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英雄城・南昌

南昌市は江西省の省都。中国歴史文化名城のひとつでもある。
江西省の北部、贛江下流に位置し、東北に中国最大の淡水湖、ポーヤン湖に臨む平原地帯にある。古来より洪水の多い土地柄で、市内には青山湖、艾渓湖などの大小の湖が点在し、市区中心部にも東湖、西湖、南湖、北湖の4つの人工湖があって、水辺に広がる緑と湖面に映る都市の様子が江南地方らしい美しい風景を作っている。

南昌は亜熱帯気候に属している。
春は雨が集中し、温暖湿潤、気温15℃。夏は熱帯高気圧の影響を受けて晴天が続くが、雷雨も多い。平均気温28℃。長江中流域の夏は炎熱に包まれるが、南昌もまた「中国四大火炉」のひとつに数えられる蒸し暑さで有名。最高気温は40℃を越える。
秋は天気晴朗、爽やかで南昌が最も美しい季節。気温20℃。冬はシベリア高気圧の南下を受けて意外に冷え込み、曇天の下、強風とじめじめした寒さが続く。まれに雪も見る。気温6℃。

行政区画としては、東湖、西湖、青雲譜、湾里、郊区の5区と南昌、新建、進賢、安義の4県。
総面積7400平方キロ、広域人口400万人。市区人口130万人。市樹:樟樹、市花:金辺瑞香、月季

南昌の歴史は古い。漢の高祖5年(紀元前202年)、名将灌嬰が兵を率いてこの地を攻め、豫章郡と南昌県を置いたことに始まる。翌年、現在の南昌駅東南方に土城を建設し、以来、南昌城は絶え間なく都市の規模を拡大してきた。
時代によって豫章、洪都、南昌と名を変えたが、常に歴代王朝の江西統治の中心として栄えた。温暖湿潤な気候に恵まれた豊かな物産と、歴史上の有名人を輩出したことから「物華天宝、人傑地霊」と讃えられる。

1926年の北伐戦争で国民革命軍が入城した後に市制が敷かれ、正式に南昌市となった。1927年8月1日、周恩来、朱徳、賀龍ら中国共産党に指導された国民革命軍の一部は南昌で反蒋介石の狼煙を上げ、武装闘争による政権奪取の意思を初めて明らかにした。中国現代史上で重要な「八一南昌起義」である。
中国人民解放軍の発祥の地であり、南昌は「英雄城」と呼ばれ讃えられている。


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南昌を歩く

南昌市内は市バスが発達している。50を超す路線があるが、南昌駅前から市内中心部へ向かうには2路、5路、11路などのバスが利用できる。
站前路から高架道路と交差する老福山立体ロータリーを北へ曲がると、市内中心を南北に貫く目抜き通り「八一大道」に入る。省内外の都市を結ぶ長途汽車站もここにある。やがて右手に巨大な銃剣と軍旗のモニュメントが見えてきたら「人民広場」、南昌市の中心だ。



人民広場でバスを降り、地下通路で八一大道を渡った西側エリアが南昌市のダウンタウン。
百貨大楼と新華書店に挟まれた中山路が市内でもっとも賑やかな繁華街である。ファッション関連の商店が軒を連ね、客層を反映してかファーストフードや自助餐といった若者向けの軽食店が多く、映画館もある。
中山路の途中、北側に広がるのが「八一公園」、東湖には緑豊かな百花洲が浮かび、市民のオアシスになっている。

中山路を西に行くと、南昌市の最新デパート「太平洋購物中心」がある。その先の交差点が「南昌起義記念館」がある洗馬池、勝利路歩行街の入口だ。上海・南京東路ばりに美しく整備された歩行者天国で、昼夜を問わず多くの買い物客があふれている。台湾、香港資本のカラフルな商店に囲まれたプロムナードには、しゃれたベンチや街路灯が置かれ、遊園地にあるような電動バスがゆっくり走ってゆく。





歩行者天国を北端まで歩き、畳山路を西へ曲がる。まっすぐ歩くと榕門路、贛江河畔だ。この辺りは最高級ホテルの凱莱大酒店(グロリアホテル)、中国伝統建築が再現されたお土産屋や景徳鎮陶磁器などの江西特産商店が並ぶ観光エリアになっている。
南昌市のシンボル、高さ58mの「滕王閣」もすぐ近くにある。まるで海岸を思わせる河畔には広大な公園「南浦園」が造られ、市民の憩いの場である。

八一大道の東側エリアへ。人民広場を南北に分ける北京路沿いには江西省政府がある。
街路樹が並んだ北京路には、省政府御用達の景徳鎮陶磁器、廬山雲霧茶などの江西省特産品の専門商店がずらりと軒を連ね、壮観である。中国伝統建築を模した商店街は、やがて自転車やバイクの専門店街に変わる。
庶民的な雑貨店が並ぶ公園路の奥には「人民公園」、南昌市最大の公園で、すぐ隣には南昌動物園もある。



南昌駅から站前路をまっすぐ進むと、「縄金塔」がある。上海の豫園かいわいを思わせる庶民的なエリアで、観光開発によって縄金塔老街には、中国伝統建築を模したお土産屋や飲食店街が整備されているが、その周辺にはまだひと昔前の中国らしい、レンガ住宅が密集したすすけた雰囲気も残っている。

その他、西側エリアを南北に貫く象山路、東側エリアを東西に走る福州路などは、大型レストランや映画館などが集まったエリアで、夜になるとレストラン目当ての人々で賑わっている。
市内の北を東西に走る南京路には大型のデパートやスーパーがいくつかある。南京西路と東路の分岐点に広がる青山湖は、市内最大の湖。遊歩道や公園が整備された湖畔には、南昌五湖大酒店や青山湖遊楽園がある。


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南昌観光

滕王閣

南昌市を代表する観光地。市街の西、贛江に面してそびえる高さ57m、6階建ての中国伝統建築の楼閣。湖北省武漢の黄鶴楼、湖南省岳陽の岳陽楼と共に「江南三大名楼」のひとつに数えられている。

唐代(653年)、皇帝太宗の弟、滕王が南昌に赴任した折に別荘として建てたもので、「滕王閣」の名の由来となっている。その後、詩人王勃が「滕王閣之序」の中で詠んだ「落霞与孤鶩斉飛、秋水共長天一色」の名句によって、その名が全国に知れ渡った。多くの文人が訪れて詩作を行い、中国屈指の文化名楼とされている。楼閣の正面に掲げられた「滕王閣」の篇額は、宋代の詩人蘇軾の筆をもとに作られたもの。



1300年を越える歴史の中で、滕王閣は何度も兵火に遭って壊され、その度、実に29回も再建が行われた。現在の楼閣は、宋代の絵を元に1989年に再建された鉄筋コンクリート製のもの。赤い柱と青い瓦が特徴的な中国伝統建築を再現している。
楼閣内には、江西省に縁のある歴史上の人物を描いた「人傑図」や、省内の名山、名勝を描いた「地霊図」が壁面いっぱいに展示されている。上部の回廊に出ると、眼下に流れる雄大な贛江、高層ビルの建ち並ぶ南昌市中心部を眺めることができ、最上階のステージでは唐代の古典音楽の演奏や民族舞踊が行われている。

滕王閣のある贛江沿いの一帯は観光地化されて、中国伝統建築の街並みが再現され、景徳鎮の陶磁器や毛筆など、江西省の特産品を扱う商店、レストランが集まっている。楼閣から少し離れて、近未来的な建築の「江西省博物館」もこのエリアに移転、オープンした。

八一南昌起義記念塔


南昌市の中心、八一大道に面して広大な「人民広場」がある。10万人の集会が可能な広場の南端に、高さ45m、巨大な「漢陽製造」銃剣と紅軍旗のモニュメントがそびえている。それが、南昌市のランドマーク「八一南昌起義記念塔」である。



中国の国父孫文の死後、国民党と共産党は合作して軍閥政権の打倒と中国統一をめざす国民革命を開始した。しかし、国民党を率いる蒋介石は、上海で反共クーデターを決行、共産党勢力の排除に乗り出す。当時、南昌市に駐屯していた国民革命軍第三軍は、共産党員の朱徳、周恩来の影響下にあり、蒋介石に反対して武装蜂起することを決定、1927年8月1日、南昌市を占拠して革命闘争を開始した。やがて、国民党主力軍に押されて退却した蜂起軍は、江西省西部の井岡山に立て籠もり、国民党との内戦や抗日戦争を戦いながら後の人民解放軍へと発展していく。

南昌蜂起は、共産党が武力による政権奪取の意思を明らかにした事件であり、毛沢東の「政権は銃口から生まれる」という思想もここから生まれた。そのため、南昌は中国革命の歴史の上で重要な場所とされ、「英雄城」の名で讃えられている。南昌市内のいたるところで目にする「八一公園」「八一大橋」「八一大道」など、「八一」の文字は、南昌蜂起を記念してつけられた名前である。


八一公園・百花洲


南昌市中心部、繁華街の中山路に面している。公園には13ヘクタールの面積を持つ東湖が広がり、湖心には「百花洲」の名を持つ緑の豊かな3つの小島が浮かんでいる。唐代(803年)に水害を防ぐため造られた人工湖と、浚渫した土を盛り上げた人工島である。湖畔と島を結ぶ万柳堤と黄金堤には柳並木が続き、左右に湖を眺める絶好の散歩道になっている。







高層ビルの並ぶ市内のオアシスであり、宋代の詩人向子煙が「蝶恋花ー詠百花洲」と詠ったように、古来多くの文人たちがその美しさを讃えてきた。江西省の風景を集めた「豫章十景」の中では、「東湖夜月」と「蘇圃春蔬」の両景が取り上げられている。南宋時代、水軍の演習場「講武堂」が置かれ、清代には科挙の試験会場になった他、風景の美しさに惹かれた政治家や文人が別荘を建てて移り住んだ。今でも、常緑樹に包まれた百花洲には、清朝建築が残され、書画や盆栽が展示されている。
湖畔の公園は、太極拳やダンスを楽しむ人々が早朝から訪れて、いかにも中国らしい公園風景をつくっている。


佑民寺


八一公園のすぐ脇、民徳路と蘇圃路に囲まれて建つ市内唯一の古刹。創建は南朝梁代(547年)、銅製の如来像が安置されたことから、大仏寺と呼ばれた。南昌の民謡に「南昌窮是窮、還有三万六千斤(約18トン)銅」と歌われた銅大仏である。



唐代に開元寺と名を改めてから、江南禅宗の中心となり140人を越える僧侶を抱えた。その後、清代に現在の佑民寺に改名したが、1960年代の文化大革命では寺院全域が破壊されて更地となり、銅大仏も打ち壊されて行方不明となってしまった。改革開放以降、佑民寺は少しずつ再建され、現在では山門、天王殿、大雄宝殿、鐘楼、大仏殿などが復元されている。高さ6mの銅大仏も国内外の信徒から多額の浄財が寄せられ復元された。

「南昌三宝」と呼ばれる、佑民寺銅大仏、同鐘楼銅鐘、普賢寺鉄象のうち、南唐時代の銅鐘は幸いにも破壊を免れ、鐘楼に現存している。佑民寺は、文革後に再建された南昌市内唯一の仏教寺院である。


杏花楼(水観音亭)


八一公園の東湖とは民徳路の橋を隔てて続く南湖の湖心、島全体が一つの建物になった杏花楼がある。明代に寧王朱晨豪が妻のために贈った別荘で、清代には南昌市民の平安を願って観音菩薩が祀られ、湖心観音閣と呼ばれた。



湖に浮かぶ明朝建築の美しさは多くの文人に讃えられ、今でも風景を眺めに訪れる人が絶えない。2階建ての杏花楼の周囲には、白壁が巡らされて洪水時にも水中に没しない工夫がなされている。解放後には省文物管理委員会の博物館となり、現在は南昌画院となっている。


八一起義記念館


繁華街中山路の西端、勝利路歩行街との十字路、洗馬池に位置する。5階建てのコンクリートビルは、かつて江西大旅社という名のホテルだった。1927年7月下旬、周恩来を書記とする共産党前敵委員会はホテルを借り上げて作戦会議を開き、8月1日の南昌武装蜂起では、この建物が総司令部となった。



8月1日午前2時、蜂起部隊は周恩来、朱徳、賀龍らの指揮で蒋介石派軍隊を襲い、4時間の戦闘後、南昌市内を占領した。3日後、蒋介石の差し向けた国民党主力軍に押されて山岳地帯へ退くが、この南昌蜂起は中国共産党が独自で指導した初めての武装闘争であり、後の人民解放軍創建の日となった。

記念館内部は南昌蜂起の様子が再現され、会議室となった喜慶庁や、周恩来事務室などが公開されている。


軍官教育団旧址


八一大道沿いに位置する。かつての江西省陸軍講武堂址である。1926年、ドイツ留学から帰国した朱徳は、国民党と共産党が合作した国民革命に参加、蒋介石から南昌警備司令官と南昌公安局長を命じられた。朱徳は以前に属した雲南軍、護国軍の人脈を活かして軍官教育団を創設、自ら団長に就任して国民革命軍の教育を行った。

学校名は国民革命軍第三軍軍官教育団、蒋介石が率いる国民革命軍に所属する形をとっていたが、実際上は中国共産党軍事委員会の指導のもとに革命幹部を養成するものだった。1000人の士官候補生が入学し、その多くが南昌蜂起に参加するなど、後の共産党の革命運動に大きな影響を与えた。

宿舎や講堂、運動場などは、抗日戦争中に大部分が破壊されたが、現在では革命遺址として復元、整備されている。


その他革命史跡


八一公園のある東湖畔に南昌第二中学がある。もとは心遠中学といった。南昌起義に際して、葉挺が率いる国民革命軍第十一軍第二十四師はこの学校に司令部を置いた。当時「湖浜公園」と呼ばれた百花洲周辺に陣取る蒋介石派3個部隊との間で激しい戦闘が行われ、第二十四師は「鉄軍」と讃えられる働きをした。
「八一公園」の名はこの戦闘を記念して改名されたものである。

西大街にあったキリスト教学校は賀龍率いる国民革命軍第二十軍の指揮部だった。学校の夏休みを利用して駐屯した部隊は、1927年7月30日から31日にかけて軍官会議と軍人大会を開き、共産党の武装蜂起決定を伝え、戦闘配置についた。この場所から敵軍の司令部まで200mしか離れておらず、銃弾が激しく飛び交う戦場にあって賀龍は最前線の台上に立ち、戦闘を指揮した。
現在では学校の建物が「豫章民俗博物館」として開放されているが、壁面に残された銃痕が戦闘の激しさを物語っている。

八一大道近く、江西賓館の向かいに古い民家がある。ここは朱徳旧居である。1926年12月、南昌警備司令官、南昌公安局長を命じられた朱徳はここに住んだ。1927年7月下旬、武漢から共産党の武装蜂起という重任を負って南昌へやってきた周恩来も朱徳宅に寝泊まりし、蜂起の計画を練った。また、郭末若もここに住み、各界反蒋介石人士に向けて「請看今日蒋介石」の檄文を書いた。


江西省博物館


滕王閣の近く、贛江河畔に建つシルバーの近未来的建築群が、人民広場から移転、新規オープンした江西省博物館。
「革命闘争館」「歴史文化館」「自然環境館」の3つの博物館から構成され、1館ごとに入場料が必要。かなり広く、全部見ようとすると時間が必要。



「革命闘争館」は、中国革命の舞台となった江西省での人民の闘いを紹介している。太平天国の乱から、九江英国租界の成立、安源炭坑の過酷な労働環境と労働者ストライキの勝利、南昌八一起義、秋収蜂起から井岡山根拠地の建設、瑞金での紅色政権樹立と国民党に追われて長征に出発するまで、が主な展示内容。写真、地図と共産党指導者の遺品などが並べられている。

「歴史文化館」は、江西省で発掘された宋代のミイラと、その副葬品が展示のメイン。保存状態はよく、黒いままの髪の毛も生々しい。その他、江西省の誇る書画骨董、陶磁器の名品などをテーマごとに展示している。

「自然環境館」は古代生物の化石、現生生物の標本に分かれている。1階の恐竜館は、センサーに反応して実物大模型の恐竜が動き、吼える仕組み。江西省には海がないため海洋生物展示は見劣りするが、省内に棲む動植物、昆虫類の標本はなかなか充実している。


人民公園


市内東部、省政府の近くにある南昌市最大の公園。樹木の種類175種14万株、緑にあふれた33ヘクタールの公園内には、ボートの浮かぶ賢士湖、奇怪な岩で組まれた仮山や、朱柱、碧瓦の中国伝統建築が点在し、江南園林の特色があふれている。
バードパーク「鳥語林」や温室の蘭園が見どころで、すぐ隣には南昌動物園もある。



縄金塔


市内南部、縄金塔街に位置する南昌市きっての古建築。唐代(904年)に創建された際、伝説では「鉄函」と「金縄」、「古剣」が出土したため、縄金塔の名がついたと言われる。「縄金塔之銘」には「水火既済、座鎮江城」の文があり、水害と火災を防ぐことを祈って建てられたものである。



現在の塔は、清代にレンガと木柱で再建されたもので、高さ59m、八角形、7層の優美な塔である。それぞれの階には回廊が巡らされて、内部の梯子を昇った最上階からは高層ビルの並ぶ市内中心部を眺めることができる。縄金塔の周辺はようやく再開発が始まったばかりで、昔ながらの古いレンガ住宅が密集している。

塔の下には、かつて千仏寺があった。縄金塔は寺塔でもあったが、塔の名が有名になって塔下寺とも呼ばれた。その後、廃寺となったものの、最近の観光開発に伴って法華堂、円覚堂などの寺院建築も再建されている。縄金塔街も、上海の豫園かいわいにならって、縄金塔老街として中国伝統建築を模した街並みに、飲食店や土産物屋が軒を連ねた観光地区として整備されている。


八大山人記念館


南昌市の南郊、青雲譜にある。もとは道教寺院であり、古来から池に囲まれ、緑のあふれる優美な景勝地として知られていた。
清朝初期、明の太祖朱元章の十世で著名な書画家、八大山人は明朝が滅亡したことに心を痛め、世間との関係を絶って禅僧になり、後に青雲譜の道観に隠居した。

八大山人は青雲譜に籠もって数多くの書画を残し、その写実的な水墨画の画風は後世に大きな影響を与えた。「中国四大画僧」のひとりに数えられる。また、「八大山人」の署名は、「ある文字は泣き、ある文字は笑う」とも評された。
しかし、彼は清の朝廷から依頼されても一片の書画も書かず、かえって貧しい民衆には気前よく書画を与えた。後に清朝の役人が出世のために彼に朝廷へ献上する絵を描かせようとしたところ、八大山人は瘋癲を装って出奔してしまった。そのため、反骨の画家として名を高めたのである。

現在、清代に改修された道観の内部は美術館となり、八大山人の残した百を越える書画(ただし複写)が展示されている他、市民や学生の優秀作品なども飾られている。


梅嶺風景区


南昌市区から西へ30キロ、陽湖の南西に連なる標高800mの山地で、梅嶺国家森林公園に指定されている。南昌市の西にあるため西山とも呼ばれる。夏の平均気温22℃、市内より10℃は低く、中国四大火炉のひとつ南昌の市民にとって「涼島」ともいうべき絶好の避暑地である。



面積150平方キロの山中には、湖、奇岩怪石、滝や鍾乳洞が点在し、「小廬山」と称される美しい風景と涼しい気候は多くの人を惹きつけてきた。中国有数の仏教、道教聖地のひとつでもあり、寺廟の数は百を下らない。古くは岳飛、王安石、欧陽修といった政治家、文人、近代では蒋介石、毛沢東らも訪れて美しい自然と夏の涼しさを愛した。山中には初期の文革を扇動した林彪も別荘を構えた。

山頂に位置する洗薬湖の周囲には民国時代に建てられた西洋風の別荘群が並び、現在ではホテルや保養所として避暑客を迎え、中国十三大避暑勝地に数えられる。湖畔からは朝霧の海から昇る日の出、夜には南昌市街の夜景を眺めることができる。その他、翠巖禅寺、江南最大の尼寺である天寧古寺などの仏教寺院、樹齢千年を超す銀杏古木、奇岩の点在する獅子峰、滝の連続する脚魚潭瀑布群などが見どころ。


西山萬寿宮


南昌市の西南、新建県西山郷にある。南昌市きっての道教寺院。
漢末~三国時代の有名な道士、許真君を祀っている。
許真君は姓は許、名は孫、字は敬之。現在の四川省で県令を務めたが、清廉潔白で民衆を救い、大いに慕われた。のちに官を辞して故郷の西山に籠もり、仙人になる修行を積んだ。当時、江西一帯は度重なる洪水に苦しめられたが、許真君は杖と剣で水の精である大蛇を退治して治水に成功、また、医道に精通し、病気に苦しむ民衆を助けて名声を博した。

西暦374年に136歳で死亡した後、水害と病気の防止に霊験あらたかな神様として南昌人の信仰を集め、廟が建てられた。宋代に入ると皇帝真宗から「玉隆萬寿宮」の扁額と壮麗な寺院建築を賜り、最盛期には7門36堂に及ぶ規模の大きさを誇った。現在も山門、儀門、五殿などが残り、宮殿内には重さ500キロもの許真君像が安置されている。

年間を通じて参拝客が引きもきらないが、特に農暦8月1日は許真君の誕生日とされる廟会「朝仙会」。治水の功績を慕う民衆が近隣各県はもとより、中国全土、世界各地から進香団を仕立て、銅鑼や太鼓を鳴らして参拝に訪れる。南昌でもっとも賑やかなお祭りである。中国各地や、東南アジアにある江西人の会館には萬寿宮が祀られ、ふるさとを離れて外地に住む江西人の心の拠りどころになってきた。



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辣不怕・怕不辣 辛さが自慢の江西料理


江西料理は「菜(カン菜)」と呼ばれる。歴代に渡って伝承されてきた「文人菜」を基に、郷土の味覚をふんだんに盛り込んで発展してきた家郷菜である。その特徴は唐辛子を多用した「辣」、辛さにある。長江流域の夏蒸し暑く、冬はぐっと冷え込む厳しい気候は、唐辛子のカプサイシン効果で発汗を促し、新陳代謝を高める料理を生んだ。同じく唐辛子辛さで知られる四川省、湖南省とも長江流域に位置している。

江西人の味覚を表す言葉に「辣不怕、怕不辣」がある。らーぷーぱー、ぱーぷーらー、呪文のようだが、「辛いのは怖くない、辛くないのは怖い」という意味である。真っ赤な見た目も食欲をそそる。とにかく、辛いもの好きには夢の国、江西省といえよう。

「物華天宝」とも「魚米之郷」とも讃えられてきた江西省は、豊かな自然環境と農作物に恵まれている。そのため、料理も地方特産の原材料を主とし、原料の味を活かしたものが多い。油を用いるが油濃くはない。塩辛さと唐辛子辛さが特徴。調理法は焼、蒸、炒、炙などがあるが、その中でも蒸す料理が多い。

江西料理  三杯鶏、清蒸泰和鶏、清蒸荷包紅鯉魚、永新紅焼狗肉、炒血鶏、炒杓子肉、小炒魚、石魚炒蛋、砂鍋甲魚、板栗焼鶏、乾炸石鶏、石耳屯鶏、円籠粉蒸肉、栗子泥、泥鰌賛豆腐、生焼野鴨、東坡肉、水滸肉など。


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南昌民俗暦


元宵節


農歴の正月15日を元宵節という。歴史上は上元、俗称では灯節とも呼ばれる。最近も年を追うごとに賑やかさを増している。
春節時期は、全国各地で働き暮らす江西人がふるさとに帰省するが、もし年越しに帰ることが出来なくても、元宵節には必ず帰ってくるという。元宵節の日、各村、各一族では龍灯舞や獅子舞、採蓮船舞が通りを練り歩き、非常に賑やかである。

夜に入る頃、家家の門には灯籠が掲げられ、灯籠を手に街を歩く人々で活気はピークに達する。一晩中爆竹の音が絶えない。俗説で「大年三十是火(過年菜の煮炊き)、正月十五是灯(灯籠を見て街を歩く)」という。元宵節の日、各家では湯圓を作る。湯圓は南昌人が好んで食べるおやつで、落花生や胡麻、砂糖の餡を米で作った飴状の皮で包んだ甘い団子である。家族団らんの場で団子を食べて一家の団円と幸福を味わう。

元宵節の晩、人々は灯籠の並べられた通りを、うきうきしながら龍灯を持って歩き、正月を一緒に過ごした神様を送り出す。同時に家家に祀られた祖堂の去年の供卓、供菓を片づける。こうして新春の活動は一段落し、再び学校や仕事の日々に戻ってゆく。

端午賽龍舟


中国南部からアジア一帯に広く分布するボート競争「賽龍舟」は、南昌でも農歴5月5日の端午節に行われる。
南昌の賽龍舟で最も規模が大きく有名なものは、安義県のもの。明朝正徳年間に編まれた「安義県志」にも当時、賽龍舟が盛んに行われた様子が記載されている。

毎年、端午節の早朝から安義県遼河の両岸は、1年に1度のボート競争を見ようと訪れた数千人から1万人を超す観客で賑わいをみせる。午前9時頃、各村のボートが次々にスタート地点に到着する。各舟には色とりどりの旗が飾られ、派手な衣装の漕ぎ手たち、打ち鳴らされる太鼓も勇ましい。

爆竹の合図で一斉にスタートする。舟上では太鼓や銅鑼が鳴らされ、舵取りの掛け声と漕ぎ手の「オー、ホー」の声が響く中、各舟は矢が放たれたように水面を上流に向けて進んで行く。岸辺の観衆の辺りを揺るがすような大声援の中、幅200mの河上で赤、黒、白、黄、青、緑の龍舟が先頭を争う様子は壮観の一言に尽きる。

六月六


歴史上、南昌人には農歴6月6日に「晒龍袍(龍袍を干す)」という風習があった。長い梅雨が終わった時期で気候も乾燥し、防虫、防カビのために衣装類を一斉に天日干しするのである。
この日、市内の各寺廟では、神仏が着ている衣装も新品に衣替えされ、古い衣装は街中で奪い合いになる。家に持ち帰ると神仏の御利益を得られるからである。多くの人々が焼香のために寺廟を訪れる日。

朝仙会


又の名を敬香会。仙人を拝み、香を捧げる祭りである。南昌人の信仰を最も集める仙人は許真君、俗名は許孫、福王菩薩ともいう。
伝説では約1500年前、東晋寧康2年(西暦374年)8月1日、136歳の許孫が昇天したとき、彼の一家42人と飼っていた犬や鶏まで一斉に昇天して神になった。「一人得道、鶏犬昇天」という言葉が今に伝わっている。

許孫が昇天すると、南昌の人々は彼の治水の功績を記念して廟に祀り、やがて南昌地方から江西省全域で親しまれる神様、許真君になった。そのため、農歴8月1日は許真君の誕生日として盛大な祭りが行われる。西山萬寿宮を中心に半径100km範囲にある南昌市、新建県、安義県などから、多くの人々が一族、村、各種団体単位で進香団を仕立てて参拝に訪れる。参拝前には身を清め、服装を替え、肩から斜めに黄色の進香袋を懸けて銅鑼や太鼓を打ち鳴らしながら行列してゆく。数多くの参拝者に先駆けて1番乗りした人の喜びは、科挙でトップ合格した状元にも匹敵するという。

千年以上、南昌人に親しまれた朝仙会も、戦争や新中国の成立によって廃れた期間が長かった。しかし、近年、萬寿宮の改修後からは、年を追うごとに往時の賑わいを取り戻しつつある。参拝、焼香、おみくじを引くために訪れる人は毎年増え続け、この機会を利用して各地の物品交易市場も設けられ、中国全土はもとより、海外で生活する江西人も帰省して、御利益を求めにやってくる。

四季釣魚


古来より南昌人は釣り好きだった。1年に渡って釣りを楽しむことを「做四季得鮮」という。
伝えられるところでは、古時の南昌では家家に網があり、釣り竿があって老若男女だれでも魚釣りを楽しんでいたという。今でも、市内各地の川辺や湖畔には釣り糸を垂れる人の姿を多く見ることができる。老後を楽しむ老人から、釣り好きな若者、女の人も釣りに親しんでいる。
「釣魚之楽不在魚、而在治心遣興也」というが、現在の南昌市では釣魚協会が主催する釣り大会が年に数回開かれて、太公望たちの腕試しの場になっている。


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