中国旅行記 友好訪中団が行く 本文へジャンプ


謎の仙人石を追え


私の中国初体験は1997年の夏のこと。
その頃の私は、大学時代に第二外国語で選択した中国語も卒業と同時にすっかり忘れてしまい、仕事と日々のあれやこれやに追われる何の変哲もない生活を送っていた。
 
わずかに、まもなく大陸に返還されるという香港をイギリス領のうちに見ておこう、という好奇心から、返還が刻々と迫る中で人々が最後のひと稼ぎに全力を挙げ、熱気にあふれているであろう香港は訪れたものの、職場の団体旅行だったせいか旅の印象は何も残っていないという体たらく。
 
香港観光の看板である中華料理もアバディーンの水上レストランであまりの不味さに閉口し、ただでさえ圧迫感のある高層ビルの谷間を、さらにゴテゴテと看板が埋め尽くす独特の都市景観も好きになれなかった。少しの自由時間に、同じ漢字をどう発音しているのかいぶかしむほど全く聞き取れない広東語で迫ってくる物売りのおっちゃん、おばちゃんに対し、必死の筆談を挑む私にとって、香港の背後に巨大に広がる中国はまだ雲か霞にかすんだはるか彼方の国にすぎなかったのである。
 
そんな時、中国との出会いはふいにやってきた。
当時、町に温泉開発の計画があり、施設の目玉として漢方や鍼灸など東洋医学を売り出して客を集めよう、という話が進んでいた。やがて、町役場と漢方の本場中国との間でやりとりが始まると、町長のもとへ親書などが届くようになる。だが、役場には中国語を分かる者が他にいなかったので、無茶な話、ニイハオとシエシエくらいしか記憶に残っていない私に白羽の矢が立ってしまったのである。
 
それ以来、仕事が終わると中国語の書類を抱えて家に持ち帰り、大学時代の教科書やノートを並べては眺め、辞書と首っ引きで1文字1文字翻訳に取り組む日々が始まった。でも、これは翻訳といえるものではない。中国語から日本語へ、その逆へ、つたない文章を必死で綴りながら、こんなに悪戦苦闘するくらいなら大学時代にもっと勉強しておくんだった、と今更遅い後悔に暮れていた。
持ち帰った書類は、町長あての親書にとどまらず漢方薬の説明書、中国留学の案内書、市政要覧、博覧会のパンフレット、なにやら分からん書物、となかなかレパートリーも豊富である。
 
そんなある日、あやしさ極まりない「仙人石」なる眉唾ものの鑑定書に出会ってしまった。
これによると、中国の山中深く、仙人がそのくぼみに溜まった水を飲んで不老長寿のパワーを得た奇跡の石なのだという。長年にわたる苦労の末に石を探し当てたインディージョーンズばりの爺さん(日本人)が、お世辞にも達筆とはいえない自筆の墨文字で「ン千万円の価値がある宝物だが、温泉に惚れ込んだから特別に格安でお譲りしよう、どうだ?」と言って売り込んできた日本語の文章だった。
 
それだけでも十分疑わしいにも関わらず、信じられないことに、東洋の神秘に凝った町長は仙人石に強く惹かれてしまったらしい。いかに鑑定書の内容がいいかげんであるか、誰が見ても明らかであるのに、私の訴えなどそんなことはどうでもいいようだ。私が中国語翻訳として命じられたのは、中国語の文献、日本語の道教や仙術の文献を調べ「仙人石」の秘密を解き明かして、温泉施設の目玉にするにふさわしい「効能書き」を作成すること。うーむ、中国あやしすぎる。
 
数ヶ月後、東洋医学の神秘とやらを身をもって体験すべく、町に訪中団が組織された。
行き先は中国江西省。爺さんの鑑定書に石の産地が中国広西省とあるため、現地で検証するというのだ。広西壮族自治区を広西省と呼ぶあたりがすでに怪しいが、広西と江西の違いを知らずに派遣を決定する町もどうかしている。
もう私ごときが指摘しても聞く耳を持ってはもらえない。とにかく私も行きがかり上参加を申し出た。私の中で中国がどうしても気になる存在になっていた。こうして奇跡の仙人石に導かれるように始まった旅で、私は中国の思うがままに、その魅力(魔力)のどつぼへとはまってゆく。
 
もちろん、中国へ渡って一般の中国人はおろか中医学院の教授に聞いても、政府関係者に聞いても神秘の石がどこにでもある石灰石だった、という事実以外の秘密など分かる由もないのではあった。

                               

 
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政治家が団長

我が町の訪中団は町収入役を責任者とし、一般町民と役場職員に、この秋から中国へ鍼灸を学ぶべく留学志願した若者2人を加えた総勢8人のメンバーである。
1997年は日本と中国の国交回復25周年、県と中国江西省の友好10周年にあたり、県では大がかりな友好訪中団が計画されていたので、私たちはこの団体に加わって中国へ向かうことになった。これがまた一般の旅行団体と少し違うことにやがて気づく。
 
出発当日、訪中団に合流すべく空港にやってきた私たちは、この団体の規模に驚いた。130人もの大団体だったのである。特別に大広間に通され結団式が始まっても、着物で着飾ったおばさんや、旅の途中で倒れそうで心配になるよぼよぼのお爺さんが席を探してうろうろし、その間を担当の県職員や旅行会社の社員が忙しそうにとびまわっている。

正式な友好使節だけあって、団の名簿には県幹部や民間を代表する企業、文化団体、国際友好団体のそうそうたる顔ぶれが並び、それだけでも何かとてもエラソーな雰囲気である。長々としたあいさつも旅立つ前の浮き立った気持ちで聞き流し、いよいよ上海経由で私たちの目的地、江西省の省都南昌市へと向かう。

上海から南昌への国内線は、さすがの大団体だけあってチャーター機なのだ。機内は初めから貸切バス状態でざわめいているが、離陸後まもなく、少し落ち着いたところで団長が機内放送のマイクをとった。
この団長、自民党田中派の地方有力者として鳴らした元県会議長で、登小平をもっと小柄にしたような好々爺に見える。年は80を越えてもまだ元気に訪中団130人を率いるのだから驚きである。だが、老政治家のバイタリティーは見た目だけにとどまらなかった。

「えー、皆様にあいさつを一言・・・」
 
空港から数えて2,3度目のあいさつを始めた老政治家は、田中角栄から始まる日中友好の歴史と、それにまつわる自分の手柄を得々と語り、県立美術館に飾る名画の買い付けのエピソードに熱くなり、交通網整備の話に至って演説は止まらなくなってしまった。
人々は最初こそ神妙に聞き入っていたものの、やがて飽きてしまい、80にして胃を切り取ったという老政治家の体が持つのだろうかと心配になってくる。そのうち、演説が流れる中で空姐が機内食の配膳を始め、私たちは演説を聞きながら食事をし、そして下げられ、しばらくすると空姐が通訳に何やら訴えだした。どうも

「もう着陸するのであいさつをやめてほしい」

ということではないだろうか。突然ブチッと機内放送がうち切られ、そのままチャーター機はどすんという衝撃とともに夜の南昌空港に降り立った。
私は海外旅行珍しさもあり、何よりこの老政治家の憎めないようなキャラクターが気になって、折りに付けついつい行動を観察しては、夜、皆が集まると報告しあった。

さすがVIPだけあって団長が私たちを引き連れて行く先は、すべて公安の先導付きである。町中を走るバスの列を非常灯を回したパトカーが前後についてぴったりガードし、もちろん赤信号など無視で突っ走る。前を走るじゃまな車があると、パトカーの警官は窓から何か指示器のような物を突きだして警告し、スピーカーで「どけどけ」と怒鳴りまくるのである。街角に立つ警官が揃って車列に向かい敬礼する様子も、最初は気分がいいが、私には身分不相応のようで心から旅を楽しむ気にはさせてくれなかった。

ところで、この老政治家、胃を切っただけあってほとんど食事をとらないのに、なんであんなにタフなのか。夕食に歓迎会が催されると、さすがにお付きの人に支えられながらもピシッと背筋を伸ばし、また田中角栄うんぬん・・の演説を得意げにぶった。更に中国側も省各界の要人がそれぞれに美辞麗句を重ね「友好、友好」の長いあいさつをするから中国の宴会では食事にありつくまですごく時間がかかる。
やっと食事が始まり、乾杯など繰り返して宴席も和やかになってきたと思ったら、訪中団に参加している盆踊り保存会のおじさん、おばさんがマイクを握って

「皆で盆踊りを踊りましょう、私たちは世界に盆踊りを広めるのです・・」

まだ食べている宴席を取り囲み、いつの間に着替えたか揃いの浴衣や法被に身を包んで踊られるので、日本人も中国人もつられて輪に加わり、なにやら宴会も忙しいのである。

老政治家の演説パワーが最高潮に達したのは、南昌市郊外の友好の森に日本から贈られた展望台の除幕式だ。市郊外といえども標高800mの山の頂上、一面の霧の中で谷底からの風が雨とともにビュウビュウ吹き付け、下界のうだるような蒸し暑さから一変してがたがた震えるような寒さに包まれていた。

だが、ここでも老政治家の演説はヒートアップ。凍えようが雨に打たれようが、一度始まった話は終わるところを知らないのである。さらに、今日は中国のテレビカメラに囲まれて気をよくしたのか、いつもの倍以上に熱を込めて訴えかける。展望台の上では、除幕式のためにくす玉や横断幕を持って待機している小姐たちが間を持て余してふざけはじめ、演説を聞いている人たちも耐えられなくなってきた。

やがて、中国側と老政治家のお付きの人のやりとりがあり、今回も時間がないから、ということで演説はぶちっと終わり、スケジュールが大幅に狂ったためにそそくさと除幕式のセレモニーが行われ、そそくさと友好の森をあとにしたのだった。


  

老政治家のパワーの源はどうも演説だけではなさそうだ、と気づいたのは、市内観光が組み入れられた日のこと。お付きと専用通訳を引き連れさっそうと車を降り立った老政治家は、観光地には興味を召されないらしく、つまらなそうに辺りを一巡していたが、土産物売場に来ると表情が一変した。

お付きに何か命じると、カウンターを端から端まで指さして「これからこれまで全部もらう」と言って本当にお買いあげになったのである。退屈そうに立っていた服務員もさすがに驚き、事務室の服務員まで呼んでお土産の包装にてんてこまいしている。やがて、老政治家は大量のお土産袋を抱えたお付きを連れ満足げに店をあとにした。それはまるで漫画のような光景だった。

驚くことに、老政治家のお土産買い占めは、市内の商店、空港売店、上海に到るまでどこまでも続いたのである。あんな大量のお土産、どうするのであろうか?後援会に配るのか?私たちは老政治家の買い物を話のネタにひそひそ噂しあった。

そんな私たちだが、実は帰国するときに団長からお土産をもらってしまっている。それは、老政治家の趣味だという鈴虫だった。飼い方の説明書が付いた籠に入った鈴虫は、数ヶ月は生きていたが、私は選挙で老政治家に投票することはない。

旅が終わってしばらく後、新聞を開いて驚いたのは老政治家の死亡記事だった。大きな見出しには「日中友好に尽くした人生」とあり、最後の訪中は高齢の体にかなり負担をかけたことが伺われた。でも、友好にかけた土地でとても満足そうに見えた団長に悔いはなかっただろう。
私たちは死因は喋りすぎたからではないか、とまた噂した。



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訪中団の人々


その長い演説と驚異の買い物パワーで強烈な印象を残した団長の老政治家以下、今回の訪中団は普通の団体旅行で出会う人たちとちょっと違うことにやがて気づいてきた。

まず、一般町民として参加したおばさん2人にはパワーという点で中国人にも、かの団長にも負けない迫力があった。なんせ全部日本語で通してしまうのである。中国でも上海などでは、商店である程度の日本語は通用するであろう。しかし、ここはまず日本人観光客など来ることはない南昌市。中国語でさえ訛っている土地柄である。

私たちは訪中前に「ニイハオ」や「おいしい」「値段が高いから負けて」といった基本的な言葉をにわか勉強したものの、この2人には必要はなかった。店のカウンターにどどどっと突入すると「きゃー、あれ。いいわあ。見せて」と叫び、「違う、違う、そっちのよおー」と服務員に詰め寄っていくのである。
いかにもやる気のなさそうな服務員、早口で中国語をまくしたてる服務員を相手に迫力で押し切り、「高いわよおー、負けなさいよ」と責め立てて結局値切って買ってしまう様子にはすさまじいものがあった。

おばさんは看護婦であるが、訪中団参加の動機は中国の大学病院見学と「迷奇クリーム」を入手すること、なのだそうだ。病院見学はともかく、肌クリームを見付けるための情熱はかなりのもので、南昌市内のデパートをくまなく巡り、薬局に立ち寄っては服務員相手にバトルを繰り広げる。
「なんで高いのよー、よそはもっと安いわよー」
そして夜に皆が集まって今日1日の出来事の話に花を咲かせていると言うのである。
「安すぎたわねー、偽物かしら?」

訪中団には議員さんも同行していたが、この人がまたなかなか曲者であった。完全に外国を勘違いしているらしく、ホテルは1人部屋をとり、夜になると「女を呼べ」とうるさいのである。
「○国ではなあ」
おいおい、ここは○国ではないんだから。

中国にもあやしい世界があり、裏町もあり、のちに私も同じ江西省で思わず危険を感じるような出来事にも遭遇するのだが、公式訪問団の一員として訪れた相手の国で「女、女」と叫ぶのを恥ずかしいと思わないのかなあ。また、共産党嫌い、または戦争で日本は悪くなかった、と信じているのはいいとしても、中国側の関係者と会食するときにその話はないだろう。私たちも困惑したが、通訳さんはもっと困った顔をしていた。
例によって夜に集まると、私たちは議員さんに怖ーい話をしてあげた。
「中国ではね、公安はすごーく怖いんですよー。気を付けてくださいね」

この秋から南昌市の中医学院に1年間留学する若者が訪中団に参加していた。彼らは鍼灸按摩の専門家になるべく、町が公募した留学生に志願し、下見と入学手続きのために同行していたのだった。T君は軽いノリの遊んでる学生風、K君は体質とストレスのせいで髪が抜け落ち、まるで落ち武者のような風采である。

私は中国語に興味しんしんの時期でもあり、2人と話をするのが楽しみだったが、彼らの「大卒でもフリーターですることないしさあー」という動機を聞いて不安を覚えた。留学時期が迫っているというのに、日本で中国語も中国の基本知識も、ましてや鍼灸のことも何も勉強していないし、準備もしていないというのである。
「大学は日本語OKだって聞いたよ。中国語も入学してから勉強できるって」
本当に大丈夫か、留学生よ。


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炎熱の町、南昌


梅雨が明けた7月の南昌は、夜の空港に到着したすぐから「もわっ」とした蒸し暑さに包まれていた。
上海から乗ってきたチャーター機を降り、飛行場を歩いて到着ロビーに向かうだけで背中にじわっと汗が滲んでくる。薄暗い蛍光灯の周りを蛾が飛び回る到着ロビーは空港というより田舎の駅の待合室といった方がぴったりだろう。
しばらくすると係員がゴトゴトと荷物を運んできて、部屋の片隅にどかどかっと乱暴に置いてゆく。ロビー中央のターンテーブルを囲んでいた私たちは「そうか、動かないのか」と合点して、積み上げられた荷物の山から自分のスーツケースを探して外に出た。

空港ビルの出口にはバスが訪中団を待っていたが、それを取り囲む空港前商店街?はまさに中国そのものである。青や赤の白熱球にぼんやり浮かんだ理髪店や飲食店が並び、店の前にはランニング姿のおっちゃんが椅子に座って夕涼みしたり、数人でテーブルを囲んでだべっている。バスが市内に入っても私たちには街の様子がよく分からなかった。暗い、とにかく暗いのである。

車も歩道を行く人もかなり多い大通りというのに、町を照らす街路灯もネオンの明かりも少なく、暗闇の中に食堂の暗い照明だけが漏れ、その明かりに店内で食事している人の姿が浮かんで見える。それがまた、夜の10時近くにも関わらず夕食時のようににぎわっている。暑いので店のドアは開け放されて、店の外にも立ったりしゃがんだり、思い思いの格好でどんぶりをかき込む人々がたむろしており、一体ここの人たちの1日の食事リズムはどうなっているんだろうか。
夜のバス停にも文字通り黒山の人だかりができ、車内照明を消した真っ暗な市バスがこれも黒々と客を満載して走ってゆく。どうやら夜の南昌には暗闇にまぎれて想像以上の数の人々が蠢いているようだった。

訪中団を乗せたバスは、市のはずれ、青山湖に面したホテルに到着した。この前年、北京から南昌経由で香港へ走る「京九鉄道」の開通に合わせて建設された香港資本の豪華ホテルである。湖畔の高層ビルはライトアップされて夜の闇に浮かび上がり、冷房のきいた吹き抜けのロビーには、生演奏をバックにフィリピンの女の子が歌う英語の曲が流れている。南昌市内とはまるで別世界だ。これが香港と中国の資本の差なのだろうか。



中国の、特に長江流域を中心とした地域は、夏ぐんぐん気温が上昇し、日本以上の蒸し暑さになる。
長江にほど近いここ南昌も、南京、武漢、重慶と並んで「中国の4大火炉」という余りありがたくない呼び方をされる町である。7月の南昌は噂に違わず、朝っぱらからじわじわと不快指数を上昇させ、やがてうだるような炎熱地獄と化した。

冷房の行き渡ったホテルを出ると、バスまで歩くうちじわっと汗が浮き、冷房の弱い、あるいはもともとない視察先では背中や脇につつーと汗が伝い、街を歩けばもう目はしょぼしょぼ、頭はくらくら、服もぐっしょりという具合。異常に湿度が高いために空気さえ重く感じ、汗腺も塞がってしまうんじゃないかと思うほどである。汗っかきの私など、午前と午後でYシャツを着替えなければやってられなかった。

街の様子も、さすがに朝のうちは通勤に、肉体労働に、仕事に励む活気ある姿が見られるが、昼近くになると表から人通りが消え、市場前に止められた西瓜を満載したトラックの脇で伸びてしまって眠りこける人、工事現場の日陰でひたすらトランプや将棋に興じる人だかり、どんな時間帯にも必ずいる、どんぶり飯を一心不乱にかき込む人、と暑さにとろけたような光景になる。


    

私たちの町から派遣された8名は、東洋医学の研究を行うべく視察先として南昌市内の中医学院や大学病院、製薬工場などをまわる予定だった。しかし、暑さは容赦なく視察を拒んだ。製薬工場があまりの暑さに休業したのである。
なんでも、江西省では高気温、高湿度の中での労働は危険が伴うとして、気温40度を超えたときには仕事を休業してもよいのだという。まあ、町を見れば40度を越えようが越えまいが、人々は炎熱の中でひたすら昼寝にふけり、仕事をだらけながら体力の温存を図っているのではあるけれど。

気を取り直して、中医学院とその付属病院の視察に向かった。
大学は夏休みであり、楽しみだった学生との交流といったものや、学内で勉強やスポーツに励む学生の姿を見ることはかなわない。だが、大学の教授たちは私たちのために、わざわざ勢揃いで学内を案内し、教室、研究室、熊や鹿、蛇などの漢方薬の標本が所狭しと並んだ資料室なども見せてくれた。暑さで休業した製薬工場はこの大学の付属施設のようであり、大学ながらサイドビジネスにも力を入れ、薬品の売り上げも相当よいという。

続いて大学病院の見学へ。この病院は、まあ「中国では病気になりたくない、怪我もしたくない」としみじみ感じさせるには十分なところだった。炎熱の町にあって、病院の中、待合室はもちろん、診察室にも入院病棟にさえ冷房が入っていないのだ。中医学院だけあって、鍼灸科、整体科などの独特の診察室もあり、医師が満面に汗を浮かべつつ笑顔で患者の体をボキッバキッとやっている様子を見ることができる。診察室に並んだベッドには背中に灸を据えたり、悪い血を抜く抜缶をたくさんつけた患者が寝そべり、隣の患者とべらべら世間話に余念がない。

しかし、一般の西洋医学科の設備は、何だか町の個人医院のレベルというか、衛生面に到っては日本と比べてはいけないだろう。日本の看護婦である団員のおばさんは、この病院設備に少なからずショックを受けたようで「衛生面で問題が多い、設備が貧弱すぎる」と質問をぶつけるが、病院長に「何しろ資金がない。資金さえあれば最新設備を揃えられるのに」と言われるのだった。

診察外来病棟を出て入院病棟へ。ここではエレベーターがないので患者が階段を歩いて上り下りしている。病院食もご飯におかずをのせたどんぶり飯であり、入院患者は各自洗面器のような自前のどんぶりを持って1階の食堂へ行き、病室ばかりか廊下や階段、庭の隅で好きな格好で食べるのである。
ところで3階や4階に足を骨折した患者がいたが、彼らはどうするのか。この病院では、入院生活上、面倒を見てもらうための付添人が絶対必要であり、付添人がいないと入院させてもらえないのだった。


         

この日の夕食は学生食堂で大学側の用意した宴席を教授たちと囲むことになった。ごちそうは、この旅で一番東洋医学っぽいと思われる「薬膳料理」である。見た目や味もさることながら、料理に仕込まれた漢方の薬効などを聞きながら食べると、いかにも体に効きそうだ。

しかし、ここでも出た。得体の知れない物体が。服務員の小姐に聞くと「チンワ」という答え。えっチンワ?隣に座る教授に漢字を尋ねると「青蛙」と書いた。うーん、青蛙か。でも殿様蛙そのままの縞模様がついたまま、包丁で4つ切りにされてスープに浮かんでいるブツはどう見ても青蛙なんてかわいいものではないのだが。

さて、今日のひたすら蒸し暑い視察には、私たちの他に、一般の観光ではつまらないから、という理由で訪中団のお婆さんもついてきていた。またこの人がばてない。すたすた歩き、もりもり食べる。私には、東洋医学よりもこのお婆さんのタフさが神秘だった。


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山の村訪問記




私たち訪中団にとって最大の公式行事の日がきた。日中友好を記念して日本から江西省に贈られる展望台の除幕式である。南昌市の西郊外に梅嶺風景区という自然公園があり、夏の炎熱に苦しむ南昌市民にとって格好の避暑地、行楽地であるらしい。この展望台は標高800mの山頂に広がる「友好の森」に建てられ、付近の山並みや湖が見渡せる他、山火事を見張るための監視塔としても活用されるのだという。私にとっても下界の蒸し暑さを離れ、のんびりした山村風景を眺められる機会は願ってもないことだった。

ホテルを出発したバスは公安のパトカーに先導され、大通りを赤信号無視で走り抜けて行く。四方八方から車やバイクが突っ込んでくる恐怖の立体ロータリーにクラクション鳴らして、タクシーをかすめながら突入し、タイヤをきしませて曲がってゆくのには車内が凍り付いた。うーん、中国の運転技術は無茶苦茶というか、すごいなあ。思わず「中国には一流運転手しかいない。なぜなら二流以下は事故で死んだから」などという冗談を思い出してしまう。

バスはやがて、たっぷりと土色の水をたたえ、対岸が霞んで見えるほど大きいのに、これでもまだ長江の支流にすぎないというカン江の大橋を渡り、いすづ自動車のトラック合弁工場が並ぶ工業地帯を過ぎて一面の田園地帯に入ってゆく。どこまでも広大な田圃が広がり、虫害予防のために白ペンキで帯を塗った並木がまっすぐ続く道は、さすが大陸のスケールの大きさを感じさせる。二毛作の稲が刈り取りの時期を迎える隣で田植えに精出す農民の姿も、畦の草をはむ水牛も、亜熱帯の江西省ならではの風景である。

だが、田園地帯に点在する小さな町や村は、初めて見る中国の田舎とはいえ、見る者をがっかりさせた。
省都南昌と比べても(とはいえ広域行政上はここも南昌市の一部だが)都市と農村の格差が歴然と見えるのである。それは経済的な要因もさることながら、雑然とした埃っぽい町並みと道端に散らかるゴミの山から感じる貧しさであった。

箒とちりとりを手に玄関先の掃除に熱心なおばさんが見えると、そのおばさんはゴミを片手に道端へ行き、ぱっと捨てる。一輪車で家庭ゴミを運んできてアヒルの遊ぶ溝にどかっと捨てるおじさんもいる。どうやら共同処分場とか、ゴミ収集ではなく、自分の目につかない道端や穴ぼこを勝手にゴミ捨て場にしているようだった。道理で家並みが汚れて見えるはずである。
それにしてもビニールや瓶なんて土に還らないモノをぽいぽい捨てても大丈夫なんだろうか。もっとも普段からゴミの行き先も知らない日本人が苦言することではないけれど。

規格品といった感じのレンガ造り民家やタイル貼りビルが辺りの景観とばらばらに建築されている様子も、壁といい塀といい至る所にペンキで殴り書きされた「○○人人有責」とか人口抑制のスローガンも車窓風景をつまらなくさせている。たまに白壁に鬼瓦を載せた立派な古民家が密集する、明清時代を彷彿とさせる農村が現れるが、修理されないのか壁の漆喰は剥がれ、屋根には草が生えて無惨な姿を晒しているのも残念だった。


         

やがて、風景区のゲートをくぐると車窓は一転、日本の山村そっくりの懐かしい風景が展開した。杉山に囲まれた棚田の間をきれいな清流が流れ、谷水を取り込んだ水路があちこちで水車を回している。村道を100〜200羽のアヒルの群が移動したり、ブタがのんびり散歩するたびにバスは停車し、道が空くのを気長に待つ。高台の古い学校の周りに農家が集まる山の村、それが友好の森がある太平郷だった。



村のメインストリートにはびっくりするほどたくさんの村人が詰めかけて興味津々といった様子でバスの列を見つめる。珍しいもの見たさの野次馬にしては、村人の服装が原色派手派手で、いかにもよそ行きの格好なのが不思議だったが、通訳さんの「村人総出で歓迎しています」の言葉で、私たちを歓迎するために道で待っていたのだと分かった。
当局からお達しが出ているのだろうか、みすぼらしく思われないように精一杯のおしゃれをしているが、誰ひとり手を振る村人もなく、ただ好奇心いっぱいで見つめられる私たちも気恥ずかしいものがある。

バスは村人たちの間を抜けて霧に包まれた山道をあえぎながら上り、友好の森の駐車場に着いた。山頂の展望台へ行く尾根道には牛の糞が点々としていたから、建築資材はきっと水牛で運んだのだろう。
展望台の周りは訪中団、中国側関係者、地元テレビ局も駆けつけてちょっと足の踏み場もない感じである。一面の霧と雨交じりの強風にあおられても逃げ場はなく、式典とそれに続く記念植樹もそこそこに山頂をあとにすることになった。




                            

駐車場に戻ると、小さな子どもたちが行儀良く並んで私たちを待っていた。先生らしい大人が引率しているから、麓の小学校の生徒なのだろう。生徒たちも歓迎のために山を登ってきたのである。初めて見る外国人が珍しいのか、やはりまじまじと見つめられるが「ニイハオ」と声をかけると、さっと先生の後ろに隠れてしまう。先生に促されて「歓迎、歓迎」と恥ずかしそうに唱える生徒たちは素朴な山の子どもという感じである。

手を振ってバスに乗り込み、うねうねと山を下って風景区管理処に立ち寄った。すると、驚くことにさっきの生徒たちが手を振って迎えに出てきたのである。バスを見送ったはずなのに、この子どもたちはどうやって先回りしたのだろう。
管理処で友好の森の説明を受けている間に、つたない中国語と筆談を使ってコミニュケーションを図ると、アッという間に私の周りには子どもたちの人垣ができた。

「どこの学校?」「太平小学」「どうやって山から下りてきたの?」「山に近道があるんだよ」「家から学校までどれくらいかかるの?」「歩いて2時間」

子どもたちの名前を聞くとなぜか「熊」さんが多い。見るからに兄弟、姉妹と分かる子どもたちが多いが一人っ子政策はどうしたのだろう。

「あの人も熊さんだよ」年輩の団員Kさんを指すと、子どもたちはわあっとKさんに駆け寄ってゆく。突然取り囲まれたKさんは、うれしさあまってか鞄から飴を掴み出すとぱあっと撒いた。子どもたちはわあっと飴を拾い、それを見た他のおばさんにも飴を配り始める人がいる。管理処には麓の村から大人たちも大勢登ってきていたが、この光景をただ黙って見ていた。

私はこの飴配りに何だか嫌な感じを持った。飴を撒いた人たちは、もしかすると中国の子どもに敗戦後のチョコレートをねだる貧しい日本を連想したのかもしれない。だけど、経済発展から取り残された山の村とはいえ中国は敗戦直後の日本とは違うのだ。友好親善といいながら日本人がやってきて、あんな形でモノに群がらせるのはよくないし、とても恥ずかしいことだと思う。

私たちは、山の子どもたちと交流した何人かで相談して、市場に行き、削りかけの鉛筆やクレヨンが何十本も束になって売っているものを買い、帰国の際に通訳さんに預けた。これは、子どもたちと交流させてくれた学校へのお礼として山の小学校に届き、使われただろうと思う。


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再び南昌


山の村から戻ってくると、さすがに人口130万人の南昌市は大都会だと感じる。
緑あふれる街路樹の下を4車線道路が走り、車道と分離して設定された自転車レーンには、いかにも中国らしく自転車の群が絶えることなく続いて行く。2両連結されたトロリーバスが乗客を満載して走るのも都会ならではの光景であろう。

訪中団の予定を終え、日本への帰国が迫ってきたある日、私たちは市中心部の人民広場へ出かけた。今日の予定は掘り出し物のお土産を探してデパートと市場めぐりなのだ。
南昌は革命のふるさと。共産党の軍隊が初めて国民党に対して蜂起した場所として知られている。市内の主要スポット、八一大道、八一公園、八一大橋、みんな8月1日の南昌蜂起を記念してつけられた名前である。私たちが立っている人民広場は、北京の天安門広場に次ぐ巨大な面積を誇り、銃剣を模したこれまた巨大な八一起義記念塔が天を突くようにそびえている。



目を転じると江西省展覧館はビル全体が真っ赤な幕で覆われて「慶祝香港回帰、洗雪百年国恥」の巨大文字が踊る。そういえば香港が中国に返還され、国を挙げての盛大なセレモニーが行われたのはつい先日のことであった。それにしても百年の国恥を雪ぐとは強烈な印象を与える言葉だ。この百年、中国は欧米や日本にさんざん蹂躙され、泥沼の内戦や文革に傷つきながら立ち上がった。その仕上げが国の恥である植民地「香港」の回収なのだ、という強い意志を感じる。

だがどうだろう。改革開放の最先端をゆく北京や上海は力強い中国の象徴だが、経済発展の波はようやく南昌に届き始めたばかり。ましてやこの国に無数に存在する、あの太平郷のような山村に発展の恩恵が行き渡る日が来るのだろうか。


        

広場に面して八一大道と中山路が交わる辺りは、南昌市内で最も活気のある繁華街になっている。私たちは南昌で一番品揃えがあると聞いた国営デパートを見ることにした。
さすがに1階の家電、CD、携帯電話売場から、最上階の家具売場までかなりの広さがあるが、エレベーターなどはなく全て階段というのが中国らしいところか。私には特に欲しいモノはなく、次に2階同士が通路でつながった新華書店をのぞいた。ここの書店もかなりの規模で、4階までの各フロアとも眼鏡をかけた真面目そうな客で混雑している。そのうち、混雑の原因はどの客も売場カウンターに押し掛けて、お互い身を寄せつつ熱心にカウンターの向こうを見つめているせいだと分かった。

新華書店といい、先のデパートといい売場はぐるりとカウンターに囲まれ、商品はその奥の棚に展示されているので、客は直接商品を手にとることなく奥を見つめるしかない訳である。私は地図と旅行案内書、別の売場でCDを見付け、服務員を呼んだ。しかし、私の近くにいるのに彼女らは客なんて完全無視を決め込み、服務員同士おしゃべりの真っ最中。ただでさえ次々に客が押し寄せるので、出た者負け、こちらに顔を向けようともしない。

 「小姐」を繰り返すこと3回目にして、ようやく対応に出た服務員に欲しいモノを告げ、必死に棚を指さして商品を取ってもらう。「これ?」「違う」「じゃあどれなの」なかなか面倒なやりとりの末にようやく支払い、と思ったら、カーボン複写の請求書を渡されて1階の会計で先に支払いを済ませろ、とのお言葉。まるで役場で住民票をとるような手続きが必要とは、さすが国営商店。請求書を手に会計に出向くと、ここでも支払いの客たちを前にどんぶり飯をかき込む会計員の姿があった。まったく。




                             

次に南昌市郊外にある卸売り市場に行くことになった。市街地を抜けカン江を渡った先に「洪城大市場」はある。ゲートの先に広がる駐車場には、江西省内外からやってきたバスの姿が目立つ。○○県とか○○市と行き先を書いたバスは、どれも地方から仕入れにやってくる商人のために運行されるのだ。市場へ卸すための商品を屋根に山と積んで入ってくるバスもあれば、今買い入れた商品を車に詰め込む人たちもいてにぎやかである。

市場は食品、衣料、日用品など商品の種類ごとにブロックに分かれている。観光客にとって面白いものはないが、江西省の高級緑茶「雲霧茶」はどこよりも安く売っている。通路までうず高く積まれた商品の山を見ながら歩いていると、ふとマネキンの森にまぎれ込んでしまった。ここは衣料品のブロック、長さ100mはある通路は整然と並ぶマネキンに埋め尽くされ、異様な雰囲気を醸し出している。縦横に走る脇道にもマネキンが勢揃いし、店内だけでなく通路の頭上にまでアーチ状に洋服が垂れ下がって、まるで仙台の七夕祭りのようだ。

日用品のブロックには文房具の店で使いかけの鉛筆、チョークまでリユースして束売りしている。江西省の田舎では、新品を買えずに中古品で勉強する子どもたちが多いのだろうか。


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さよなら南昌


南昌を離れる日、私たちはいつもより早起きして、青山湖を囲む公園に散歩に出かけた。ホテルが湖に突き出た半島にあるため、湖岸までは遠く感じて未だに足を向けていなかったのである。
早朝から空気はねっとりと重く、木立には耳がじーんとするほどの蝉の絶叫が響いて今日も蒸し暑くなりそうだった。ここは市のはずれになるのだが、公園ではたくさんの市民が運動に励んでいる。太極拳のグループ、先生から剣舞を習う人たち、ジョギングする人、湖畔の森には静かな中国らしい光景が広がっていた。

園内に放された白馬が太極拳の人の脇で草をはみ、人も馬もごく自然に思い思いの時を過ごしている。うーん、このゆったりした時間を大陸的というのだろうか。まるで中国の朝ご飯の定番、お粥のようにやさしく、ゆとりというか懐の深さを感じさせる光景だった。
やがて、運動を終えた人たちが公園から帰っていく頃、隣の屋台街は朝食をとる人たちでにぎやかになり、通勤の自転車軍団、バイク軍団が道路にあふれ出す。こうして南昌の1日が始まるのだ。

訪中団は北京や蘇州、黄山などの観光に出かけたので、今日、帰国のために南昌を発つのはわずか20人ほどである。
ホテルのロビーで、私はすっかり仲良くなった通訳兼ガイドのGさんと中国の旅の印象を話し合った。彼女には南昌到着からずっと私たちの面倒をみてもらい、一緒にカラオケに行ったり、反省会と称するよもやま話にまで加わって、中国の今の様子を教えてもらった。私たちは彼女を通して中国を知り、この国が好きになった。

さて、無事日程を終えて日本へ帰国、なんて、そんなに中国は甘くない。
上海の夜、私たちは議員さんの1人部屋に集まって旅の思い出を語っていた。だが、おばさんの1人が先に帰ったのが運の尽き。深夜、相方が自室に戻ると、ぐっすり寝込んでドアを開けてくれない。議員さんの1人部屋があるが、「女、女」と叫ぶ人だけに危険すぎる。

しかたなく、私の泊まる男2人部屋に来てもらい、おばさんにベッドを提供して、私はといえばツインのベッドの間に毛布を敷いて寝たのだった。
そのため、私は帰国日に風邪をひいて日本で寝込んでしまった。まもなく風邪は治ったが、その時の熱はまだ冷める気配がない。中国熱という熱である。


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