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江西省のプロフィール


中国の華東エリア、長江中流域の南岸に位置する。唐代に江南西道が設置されたことが「江西」の名の由来となっている。省内を長江最大の支流、贛江が南北に貫いて流れていることから、簡称を「贛(カン)」と呼ぶ。
江西省の総面積は約16.69万平方キロ(日本の面積の約45%)。
人口は約4,200万人(日本の人口の約30%)。
省の地形は山地丘陵地帯が6割を占め、長江沿いの北を除いて、東、西、南の三方を山地に囲まれている。カン江をはじめ多くの河川は中国最大の淡水湖「ポーヤン湖」に流れ込み、「六山一水二分田、一分道路和荘園」と表現される。



豊かな自然環境に恵まれた江西省は、「魚米之郷」と呼ばれてきた。米、茶、ミカンが有名な農業地帯だが、石炭などの鉱物資源も有している。
また、東晋の詩人陶淵明、北宋の文学家欧陽修、南宋の儒家朱熹、民族英雄文天祥など、そうそうたる歴史上の有名人の故里であり、唐代詩人王勃が古典名篇「滕王閣之序」の中で書いた一節「物華天宝、人傑地霊」が江西省を言い表す言葉として有名である。

大地を覆うラテライトの赤土から、「紅土地」と呼ばれる江西省には、風景名勝や文化遺産が数多い。
世界文化遺産「廬山」は李白が「飛流直下三千尺、疑是銀河落九天」と詠い上げた雄大な山岳景観の中に、古代の仏教寺院や西洋風別荘群が残されている。中国道教の源流の地、「竜虎山」、「三清山」も聖地として名高い。
近代に入ると、共産党革命の揺籃「井岡山」、人民解放軍の発祥地、英雄城「南昌」など、中国革命史の重要な舞台となった。
英語で「CHINA」、中国が陶磁器の代名詞ともなったのは、江西省の瓷都「景徳鎮」から生まれた陶磁器である。

残念ながら、日本では江西省の知名度は低い。チベットや雲南、新疆のようなエキゾチックさに欠け、西安や蘇州のような超有名観光地でもない江西省は、上海の近くにありながら中国の穴場かもしれない。そして、経済発展著しい華東エリアにあって、幹線交通網の不備などから、改革開放に取り残された貧困省に甘んじてしまったのも、関心の薄い一因になっていた。

1995年、首都北京から香港まで、中国大陸を南北に貫く京九鉄道の開通が、江西省の経済発展のきっかけをつくった。省都南昌市と長江の港町、九江市の間には昌九工業回廊が形成され、高速道路網も「天」字形を描いて伸びている。さらに、上海市共産党出身の省長が就任すると、その経験を活かした経済開発が南昌を中心に進み、従来の「遅れた農業省」のイメージを一新しつつある。

省都は南昌市。江西省北部、カン江畔に位置する。広域人口約400万人、市区人口は約130万人。
2200年の歴史を持ち、漢代に「江南繁昌之地」という美称から、「南昌」の名が生まれたとされている。洪水が多い土地柄で、市内各地に湖沼が点在しているため「洪都」、また、1927年8月1日の共産党指導による武装蜂起「八一南昌起義」を記念した「英雄城」の別称がある。
1986年に国家歴史文化名城に指定された。

南昌市は亜熱帯気候に属している。年間を通して雨が多く、湿度が高いが、特に夏の蒸し暑さは「中国四大火炉」のひとつに数えられるほどひどい。夏の平均気温28℃、最高気温は40℃を超える。
一方の冬は、じめじめした「骨身に浸みる寒さ」と強風が続き、まれに雪も降るなど気候は厳しい。


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江西省の歴史


先史時代~清朝


江西省の歴史は長く、5千年前には人が定住していたようだ。新石器時代の遺跡が発掘されている。
江西省が文献に現れるのは「禹貢」が最初。中国の神話時代から王朝時代への移行期、長江の治水工事の案を練るため、禹が廬山の上から長江を見下ろしたとされる。商代、周代は呉、楚に属していたが、住民は独特の文化を持つ越族系民族であった。彼らの懸棺遺跡が龍虎山に残されている。

始皇帝の中国統一後、九江郡が置かれた。南昌市ができるのは紀元前202年、漢の高祖劉邦の部下灌嬰が現在の南昌駅東南に土城を築いたことに始まる。翌年、豫章郡が置かれて以来、南昌市は2200年に渡って絶え間なく都市の規模を拡大させてきた。南昌の名は、南方異民族の土地を開拓するという意味の「昌大南彊」、江南の栄える都という意味の「江南昌盛之地」という2つの説がある。

三国時代、江西省は孫権の呉に属した。呉の名将周兪が水軍の演習を行った場所は、九江市の煙水亭だとされている。
その頃の江西省は、河川や湖が氾濫する湿地帯が広がる未開の地であった。しかし、陶淵明が隠遁した廬山の麓で名詩を詠み、龍虎山で張天師が道教を創始、廬山に浄土宗、楊岐山や吉安で禅宗が開かれるなど、現代まで伝わる文化、宗教が花開いていた。

西晋の末年、中原の戦乱を避けた避難民が大挙して長江の南に押し寄せる。晋から南北朝時代にかけて、中国文化の中心が江南に移り、江西省も開拓が進んだ。随唐時代には江南西道が置かれ、現在の江西の名の由来となった。また、南昌は洪州と呼ばれ、現在でも別称である「洪都」にその名が残されている。江西省は「海のシルクロード」として重要性の高まった広東と長安を結ぶルートとして、中央や海外の文化を受け入れ、産業や文化が蓄積してゆく。唐末の安史の乱では、再び避難民が大量に移り住み、現在の江西人の直接の祖先となった。

宋代は江西省が最も輝いた時代。科挙制度が整備されると、省内各地に学問所である書院が建てられ、政治家や文人に数多くの著名人を輩出した。政治改革を実行した王安石、理学の創始者朱子、蒙古に抵抗した民族英雄文天祥などである。産業面でも米や茶など農業生産で中国を支え、九江は四大米市、三大茶市のひとつとして大いに栄えた。また、景徳鎮陶磁器の評判も高まり、「物華天宝、人傑地霊」と讃えられた。

元代に現在の江西の範囲がほぼ確定し、江西行省となった。明、清以降の行政区画もほぼ元代を踏襲している。
明、清朝でも江西省の産業、文化面の優位は変わらず、景徳鎮陶磁器や茶は遠くヨーロッパでも珍重される、中国最大の輸出産業となった。王朝交代期の混乱では、北方から客家人と呼ばれる漢民族の1支系が流れ込み、江西省南部の山岳地帯から、福建省、広東省に散らばって独特の民族文化を創った。

清朝の権威が崩れてゆく清末、江西省も混乱に巻き込まれ、太平天国の乱では省内各地が戦場となって荒廃した。九江では清朝軍と太平天国軍の戦闘が激しく繰り広げられた。

中国革命の舞台

                                 

辛亥革命


1911年10月10日、湖北省武昌で発生した新軍の蜂起は、中国全土へ波及した。世に言う「辛亥革命」である。江西省も清朝政府からの独立を宣言して、中華民国に参加した。しかし、革命のカリスマ孫文を迎えた新政府には実力がなく、まもなく北洋軍閥の首領、袁世凱に権力を乗っ取られてしまう。
軍事力を背景に封建社会の復活を夢見る袁世凱は、皇帝即位を強行した。孫文を奉じる革命派は、江西省九江で反袁世凱の武装蜂起「第二革命」を起こす。革命を弾圧した袁世凱だったが、時代の流れを前に皇帝の座をあきらめて寂しく世を去った。

袁世凱死後の中華民国は統一を維持できる実力者を失って四分五裂した。北京の北洋軍閥は後継者争いを繰り返し、各地に大小の武装勢力が跋扈する乱世が出現する。江西省も華東五省に覇を唱える大軍閥孫伝芳の支配下に入った。

安源ストライキ


清朝末期、列強勢力が中国へ軍事的、経済的な侵略の手を伸ばしてきた。江西省でも長江沿岸の九江には英国租界が成立し、廬山には外国人の別荘地が建築されて、江西省内にも治外法権の外国勢力が広がっていった。一方、中国人による独自の経済開発の芽も生まれていた。
湖北省の鉄鉱山と江西省萍郷の炭坑を鉄道で結び、武漢に建設された漢治萍煤鉄公司の製鉄所である。清末の洋務派政治家、張之洞が設立し、第一次大戦後、日本が袁世凱政権に突きつけた「21ヶ条の要求」にも含まれた華中地方の重要な経済拠点であった。

1921年、上海で発足したばかりの中国共産党は、労働運動の拠点として萍郷の安源炭坑、湘鉄道に目を付け、毛沢東、劉少奇、李立三らを派遣した。共産党の指導のもと、中国最初の労働組合結成とストライキが決行され、労働条件の向上や、労働者学校の設立を認めさせるなど組合側が大きな勝利を収めた。

北伐戦争


中国国民党を率いる孫文は、ロシア革命と北京五四運動の成果を見て民衆の力を認めた。彼はコミンテルンの指示のもと、国民党をソ連式革命政党に改組し、共産党員を国民党各ポストに迎え入れる第一次国共合作を開始した。
国民党の拠点とする広東に国民革命軍幹部を養成する軍官学校や、農民運動教習所を設立して国民革命の日を待つ孫文だったが、軍閥打破と国家統一の目標を果たせぬまま北京に客死した。

1926年7月、孫文の遺志を継いだ蒋介石は、中国統一を目指して北伐戦争を開始した。広東を出発し江西省と湖南省に分かれた国民革命軍は民衆の協力を得て破竹の進撃をみせた。11月、南昌に入城して市制を敷き、正式に南昌市が成立する。

一方、革命路線を巡る国民党内部の対立も露わになっていた。1927年1月、国民党主席汪兆銘が親共左派の武漢国民政府を樹立すると、国民革命軍総司令蒋介石は激しく反発、広東の党、政府中央の南昌移転を宣言し、革命勢力は分裂した。さらに右派の南京国民政府を樹立したため、2つの国民党と国民政府が並立する情況になった。

八一南昌起義


共産党勢力の拡大を恐れる地主、資本家、外国勢力の支持を得た蒋介石は4月、上海で反共クーデターを決行し、共産党と決別する。
一方、積極的な革命外交を進め、漢口、九江の英国租界を実力回収した武漢国民政府は、急進的な政策が災いして孤立無援に陥り、反共に転じた末に南京国民政府に合流する。共産党員は国民党から排除され、ここに至って第一次国共合作は崩壊した。

当時、南昌駐屯の国民革命軍は南昌警備司令官兼公安局長を務める共産党員朱徳の影響下にあった。武漢を離れた周恩来、賀龍ら共産党員と配下の部隊は南昌に集結、反蒋介石の武装蜂起を決定する。

1927年8月1日、蜂起軍は市内の蒋介石派部隊を襲い、約4時間の戦闘で南昌を占領する。
彼らは国民党革命委員会を名乗り、革命の裏切り者蒋介石を打倒しようと訴えた。この「八一南昌起義」は、共産党が初めて武力で政権を奪取する意志を明らかにした事件であり、人民解放軍の建軍記念日となっている。南昌も「英雄城」と呼ばれ讃えられる。
国民政府軍主力に押された蜂起軍は、広東へ退却して再び北伐戦争をやり直そうと試みるが反蒋介石の機運は高まらず、江西省西部の山岳地帯へ落ち延びていった。

土地革命戦争


同年10月、毛沢東は湖南省と江西省境で秋収蜂起を決行するも官憲に追われ、わずかな部下と江西省西部の井岡山へ逃げ込んだ。
井岡山で合流した蜂起軍は中国農工紅軍と改め、蜂起の失敗を反省して革命根拠地の建設を開始した。しかし、農民たちは突然現れた共産党を警戒して農村工作は思うように進まない。毛沢東は紅軍病院を開設して無償の医療活動を行う一方、山賊王佐を抱き込んで彼と配下を紅軍兵士に改造することに成功した。
紅軍は井岡山を拠点に、地主を解体して農民に土地を分け与える「土地革命」を展開して江西省中南部、東部、福建省西部に勢力を拡大する。

地主の解体と、匪賊、軍閥、国民政府軍などにはない紅軍の規律厳正さは、農民に熱狂的な歓迎を受けた。やがて各地で革命根拠地ソビエトが成立し、江西省の2/3が紅軍勢力下に置かれる事態となった。都市は紅軍に包囲されて避難民で溢れかえり、危機的状況に陥った。
だが、共産党内の路線争いも絶えず、急進的な都市暴動の失敗で各都市、各省の根拠地を失って一転、国民政府軍に追い詰められることになる。
そんな中の1931年10月、瑞金で第一回中華ソビエト全国大会が開かれ、毛沢東を主席とする中華ソビエト共和国臨時中央政府が成立した。

その頃、まがりなりにも中国統一を達成した蒋介石は、第二の軍閥戦争である国民党内の権力抗争を制覇し、南京国民政府による束の間の繁栄を築こうとしていた。古くから名勝として名高い廬山には別荘が建ち並び、南京の夏の酷暑を避けた国民党要人が集まって「夏の首都」と呼ばれた。

蒋介石は折から迫ってくる日本軍の中国侵略に対し譲歩しつつ、共産党の包囲撃滅に全力を注いだ。
ついに1934年、国民政府軍100万による瑞金包囲攻略戦に耐えきれず、紅軍は瑞金を放棄してはるか北、延安を目指す長征に出発する。

共産党を駆逐した蒋介石は、国民党の安定した統治を築くために、江西省南部の監督署長官として息子の蒋経国を任命する。ソ連留学が長かった蒋経国は、共産党にも似たソ連式の政治を行い、後の台湾統治で発揮した政治手腕の基礎を作った。

抗日戦争


一方、日本軍の中国侵略は止まることを知らず、蒋介石も西安事件をきっかけに第二次国共合作と抗日戦争を決意、廬山にて「国民に告げる書」を発表する。しかし、破竹の進撃を続ける日本軍の前に長江沿いの南京、武漢などは次々に陥落していった。江西省も九江が占領され、南昌も激しい空爆を受ける。

国共合作で紅軍は国民政府軍新編第四軍に組み入れられ、新四軍と呼ばれたが、蒋介石は抗日戦争で共闘する共産党を折りに付けては妨害した。農村を舞台にゲリラ戦を展開する共産党の根拠地が急速に拡大していったためである。
1937年には、安徽省南部で国民政府軍が新四軍を襲い、共産党員など600人を捕らえる皖南事変が発生した。国民政府軍は江西省東部に大規模な収容所を建設して政治犯を閉じこめたため、たびたび暴動が起こった。

国共内戦、新中国の成立


第二次大戦末期の1945年、南昌など江西省北部が日本軍に占領されたものの、まもなく終戦を迎えた。
しかし、共産党と国民党の内戦によって翌46年から再び中国は戦火に包まれた。当初、圧倒的な軍事力差のあった両者も、経済破綻による驚異的インフレと、国民党、政府、軍部の無能腐敗、兵士の戦意喪失などによって情勢は共産党優位に傾き、アッという間に人民解放軍に新編された共産党勢力は中国大陸を席巻していった。

息子・蒋経国の勢力地域、江西省南部に身を寄せた蒋介石は、西安事件の主役だった愛国将軍、張学良を軟禁するため邸宅建設を命じた。しかし、人民解放軍が迫ると、その完成を待たずに張学良の身柄を台湾へ移送させる。そのため、邸宅は「将軍が住んだことのない将軍楼」となった。
1949年5月、南昌に人民解放軍が入城し、江西省は解放された。


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物華天宝


中国茶・中国酒


盧山雲霧茶


種別:緑茶 産地:廬山 

歴史:雲霧茶は晋代に始まり、唐代には既に銘茶としてその名を知られた。千数百年を超す歴史を持つ。「廬山乃志」によれば、晋代より廬山の寺僧たちにより植栽されたものという。伝説では、雲霧茶は古くは一種の野生茶樹であった。東林寺の名僧恵遠が栽培茶に改良し、以来、僧侶たちは自分で作った茶で客人をもてなし、茶の詩を吟じるようになった。
唐代、廬山に遊んだ詩人白居易は、廬山香炉峰下の茶園風景を詩に詠み、雲霧茶の名は全国に広がった。宋代には皇帝に献上する「貢茶」の地位を得た。

環境:廬山は1年を通じて雲や霧に閉ざされる。雲霧茶の名もそこから来ている。廬山は江西省北部、北は長江に臨み、東にハ陽湖が広がっている。山中には渓谷が流れ、樹木が茂り、水蒸気の多い環境が霧を生む。大きな温度差と、霧を透過して和らげられた日光は、茶葉の芳香成分の育成に非常に有利である。その色香の幽細さは蘭の花にも例えられる。

成分:雲霧茶は有益成分が多い。特にビタミンC含有量は一般茶葉より豊富である。

特徴:茶葉は大きく、色は翠、茶水は透明、滋味濃厚、香りは蘭のようである。飲むとすっきりし、健康増進によい。龍井茶に似るが、龍井茶より味が醇厚で、黄金茶より味がさっぱりしている。浅緑色の茶水は茶杯に碧玉を湛えたようである。そのため「香馨、味厚、色翠、湯清」と称されている。

ウーユアン緑茶


種別:緑茶 産地:ウーユアン県

歴史:ウーユアン緑茶の歴史は長い。唐代に陸羽が著した「茶経」には「徽州茶生于源山谷」と記載され、「宋史・食貨」には全国六大名茶の絶品のひとつ、とある。明清両代を通じて皇帝へ献上する「貢茶」の地位を得た。ウーユアン緑茶が最も隆盛を極めたのは18世紀から19世紀。乾隆年間に英国へ輸出が盛んになり、咸豊年間になるとウーユアンにある「兪徳昌」「兪徳和」「胡徳馨」「金隆泰」の四大茶商は共同で香港を通して輸出を行った。「兪徳昌」のブランド「新六香」は西欧諸国で大変珍重された。

環境:江西省東北部、玉山と黄山に連なる山地に囲まれてウーユアンはある。山紫水明、急峻な地形と温暖な気候、豊富な雨量は茶葉の生育に最適で、緑の山村からは戸戸に茶葉の香りが漂ってくる。中国有数の緑茶生産地である。

品種:源茶葉は種類が豊富で品質も高い。特に有名なものは「上海州」「大葉種」「小葉種」「圓葉種」「長葉種」など。

特徴:葉質柔軟、葉は大きく、まろやかな特徴がある。清い香りは高く長く留まり、蘭の花にも例えられる。滋味濃厚ながらさっぱりした口当たり、茶水は翠緑で透明である。

四特酒


江西省で最も有名な酒。白酒の中でも「特香型」の系統に属する。アルコール度数45度。産地の樟樹市では古く殷代から3000年を越える酒造りの歴史があり、南宋の詩人陸遊は、江西に赴任した際に「銘酒来清江(樟樹の旧称)」と讃えた。清代、酒屋「類源隆」が瓶の封印に「特」の字を4つ押して売り出したものが評判を呼び、「四特酒」の由来となった。廬山を訪れた周恩来や鄧小平も「清香芳醇、酒中佳品」と賞賛した。

南昌ビール


フィリピンのアジアビールとの合弁で造られている南昌を代表するビール。南昌ビール、南昌生ビールの2種類がある。キャッチフレーズは「爽」。口当たりの良さが特徴で、どれだけでも飲めてしまう。ドライなビールを好む日本人にはやや物足りないか。第5回アジア太平洋国際貿易博覧会金賞受賞。ほぼ南昌市の市場を独占する勢いである。ドイツから最新機械を導入し、米国や日本の技術も導入している。

景徳鎮陶磁器


景徳鎮陶磁器の特徴は「白如玉、薄如紙、明如鏡、声如磬」と讃えられる高品質で世界にその名を知らしめている。
「蛍焼」として有名な陶磁器は、明かりにかざすと光を透けて模様の影を映し出す繊細さ。熟練の職人が模様を手作業で彫刻してゆく様子を見学することもできる。また、景徳鎮を代表するのが「薄胎」紙のように薄いが硬い品質の良い製品。

景徳鎮で陶磁器を購入する際の秘訣が「看、聴、比、試」
「看」は陶磁器の上下内外を細部にわたってよく観察すること。1は釉薬を塗った面の光沢、色つや、擦傷や小穴、黒点や気泡の有無を確認する。2は形状が整い、変形がないか。3は描かれた絵に傷はないか。4は平らな面に置いた際に、底面が安定し、ぐらつくことはないか、である。

「聴」は陶磁器を軽く指で弾いて音を確認すること。音が高くてきれいなものなら、品質が精密で亀裂がなく、高温で焼き上げて完成したことになる。音が鈍いものは、亀裂があるか、焼き上げが不完全である。これらの製品は熱変化に弱く、割れやすいので注意が必要。

「比」は周りの商品とよく見比べること。特に青花瓷などは、焼き上げ中の温度の違いによって、さまざまな色合いを出す。そのため、周りの商品と比べて絵の色が一定していれば、窯元の技術が高い証明となる。

「試」は蓋付きのものや、いくつかセットになった陶磁器を買うときは絶対に試すこと。蓋が合うかどうか試してみる。また、水滴の垂れる「滴水観音」や、一定の位置に水位を保つ「九龍公道杯」などの特殊効能のある商品も、不良品でないかどうか、その場で試したほうがよい。


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人傑地霊

江西人


江西省は古代越族の土地であった。中国文明の中心地ではなかったが、人々は中原、楚、呉などの周辺の高い文化を取り入れ、包容性のある江西独特の文化を形成してきた。龍虎山には戦国時代の特色ある遺跡が残されている。その後、西晋末年と唐安史の乱の2度にわたって、戦乱を避けた人々が大量に移住し、現在の江西人の直接の祖先となった。

晋代に創始された道教、唐代の禅宗、浄土宗、宋代に流行した理学は江西省で生まれ、中国のみならず、日本にも大きな影響を与えた。
江西人の人文精神の中でも突出しているのが、愛国主義と儒教の「修身、斉家、治国、平天下」の理念である。幾千年来、江西人は数多くの愛国の志士を輩出してきた。古くは陶淵明から、蒙古に抵抗した文天祥、反骨の画家八大山人、革命家の方志敏などが挙げられる。

「敦厚質朴、崇実達理」は江西人の普遍的な性質のひとつである。困難に耐え、空談を好まない、現実的な性格は儒教と理学の影響を深く受けたものだが、その一方で創造性に富み、意識革新を求める特性も多くの傑出した人物を生んだ。
陶淵明は隠遁詩人として有名だが、表現上の不朽の革新精神を持った人物である。湯顕祖は「東洋のシェークスピア」と呼ばれ、儒教の封建礼教から脱した人生最高の境地を表することに成功した。
政治上でも、宋代の改革家王安石、清朝の変法自救を目指した陳熾、中国革命に身を投じた多くの江西人民は、江西人の開拓進取、大胆な創新精神を代表している。

「尊師重教、喜文好学」は江西人の重要な特性のひとつ。六朝以来、江西省では学問を重んじる気風が強く、幾千年にわたって篤学勤勉さが受け継がれてきた。宋明両朝を併せて省内には528もの書院が建てられ、著名な書院も数十を数える。そこから数多くの有名人が育ち、歴史の中で活躍してきた。
臨川地方は、科挙合格者を輩出して「臨川才子之郷」と称されたが、江西人の教育にかける情熱は現代でもますます盛んになり、中国全土、世界に到るまで多くの優秀な人材を送り出している。
これら学問の成就は勤勉さと密接な関係にある。3才で学び始め50を過ぎて大業を成す人もあり、若くして秀才となる人もある。
江西人の篤学と勤勉さは世人の認めるところである。

 当然、古代の江西文化は小農経済と封建思想の産物であるのは言うまでもない。封建文化の閉鎖的、保守的、排他的、宗法と血縁を重んじて非民主的な欠陥は、江西人の生活文化の発展に重大な影響を及ぼしてきた。
1949年の解放後、封建社会は解体され、改革開放政策に伴う生活の現代化はそれらの欠陥を大きく改善した。しかしながら、伝修延教授は現代江西人になお不足する点として次の3つを挙げている。
1 盆地心情(閉鎖的、保守的、孤立) 2 辺縁感覚(主流から外された感覚、受け身感覚) 3 自恋情節(自己満足、落後に甘んじる)

作 黄南南(江西社会科学 1997年) 江西文化風情網より一部翻訳、引用


陶潜(365~427)


字は淵明、または元亮。号は五柳先生。諡は靖節。潯陽郡柴桑の人。
若い頃は経世済民の志をもったが、門閥の壁が厚く、また戦乱や天災にあって鬱々と日を送った。29歳のとき、はじめて仕官して江州祭酒に任ぜられた。孫恩が乱を起こすとその鎮圧に活躍した。
官界の醜悪な人間関係に飽きて、41歳のとき、彭沢県令を最後に退官して田園に隠棲した。晩年に檀道済から仕官を勧められたが拒絶した。周続之・劉遺民とともに潯陽三隠と称された。また隠逸詩人、田園詩人とよばれる。「帰去来辞」「桃花源記」など詩文を多く残した。

欧陽脩(1007~1072)


字は永叔、号は酔翁。諡は文忠。欧陽観の子。母は鄭氏。吉州廬陵の人。
幼くして父を失い、母とともに随州で貧しい少年期を送った。韓愈の詩文を愛したという。天聖八年(1030)、進士に及第した。翌年、西京留守推官に任ぜられた。館閣校勘に上って、『崇文総目』の編纂に参加した。景祐三年(1036)、范仲淹を弁護したため、夷陵県令に左遷された。京師から夷陵までの紀行を『于役志』に著した。夷陵にいたころ『五代史記』(『新五代史』)の編纂をはじめた。

光化郡乾徳の県令に遷り、また武成軍節度判官に遷った。康定元年(1040)に館閣校勘に復職し、次いで集賢校理に遷った。滑州の通判として赴任したのち、また中央に戻って知諫院・右正言・知制誥などを歴任して慶暦の変法に関与した。変法は士大夫の反発を受けて成功せず、仁宗の不信を買った。「朋党論」を上書して弁護したが、慶暦五年(1045)にジョ州の知事に左遷された。このころ「酔翁亭の記」を書いた。八年(1048)に名誉回復され、揚州・潁州・応天府の知事を歴任した。母の死に遭って郷里に帰り、服喪した後、朝廷に復帰。『新唐書』の編纂に加わった。

翰林学士・史館修撰、次いで翰林侍読学士・集賢院修撰を歴任。嘉祐二年(1057)、権知礼部貢挙に上り、科挙試験を監督した。五年(1060)には枢密副使、翌年には参知政事に上った。晩年、致仕を請うて許されず、亳州・青州・蔡州の知事を歴任した。煕寧四年(1071)、王安石と意見が衝突したため致仕を許され、潁州に隠棲した。
六一居士と称して余生を楽しんだが、翌年没した。性剛直にして不正を許さず、しばしば諫言した。史学にすぐれ、また周・漢以後の金石文を注解した『集古録』を著して、金石学の祖とされる。韓愈の文章を高く評価し、古文復興に尽くした。
著述は、周必大の手で『欧陽文忠公全集』にまとめられている。

王安石(1021~1086)


字は介甫、号は半山。撫州臨川の人。王益の子。
慶暦二年(1042)、進士に及第した。揚州の淮南節度判官庁公事に任ぜられた。ギン県の知県に遷り、灌漑や穀物の低利貸付を行って成功を収めた。地方官を歴任したが、嘉祐三年(1058)に召されて京師に上り、三司度支判官に任ぜられた。このとき仁宗に「万言書」を奉った。次いで知制誥に上ったが、母が死んだため江寧に帰って服喪した。喪が明けても出仕せず、読書や後人の教育につとめた。

神宗が即位すると、江寧府知事に任ぜられ、次いで翰林学士として召された。神宗に上書して、改革の必要性を説いた。参知政事に上り、新法による改革を断行。青苗法・募役法・保甲法・均輸法・市易法などの新法を施行した。同中書門下平章事(宰相)にまで上ったが、司馬光ら旧法派の反対や攻撃を受け、曹太后・高太后らも安石の罷免を神宗に迫ったため、煕寧七年(1074)江寧府知事に左遷された。
翌年、再び同中書門下平章事として返り咲いたが、新法派に内部分裂が起こり、長男の王ホウが夭逝するなど苦難が続いた。九年(1076)、願い出て朝廷より退き、再び江寧府知事となり、翌年には隠居して鍾山に居をかまえた。
唐宋八大家のひとり。『臨川先生文集』、『王文公文集』。

朱熹(1130~1200)


朱子と呼ばれる。字は元晦、または仲晦、号は晦庵。諡は文公。徽州ウーユアンの人。
朱松の三男。南剣州に生まれた。父が没すると、胡憲に師事した。紹興十八年(1148)、科挙に及第した。泉州同安県の主簿となるが、わずか四年で退官した。李延平に師事し、儒学を学んだ。周東來と『近思録』を共著し、宋学を大成した。程伊川の理気二元論を受け継ぎ、これを体系化した。
朱子学の祖。『資治通鑑綱目』、『詩経集伝』、『宋名臣言行録』など著作多数。

辛棄疾(1140~1207)


字は幼安、号は稼軒居士。諡は忠敏。歴城の人。
金軍が采石磯の戦いに敗れて動揺するさなか、二千人を集めて起兵し、耿京の下で掌書記となり、金軍に抗戦した。耿京が張安国に殺されると、金営を急襲して張安国を捕らえ、南京に連行してこれを斬った。乾道四年(1168)、建康通判に任ぜられた。のち江西の提点刑獄となり、頼文西率いる茶民の暴動を鎮圧した。湖北・湖南・江西の安撫使を歴任した。
対金主戦論を唱えたため、和平派に憎まれて讒言を受け、退官して信州に隠棲した。晩年にまた起用されて、浙東安撫使・鎮江知府に上ったが、彼の抗戦論は韓侘冑に無視され、憂死した。『稼軒詞』。

文天祥(1236~1282)


字は宋瑞、または履善、号は文山。吉州吉水の人。
南宋の末、20歳で科挙のトップ合格者、状元になった秀才であったが、時の宰相に批判的だったため冷遇されていた。しかし、モンゴル軍の侵攻に対して私財を投じて義勇軍を組織、ついに撃退した功績によって右丞相に抜擢された。

しかし、再度のモンゴル軍襲来によって南宋の都、臨安は陥落、抵抗運動を繰り広げた文天祥も捕らえられてしまう。元の世祖フビライ汗は文天祥を有能な人物と見て帰順を迫るものの、彼は北京での過酷な監禁生活に耐えてモンゴルに仕えようとしなかった。その獄中で詠んだのが「正気の歌」である。

天地に正気のありて、雑然と世の万象に流旋す。
地にありては黄河たり、五嶽たり、天にありては日星たり、人にありては浩然の気なり。
満ちて宇宙に広がり、君正しく世泰らかなれば、和らぎて朝廷に漂う。
げに和らぎの故にこそ、有りとは知れねども、時、ひとたび艱難に遭遇せば、
その節操現れて、青史に永くあとをとどむ。 (村上知行訳)

正気とは人間の内にある激しい行動力のこと。
フビライ汗は、宋に忠義を誓う文天祥に感心し、釈放を考えた。しかし、宋の遺臣たちによる挙兵の動きが伝わると、ついに「願わくば死を」という文天祥の言葉によって処刑が決まる。南宋の都に向かって拝した文天祥は「国に報じてここに到る」と述べ、刑死した。

吉安県の文山公園には、彼の事績や詩文、塑像などを展示した文天祥記念館がある。正気の歌は日中戦争の頃、愛国歌として広く口ずさまれたという。

湯顕祖(1550~1617)


字は義仍、号は若士。江西省臨川の人。
若い頃から文名が高かった。二十一歳のとき、郷試に及第した。しかし、張居正と不和になったため、会試に及第できず、迫害された。三十四歳になってようやく進士に及第し、南京太常寺博士・礼部主事などを歴任。しかし、朝政を批判したことが罪に問われて、広東省徐聞に流された。のちに赦されて、浙江省遂昌の知県となった。
善政を讃えられたが、五年で弾劾を受けて官を去り、故郷に帰って戯曲の創作に専念、東洋のシェークスピアと呼ばれる独自の演劇世界を造り上げた。『邯鄲記』、『牡丹亭還魂記』。

朱トウ(1626~1706?)


号は八大山人。法名は伝綮、法号は伝崛。江西省南昌の人。
明の寧王・朱権の後裔にあたる。県試に及第して生員となったが、明朝が滅亡したため、世を捨てて禅僧となった。後に道教へ転じ、南昌の郊外、水と緑に囲まれ風光明媚な地として知られた青雲譜に隠遁した。

八大山人は青雲譜に籠もって数多くの書画を残し、画風は軽快・大胆・磊落で、山水画を得意とした。
その写実的な水墨画の画風は後世に大きな影響を与え「中国四大画僧」のひとりに数えられる。また、「八大山人」の署名は、「ある文字は泣き、ある文字は笑う」とも評された。
しかし、彼は清の朝廷から依頼されても一片の書画も書かず、かえって貧しい民衆には気前よく書画を与えた。後に清朝の役人が出世のために彼に朝廷へ献上する絵を描かせようとしたところ、八大山人は瘋癲を装って出奔してしまった。そのため、反骨の画家として名を高めたのである。

方志敏(1899~1935)


江西省弋陽の人。
1923年共産党に加入。中国共産党東北革命根拠地の建設と紅十軍創建に尽力した。江西党組織の創始者の1人であり、省委書記、紅十軍政委、福建・浙江・江西ソビエト政府主席、中華ソビエト共和国中央主席団委員、党中央委員を歴任した。

1934年、紅七軍・紅十軍合同の抗日先遣隊総司令に任じられ北上途中、1935年1月、江西省玉山県で国民政府軍と衝突し、逮捕される。国民党の獄中にあっても屈せず「可愛的中国」「清貧」の著作を書き上げた。1935年8月6日、南昌市で処刑された。



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