中国旅行記 西湖春霞(2005年) 本文へジャンプ


上有天堂下有蘇杭

中国で最も有名な観光都市のひとつ、浙江省杭州を訪ねた。
2004年の秋、日本語教室の生徒だった研修生の徐さんと張さんが帰国して、杭州で働いている。
「私の住んでいる町を見にきませんか」
電話やメールのやりとりで、2人から杭州に誘われた私は、さっそく会いに行くことにした。

杭州市は、浙江省の省都で人口640万人。長江デルタでは上海、南京に次いで3番目に大きな都市。中国でも経済発展の最先端を行く現代都市だけど、杭州を有名にしているのは、何と言っても西湖とその周囲に長い歴史が育んだ名所旧跡にある。
隋代に開かれた大運河の南端に位置し、唐代に杭州の名が生まれた。その後の宋代、中国北方の開封が異民族王朝・金の支配下に落ちると、杭州は南に逃れた南宋の都・臨安として飛躍的な発展を遂げた。南宋を滅ぼした元代、マルコポーロも「キンザイ」と呼ばれた杭州を訪れて、交易で繁栄する様子を「東方見聞録」に記している。
西湖の美しさと、都市の繁栄ぶりから、「上有天堂、下有蘇杭」(上には天国があり、下には蘇州と杭州がある)と称えられた杭州、白居易、蘇軾ら中国の文人墨客に倣い、松尾芭蕉をはじめ日本の文人たちも憧れてやまなかった杭州、どんな町なのだろう。



2005年春に開港したばかりの中部国際空港から上海浦東空港へ飛ぶ。
いつもは浦東から上海駅まで移動しなければいけないのだが、杭州へは空港バスもあるらしい。
今回は直通の高速バスを利用した。浦東空港の2階廊下からリニアモーターカー駅へ続く陸橋の途中に、ごく地味なエレベーターがある。知らなかったら通り過ぎてしまいそうな、荷物搬入用のようなエレベーターで下りると、外の埃っぽい、車が行き交う道路脇に出る。その先に浦東機場長途汽車站があった。

場末といった言葉が似合いそうなターミナルで、100元のチケットを購入。
上海市中心部から鉄道や高速バスを使うよりも割高だが、待合室はごく殺風景で冷暖房も見当たらない。
時間になり、杭州に向かうバスに乗り込む。空港を出て高速道路に入り、しばらくは快調に走っていたものの、上海市内に入る車が集中する南浦大橋にさしかかると、渋滞に巻き込まれて動かなくなってしまった。
ああ、高速バスは渋滞があるからなあ。
時間どおり動くものではない、とは分かっているけれど、高速道路上をじりじりとしか進んでいかない様子を見ると焦ってしまう。これが1人旅ならいいけれど、杭州には徐さんと張さんが待っていてくれるのだ。
「まだ上海のうちだよ。杭州は2時間半後くらいかな」
今回はじめて持ってきた海外用携帯電話がこんな形で役に立つなんて。

ちっとも進んでいかないバスも、ようやく上海料金所の渋滞を抜けて、高速道路を杭州めざして飛ばし始めた。もう外は暗くなっている。杭州ICで下りたバスは市内をどんどん走り抜けて、やがてネオンが輝く繁華街を通り越し、ついに明かりもまばらな山手まで来てしまった。ええ、行き過ぎたんじゃないの?
そして到着したのが杭州体育館。ここが空港バスの発着点だったが、市街からは随分離れてしまった。

杭州体育館の駐車場でバスを降りる。
体育館の1階はレストランやゲームセンターが入っているようで、たくさんの人が行き交っている。2人はどこで待っているのだろうか。
携帯をかけても出ないし、辺りをうろうろしていると、ふいに見覚えのある後姿が目に留まった。
「徐さん!」
振り向いた徐さんが、ほっとした表情になった。
「お久しぶりです!バスが着いたので行ってみたんですが、辺りにいなかったので探していたんですよ」
ありがとう。ここで会えなかったら、どうしようかと思ったよ。
張さんは、私の到着が遅くなったので、明日会うことになったようだ。

徐さんはタクシーを使うのがもったいないから、会社の車を借りたという。そんなことできるの?
中国ではよくあること、と言いながら、駐車場の片隅に止まったバンに案内されると、驚いたことに会社の社員数人の他、なんと老板まで一緒だった。
「歓迎、歓迎、ようこそ杭州へ来てくれました」
あの、ありがとうございます。今日はまさか、わざわざ私のために来てくださったのですか?
「日系企業からお客さんが来ていてね。ちょうどいいと思ったから、あなたを招待するんだよ」
ええー、いきなり見ず知らずの会社の商談の席へ連れて行かれるなんて。どうすればいいのか。
会社の近くにあるというレストランに案内される。昼間のうちに商談は成立したらしく、その祝いの宴会だという。商談の相手は日系企業の中国人社員。これが中国の習慣なのか、公私の垣根が低いのか、私が同席していても何の問題もないようだ。
「あなたが徐の日本哥哥か」
はい、徐さんは努力家で、日本語も一生懸命勉強していましたよ。
他の社員たちが私に言った。
「徐さんは私たちに日本語を教えてくれているんですよ」
いい会社に入れてよかったね。
この晩は、杭州郊外、徐さんのアパートから近いホテルをとってもらった。


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西湖散歩

もし杭州に西湖がなかったら、杭州はこんなに有名にならなかっただろう。
かつて、杭州湾に望む干潟だった西湖は、やがて海から切り離された湖になり、唐代に杭州長官に赴任した白居易が築いた白堤や、宋代の蘇軾が築いた蘇堤によって淡水化し、洪水も治まった。

その西湖の名は中国四大美女のひとり、西施に由来している。中国の戦国時代、呉と越が争っていた頃、越王の謀略によって呉に送り込まれた美女西施は、その美貌で呉王夫差を虜にしてしまい、結果、呉は滅亡してしまう。そのため、美女を「傾国」といい、西施は眉をひそめても美しく、誰もかれも眉をひそめて西施のまねをしたので「ひそみにならう」という言葉ができたという。

西湖はその西施のように美しいと例えられ、雨の日は霧に煙る様子が濃い化粧に、晴れの日ははっきり見えている様子が薄化粧だといわれる。四季や天候を問わず、いつでも美しい、ということだろう。
1年を通して見るべき景色をまとめた「西湖十景」を、現代杭州の西施?徐さんと張さんの美女2人と共にまわった。なかなか杭州西湖をデートする機会なんてないことです。



蘇堤春暁

西湖第一景。西湖の西部分を区切って長く延びる堤で、柳の並木が湖面に影を落とし、湖の上を車や、散策の人々が歩いている。宋代に杭州長官だった蘇軾が西湖を浚渫し、堤を築いて完全に海水と分離したので、現在見る西湖が誕生した。







蘇堤を歩いていたら、2人の友達が合流して4人で柳並木を歩く。
うわっ、カメラを持って後ろ向きに歩いていたら、つまずいた。





双峰挿雲

西湖第二景。西湖から西を望むと、南山と北山があり、その峰の間を雲が行き交う様子をいう。
南山と北山は、あれかな。



柳浪聞鶯

西湖第三景。西湖東岸の芝生と柳の公園で、もとは南宋皇帝の庭園であった。
柳浪は芽吹いた柳の若葉が、波のように揺れ、その間をウグイスが鳴いて飛び交う様子を表している。
ちょうど、春4月の終わりに訪れたときが、まさに柳浪聞鶯そのままの時期。ときおりさあっと通り過ぎていく弱い雨に、柳の若葉が鮮やかに映えていた。雨を避けて、園内の茶館に入り、霧に煙る西湖を眺めながら休憩する。
杭州の茶館は、茶葉を買い、つまみの茶菓子や南瓜やひまわりの種といった瓜子、果物類がバイキング形式で選べるようになっている。お茶だけ買えば、あとはどれだけでも時間がつぶせるのだ。
雨が通り過ぎるまで、茶館でお茶請けをつまみながら、徐さん、張さんと話しに夢中になった。









花港看魚

西湖第四景。蘇堤の南端に近い第三橋、望山橋のたもとを花港といい、花港公園という池を中心にした公園になっていて、たくさんの金魚が群れている。



曲院風荷

西湖第五景。蘇堤の北端、跨虹橋がある場所に、かつて曲院があったと伝わり、庭園の池に浮かぶ蓮の花が見事なことから、西湖十景に数えられる。
写真は曲院付近の蘇堤。





平湖秋月

西湖第六景。西湖の北に孤山という島があって、西冷印社や中山公園がある。その孤山から眺める仲秋の名月をいう。孤山から東を見ると、ちょうど杭州市街の高層ビル群が湖畔に建ち並んでいる。







南屏晩鐘

西湖第七景。南屏山の麓、浄慈寺の夕暮れの鐘の音。

三潭印月

西湖第八景。西湖の南側に湖底の土砂を浚渫してできた島があり、その近くの湖面に3つの石塔が突き出ている。
また、島には3つの広い池があって、月の浮かぶ晩には、島の3つの池にそれぞれ名月が映るというので、三潭印月と呼ばれる。湖の島の中に広い池があるという面白い場所。池には蓮が見事。
もうひとつの小島、湖心亭とつないで船で渡る。







雷峰夕照

西湖第九景。西湖の南、浄慈寺と相向かう夕照山の頂上に雷峰塔が建っている。その塔に夕日があたる様子は風情があってすばらしい。
中国の有名な伝説「白蛇伝」は西湖が舞台になっている。人間に恋をした白蛇は、美しい娘「白娘」に化けて許仙と夫婦になったものの、正体が露見して退治され、この雷峰塔に閉じ込められた、という。





断橋残雪

西湖第十景。西湖の北に、唐代の杭州長官だった白居易が、洪水防止のために西湖を浚渫し、築いた白堤が延びている。その東のたもとにある橋が断橋。雪が積もると、橋の部分だけ堤が途切れたように見える。
伝説「白蛇伝」で、白蛇が化けた「白娘」と、許仙が出会うのが断橋。










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西湖で舟遊び

西湖の湖畔には至るところに遊覧船乗り場がある。
三潭印月や湖心亭は遠いので、エンジン付の立派な遊覧船に乗る。かつて名古屋港にも生息していたような、龍かシャチホコをそのまま模して船に乗せたような、派手な遊覧船もある。
岸辺にたくさん止まっているのは、個人営業の手漕ぎの船。1時間や90分いくら、というように貸しきって、好きな場所へ行ってもらうことができる。まあ、あんまり遠くへは行けないけど、風情という点では一番いい。










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岳王廟

西湖の北岸、曲院風荷や蘇堤に近い場所にある。
南宋時代、中国北部を陥落させた異民族王朝・金に対して徹底抗戦を唱え、謀殺された悲劇の将軍、岳飛を祀る廟で、民族英雄として崇拝されている。
宋朝では、五代十国の乱世を勝ち抜いた初代皇帝・趙匡胤の遺志によって、軍人の力が抑えられ、文人政治が花開いた。中国史上まれに見る庶民文化と経済が発展し、なんだか現代の日本のような時代だった。しかし、戦争にはめっきり弱く、宋領北端の燕雲十六州、現在の北京付近を異民族の遼に占領され、女真族の金と結んで遼を挟み撃ちしたら、今度は金に国土の半分を陥落させられて、杭州に臨時首都を建て遷都するありさま。

そんな頃、母親から「尽忠報国」と刺青をされた愛国青年、岳飛が登場した。
義勇軍を率いて金軍と戦い、中国南方に逃れた南宋王朝の英雄になった岳飛は、異民族の侵略に対して徹底抗戦を主張する。しかし、当時の宰相は対金和平派の秦檜。ようやく南宋を立て直したばかりで、全面戦争になれば王朝の滅亡は避けられず、多額の賠償金と毎年の貢物で金との和平を結ぼうと考えていた。

和平派には、政府の統制が利かない義勇軍を率いる岳飛が邪魔になり、秦檜は岳飛を無実の罪で捕らえて惨殺してしまう。のちに名誉が回復されると、王侯に列せられて岳王と呼ばれ、今度は秦檜夫婦が漢民族を裏切った漢奸として、岳飛の墓に向かってひざまずく像につばを吐きかけられる存在になった。

廟の中には大きな岳飛の坐像があり、廟の壁面に「尽忠」「報国」と大書されている。
宋代、王朝が異民族に対して弱かったゆえに、民族主義的な愛国心を鼓舞する思想が生まれ、日本に伝わって南朝の後醍醐天皇の思想になり、戦争中の日本では岳飛や楠正成が英雄とされていた。しかし、南宋がモンゴルに滅ぼされるまで存続し、経済が繁栄したのは和平があったからで、日本が繁栄したのも軍国主義を放棄してからだ。
そう考えると、愛国主義を叫ぶ中国人たち、日本の軍国主義右翼とどう違うのか。
私は、不当な異民族の侵略に対して戦った宋代の岳飛、楊家将、文天祥たちを尊敬しているだけに、単純な民族主義では解決できないこともあると知って、複雑な思いもする。










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孤山

西湖の北側にある島で、曲院風荷の近くと、白堤で岸とつながっている。
島内には、中山公園や、書道と彫刻が一体となったような、金石に字を彫り付ける篆刻を研究する西冷印社がある。孤山の高台に上がって西湖を見下ろすと、湖に小島が浮かび、南山の濃い緑が鮮やかに見える。










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龍井茶でゆったり

西湖の周辺には茶館が多い。そもそも杭州は中国緑茶の最高峰・龍井茶の産地でもある。
西湖の西側、山あいに広がる龍井村でとれる緑茶が龍井茶。西湖を囲む山々はまた名水の地でもあり、その名の由来ともなった龍井泉や、中国で3番目に美味しいといわれる虎跑泉で淹れると最高級の味わいになるという。
すっきりした甘みと、釜炒りの香ばしさが特徴の龍井茶は、わざわざ龍井村まで足を伸ばさなくても、杭州市内の茶館で楽しむことができる。

杭州の茶館の特徴は、中国茶道に則った工夫茶ではなく、コップに茶葉を入れた状態で出てくること。
テーブルには、コンロにセットされた土瓶があり、シュウシュウと蒸気を上げている。茶葉を買うと、お湯とお茶請けはお代わり自由。お茶請けは、バイキング形式で、饅頭、茶菓子、ケーキ、南瓜やヒマワリの種の瓜子、果物と種類もたくさんあり、ちょっとした軽食にもなりそう。

お茶が出てきて、お茶請けを持ってきたら、あとはひたすらのんびりとおしゃべりに花を咲かす。
コップにお茶がなくなったら、土瓶からお湯を注いで、お茶請けをつまみながら、2時間くらいはあっという間にたってしまう。杭州の人々にとって、茶館は憩いの場なのだろう。
いい文化を持っているなあ。杭州。






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霊隠寺

西湖の北西、山間にあり、中国十刹にも数えられる大きな禅寺。
歴史は古く1600年以上と伝わり、その昔、インドから仏教の布教にやってきた名僧慧理が地形を見て、「ここは神仙の隠れ住む地に違いない」と、霊隠寺を建てたと伝わっている。
山中の飛来峰は、インドから飛んできた山だといわれ、小川に沿った岩窟に、無数の石仏が彫刻されている。

バスの乗降場で買うチケットはこの石窟までで、黄色と赤色に塗られた寺の垣から境内へ入るには、山門で別のチケットが必要になる。「威鎮三洲」の額が掲げられた本堂や、大雄宝殿を抜け、中国最大の木造仏を拝観して、上へ、上へ、と無数の建築物が続いている。
これらの建築物は、実は何度も天災や戦災で焼け、その都度再建された新しいもの。まだ最上部には建築中の仏殿があり、全部あわせると1時間や2時間では足りないくらい広い山域を持っている。








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六和塔

杭州の南、銭塘江が注ぐ杭州湾は大きなラッパのような形をしており、遠浅の海岸から満潮になった海水が押し寄せて、銭塘江の逆流「海嘯」を引き起こす。
現在では海嘯は有名な観光名物になっているけれど、かつて西湖が海とつながっていた時代には、洪水の原因にもなって人々を悩ませていた。そこで、銭塘江の安静を願うために、川を見下ろす山の上に建てられたのが六和塔。もとは六和寺という寺院だったが、現在では有名な塔だけが残っている。
塔の中は螺旋階段になっていて、最上部から銭塘江を見ることができる。





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水郷・西塘

休みの日を2日も使って杭州を案内してくれた徐さんと張さん。
さすがに、何日も休みを取ってもらうのは申し訳ないので、1人で行動する時間に、水郷の西塘へ行く。ここは江南六大水郷のひとつで、古くから北京と杭州をつなぐ京杭大運河沿いに開けた商業の町だ。
杭州郊外の観光地として脚光を浴びているけれど、観光ツアー以外には直通バスは少ない。そこで、杭州汽車東站からたくさん出ている桐郷市行きのバスで桐郷汽車站まで行き、ミニバスに乗り換えて西塘へ行くのがポピュラーなようだ。乗り継ぎ時間を含めて1時間半~2時間くらい。







町の中に水路が張り巡らされて、古い石造りのうだつをあげた民家が軒を連ねる西塘。
現在では新しい観光地として博物館などの整備も進み、そこそこ観光客の姿を見るものの、まだ商売っ気たっぷりではない、のんびりした空気が漂っている。
観光客向けの顔と、住民が生活している町の顔が、違和感なく同居している。観光用の手漕ぎ遊覧船が、洗濯物が掛かった民家の軒先をかすめてゆらゆら流れてゆく。
これが京杭大運河。ポンポン蒸気船が雑多な貨物を積んで行き交っているが、ここでは北京まで運ぶような交通の大動脈には見えない。以前、無錫の街中で見た大運河は、まさに水上交通の要所!といった感じだったが、現在では場所によって異なるのだろうか。



町の広場に面した劇場では、伝統的な影絵劇を上演していた。西遊記だろうか。私以外に観光客はなく、ステテコ姿のおじいさんが数人、長椅子に寝そべって影絵を見ている。興味が湧いて舞台裏をみせてもらった。ふうん、こうなっているんだ。生演奏の胡弓の響きも心地よい。







西塘は手工業で発展した町だという。あちこちに博物館や伝統工芸を実演している工場があり、藍染の工場では、風に晒された藍染の布がオブジェのようにたなびいている。
のんびりしたこの町の空気がよく伝わってくる。



最後は、掘割を船で散策。西塘を特徴付けるのは、家と家の間に長く延びた庇付きの回廊。そして掘割にかかるいろいろな石橋。掘割の終点、街外れにある遊覧船中心から、手漕ぎの船に揺られて、のんびりゆらゆら、時間の止まったような西塘をまわる。








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江南長城・臨海

旅の最後、徐さんが故郷の浙江省臨海市に私を招待してくれた。
休みをもらって実家へ帰る徐さんと、彼女の高校時代の友達が案内してくれるという。
臨海市は杭州から南へ高速バスで2時間。台州地区に属する市で、地名は海辺の新興都市みたいだけど、浙江省の山あいに位置する古い歴史の町なのだとか。
さっそく、杭州汽車東站からバスに乗り、省内に張り巡らされた高速道路をひた走って臨海市へ向かう。いつの間に中国はこんな山間地までよく整備された高速道路を通す国になっていたのか。そんな、人家もまばらな渓谷沿いの道をトンネルと橋で辿り、日本の天台宗の基礎になった中国天台山を遠くに眺めながら江南の古い町に到着する。

臨海市は、かつて台州地区の中心地として栄えたところ。
汽車站から人力タクシーで向かった町の中心部には、今でも旧市街の城門が残っている。さすがに市街地部分の城壁はないが、川や山に沿ったところには、一周8kmの城壁がぐるりと旧市街を取り巻いていて、その様子から「江南の長城」と呼ばれているらしい。

先に西塘へ行ったけれど、臨海市の旧市街にも古い木造の建物が続く通りがあり、お土産屋や無料の資料館があって、観光地化が進められているようだ。だけど、まだまだ観光地と生活の場が混在している格好でもある。今、こうしたときが、俗化されていない古い町を味わう旬なのだろうか。







市の中心部にある城門「崇和門」は、かつては市の内外を分けていたところ。
現在はショッピングセンターや映画館、野外劇場のある崇和門広場があって、臨海市の中心として大勢の市民の憩いの場になっている。
広場に隣接して、大きな東湖が広がっている。江南らしい水と緑にあふれた公園で、湖には古い建築を乗せた島が浮かび、臨海の歴史博物館になっている。古建築の庭が広がる島の上には、奇怪な築山や珍しい樹木の森があり、春には赤い花がきれいに咲いていた。

東湖の畔から、山手へ急な階段を上ると、江南長城が始まる。
振り向くと東湖を中心に臨海市の街並みが広がり、夕方には明かりが灯って幻想的な風景になる。公園ではネオンで飾り付けられた古建築があやしい雰囲気でよい。崇和門広場では夜遅くまで、散歩や買い物にやってくる市民が絶えず、やっぱり南国の人は宵っ張りなのかなあ、と思う。











台州地区に属する隣町の天台県は、京都比叡山延暦寺を開いた最澄大師が中国へ留学して天台密教を学んだ仏教聖地・天台山があることで知られている。
最澄は、天台山での修行中に、ここ臨海市にも149日間滞在している。それが龍興寺。城壁が取り囲む旧市街の、霊江に面した場所にある大きな寺で、古い石造りの千仏塔が建っている。背後には天寧寺がある山がそびえ、頂上には2つの石造りの塔が風化しながら町を見下ろしている。
この辺りには辻占い師が多い。試しに見てもらったけど、おじいさん占い師の言葉は完全な臨海語。どんなに注意して聞いても、言っていることはさっぱり分からなかった。
ねえ、徐さん、何て言っているか、普通話に通訳してよ。
「えへへ、秘密ですよ。何て言われたか、当ててみてください」
いじわるだなあ。

徐さんに、龍興寺には日本人僧侶がいる、と聞いた。へえ、比叡山から来たお坊さんだろうか。
すると、徐さんは坊さんを探してどんどん寺の奥へ入ってゆく。
ちょ、ちょっと、いいよ。別に私は日本から来た坊さんに興味はないんだよ。
寺の坊さんをつかまえて話を聞いていた徐さんが、戻ってきて言った。
「残念ですけど、今、日本人のお坊さんはいないそうです。こっちだよ、って言ってました」
龍興寺の坊さんに招かれてある建物へ入ってゆくと、そこには「伝教大師最澄受戒記念碑」があった。坊さんは、前にいた日本人僧侶の記念だという。
あの、それは平安時代の話ではないですか?









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