中国名山・盧山 本文へジャンプ


世界遺産・廬山



廬山は世界文化遺産、国家重点風景名勝区に指定された江西省を代表する旅遊、避暑地。
省都南昌市からは100キロ離れた江西省北部、北は長江に面し、東にポーヤン湖を望む位置に巨大な鯨形の山塊がある。南北30キロ、東西16キロ、山中には氷河地形によって削られた90もの峰がそびえ、最高峰は大漢陽峰1474m。
周囲に奇峰怪石のそびえる断崖絶壁と、数々の瀑布群が流れ落ちる深い峡谷を巡らし、「匡廬奇秀甲天下」と讃えられてきた。李白は廬山の滝を、「飛流直下三千丈、疑是銀河落九天」と詩に詠んでいる。







古くは中国の神話時代、長江の治水に功績のあった禹が、山上から長江を眺め、水利工事の案を練ったという。また、秦の始皇帝も登山したとの伝説があり、以来、多くの文人、名士が廬山を訪れて自然の美しさを讃えた。東晋の詩人陶淵明は「帰りなん、いざ田園へ」と詠んで廬山の麓で暮らし、唐代の李白、白居易、宋代の蘇軾なども廬山を詩文に詠んだ。

また、廬山は中国南部の重要な仏教聖地でもあり、最盛期には山中に300を数える寺廟があり、1万人以上の僧侶が暮らしていたといわれる。特に東林寺は浄土宗仏教の発祥の地で、鑑真和上も修行を行い、日本仏教にも大きな影響を与えた。
近代に入ると、夏でも平均気温が20℃前後という廬山の気候に注目した外国人が競って別荘を建設し、山上にヨーロッパ風の街並みを造り上げた。やがて、南京国民政府が成立すると、蒋介石ら国民党要人も別荘を構え、南京の酷暑を避けた「夏の首都」とまで呼ばれるようになった。
共産党政権も有名な廬山会議を開くなど、政治史上も重要な場所である。



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廬山を歩く


廬山山中、標高1100mのところにクリン鎮という街がある。英語の「グリーン」から名が生まれただけあって、街並みもヨーロッパ風の洋館が多い。ホテル、商店街、劇場、公共機関が集まる廬山の中心である。ホテルや保養所30ヶ所、洋館建築の別荘は1400棟を数え、年間220万人が訪れる。

街心公園から石畳の商店街を抜けて歩いて行くと、断崖の縁に如琴湖が広がっている。天橋から断崖絶壁の錦銹谷に沿って奇岩怪石を眺めながら遊歩道が続いて行く。終点、空中に突き出た龍首崖までの途中には、洞窟に祀られた道教寺院、仙人洞がある。





街から河西路を行くと、美しい森に囲まれた廬林湖がある。湖畔の洋館は毛沢東旧居、現在は廬山博物館として一般公開されている。さらに進んでゆくと、廬山植物園の広がる含番口。まるで眼下に広がるポーヤン湖の水を山が飲み込むように見える絶景ポイントだ。特に日の出が有名だが、年平均200日が雲や霧に閉ざされるだけあって、見られる確率はとても低い。ここから大口瀑布まで下るロープウェイがある。

山中の道路にはミニバスが巡回している。タクシーはクリン鎮の北、廬山北門付近で客待ちをしている。


錦銹谷


廬山北面、断崖に架かる吊り橋の天橋から道教聖地の仙人洞まで1.5キロにわたって続く断崖絶壁。
岩峰に囲まれた谷間には緑の樹林が広がり、春には梅や桜、秋には一面の紅葉が見頃となる。
遊歩道を歩いていくと、中国の神話に登場する「八仙」の一人呂道賓が仙人の修行を行った洞窟、仙人洞があり、洞内には「後漢書」に書かれた一滴泉がある。2000年以上、天井から落ちる水滴が絶えない泉だ。近くには、明朝太祖朱元章が建てた御碑亭がある。







龍首崖


錦銹谷の断崖絶壁を見下ろして歩く遊歩道の終点が龍首崖。
その名のとおり、深い谷間の上に、突き出すように巨岩が立っている。崖の突端から谷を見下ろすと、小さく発電所と吊橋が見え、その吊橋までロープウェイで下りることができる。
龍首崖の付近には、晴天が続いても涸れないという小天池と、天池寺がある。





美廬別荘


クリン鎮の郊外、谷間に建てられた英国様式の精巧な別荘建築。
蒋介石、宋美齢夫妻の住まいとして知られる。建物は千uとこじんまりしているが、各室内はしゃれた意匠が凝らされ、廬山の別荘群の中で最も美しいと言われている。5000uの広さを持つ英国庭園、防空壕、プールなどの設備がある。



美廬の名は蒋介石によってつけられた。中国の近代建築史にとって重要なだけでなく、現代政治史においても重要な位置を占める。
蒋介石は、南京国民政府時代、夏の酷暑を避けて美廬別荘に移り政務を執った。そのため、廬山の「夏都官邸」には国民党政権の党・政・軍の要人が集まり、各種の重要な会議がここで開かれた。周恩来も抗日戦争のための国共合作を談判するため、蒋介石を美廬別荘に訪ねている。



解放後、中国共産党はたびたび廬山で会議を開き、党中央の権力抗争の舞台となった。
1959年の廬山会議では、毛沢東の急進政策に意見した彭徳懐元帥が解任され迫害を受けた。また、1970年の廬山会議では、毛沢東の後継者として指名された林彪党副主席が、国家主席ポストを巡って毛沢東と対立し、翌年の亡命未遂、死亡する。そのたび、毛沢東は美廬別荘を住居として使っていた。


含番口


廬山山上の東端、標高1200mの場所にある景勝地。
左に五老峰、右に太乙峰に囲まれ、氷河期に廬山にあった氷河によって削られた地形が、まるで廬山がポーヤン湖の湖水を飲み込むように見えることから、含番口の名がある。口から突き出た舌状の峰には東屋が建てられ、遙か足元に中国最大の湖が広がっている。特に湖からの朝日が絶景である。


含番口から登る五老峰1436mは、岩石の垂直節理の影響を受けて、断崖絶壁の岩峰が屹立している。5つに別れた山頂が、麓から見ると5人の老人が座っている姿に見えることからその名がある。また、近くには亜高山植物を研究、展示する廬山植物園、モノレールで下った渓谷には、廬山奇景の第一である「三畳泉」の瀑布がある。全落差300m、三段に分けて断崖を流れ落ちる滝は李白がその美しさを讃えた名勝として知られる。


秀峰


廬山の山岳風景は南面の秀峰に極まる。
香炉峰、鶴鳴峰、双剣峰、姉妹峰、文殊峰といった奇峰岩峰が立ち並び、さまざまな風景の変化を見せている。
「廬山之美在山南、山南之美在秀峰」と詠われた岩峰と、岩間を流れ落ちる雄壮な瀑布群は、李白が「望廬山瀑布」の詩文の中で

日照香炉生紫烟 (日は香炉峰を照らし紫烟を生ず)
遥看瀑布挂長川 (遥かに看る 瀑布の長川に挂(か)くるを)
飛流直下三千尺 (飛流直下 三千尺)
疑是銀河落九天 (疑うらくは是れ銀河の九天より落つるかと)

と、その美しさを讃えた。また、清少納言が「香炉峰の雪は」と聞かれて簾を上げた故事は、廬山の香炉峰を詠んだ白居易の詩に由来している。

東林寺


東林寺は廬山西麓にある浄土宗仏教の発祥地。
東晋時代(386年)名僧恵遠が創建し、中国仏教八大道場の一つに数えられ、唐代に最も隆盛を極めた。鑑真和上が日本へ渡る前に東林寺を訪ね、また名僧知恩もこの寺から日本へ渡るなど、日本仏教へ与えた影響も大きい。境内には正殿、神運宝殿が建ち、李白、白居易、王陽明らの碑文も残されている。

東林寺の西には、唐代に建てられた「西林塔」がある。別名「千仏塔」とも呼ばれる六角七層の塔は、もとは西林寺の寺塔としてあったもの。
この寺は禅堂として栄えたが、元代以降、破壊と再建を繰り返し、清朝時代に壊された後はわずかに塔を残すのみとなっている。

白鹿洞書院


                                        

廬山南麓にある白鹿洞書院は宋代四大書院の一つ。周囲を緑の山々に囲まれた仙境にある。
唐代、洛陽の李勃、李渉兄弟は廬山に隠居し、白鹿を飼ったので「白鹿先生」と呼ばれ、隠居地も「白鹿洞」と呼ばれた。後に江州長官に命じられた李勃はこの地に書院を建てると、唐末の戦乱を逃れた知識人たちが避難して読書に励む場所になった。

宋代に入ると朱子学の開祖である儒家、朱熹が学問所として再興し、著名な学者や多くの学生が集まって朱子学思想を広めていった。その後、清朝まで700年間にわたって白鹿洞書院は中国儒教の中心学府として栄えることになる。礼対殿を中心に明倫堂、朱子閣、御書閣などの風格ある古建築が谷間の緑とあいまって当時の学問の雰囲気を伝えている。


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廬山名産


盧山雲霧茶


種別:緑茶 産地:廬山 

歴史:雲霧茶は晋代に始まり、唐代には既に銘茶としてその名を知られた。千数百年を超す歴史を持つ。「廬山乃志」によれば、晋代より廬山の寺僧たちにより植栽されたものという。伝説では、雲霧茶は古くは一種の野生茶樹であった。東林寺の名僧恵遠が栽培茶に改良し、以来、僧侶たちは自分で作った茶で客人をもてなし、茶の詩を吟じるようになった。
唐代、廬山に遊んだ詩人白居易は、廬山香炉峰下の茶園風景を詩に詠み、雲霧茶の名は全国に広がった。宋代には皇帝に献上する「貢茶」の地位を得た。

環境:廬山は1年を通じて雲や霧に閉ざされる。雲霧茶の名もそこから来ている。廬山は江西省北部、北は長江に臨み、東にハ陽湖が広がっている。山中には渓谷が流れ、樹木が茂り、水蒸気の多い環境が霧を生む。大きな温度差と、霧を透過して和らげられた日光は、茶葉の芳香成分の育成に非常に有利である。その色香の幽細さは蘭の花にも例えられる。

成分:雲霧茶は有益成分が多い。特にビタミンC含有量は一般茶葉より豊富である。

特徴:茶葉は大きく、色は翠、茶水は透明、滋味濃厚、香りは蘭のようである。飲むとすっきりし、健康増進によい。龍井茶に似るが、龍井茶より味が醇厚で、黄金茶より味がさっぱりしている。浅緑色の茶水は茶杯に碧玉を湛えたようである。そのため「香馨、味厚、色翠、湯清」と称されている。



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長江の港町・九江


廬山の麓、長江とポーヤン湖に挟まれた九江市は、昔から水運の拠点として栄えてきた。
歴史上、中国の「四大米市」「三大茶市」の一つにも数えられ、省内各地はもとより全国から物産や商人が集まる商業都市であった。そのため、三国志では呉孫権の重要拠点、水滸伝の舞台としても知られている。
市内の見所も三国志、陶淵明、白居易、水滸伝にまつわる遺跡が中心となる。
 
九江市は現在でも江西省の北の玄関口として重要な位置を占める。
九江港は長江流域の国際貿易港として対外開放され、日本や韓国航路の貨物船がやってくる。長江航路では上海や武漢との間に多くの客船が行き来している。また、江西省内の長江に架かる唯一の橋、九江長江大橋は道路と鉄道が2層になった巨大橋。京九鉄道もここを通り、中国を東西南北に結ぶ交通網の中継点となっている。

九江観光


煙水亭


九江市街の西側に広がる2つの湖のうち、長江に近い甘棠湖の北側、湖上に浮かんで建つ。
三国時代に呉の名勝、周瑜が水軍を訓練するにあたって点将台に使った場所といわれる。唐の白居易が江州に左遷された時、湖心に亭を建てた。

この亭で作った「琵琶行」の中で「別時茫茫江浸月」と詠んだことから「浸月亭」と名付けられ、その後、度重なる改修に従って名を変え、宋代からは「煙水亭」と呼ばれている。

亭内には船庁、五賢閣、純陽殿などの古建築がびっしりひしめき合い、独特の風格を備えている。高さ12m、六角三層の映月楼に登れば、遙かに屏風のような廬山を望み、湖水の対岸には柳の緑が映える絵のような風景が広がっている。


能仁寺


市の中心地にある。南朝梁代の武帝のころ(503年)に創建され、明朝になって現在の名称になった。
現在の寺院建築は多くが清朝時代のもの。3000uもの広大な寺域を持ち、九江最大の古建築群である。巨大な大雄宝殿、金剛殿、大仏殿などがあるが、一番のみどころは高さ43mの「大勝塔」、六角七層、レンガの塔は千年以上の間、風雨や地震に耐えてそびえ立っている。


潯陽楼


長江に臨んで建つ楼閣。古典小説「水滸伝」の中で宋江が「反詩」を壁に書き付けた建物として知られている。
現在の潯陽楼は清代の小説挿し絵を元に1988年に復元されたもの。外観三層、高さ31m。建物内には「水滸伝」の名場面が600枚の彩色タイルを用いて描かれ、108人の豪傑像が展示されている。 


琵琶亭


長江に臨んで建つ楼閣。唐代に創建され、白居易が「潯陽江頭夜送客」を詠んだ場所と伝えられている。
1988年、長江大橋の東側に復元され、高さ20mの楼閣に上がれば、雄大な長江の流れと巨大な人工建造物を一望することができる。

九江長江大橋


九江長江大橋は「京九鉄道」の開通に先立って1991年に完成した、鉄道、道路両用の二層橋。
全長4400m、うち江上部分は1800m、武漢及び南京の長江大橋よりも規模が大きく、九江市と対岸の湖北省を結んでいる。高さ32m、10本の橋桁で支えられた川に架かる両用橋としては、中国のみならず世界最大を誇り、中国を南北に結ぶ交通の動脈として重要な橋である。


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