中国旅行記 紅大地紀行(1998江西省) 本文へジャンプ


紅い大地に惹かれて

 
1997年の夏、初めての中国訪問から帰国した私はすっかり中国熱に浮かされていた。
上海でひいた風邪は1日寝ただけで治ったが、完治しないのはテレビを点けても新聞を開いても、寝ても覚めても「中国」の2文字に異常に反応してしまう中国熱である。

もし、前回が上海や北京の名所をめぐるだけの旅だったら、「ふーん」で済んでしまったかもしれない。何の変哲もない一地方都市ながら、南昌で見聞きしたことは私の心を虜にしてしまった。
人から「中国どうだった?」と聞かれると、待ってましたとばかりに、服務員の態度の悪さ、有名な中国トイレの驚愕の実態などを語り、「中国は全く・・・」などと言いながら楽しそうに目を細める始末である。

そんなある日、1度しか出会ってないのに片思いが通じたのか、それとも単なる中国のきまぐれか、「また江西省へ行ってもらえませんか?」との甘い誘いが私に届いた。今回は中国学術交流センターという団体が江西省で行う日本文化紹介展のための訪中である。

学術交流センターは夏の訪中団でも中心的な存在だったので、私も旅を通じて親しくさせていただいた。
ところで日本文化の紹介とは、日本のカレンダーの展示なのだという。
何でも中国には企業が宣伝のためカレンダーを配る習慣がないため、美しい風景や着物の女性の写真で飾られたカレンダーが珍しく、とても人気があるのだそうだ。

あわせて改革開放で商売にいそしむ中国人に日本商人の営業努力を知らしめる、という高尚な目的もあるらしいが、実のところ日本の正月休みを利用した訪中のため、お歳暮カレンダーなら只でかき集めることができる上に、ヌードカレンダーは当局への袖の下にできる、というせこい理由も大きいようだった。

江西省は中国の東南部、内陸に位置する省である。禅宗、浄土宗仏教の寺院や陶器の都景徳鎮などがあるが、江西省が有名なのは共産党の拠点として近現代史の舞台となり「革命のふるさと」と呼ばれるからだ。
西安や蘇州のような史跡に乏しく、チベットやシルクロードのようにエキゾチックでもない江西省は、上海の近くにありながらかえって中国の穴場かもしれない。

革命の色である赤と、大陸に広がるラテライトの赤土から「紅土地」と呼ばれる江西省だが、私は車窓から見た紅い大地に魅せられてしまった。もちろん、二つ返事でOKし、私にとっての2度目の中国、山間部の町と革命の夢のあとを巡る旅が始まった。


             


1997年の12月、空港で訪中メンバーの6人が顔を合わせた。
団長のH先生は県の農業団体会長を務める農業専門家、学術交流センター事務局のKさん、最長老ながら60にして一番元気なMさんは元国労の左翼詩人だという。そして南昌市の模範中学との姉妹校提携のために同行する中学校のA先生、香港歌手、周華健の追っかけに情熱を燃やす会社員Eさんと交流センター初参加の私、という組み合わせだった。

経由地の上海で1泊、翌日の国内線で1時間、飛行機の窓からのぞけば、眼下にどこまでも広がる大小さまざまな田圃と、その中に島のように浮かぶ町や村がゆっくりと流れて行く。
やがて飛行機は高度を下げ、冬枯れた田園風景が広がる南昌空港にドスンと着陸した。

空港では、江西省政府外事弁公室のWさんとZさんが出迎えてくれた。私たちの旅に同行し、案内や通訳をしていただく方たちである。夏の訪中以来の再会を喜び、車内での会話もはずむ。なつかしい南昌の町とももうすぐ再会である。

                              

                         
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現ナマに気をつけろ


南昌には私が絶対会わなければならない2人の日本人がいた。
私の町から江西中医学院に鍼灸を学ぶ目的で留学したT君とK君である。夏の訪中では「フリーターだから」という留学動機を語り、「中国語は現地で覚えるから」と何の準備もしていなかった2人。
もれ聞くところによれば、留学生活はなかなか苦労している、とのこと。私も親しくなっただけに心配もし、また南昌で再会する日を楽しみにしていた。

ところが、2人と会う理由は単なる懐かしさだけではない。私の服の下、お腹に巻き付けた貴重品入れには、なんと100万円の現金が隠されているのだ。この旅の最大にして最も危険な任務は現金を2人に手渡すことだった。

それは訪中の数日前のこと。留学生派遣を担当する役場の課長補佐が私に事情を説明した。
何でも留学の費用として1人50万円が年内に必要らしいのだが、2人は用意をしていなかった。彼らの家では急いでお金を揃えたけれど、何せ外国のこと、年末も重なり為替も間に合わないと思ったのだという。そこでタイミングよく南昌へ出かける私に現金輸送の白羽の矢が立ったのだ。
米ドルの詰まった封筒を渡され「命より現金が大事だぞ」とさらっと言われて私は一挙に不安になった。

100万円といえば命を狙われかねない金額である。海外へ行く前から身の危険を感じるようであった。
まず現金は風呂へ入る時も肌身から放してはならないだろう。任務を果たすまでは絶対に人に気を許さず、常に近くの不審者に目を光らせなくては。私は重要な任務を担って敵地に潜入する工作員のごとく、辺りに警戒バリアを張り巡らしながら一挙一投足にさえ気を配って日本をあとにした。
まるで私の近くの人間が全て強盗であり、懐の大金を狙っているように感じ、完全に疑心暗鬼の状態であった。

上海の楽しげな夜もホテルの窓から夜景を眺めてがまん。いよいよ南昌へ到着した。
秘密任務の本番開始である。ところが問題が発覚、ホテル到着前に工場視察があったのだ。私は暗がりも賊が潜んでいないか横目でチェックを入れつつ、息を詰めるように視察を終えた。



ようやくホテルへ。今回のホテルは南昌市の中心部、交通の便のよい場所にあり中医学院にもほど近い。彼らも安心して来ることができるだろう。
部屋から留学生寮に電話を入れ、ロビーで彼らの出現を待つ。だが、約束の9時を過ぎても彼らは来ない。おかしい。何だかホテルのロビーに出入りする男女すべてがあやしく感じられる。緊張して心臓がドキドキしだす頃、やっと2人が手を振って現れた。よかった。

ロビーから彼らとともに部屋へ向かい、廊下の四隅などをさっと見回してドアに鍵を掛ける。懐から現金封筒を取りだし、金額を確認して2人に手渡した。任務終了である。しばらく留学生活の様子など話をしながら過ごした後、不審者を警戒しつつ彼らは寮へ帰っていった。

9月に彼らの留学生活が始まってもう3ヶ月。不便なりに外国でのキャンパスライフを謳歌しているようだった。

何より驚いたのは、彼らの容貌の変わり様である。日本ではいかにも遊んでる風の軽いノリだったT君は、顔も体もでっぷりと丸くなり、にこにこ笑う目がでれっと垂れて、何だかパンダみたいになってしまった。ストレスから髪が抜け、落ち武者のような風采だったK君は見違えるほど若返り、髪の毛ふさふさ、内向的な性格まで改善されたかよく喋る、喋る。うーむ、中国医学の力おそるべし。

しかし、何の準備もせずに飛び込んだ中国の地方都市で、周りに日本人がいない状況でストレスも溜まらず、あんなに肥えて性格まで丸くなるとはどういうことか。普通なら慣れない生活にストレスが溜まり、痩せてしまうのが正しい留学生でないのか。

その答えは、翌日、2人の身元保証人である省政府外事弁公室のWさんから聞かされた。何と彼らは、留学早々にして中国人学生とつるんで遊び回る不良学生になっていたのだ。

ただでさえ日本人が少ない南昌、大学に日本人留学生がやってくると日本語学科の学生が放っておかないらしい。それはいいのだが、連日やってくる中国人学生を引き連れて夜の町で遊び回り、お代は全部払ってやった。当然、気前のよさで2人の人気は急上昇、男子学生はもとより女子学生まで押し掛けて、留学生寮の門限破りの毎日。

 おかげで宿題はやらない、授業も遅刻、困った大学からWさんに苦情が来るというのだ。

けしからん話ではないか。女子学生にもてるなんて・・・いやいや何のつもりだろう。それでは私の持ってきた100万円の意味がないじゃないか。あんなに肝を冷やしたのに。

Wさんから役場に報告するように申し付けられた私は、告げ口するようで気が引けたが日本へ帰って課長補佐に事と次第を伝えた。T君とK君は大学の春節休みに一時帰国すると、何も知らずに役場へ遊びに来たが、かなり油を絞られたらしい。その後は真面目になったのか?



      


ところが、私が彼らの中国語に助けられるとは、この夜は思いもしなかった。
翌日、訪中団と昼食をともにした2人は、私へのお礼として、食後の休憩時間に南昌の自由市場を案内すると言った。
何でも、食料品中心の市場と違い、翡翠や玉などの宝石から雑貨、海賊版CD、がらくたまで、あやしい物がなんでもあるのだという。ばったもん大好きの私はもちろん誘いを受けて彼らについていった。

自由市場は公園の一角に、リアカーで運んできたがらくたを思い思いに並べてみました、という風情で広がっていた。地べたの商売ながら、玉の露店では真剣なまなざしで鑑定する客と店のおやじとの丁々発止のやりとりが垣間見られ、市場の雰囲気といい、集まるおやじたちといい、あやしさ満点である。観察するだけでも十分面白いところだ。

私たち3人は、とある海賊テープ屋を横目に、今はやりの中国ポップスについて話をしていた。旅の土産にここで音楽テープを買おうと思った私が店先で品定めするうち、先に行ってしまった留学生とはぐれたのだ。
やがて、10本ほどテープを選んだあと、露店の兄ちゃんに「いくら?」と聞いた。ところが、私の中国語力不足と兄ちゃんの訛りまくった南昌弁が合わさり、ちっとも判らない。懐のお金を確認したとき、私はまだ両替したばかりで小銭がないことに気づいた。

えい、ままよ。お札を出すと、兄ちゃんは「こんな大きな銭は釣り銭がない」とばかりに拒否しやがる。なぜ拒否するのか分からずにばんっとお札を押しつけたら、そのままひったくってお釣りを返してくれないのである。「お釣り、お釣り」と叫んで迫ると、向こうもものすごい早口で言い返してくる。

私の周りにはわさわさと人垣ができ、言葉が分からないのと、戻る時間が迫ってきたことで焦る気持ちはピークに達した。留学生が駆けつけたのはその時だ。

2人は猛烈な勢いで露店の兄ちゃんに抗議し、やがて、私たち3人を心配してやってきた省外弁のZさんがその場を収めてくれた。Zさんの手にはテープとお札が。「テープはいらない」と言う私に、兄ちゃんは「お前にやる」というしぐさをしてそっぽを向いた。
現金には一瞬たりとも気が抜けない、ということだ。



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革命史跡を巡る旅

                         
私たち訪中団は、南昌周辺で発電所を見学したり、某町役場から委託された中国での友好姉妹都市探しのために、初めて聞くような地方都市の市政府を訪ねたりした後、カレンダー展の開かれる江西省西部の炭鉱都市、萍郷へと向かった。



南昌からは列車で5時間ほどの旅。私たちに同行するのは省外弁のWさん。カレンダーやスーツケースなどの荷物はZさんがトラックで運んでくれるので、私たちは手ぶらで一番高級な軟臥車両に乗る。らくちんなものである。

南昌駅のホームで、売り子から干し芋や焼き栗、ミカン、バナナなどを買い込み、車窓の風景を眺めては食べ、食べてはしゃべり、列車の旅は過ぎて行く。夏の訪中、江西省の田舎に散らかったゴミの様子に貧しさを感じたが、冬の町はずれにはゴミの山も目立たず、農村風景もこざっぱりして見える。炎暑と湿気に悩まされた夏と乾燥した冬では風景も違って見えるのだろうか。



変わり映えしない風景にも飽きた頃、車中の話題は文化大革命へと移っていた。

「中国4千年の歴史を破壊して新しい社会を創造するのだ」と唱えて、文化、社会秩序を破壊してまわった狂気の時代である。1965年から10年間の間に、迫害や飢餓による多数の死者を含めて中国の失ったものはあまりにも大きく、文革によって国の発展は20〜30年は遅れただろうという。それはやっと20年前の話なのだ。

「なぜ毛沢東は権力闘争のために文革なんかやって、国を危機に陥れたのかねえ」

それまで一緒に談笑していたWさんは、文革の話題になるとすっと黙りこんだが、やがてぽつぽつと当時の思い出を語り始めた。Wさんは40代。恰幅の良い体とギョロリとした目の貫禄ある紳士で、気持ちが熱くなると訛のある非常に早口の日本語を話す。

Wさんは文革の中で10代から20代の青春時代を過ごした。だが、この時代に学生生活なんて存在しなかった。中学生の時に学校が閉鎖されたからである。

その後は集団農場での農作業にあけくれ、勉強の代わりに毛沢東語録を暗唱した。集団農場での紅衛兵の生活はとてもひどく、いつも飢えていたという。わずかな楽しみは毛沢東語録を掲げて熱狂的に歌いながら革命の足跡を巡礼する旅だったそうだ。

紅衛兵たちは集団で革命の歴史を追体験するために何百キロもの道のりを歩き、野宿して毛沢東の苦労をしのぶ。熱狂の旅には恍惚感さえあった。それはマインドコントロールなのか。
Wさんの時代には大学受験はない。紅衛兵たちの規律が乱れていく中、ひたすら真面目に農作業に取り組む姿勢が評価されて、国家を担う人材として外語大学日本語学科へ推薦されたのだ。

それは本人の意思とは関係なしに決められたものだ。大学でWさんは国のために必死に日本語を学び、卒業後の改革開放の時代には、国のために日本語を使って働いてきた。文革によって青春時代を失い、文革によって日本語と巡りあったWさん。中国にはこんな数奇な運命を辿った人が無数にいるのだろう。

「毛沢東には間違いもありましたが、毛主席への思い入れも深いのです。今の仕事があるのは真面目だったから。文革でも改革開放の時代でも、国のために働くのが一番大事」

私たちはWさんの大きな目に光る涙を初めて見た。

列車は江西省西部に広がる赤土の大地を湖南省境に近い萍郷の町へと走り抜けた。
翌日、私たちに萍郷市政府外事弁公室から数人の職員が加わり、バスで町の見学に出発した。


         


萍郷市は人口120万人の都市ながら日本ではほとんど無名に近いだろう。炭鉱都市だけあって、郊外には石炭屑を積み上げたボタ山が見え、くすんだ灰色のビル群とともに少しすさんだ印象のある町であった。

今日からの案内は市外弁の日本語通訳Yさん。女の人だが緊張しすぎて日本語がたどたどしく、通訳不能になって「すみません、すみません」を繰り返す。Yさんは大卒後に市外弁へ就職したが、田舎町で日本に関わる仕事に恵まれなかったばかりに日本語を忘れてしまった通訳だった。しかし、同業者Wさんはそんな彼女に手厳しい。

「通訳である以上、いつでも日本語能力を磨かなくてはならん。言い訳はするな」

私たちはYさんに同情したが、Wさんは彼女の仕事には一切手を貸さなかった。



            


通訳2人のやりとりに車内はぴりっとしたまま、「安源工人運動記念館」へ到着。
安源とは炭坑地区の地名。共産党の指導した労働者ストライキの記念館である。コンクリートの巨大なビルは冷たく殺風景で、いかにも共産主義という感じがする。玄関には金色のプレートに「愛国主義教育基地」の文字。日本人が見るとちょっと異様だ。

館内の案内は、絶対に笑わない歩く共産主義のような女の子。長い指示棒をピシッと鳴らすので、こちらも思わずドキッとする。展示内容はこうだ。中国は外国から虐められ、人民は搾取されて大変な苦しみを強いられました。人民は蜂起しても弾圧されてしまいます。

「なぜ人民の蜂起は失敗しましたか?」 ピシッ 「?」 「共産党の指導がなかったからです」・・・

やがて、時代は抗日戦争を経て国民党との内戦、中華人民共和国の成立へ。

「なぜ革命が成功しましたか?」 ピシッ 「?」 「偉大な毛主席の指導があったからです」・・・

しかし、見事にステレオタイプな共産主義革命の歴史である。
やがて、共産党を讃えて歌い出した案内員は、突然うるうると涙を流した。驚く私たちに

「私は今日、日本の皆さんに偉大な毛主席のお話ができて、本当に光栄に存じます」


記念館を出て炭坑まで歩く。巨大な毛沢東、劉少奇の像がそびえたっている。私はあの女の子が毎日、案内の最後に歌いながら泣くのかと想像すると心が寒くなる思いでいた。

だが、泣いて歌うのは中国人だけではなかった。
旧工人倶楽部は、毛沢東が労働者に向けて演説した場所だ。古い講堂には紅星マークの演台が置かれ、革命当時の雰囲気が色濃く残る。
ここに最も感激したのは、元国労闘士の老詩人Mさんである。左翼の人だけあって先の記念館から感激しっぱなしなのである。
皆に促されたMさんは演台に駆け上がると拳を突き上げ、北朝鮮の主席ポーズをとった。

私たちに囃したてられてすっかり気をよくしたMさんは、バスの中で感極まって革命歌を歌いながら泣き出した。それを見た中国側関係者も驚き喜んでしまい、毛主席を讃える歌の合唱が始まる。文革の青春を過ごしたWさんも楽しそうに合唱に加わる。日本人では事務局Kさんが文革に影響された世代か、「東方紅太陽昇、我らの毛沢東は人民を救う星」なんて歌っている。萍郷の町に革命歌が響くのだ。

大合唱となったバスが次に向かうのは、禅宗発祥の地として名高い市内の寺院。

しかし、工事中の部分が目立つピカピカの寺院は、建築といい仏像といい何の歴史も感じさせない。その理由も文革にあった。宗教が否定されて由緒ある寺院は徹底的に破壊され、最近になってようやく再建されたのだ。今、境内には線香の煙が立ちこめ、熱心に参拝する人々の姿がある。
革命って、文革って一体何だったんだろう。




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萍郷のあやしい夜


私たちが萍郷で滞在したホテルは、この町では最高級になる2つ星級の賓館であった。
建物は古いものの、広い敷地には菜館、健身房、サウナ、理髪店、ダンスホールなどが揃い、市政府が賓客の接待のために経営しているホテルだという。

フロントでは鍵を渡されなかった。館内各フロアごとに服務台があり、部屋を出入りするごとに服務員に頼んでドア錠の開閉をしてもらうのである。

2つ星だけあって古さは否めないが、広くて天井の高い室内には中国家具が置かれてまあまあ快適そうだ。
続いてトイレと風呂のチェックへ。何だ、トイレの水漏れで床が水浸しじゃないか。風呂のお湯は出ることは出るがぬるい赤水である。さすがは田舎、あなどれない。

廊下の端にある服務台に訴えて修理を呼ぶが、修理工は最後に「無理」と言って帰った。
服務員は私たちに「外トイレを使って下さい」と言う。うーむ。外トイレはピカピカに掃除されているが、タイルの上に水を撒くので無茶苦茶滑るのだ。恐る恐る歩かないとひっくり返る危険性がある。私は宴会の途中で用足しに立って見事にこけた。

さて、私と同室するのは団長のH先生である。私の心許ない中国語でもないよりはまし、ということで一緒なのだ。事務局Kさんも話せるのになぜ?
トイレ騒動のあと、H先生とお茶を飲んでいるとふと窓の外が騒がしくなり、パトカーが敷地内に入ってきた。覗いてみると公安がホテルの周囲を固めている。
「何事?」と思うのも束の間、ドアがノックされて警官とWさんが入ってきた。「どうしたんですか?」Wさんの説明によると、省の共産党の会議がホテルで開かれるので警備のためにパスポートチェックするという。

ちょっと待ってよ。私たちは政府の招待で来たのに、警備上とはいえ何があやしいの?

その夜はホテルの近所を散歩したくらいで、疲れたから早く休もうとしていた。
私が気になったのは部屋にあった健身房の案内だ。大きな足裏の絵に惹かれた私は、自慢じゃないがそのときまで按摩の類を経験したことがなかったのである。これがよい機会とばかりにWさんを介して聞くと、部屋と健身房のどちらでも選べるとのこと。ならばH先生と2人分の按摩を頼んだ。

最初からおかしいと思った。婆が連れてきた按摩士2人はまだ高校生くらいの女の子。婆は先払いだと言って金を要求してくる。
部屋で按摩が始まるとH先生が不満を口にした。 「まじめにやれって言ってくれ」 私は按摩がどんなものか知らないが、この2人はいかにも握力がなく、凝りがほぐれた感じがしない。こんな按摩なら私の方がよほど上手だ。
やがて、「テレビ見ていいか」と言って、ドラマを見ながらべちゃくちゃ話しては笑い出す。
その様子に業を煮やしたH先生は「馬鹿にしている。もうやめよう」と言う。

「もういいよ」私の言葉に2人は予想外の言葉を口走った。「お風呂浴びてっていい?」
何だと、それは大変まずい状況ではないのか?もしかして按摩ってそういう意味だったのか?
ようやく気づいた私は 「風呂はだめ、早く帰れ」 と言い、H先生にもこの事情を説明する。女の子2人が風呂に入っていると公安が私たちの部屋に突入、なんてどうするんだ。

しつこく訴える2人にH先生の怒りも爆発し、Wさんを電話で呼び出した。Wさんがとんできて2人を説得し、健身房の婆も呼んで厳重に注意を申し渡した。

「政府経営のホテルがこんな商売したらまずいんじゃないの?」 H先生の言葉にWさんは 「風呂のない家が多いから客の部屋で入って帰りたかったらしいです」 と説明するが、「健身房はテナントとして入っているので経営実態に責任をとれません」 とも言った。
しかし、共産党要人と公安がいるホテルでよくこんな経営ができたものだ。中国は分からない。


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カレンダー展

    
                    



1998年の元旦が来た。
中国は春節といって旧正月を盛大に祝うが、新暦も1月1日だけは祝日になっている。
今日は訪中のメインイベントである日本カレンダー展のオープン式典があるのだ。私たちはスーツに大きなリボンを付け、ちょっと緊張気味に市政府のバスに乗り込んだ。

チャイナドレスの小姐たちが花を添えるために同乗してくる。よく見ると、廊下の服務台にいる無愛想な服務員だった。今日はおしゃれできるのがうれしいのか、きゃあきゃあ騒いでいる。中国側関係者もバスに乗り込む。ブランドスーツを身につけている証拠として、袖口のタグを取ることなく誇らしげに見せているのが何ともおかしい。全員が揃うとバスはカレンダー展の会場である孔子廟へ向け走り出した。

孔子廟の門前には深紅の横断幕が張られ、準備の人たちが忙しく働いている。私たちは開場までの時間を博物館になっている廟内を見学し、取材のテレビカメラの前で館長から萍郷の歴史について講義を受ける。なんだか面はゆい気分だ。
やがて時間となり、私たちの前で孔子廟の門が開かれると、思わずあっと驚いた。


               


廟の中庭をびっしり埋めて小学生の鼓笛隊が整列していたのである。開門と同時にバトンを先頭にした鼓笛隊のパレードが始まり、訪中団を囲んで熱烈歓迎の大合唱になる。これには私たちもまいった。予想外の歓迎に大感激するしかないのだ。

子どもの効果的な使い方はさすが中国というべきか。もし目の前でこれをやられたらどんな中国嫌いもファンになってしまうだろう。おそるべし中国である。

さて、式典が終了して、私たちは見物人や子どもたちと廟内に入りカレンダーを一緒に見た。「○○造園」とか「○○酒店」などの屋号がついたごく一般的なものばかりだが、中国の人たちは熱心にカレンダーの写真に見入っている。面白いのかなあ。結構に「好、好」を連発するから気に入ったのだろう。 「どれが好きですか?」 と聞くと、富士山、日本の庭園、着物の女性、といったところが人気のようだ。


     


孔子廟の中庭で、市政府が用意してくれた伝統芸能の追攤式という仮面踊りが披露された。私たちの周りでは小学生たちが踊りを見物している。私は夏の訪中と同じように、紙とペンを使ってコミニュケーションを図ってみた。「名前は何ていうの?」「何年生?」たわいもない質問である。子どもが紙に書いた。

「私は中国の小朋友を代表してあなたを歓迎します」 うーん、小学校低学年が言える言葉ではないぞ。

1人の女の子がちびまるこちゃんのカードをくれた。中には「新年好、祝身体健康」年賀カードだったのか。
「うれしい、ありがとう」 と答えると、周りの子どもたちも競ってカードをくれる。別の子どもは食べていたするめをちぎってくれた。僕も、私も、と皆がポケットから飴やお菓子を分けてくれるので、両手がいっぱいになってしまう。

さて、私が子どもたちに囲まれていると、さかんに写真を撮る人垣もできた。なんと子どもたちの親である。自分の子どもを私たちと並ばせて記念写真を撮りまくる。その後ろにもカメラを構えた親たちが押し寄せて、子どもの晴れの舞台を写真に収めようというのだ。どこの国も変わらぬ親の姿だろうか。
でも、どこの国も同じになった、ということは中国は確かに変わったのだろう。






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中国の新年会

                         
孔子廟のカレンダー展から戻り、午後は萍郷の町を探検することにした。
出かけるのは、私と周華健の追っかけEさん、そして中学校のA先生の江西ぶらり3人衆。あとの人は年輩者としての分別をわきまえているので、私たちのようにふらふらしないのだ。

萍郷の街は、ホテルを中心に三方に伸びる坂道と川で構成されている。だいたいの地形と環状に街をまわる通りはバスの中から把握していたから迷う心配はなかった。



坂の上にあるホテルの門を出て右の街へ向かって下りて行く。人民解放軍の施設があり兵士が警備に立っている。坂道の商店街の角かどに不思議な地下室の入り口が開いているのが気になった。
「何だろう?」地下室入り口に書かれた字を読んで私たちは絶句した。
「核戦争避難壕」だったのである。うーん、核戦争か。

中ソ対立時代の遺産ではないか、と話し合ったが、ソ連なんてとっくに消滅している。
革命といい、中ソ対立といい、江西省辺境には忘れられた現代史が幽霊のように存在している。萍郷の街では核戦争も妙に生々しく現実味を帯びて感じられるのだ。

坂道の突き当たりにある家電市場から、山裾をまわるように街を歩く。街角で売っているのは、おや懐かしい鈴カステラではないか。2〜3元で食べきれないほどの量、3人で食べながら行く。



やがて、見慣れた店に出会った。「北門購買部」という普通の商店だが、ホテルから左の坂道を下りた場所にある。最初の晩、H先生と散歩中に店先の地酒を見付けたとき、夕食の酒の美味を思い出して購入したのがきっかけだった。おばちゃんに 「へえ日本人、よく来たねえ」 と歓迎されて以来、訪中団の皆が1日に1度はお菓子や水、晩酌の友を買う常連なのだ。

「新年好」とあいさつして、今夜の新年会の酒、そして元旦が誕生日の事務局Kさんには誕生日ケーキを買う。店先に積まれたケーキに聖誕ケーキとあるのが気になるけど。


           


夜、ホテルの菜館で市政府外事弁公室主催の新年会が開かれた。江西省の料理は内陸部らしく唐辛子を多用した辛い味付けが特徴だが、湖南省に近いこの街では「唐辛子の国」と呼ばれる隣省の影響を受けて辛さもさらにパワーアップしている。うまくて、熱くて、汗が出るのである。

酒もおいしく、虜になりそうな地酒が開けられ、数日間お世話になった市外弁のYさんをはじめ、集まった人たちとの間で乾杯、乾杯が繰り返されるのだ。



ほろ酔い加減で宴会は進み、Kさんの誕生日も祝った。2次会は市外弁のすすめで「萍郷で最も人気のあるナイトスポット」へ行こうという。なんだか面白そうである。

ホテルを出て、正面の坂道をYさんの案内で下りて行く。事件はその時おきた。
革命歌を口ずさんで上機嫌な老詩人Mさんの影が目の前でふっと消えた。
「あっMさんがっ」 あたりを探すが、街灯もなく異常に暗い夜の萍郷ではまるで分からないのだ。

偶然、足元を見ると、歩道だった部分が唐突に終わり、そこから先は深さ2mほどの深い溝になっている。
「危なすぎる」と思った瞬間、溝の底にうごめくMさんは発見された。皆に助けられて溝から這い出したMさん、驚くべきはあの高さから落ちてもびくともしないことだった。大事をとってホテル戻ろうと説得されても聞き入れないのである。

Mさんは、私たちが中国の危険すぎる道路管理に文句を言っても、いまだ素晴らしい共産主義に賞賛を惜しまず、事故で怪我ひとつしなかったことを天国の毛主席に感謝するのだった。

さて、最も熱いナイトスポットとは、真っ暗な街にそこだけきんきらネオンが輝くダンスホール。
元旦の夜とあってホールは地元の人でいっぱいである。ここをクラブとかディスコと言わないのは、皆が熱中するのが社交ダンスだからだ。
シャルウィダンスの世界である。

ホールの脇に設けられたカラオケルームには、市外弁の職員が先に集まって私たちを迎えてくれた。ビールのつまみに落花生やひまわりの種を口に入れながら歌本を見るが、当然ながら分からない。周華健のおっかけEさんにぜひ歌うようすすめても、「本人が歌うからいいんであって、僕が歌っても仕方ないよ」 とつれない返事である。ここは中国側に任せて私たちは鑑賞することにした。

マイクを渡された市外弁は、待ってましたとばかりにカラオケを歌いまくった。
この前、バスの中で老詩人Mさんと毛沢東賛歌を合唱していた人まで、今日歌うのはテレサテン。「時の流れにまかせ・・」とか熱唱してうっとりしているのだ。資本主義の象徴テレサテンおそるべし。

省外弁WさんがYさんを誘ってホールで社交ダンスを踊り始めた。私は未経験だが、素人から見てもWさんがとても上手だということが分かる。くるくるっと相手を回すのだ。

面白そうに見ていると、市外弁の英語通訳の女性から「踊りませんか?」というお誘いが・・・
おお、これぞ「シャルウィダンス?」じゃないの。
私が「やったことがない」と答えると、英語通訳はステップから教えてくれたが、やっぱりだめ。ぎこちなく、相手の足を踏んだりして最悪であった。ああ、Wさんかっこいいなあ。
こうして、すっかり市外弁の新年会と化した元旦の夜は更けて行くのだ。



そうそう、時間は前後するが、大晦日の夜も忘れられない。
大晦日の夕食後、「街で飲みませんか」とWさんに誘われた私たちは、喜んで付いていくことにした。ホテルから左の坂道を下り、川沿いに歩くと湖南料理店があった。私は湖南料理は初めてだが、普通の菜館といった規模の割には客も多くて大繁盛している。

しばらく待って個室が空いたが、びっくりするほどの散らかしよう。食べ物のかすがテーブルに散乱し、床にはカボチャの種や落花生の皮で足の踏み場もないくらいだ。あちゃー、と思っていると、店員が片づけに現れて、薄いビニールクロスはゴミごとくるりと巻いて捨てに行き、新しいクロスをさっとかぶせた。床はモップでざっと掃いて、おしまい。
そういう仕組みになっていたのか。ゴミは散らかし放題でいいのである。

Wさんが菜単を開いた。横から覗くと、どうやらメニューは肉の種類によって分けられているようだ。牛肉、豚肉、鶏肉ときて最後に私の目が止まった。一番最後は狗肉料理だったのである。

「Wさん、犬だけはやめて」Wさんは笑う「大丈夫、日本人は犬を食べないからね」

鍋がやってきた。今まで経験したことのない味。特にカレー風味の肉が柔らかくて何ともいえない。うまい、うまい、と鍋をつついていた箸の先に見たモノは、小ぶりな動物の足の先だった。
どう見ても尖った爪のついたその足は草食動物のモノではない。すると・・・

「ごめん、ごめん、でもおいしいでしょう?犬は体を温めて元気になりますよ。犬肉料理には柔らかい3ヶ月までの子犬しか使わないしね」

たしかにおいしい。私たちは子犬の鍋を、それと知ったあとでおかわりしたくらいだ。

翌日、市内の散策中に家電市場の外で子犬の売られているのを見た。ちゃうちゃうのような室内犬である。まさかあれも食べるのだろうか?戻ったあとでWさんに聞いてみた。

「ちゃうちゃう犬みたいなペット犬も食べるんですか?」

Wさんはちょっと考えてから言った

「それは食べないでしょう。高くてもったいないよ」


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江西党の結成

                         
私たちの江西省訪問も最後の日がやってきた。
萍郷との別れを惜しみながら、市外弁のバスで湖南省の長沙へ向かう。

高速道路が赤土の山を削って長沙へ伸び、市郊外には小きれいな住宅団地が並んでいる。何日か前に萍郷へ来たときには、時代から取り残されたような街の様子に江西省辺境の地だと思ったが、改革開放の波は確実に山間部の炭坑町にも押し寄せているのだろうか。

あっけなく長沙空港に着いた。市外弁のYさんたちとはここでお別れである。
彼女は訪問団を迎えて必死で通訳や案内に奔走してくれた。その一生懸命さは、見ている私たちにも十分伝わってきた。ありがとうYさん。

「皆さん、必ず萍郷にいらして下さい。その時には私の日本語も上達しているはずです」

Yさんの言葉に私たちは大きな拍手を送った。きっとまた来ますよ。
上海行きの国内線を待つ間、省外弁Wさんと空港食堂で湖南料理を食べる。私たちは「唐辛子の国」の魔力に取り付かれてしまったようだ。冬にも関わらず額から汗を流しながら、ああ、上海へ行ったら淡泊な味付けが物足りなく感じるのかなあ、と思った。

そして、上海。改革開放の最先端を行く巨大都市には、今更ながら江西省との格差を見せつけられた思いがする。前年の夏に上海を経由したときには、昔ながらのレンガ造りアパートが密集していた地区が、今では見上げるのも恐ろしい高さを走る高架道路橋に変わってしまっていた。急速な経済発展とはいえ、そんな突貫工事で大丈夫なのか。

まるで、中国奥地から来たお上りさんのように、私たちは上海の発展ぶりを眺め、いつしかあか抜けない江西省に懐かしさを覚えていた。
その晩、私たちはWさんへの感謝を込めて、高級レストランでお別れ会を開いた。
窓に広がる素晴らしい夜景を眺めながら、ぴかぴかの個室で上海料理を食べるが、どうも私たちには似合わないようだ。そして、日本人とみると掛け軸のセールを始めるうっとおしい店のマダム。もう限界である。

「うーん、やっぱり江西省だ。江西省に帰りたいよー」

上海のばりばりの市場経済にげんなりした私たちは、ここに江西党を結成した。
まだ貧しく、決して快適ではないが、素朴で憎めない江西省をこよなく愛する党である。団長H先生はもちろん酒席代表。どんなに乾杯を重ねても決して負けない酒豪ぶりは酒席代表にふさわしい。私はH先生と同室だったから酒席補佐官か。

Wさんは「酒席と主席では発音が違いますよ」と言うが、江西党には政治的意図がないから酒席のままでいいのである。楽しい仲間と酒が飲めさえすれば。

翌朝早く、私と周華健のおっかけEさんは連れだってホテルの庭を散歩した。庭といっても、上海虹橋空港近く、かつて外国人別荘や共産党要人の専用保養施設だったオールドホテルである。森あり、鶴が遊ぶ川あり、敷地がめちゃくちゃ広いのだ。

15分も歩き、ハミ路という町にようやく出た。生活の匂いがする。自転車が行き交う。
「上海にもこんな町があるんですね」 うん、とEさん。 「周華健のCDなかったですね」 「いいさ、虹橋空港の免税店に売ってあるよ。今回の旅は面白かったなあ」


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