山間に出る。すると、突然、山腹にそびえる竜宮城のような建物が、巨大な碑楼を全面に立てて現れる。故宮博物院だ。タクシーは大門から山上の博物館玄関脇まで行ってくれる。


         


中国4千年の歴史文物が詰まった故宮博物院。じっくり見ようとすれば1日では足りないし、展示品に圧倒されて疲れてしまうだろう。
私は何度か訪れるたびに、目は細かい細工を見つめすぎて疲れ、油濃くボリュームのある中華料理にやられたように心もぐったりしてしまう。きっと、私の庶民的な感覚では、あれを全部見て「あー眼福、眼福」と言う素質がないのだ。消化不良を起こしてしまうらしい。貴族にゃなれないな。
そこで、あらかじめ見たいポイントを押さえて、集中して見るエリアと、ざっと流すだけのエリアを決めておくことにした。

博物院の見学順路は古代中国の青銅器文化や甲骨文字から発展する漢字の歴史から始まる。発掘された殷・周代の青銅器は、現代科学でも再現できないほど技術が高かったらしい。デザインも現代に通用するような斬新なものあり、中華文明のルーツを感じさせるラーメンの丼模様あり、飽きさせない。しかし、ここで時間をとりすぎては後が詰まってしまうのだ。

故宮博物院の目玉のひとつは、書画。書道の模範とされる名人たちの直筆がずらりと並ぶのだ。
ただし、収蔵品は膨大な量に及ぶため、定期的に展示の入れ替えが行われるのと、王羲之に代表される世界遺産級の作品はごくたまにしか展示されていないという。ともあれ、薄暗いホールに達筆がずらりと並ぶ様は壮観だ。
中国画も、筆で書いたと思えないほど細かく描かれ、中には虫眼鏡を通してでないと見ることができないほどの人物像もある。細かい。一般的に山水を描いた水墨画のイメージが強いが、意外に色使いも鮮やかで、漫画のようなユーモラスな筆使いの絵まである。
そして、自分の持ち物であることを示すため、余白という余白は歴代の所有者の判子がべたべたと押され、朱肉で染まっているのも、皇帝直筆の作品には、臣下がこぞって余白によいしょを書き込んでいる様子も、美術品を見る感覚が現代人と違うのかなあと思う。

陶磁器も現代的なものが見られる。天女や唐子、唐草模様のような陶磁器のイメージそのままの凝った絵付けもあれば、シンプルな黄色、青色のみの皿もある。中国らしからぬデザインだ。でも、これも皇帝の宝物として珍重されたのだろう。
そして、一番気合いの入る展示室は最後にある。皇帝のおもちゃ箱が集まった玉や細工の展示だ。
有名な翡翠で造られた白菜、玉で造られたブタの角煮はここにある。緑色と白色の混じった石が発見されたら、確かに珍しいだろう。でも、色使いを活かして白菜を彫刻してしまう、という感覚、皇帝もそれを宝物にしてしまう感覚はちょっと分からない。よほど閑だったのだろうか。

ここには、閑にあかせて造らせたとしか思えない、職人技術の限界に挑戦した作品がこれでもか、という量と細工の細かさで迫ってくる。豆粒ほどの石が彫刻されて、中に人や山水が造られているのである。まあ、感心はするけれど、湯水のように金をつぎ込む意外に何の意味があったのだろう。
皇帝や貴族というのは、手間のかかる生活をしていたものである。

と、まあ、最後まで来ると、たいていはへとへとになる。絶好の休憩場所があるのは最上階。中国茶館の三希堂だ。
食券制で、カウンターでお茶葉と点心を買う仕組み。やがて、あまり愛想のよくない服務員がお茶セットを持ってくる。お湯が2度までしか注いでくれないのが不満だけど、すごい芸術品を見つめ疲れた目に、ガラス張りの茶館から眺める周囲の緑が心地よい。
BGMも本物の小鳥があちこちに下げられた鳥かごの中で鳴いているもの。中国らしい仕掛けだが、私が初めて見たのはここだった。


           


故宮博物院の文物は、もともと清朝皇帝の私物である。辛亥革命後もしばらく北京の紫禁城は皇族たちの生活の場であったが、中華民国政府によって接収されてからは、故宮(主のいない宮殿)として博物館化された。日中戦争が拡大すると、政府は故宮からの芸術品の疎開を決定、重要な文物は中国奥地に分散して隠されたのだ。戦後、集積された品々は、再び内戦の激化に伴って流転の運命を辿る。
蒋介石は、国民政府の中国支配の正統性を示す証拠として、芸術品の台湾移送を決行。避難を求める人々より芸術品を優先してまで軍艦で台湾へ運び込んだ。李登輝総統になって台北政権は中国を代表している、という虚構を捨てたが、かつて故宮博物院の芸術品が中華民国の拠り所だった時代があったのだ。

故宮博物院の近くに、中華民国の国民革命忠烈祠が鎮座している。
ここは1911年の辛亥革命以降、国民革命、日中戦争、中国共産党との内戦で亡くなった兵士を祀る国立の廟所で、近代中国の戦争が打ち続いた歴史を象徴する場所だ。いまでも衛兵が守りを固め、南国の蒸し暑さの中にもぴーんと張り詰めた緊張感が漂っている。
故宮博物院と併せて見学すると、激動の中国史、台湾史を感じることができる。





民主主義の時代に変わっても、台湾本島意識が大勢の台湾人の中に広がっても、やはり台湾の人々にとって故宮博物院は誇りなのだろう。国営ということもあってか、入場料も安く、いつも学生の社会見学でいっぱいだ。日本人ならフリーで回っても、そこら中に日本人ツアーがいて説明を受けているので、ふむふむ、と聞いてから、次の見たい所へ向かえばいい。
ただ、故宮博物院前の客待ちしているタクシーがあまり評判よくないのは超有名観光地だからか。いつも土産を買え、とか観光案内する、とかうるさい。とにかく目的地へ行ってくれ、と言ってセールス攻勢に負けないようにしないと。

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二大夜市(士林vs饒河街)

 
活気あふれる台湾を象徴するような場所が夜市。昼間はごく普通の通りが、夕方近くになると通行止めされ、屋台が集まってくる。日が暮れる頃には、屋台から立ち上る湯気や匂いに誘われるように大勢の人たちでごった返し、すれ違うのも困難なほどの賑わいは深夜まで続くのだ。
日本でいう夏祭りや縁日の様子に近いが、小吃屋台に混じって一般雑貨や衣料品、携帯電話や生命保険まで売られていること、また、祭りのような夜市が台湾中の都市、それも街のあちこちで毎晩繰り広げられているのは面白い。すっかり生活に根ざしているのだ。
台北だけでも大小7カ所はある、という夜市。中でも人気を二分しているのが市北部の士林夜市と、市東部の饒河街夜市である。

士林夜市は、いまや台湾の夜市の代表として、観光名所にまでなっている。
台北中心部からMRTで北に向かい、剣潭駅で降りると、通りはもう、駅から夜市へ向かう人の波であふれている。少し歩いた変形交差点の向こう、三角形に広がる街と、歩行者天国の道路が士林夜市である。さすが最大規模を誇るだけあって広い、広い。
士林はもともと学校が集まる地域だったので、学生相手の夜市として発展したのだという。道理で高校生や大学生ぐらいの若者が多いし、屋台や商店も、若者向きにできている感じ。夜市入り口の近くにあるゲームセンターや雑貨店の集まった「都市叢林」、夜市のあちこちにある「日本の○○」といった店は、全部、日本大好きな台湾人哈日族のためのものだ。日本のキャラクターや、ジャニーズ系、モーニング娘関連の商品、CDなどであふれている。
人混みをかきわけて路地へ入る。チープなばったもん屋台が続く路地の奥には、士林小吃中心が広がっている。ここもすごい。

いくつかに区切られたフードセンターには、お好み焼き、鉄板焼き、麺、かき氷や新鮮な果物ジュース、食べ物関係の半常設屋台が集中している。そして、どこも賑わっていること。夜中の10時、11時近くにステーキを食べるための列ができていた。台湾人の胃袋はどうなっているのか?



じゅうじゅう焼く煙があたりに立ちこめ、どの屋台の食べ物の匂いも混じり合うので、フードセンター全体の活気と熱気に合わせて、くらくらしそうなほど。中でも、圧巻が臭豆腐。豆腐を発酵させた臭いことで有名な小吃だ。また、どこにいても匂う、匂う。
私は匂いだけなら大丈夫だけど、はじめて行った人はすっかり臭豆腐に圧倒されていた。口直し(鼻直し)に、台湾名物のパパイヤジュースを飲む。
夜市の中心、深夜まで営業を続ける商店街の前に隙間なく屋台が並ぶ歩行者天国の道路。人の波が次々に押し寄せる脇で、台の上に乗った服屋の客寄せお兄ちゃんがマイクを持って絶叫している。若者向きというだけあって、安い服や靴の店が並ぶが、いかにも派手な品揃えのわりには、通りをゆく台湾人はみんな地味な格好なのも不思議。夜市に並んでいる服装で歩く若者なんて、どこにいるのだろう。

若者であふれる士林に対して、ぐっと生活感があるのは松山にある饒河街夜市。
国鉄に乗って台北駅から1駅だ。駅前には大きな道教の道観があり、このお宮の廟会(縁日)として発展したものだという。通り1本だけの夜市には中華風の門が立ち、玉や仏具、彫刻なども売られていて、なんとなく道教起源らしい、縁日らしい雰囲気がある。
商店街を貫く道路の真ん中に、夜市屋台が並ぶ。2列に分かれた通路を、人々は一方通行で端まで行き、向かいの列に折り返すように見て歩く。

ここは士林とちがってフードセンターはなく、小吃屋台も雑貨屋台もばらばらに並んでいる。小腹が減って小吃を食べながら、ふと隣に目をやると、ペットを売る屋台の籠から子犬やひよこに見下ろされていたりする。
屋台で携帯電話や生命保険の契約までやっているのも、この夜市ならではか。揃いの赤い帽子を被った受付嬢と、この熱気の中でもスーツ姿の営業マンが、ピカチューやどらえもんの人形を売っている隣で澄ましている光景もおかしい。適当に冷やかしながら歩いても、1〜2時間では行って戻ってくるだけで精いっぱい。道1本だけとはいえ、なかなか大きいのだ。

夜も眠らぬ台湾パワーに圧倒される夜市めぐり。だが、夜市を歩くだけで、台湾の活力をもらった気になるから、夜市めぐりはやめられない。


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淡水散歩


淡水は台北の北郊外にある古い港町。台湾のベニスともいわれる雰囲気のよい場所だ。
台北の中心から乗ったMRTは台北市が最新設備を誇る地下鉄。市の北部で地上に出た電車は、中華風の宮殿のようなきんきら圓山ホテルを仰ぎ見て郊外へ走ってゆく。ごちゃごちゃした街並みが、やがて丘の上に建ち並ぶ高級マンション群に変わり、一面の緑の山並みと淡水河に広がるマングローブ林の眺めになるころ、終点の淡水駅に到着する。
淡水駅は赤煉瓦造りの洋館をイメージしたきれいな建物。この街の名所が紅毛城という、スペインが築いたヨーロッパ風の城郭であるため、駅もヨーロッパ風を意識しているのだ。このあたりも観光の街らしい。

さて、その紅毛城。港町らしくアップダウンの激しい街並みをタクシーで行くと、町はずれの丘の上に建つ赤い城が見えてきた。
坂道の下で車を降り、入場券を買って山を登る。むんむんと蒸し暑い中、太陽に照らされながら坂道を行くのは、ちょっと骨が折れる。だけど、苦労は丘からの眺望で吹き飛んでしまうだろう。



目の下に、川幅いっぱいに滔々と流れる淡水河。その先には広がるのは台湾海峡だ。河をはさんで尖った観音山がそびえ、その麓とこちらを行き来するフェリーがゆっくり進んでいく。
海から吹き付ける風に一瞬引いた汗が、紅毛城内に入るとまた吹き出してくる。16世紀の古い城だけに冷房なんてないのだ。狭くて暗い牢屋など目にすると、ああ、こんな所に入れられたくないなあ、としみじみ思ってしまう。
台湾は、かつて原住民だけが住んでいた島。かつて植民地にしようと進出したスペインが、島の入り口にあたる淡水河の河口に目を付けて拠点としたのだ。同じ頃、台南に進出していたオランダが台湾の支配権を奪い取り、オランダも明朝家臣の鄭成功に破れて台湾を去って行く。こうして、台湾への漢民族移住が本格的に始まるのである。

紅毛城の隣にもヨーロッパ風の建築物が並んでいる。こちらは旧英国領事館だった建物。今でこそひなびた漁港だが、淡水河が土砂の堆積で浅くなり基隆に主役の座を奪われるまでは、台湾の玄関として列強諸国が争奪戦を繰り返し、対外貿易で繁栄した港だったのである。
紅毛城、旧英国領事館、キリスト教会の尖塔がそびえるカトリックの淡江大学が集まる丘は、淡水きっての景勝地。暑い中でも、結婚写真の野外撮影がそこら中で行われている。撮影のたびにポーズを変え、メイクを直し、大変そうだが気合いが入っている。これも台湾らしい光景か。


       

河沿いに続く道路に降り、河を渡るフェリーで対岸の八里へ。
船から眺める淡水の街は、街中の古い建物や漁港のイメージと異なり、山の斜面に沿って高層マンションが建ち並ぶ近代都市に見えたのが意外だった。MRTの開通によって、台北郊外のひなびた漁港も近代的な街に発展しつつあるのだろう。

さて、フェリーに乗ったりして時間をつぶした後は、淡水の一番の名物と言われる夕陽の見物へ。台北デートコースの定番らしい。
しかし、今日の空はなんだかあやしい。河畔喫茶という名のとおり、淡水河に面した喫茶店でコーヒーを飲んでいると、見る見る観音山が黒雲に覆われ、大粒の雨がこぼれてきた。あちこちで雷が光る。スコールだ。
私たちはクーラーの利いた屋内にいたけれど、オープンカフェにいたカップルたちが、激しい雨に追われて店の中に逃げ込んでくる。
スコールはしばらく止みそうにもなく、台風並みの強風まで吹き荒れてきた。
私たちはいっぺんに騒がしくなった喫茶店を出て、目の前のMRT淡水駅まで走った。駅前広場に並んだ屋台も、店じまいにてんてこ舞いしている。

ずぶぬれになって、ちょうど発車する電車に飛び乗ると、心地よい揺れに誘われて、ついうとうと眠気が襲ってきた。目が覚めると、電車は台北の市街地を走っている。電車の窓から大きな虹が見え、夕焼けが街並みを赤く染めていた。うーん、淡水の夕陽は次回におあずけか。


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基隆、九イ分散歩


基隆は台湾北部きっての港町。日本からの国際航路も基隆港に到着する。
雨が多く、別名「雨港」とも呼ばれる基隆。駅前ロータリーに立つ蒋介石像も合羽姿だ。
私たちもこの街でスコールにあったが、それ以上に、訪れた日が史上まれにみる台風被害の直後だったために、詳しい街の様子は見ることが出来なかった。そうでなければ、台湾屈指の賑わいで知られる基隆夜市を食べ歩く楽しみもあったのだけど。

台北を出た高速バス国光号は、高速道路に乗って基隆をめざす。右手に国内線松山空港が広がり、小型機がひんぱんに飛び立って行く。
あとは、道路の両側はひたすら緑の山、山、山。あらためて台湾が山国であること、台北も四周を山に囲まれた街であることを実感する。
やがて、渋滞する長いトンネルを抜けると高速道路は終わり、谷間をビルが埋め尽くすような基隆の街が高架道路の下に広がっている。やがて、高架道路も終わると、目の前にグリーンの入り江が現れる。基隆港だ。バスは港の一番奥、海辺に面した停留所が終点だった。

人口密度が高いといっても、台北はまだ広い道路やゆったりした公園に都市のゆとりを感じる。ところが、基隆は山に囲まれた港町のため、平地が少ないのだ。ビルというビルは、密集するように建てられ、道路も狭い。夜市の開かれるアーケード街もごみごみして、ちょっと香港っぽい雰囲気も感じられる街並みだった。




     


街の見所である中正公園へタクシーで行く。基隆港を見下ろす山頂に広がる公園は、平和の鐘があったり、巨大な観音像が立っていたり、ちょっとお寺の境内のような雰囲気だ。上から見た街並みは一見平穏そうだが、災害直後とあって公園内には人の姿もまばら。
「南無阿弥陀仏、極楽浄土」と金文字が光り、きんきらの極楽的装飾で飾られたゲームセンターやお土産物屋にも人の姿はなく、1組だけいた家族連れが子どもを遊ばせている小遊園地では、ゴーカートがもの悲しげなBGMとともにゆっくり回っている。
展望台から港を眺めると、外洋に面した巨大な港湾クレーン、公園の向かいに停泊している駆逐艦、入り江になって街の奥まで入り込んだ港には小さな漁船の群。港に面した基隆駅が豆粒ほどにみえている。

中正公園に限らず、台湾のお寺や廟には、許願池なる井戸が用意されている。これは、字の通り願いが叶う池なのだろうが、トレビの泉のようにコインを投げさえすればよいものではないらしい。
井戸の中には中心を軸として、プロペラ状にいくつもの手が回っている。それぞれの手の平には、愛情とか、金運とか、願い事のジャンルが書かれ、自分の願う手にコインを載せないといけないのだ。中には、金運のようにわざと?斜めになっている手もあり、これは難度が高い。
許願池の底には、手載せに失敗したコインが積もっている。きっとみんな必死になってしまうのだろう。神様ながらいじわるな池を考えたものである。
基隆駅近くの定期バス乗り場から金瓜石行きのバスに乗って山の上にある街、九イ分へ。




      


九イ分は、日本統治時代に開発された金鉱山によって、小上海と呼ばれるまでに発展した街だった。ところが、金鉱脈の枯渇によって人々から忘れられた存在になり、その後、台湾の終戦直後から国民政府移転までの動乱を描いた映画「非情城市」の舞台になったことで、再び観光地として脚光を浴びたのである。
一面の草山の斜面に、長い長い階段、堅崎路が伸びる。九イ分の街はこの階段に沿って斜面に広がり、車の入る道は、水平状に造られて階段と交差している。日本時代の建築ながら、当時はモダンであっただろう赤や緑に色塗られた洋館、中国趣味を取り入れた酒楼や茶芸館が建ち並び、日本情緒ともまた異なる不思議な味わいのある街が印象的だ。

階段の上から海を眺めれば、足元には台湾北部の入り組んだ海岸線が続き、遠くに基隆港の港湾クレーンがかすむ。はるかに東シナ海が丸みを帯びて広がっている。ふだんは台北近郊きっての観光地として、すれちがうのも難しいほど混み合うのだという。
今日は観光客も私たち以外には誰もいない。たくさん並んだ土産店や茶芸館も半分は閉まり、残りも開店休業。静まりきった街には、映画にも出てきた非情城市の茶芸館のベランダで寝そべる猫の姿しかなかった。
まるで映画「千と千尋の神隠し」の街のようだ、と思ったが、きっと、いつもの賑わいの中では、かつての繁栄はしのべても、「千と千尋の・・・」の不思議な感覚は思い至らなかっただろう。人のいない九イ分から海を眺める。なかなか貴重な機会だったのか。



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三峡、鶯歌散歩


台北は、活気溢れる夜市めぐりや、若者であふれる西門町の哈日族や、頂好の洗練された都市風景など、近代化を突っ走る市内観光も面白い。だが、ちょっと足を伸ばした郊外には、淡水、九分といった歴史を感じる老街が残り、都会にはないゆったりした雰囲気に浸ることができる。
台北郊外散歩第3弾、三峡と鶯歌もそうした台北近郊の老街のひとつである。
この2つの町は、台北の南西部にある。河をはさんで国鉄沿線にあるのが鶯歌、向かいの町が三峡だ。アクセスするには国鉄の快速で鶯歌へ行き、バスで三峡に向かった方が便利でないかと思われる。7人グループで訪れた私たちは、台北からバスで行こうとしてなかなか苦労したからだ。

ガイドブックによれば、台北の三峡行きバス乗り場は、台北駅南の青島西路、保険センター前とあった。保険センターへ行き、幾つも並んだバス停の行き先表示を見てみるが、三峡の名がない。バス停は町名である三峡と違うのかもしれないが、私たちには分からなかった。
バスを待っていた青年に聞くと「へえ日本人なの?英語はOK?」と言われる。中国語で聞いてんだけど・・・
少し・・と言って、ガイドブックの地図を見せながら話し込むが、だんだんお互いともに中国語の会話になってしまうのではあった。
結局、青年も三峡行きのバスについて分からず、「対不起、我不知道」と申し訳なさそうに言うのに対して「謝謝」と言って別れた。しばらくすると、どこかへ行っていた彼が戻ってきて、「僕はよく知らないから、この人に聞いてみて」。なんと、日本語を話せるお爺さんを捜して連れてきてくれたのだ。謝謝!
お爺さんもバス停の細かい表示を隅々まで見てくれ、バス停で待つおばさんたちにも聞いてくれたけれど、やはり都会のバスは普段乗り付けている路線しか分からないもの。私たちは青島西路バス停をあきらめて別の場所をあたることにした。

タクシーに分乗して国軍歴史館近くのバス停に向かう。タクシーの運ちゃんも「三峡行きバス停?バス路線は細かいからよく分からないね」というばかり。まあ、仕方ないか。でもタクシー分乗は間違いの元だった。
中国語が比較的出来る2人が分かれたのだが、2台目の車に乗ったメンバーは行き先をよく把握していなかったらしい。そのタクシーが着いたのは「国立歴史博物館」。お互いがはぐれてしまったのだ。

先に国軍歴史館に着いた私たちも、後続がいつまでたっても現れないため不安になってくる。降車した場所が違うのかも?と思って国軍歴史館から国軍文芸館といった軍関係の施設、近くにある総統府のあたりまでぐるぐる回るが、見つかる訳もない。総統府を警備する憲兵隊が巡回しているが、あまり銃剣を間近で見せられていい気分はしない。ああ、どこへ行ってしまったのか。
仕方がない、ホテルへ戻って待機しよう。と話していたとき、間違って国立歴史博物館へ行ってしまったメンバーがタクシーでやってきた。なんと、のん気なことに、向こうも同じガイドブックを眺めながら、おかしいなあ、と私たちを待っていたそうだ。漢字で書いてあるでしょうが。

目の前で置いていかれた三峡行きバス、次の便は30分後。すっかり疲れてしまった私たちを乗せて、ミニバスは台北郊外に続く板橋市を通り過ぎ、三峡へ向かって走ってゆく。やがて、真新しい大きなマンションが建ち並ぶ団地が広がり、標識には三峡の文字が現れた。意外に大きな街だ。
ほとんどの乗客が団地のショッピングセンター前で降りて行く。運転手に聞くと、三峡老街はまだ先だという。一旦降りかけたバスをあわてて乗り直し、終点のバス停へ。新市街の裏手には、ごちゃごちゃした昔ながらの街があった。
なんでもない道端で降ろされ、運転手は「そこの看板に沿って行けば老街」と教えてくれた。
なるほど、やがて、旧鎮公所庁舎を改装した三峡博物館、お土産店など観光地らしい場所がぽつぽつと現れる。目の前には、そこだけ時代が遡ったような、レンガ造りのアーケードが続く古そうな街並みがあった。三峡の街だ。

三峡は、日本統治時代に発展した街並みがそのまま残っている貴重な場所である。といっても日本家屋はなく、台湾の気候にあわせたアーケード付きの洋館が建ち並び、1階が商店、2階が住宅という東南アジアにもよく見られるショップハウス形式の建物が続いている。商人たちが財力を誇るために施した店先の装飾がみごとだが、いかんせん老朽化は激しくて、崩壊の危険がある家の前には立入禁止のロープが張られている。
朝早くホテルを出たのに、三峡では昼になってしまった。老街には思ったほどレストランはなく、街で一番の観光名所、祖師廟に行ってみる。
祖師廟は台北近郊でもひときわ大きな仏教、道教の宮である。ここの見所はなんといっても細かい彫刻にある。台湾の寺院はどこもそうだが、シンプルという言葉と対照的にとにかく装飾を施しまくるのである。屋根から柱から、神様の鎮座する堂内まで、とにかく、見ているこちらがくらくらするほど、龍や天女や神様の姿で埋め尽くされた極楽世界が広がっている。これがありがたい世界なのだろうなあ。

          


境内には線香の煙が立ちこめ、おみくじを引くために神様にお伺いを立てる人、ひざまづいて熱心に祈りを捧げる人でいっぱいだ。
そして、このお宮(お寺)には確かに御利益がある。
私たちが帰国する日、中華航空機はいつまでたっても搭乗開始をしなかった。やがて、搭乗ロビーでみんなが見つめる中、エンジンが分解され、組み立てられ、試運転をはじめる。ブオオオン、エンジンがふかされるが、情けなくも止まってしまった。どうもエンジンの回転数が上がらないらしい。再び整備員が集まってエンジンを分解し、組立て、試運転し、を何度か繰り返すうちに、もう出発予定を3時間以上オーバーしていた。

後続の便が先に搭乗を始め、乗り換え可能なチケットを持った客たちは続々と乗り換えだした。残った客には中華航空からジュースや軽食が配られる。そんなモノより、早く飛んでくれー。
しびれを切らした客が中華航空職員に詰め寄ったとき、飛行の是非を機長が判断するのでお待ち下さい、というアナウンスが流れた。
「お待たせいたしました。機長の判断により・・・・飛びます」
おいおい、その空白は何なのだ。余計不安になるじゃないか。
そのとき、メンバーの1人が鞄から何か取りだした。「南無阿弥陀仏」と書かれた小さな紙。三峡祖師廟で配っていたもので、飲む込むお守りらしい。私たちは、一蓮托生、お守りに命を預けてコーラで流し込んだ。そのおかげで、エンジン不良の中華航空機はなんとか日本へたどり着いたのだ。





さて、三峡。祖師廟前の広場にある食堂で麺を食べ、里芋アイスなどを味見しながら老街を散歩する。雰囲気のいい茶芸館を見付けた。
店先では茶葉を売っているが、台湾らしい烏龍茶ではなく、すべて大陸産のプーアル茶なのは珍しい。団子のように固形になったお茶だ。店の主人が「陳年は10年モノ、こちらは30年モノ・・」と説明しながら試し飲みをさせてくれる。
なかなかおいしかったので、プーアル茶専門の喫茶店で頼んでみた。こちらも、アイスプーアルやミルクプーアルなど、珍しいメニューが多い。陽の差し込む風情ある中庭を眺めながら待っていると、変わった器が出てきた。どんぶりになみなみ注がれたプーアル茶だ。飲むにゃ難しいな。



店の小姐がくれた名刺には、「台湾で一番変わった茶芸館」とある。確かに変わっている。
すっかりお茶腹になった私たちは、タクシーで鶯歌の街へ向かった。鶯歌は台湾最大の陶磁器の産地。街の中心部には大きなガラス張りの陶磁器博物館が建っている。商店街には、目印なのかボウリング場の看板を思わせる巨大な壺のオブジェが飾られ、陶磁器を扱う店も多い。
さっきの店も鶯歌焼きだったのだろうか?
台湾の茶芸といえば、小さな素焼きっぽい急須と、小さな器でちょこちょこと茶をいただくイメージがあったのだが。
陶磁器の街の散歩は何が出てくるか、期待が持てそうだ。台北に急ぐ私たちは、鶯歌に未練を残しながらも、電車の駅へ向かったのであった。

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